クサカさんという方がおられる。「日下」と漢字表記されることが多い。その歴史は古い。
然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即、辞理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。(記序)
然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)と意(こころ)と並びに朴(すなほ)にして、文(ふみ)を敷き句(をち)を構ふること、字(つら)に於きては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述ぶれば、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全く音(こゑ)を以て連ぬれば、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て今、或は一句(ひとをち)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)しぬ。即ち、辞理(ことわり)の見え叵(がた)きは、注(しるし)を以て明らかにし、意況(うらかた)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(うぢ)に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随(まにま)に改めず。(書き下し文(注1))
古事記の序文で太安万侶は、「日下」とする姓にクサカということはもともとそうしているからそれに随って改めない、と記している。和銅五年(712年)正月廿八日に上奏している。
クサカの表記には、記では「日下」、紀ではもっぱら「草香」、風土記には「日」と「下」を合字した国字、飛鳥京木簡には「日下」、万葉集には「草香」といった用字がとられている。このうち、「日下」と書いてどうしてクサカと訓むのかについて、長い間人々を悩ませてきた。江戸時代の研究については割愛し、戦後のおもな見解を紹介する。
……「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである。此の様な環境が自ら、「日下の→草香」の如き枕詞的修辞法を生み出したのではないだらうかと考へるのである。……「日下(ひのした)の」の如き枕詞が……歌謡にも和歌にも残らなかつたのは、当時既に極端に不可解になつてゐた事と、枕詞として活かすほどの新鮮味か必然性が無かつたのであらう。(西宮一民「日下と記紀萬葉(其の一)」『ひらおか』第5号(河内郷土研究会、1959年3月、7~8頁)
[日下]の日は草の簡体字、草冠(くさかんむり)と十の部分を省略した簡体字と見れば説明ができるではありませんか。……例えば木簡では、「マ」は「部」であるという例もあるからです。『行基年譜』に[「菩薩」の簡体字である]草冠を二つ重ねた「𦬇」という字が、たびたび使われています。……『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述によって成ったという経緯があります。この経緯が、「速記」を要し、簡単な文字を必要としたという解釈はどうでしょう。(足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年、242~243頁)
近年になって、平林章仁『「日」の御子の古代史』(塙書房、2015年)に論じられている。そこでは、古事記には難しい字も多数見られ、速記ではなく、また、行基年譜には、地名のクサカを「早」一字で表わしていることを指摘する。そして、「早」ではクサカの音を表現できないから、「日」+「下」の合字の誤写ではないかとされている。そして、もともとの「日下」表記については、「[神武記の地名の]『日下』が日神信仰に関わる、漢字の表意性を重視した用字(表記)であることは間違いない。」(24頁)とする(注2)。しかし、これは間違いである。
故、其の国より上り行きし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊つ。此の時、登美能那賀須泥毘古(とよのながすねびこ)、軍を興し待ち向へて戦ふ。爾に御船に入れたる楯を取りて下り立つ。故、其地を号けて楯津(たてつ)と謂ふ。今には日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云ふ。是に、登美毘古(とみびこ)と戦ひし時、五瀬命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)を負ふ。故、爾に詔ひしく、「吾は日神(ひのかみ)の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴の痛手を負ふ。今よりは行き廻りて背に日を負ひて以て撃たむ」と、期りて南の方より廻り幸しし時、血沼海(ちぬのうみ)に到りて其の御手の血を洗ふ。故、血沼海と謂ふ。(神武記)
日神の御子が日の出る方向、東を向いて戦うのは正しくないという小理屈話である。その地は楯をたてた津だからタテツ(楯津)とされたのが、訛ってタデツ(蓼津)となっているという。ろくでもない駄洒落である。蓼津は今のクサカ(日下)のタデツ(蓼津)のことであるとしている。小理屈話として、日、それも朝日に向かって戦うのはいけないから紀伊半島をぐるりと熊野へ迂回し、東から大和の地へ入ったとする物語になっている。それと駄洒落話の余談の今の地名の説明とは別の話である。仮に両者を同列の話とし、五瀬命が痛手を負った楯津の現在地表記、「日下之蓼津」が日神信仰と関係させた表記とすると、話に齟齬が生じる。「日下」とあるからには、日(太陽)は高いところにあるであろう(注3)。お昼の戦いである。「日に向ひて戦ふこと」とは、切り立った城壁の上の相手と戦うことを意味する。敵の登美毘古は天守閣から矢を下に放っている。また、熊野から宇陀、忍坂方面へ回って来ても、夕方の戦いでは「日に向ひて戦ふこと」になってしまう。戦は朝に行うものという決まりがあったとは知られない。日神信仰の「日」は朝日のことが念頭にある(注4)から、「日下」という用字とは無関係と考えられる。
「日下」をクサカと訓む問題は、「下」はカと訓めるから、「日」をどうしてクサと訓むのか、また、行基年譜の「早」字一字でどうしてクサカと訓むのか、という問題である。
「草」という字は grass の意味である。その「草」という字の冠の「艸」も grass の意味である。grass の下の部分は「早」という字である。上下(うへした)のしたのことを表す「下」という字は、漢音にカと音読みする。つまり、草の下部の「早」字は、クサカと訓むことができる。行基年譜に見える「早」=クサカは、これにより解決した。「日」+「下」の合字の誤写ではない。ここに何か思想的背景があるかといえば、何もない。漢字を見ていて面白がっているだけである。
「日下」はなぜクサカと訓めるのか(注5)。「日」がクサに当たるはずである。クサは漢字で、「草」、「種」のほか、「卉」とも書く。いまでも「花卉(かき)」という言い方をする。説文に、「卉 艸の総名也。艸屮に从ふ。」とある。新撰字鏡に、「卉 許謂反、衆也、百草物名。」の「物」とあるのは、「惣」字の誤り、ないし通用であろう。「卉」の字はもともと、「屮」が三角に構成された「芔」で、「屮」の略字の「十」字が三角形に配される「𠦄」字のはずであるが、略体となって「卉」と書かれている。上の「十」字の縦棒が下に突き抜けた「𠦃」字は、説文に、「𠦃 三の十の并ぶ也。今卅に作り三十の字と為(す)。」とあって、「𠦄」字と「卅」字と「卉」字とは通用している。そのほかにも、「世」と同字の「卋」や、「代」の通字の「𠦄」にも通用して「卉」は使われる。「卋」を「卅」と考える場合、「十」と「廿」の合字とする説もある(注6)。
三十という数は、ひと月の日数である。太陰暦である。大の月は30日、小の月は29日で、ひと月は30日目にしてめぐることになっている。その最終日は、晦日である。晦日とは、つごもり、月が籠もることをいう。月が姿を現わすのは太陽の影だからであることぐらい、古代の人も知っていたであろう。日中に月が見えることもあって、それが段々と太陽に近づいていけば、夜間は月が見えなくなり、最終的に晦日になる。すなわち、晦日とは、日の下に月が隠れてしまうことを言っている。閏月を含め、その月が終わりになって、また新しい月が始まる。その月はお亡くなりになって、再びよみがえることを指している。月が草葉の陰にいる状態が晦日のこと、それは三十日、「十十十」と書いた日、卉日、その「十」の書き方を上に2つ下に1つにして中に「日」字を入れたのが「草」字である。「草」も「卉」もクサとなれば、「日」もクサでなければ納得できないこととなる。
クサビ(左:清水寺、右:日本民家園)
どういう日に当たるかといえば、晦日の日、すなわち、月と月とをまたがらせてつなぐ日のことである。「世」や「代」の通字とも通じていた。草が伸びる時、節ができて葉の出る部分と、ただつるんと伸びている部分とがある。そのいずれも、ヤマトコトバに混同されてか「よ」と言っている。ササ類で考えれば、葉が出る節の部分となかが空洞になっている部分とが交互に現れる。節目となるのが晦日の日に当たるようである。
人間が物を作る場合にも、木材と木材をつなぐために入れるV字状の小材は、楔(くさび)という。どちらも木材である。新撰字鏡に、「輨轄 上古緩反、上又◆(囊のような上部に下部が牛、筆者には不明)鎋同二形、鍵也。下胡𦟈反、二字訓同じ、久佐比(くさび)也。」とある。あるいはクサヒと清音であったかもしれないが、それらヒ・ビは甲類で、日のヒも甲類である。どこにでも転がっていそうな端材である。同じように、ひとつひとつは端材が一部分となってつながり合って一続きになるものは鎖(くさり)である。新撰字鏡に、「琑鏁 同じく思果・思招二反、鏁月字、久佐利(くさり)、又、止良布(とらふ)、又、保太須(ほだす)。」とある。その部分部分の種々(くさぐさ)のような、どこにでもありそうな小さな破片のようなものをクサ(雑)と言っている。クサ(草)とクサ(種)は名義抄にアクセントが違い別語とする見解もあるが、白川静『字訓』(平凡社、1995年)には、「くさ〔草・種・雑(雜)〕」(287頁)と同じ項にあげられている。
記紀には、「うつしき青人草(あをひとくさ)」(記上、応神記)、「国内(くぬち)の人民(ひとくさ)」(神代紀第五段本文)とある。どうだっていい有象無象の輩は、クサなのである。自分のことをクサではないと主張している近代人は、近代社会の殻の中に暮らしてそう信じているが、たやすくクサ化されてしまう。俺が、私が、の人生が道徳を越えて俺様がとなると、人ではなくなる。あるいは、全体主義のなかで、人はクサとして統計的に処理される対象に過ぎない。
筆者は、飛鳥時代にクサカを「日下」と書き表そうとした人と知恵比べをしているに過ぎず、語源は問うていない。上代に、いわゆる語源をもって言葉を考える風潮があったとは、記紀歌謡や万葉集の言葉遊びにしか思われない歌を聞くにつけ、まったく感じられない。そして、日常生活においての「日(ひ、day)」という単位は、現在でこそ週という単位が設けられていて、今日は月曜日、明日は火曜日、毎週水曜日は定例会見日というように確固たるものとしてあるが、江戸時代まで、藪入り以外はすべてが勤務日で、月末の〆を区切りとしているぐらいであって、「日(ひ、day)」は特段代わり映えのしないものであった。今日でも、ラストフライデーの実施が空回りしているのは、月末の会計処理繁忙にそぐわない失策だからである。どこにでもある代わり映えのしない時間単位、そして必ずつながれる連続もの、それが「日(ひ、day)」である。更新されるのは晦日を経た月ごとである。「日(ひ、day)」はクサ(雑)と呼んで適当であった。
クサ
以上が、クサカという名(人名・地名)に「日下」という字を“深い”理由である。「日出づる処の天子」や「日本(ひのもと)」などの「日(ひ、sun)」とはほぼ関係がない。当たり前ではないか。クサカはクサカと言い、ヒシタとは言わないのである。西宮先生の推測に、「日下(ひのした)の草香」のような枕詞的修辞句の可能性を指摘されていたが、実例がないものは証明のしようがない。むろん、そうでなかったことも証明できない。悪魔の証明はできない。悪魔に付き合っている「暇(ひま、ヒは甲類)」はない。クサ(草・種・雑)というヤマトコトバの本質と、そのクサに「卉」という字があること、「日(ひ、day)」とは何かを見極めればわかることである。草葉の陰のニュアンスもあるから、「日本」という書き方と同列のものではなさそうである(注7)。
(注1)この書き下し文は、筆者の独自見解を交えている。文字を一字書くのはフミ(文)、それを連ねるのはヲチ(条)、それをひとつの紋様と見ることができるのはカホ(顔、皃)やツラ(面)、この場合、連なっているからツラが妥当、「辞理」は言葉の意味する筋道のことだからコトワリ(道理)、「意況」は意味の状況のことだからウラカタ(占状)と苦し紛れに峻別している。
(注2)平林、同書には、次のようにある。
関連史料が僅少なこともあって諸説の当否を判ずることは困難だが、漢語の「日下」についても一瞥しておこう。『大漠和辞典』(諸橋轍次・修訂第二版)は漢代に編纂がはじまった中国最初の訓話の書『爾雅』などを引用して、漢語日下に次のような意味があったとする。①日が照らす下。天下。②京師をいふ。③遠い処。日の下。④東方の荒遠の国をいふ。⑤日が下る。
格調高い駢儷体の『記』序文を書いた太安万侶が、右の漢語日下の意味を知らなかったとは考えられない。……最初にクサカに日下の表記をあてた人物は、案外、漢語日下の意味を踏まえていたのかも知れない。国号「倭」に「日本」をあてた『紀』が、「日下」の表記を採用することができなかった理由も、その辺りにあるのではないかと推察される。おそらく、太安万侶は右の知見に加えて、以下に述べる河内日下の歴史上の重要性を強く意識していたのではないかと考えられる。(29~30頁)
日本書紀の編者がクサカを「草香」と記した理由は、日神信仰から憚られたからではなく、そう記したらわかりやすいと思ってそう記したに過ぎないであろう。万葉集にどうして「草香」と記して「日下」と記さないのか、それは、そう記したかったからそう記したのであろう。また、河内日下の歴史がとても重要であることは、他のどこの歴史もとても重要なことと同等で、河内日下の歴史がさほど重要でないことは、他のどこの歴史もさほど重要でないことと同等であろう。まず先に、音としてのヤマトコトバがあり、それにどのような漢字を当てたか。好字令(和銅六年(713年))を遡る飛鳥時代において、どのような用字にするかは、人々が本質的に“わかる”ことこそ求められていた。なぞなぞとしてわかること、それが当時の人々の思考回路に合致していた。そうでなくてどうして、楯を立てたところだから「楯津」、今は訛って「蓼津」などとくだらないことが言えるのだろうか。漢語「日下」はジツカのことであり、クサカとはおよそ縁がないと考える。
山田純「『日下』をめぐる神話的思考―『古事記』序文の対句表現―」(『古代文学』48、2009年3月)は、古事記の序文に、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」とあるのを曲解されている。古事記本文に「日下」“姓”の人は確かには出て来ないから、漢語の「日下(ジッカ)」=「天下」という意味を表わしていて、天皇版の中華観を「帝国の言語」で示しているとされている。
ふつうに読んで、「亦、姓に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。」である。本文に登場する「日下」さんはクサカ、「帯」の字を帯びるのはタラシです、と、洒落を言いながら語っている。もし仮に倭語のクサカが「天下」をとるような意味とするなら、壬申の乱で勝利して平定した天武天皇は、さしずめ「日下帯天皇(くさかたらしのすめらみこと)」とでもなっていないといけない。
(注3)「日下」の「下」をシタ、ウヘシタ(上下)と考えると三次元のこととなる。シモ、カミシモ(上下)と考えると河川の上下のように平面的に考えることが可能である。朝日のある方向が上流で、そこから流れ出した日差しによって西方向が下流であるとの考えもできなくはない。東西を向いた切通しの場合に当てはめる試みである。けれども、同じ場所で夕方を迎えると、日差しは逆流することに当たるのであろうか。やはり日光を流れとして捉えていたとは考えにくい。東を向いていればカミ(上)で、だから伊勢神宮は都からみて東にあるとすることが共通認識とされていたのか、管見にして文献用例を知らない。また、東国(あづまのくに)はどう認識されていたのかや、「日に向ひて」という形容に「日の下(しも)に当りて」といった言い回しがあるのか、総合的に判断されなければならないであろう。
(注4)飛鳥時代に、「日出づる国」としてやけに早起きして勤務のため出廷しなければならなかったことからそう言える。ただし、因幡国伊福部臣古志に見える記事から、天磐船から「日下」を見たら国があったので降臨したとする話と、地名クサカの記述の「日下」とを混同させて考えるのには無理がある。文字の記号としての連想である。記号的な考え方としても、飛鳥時代後期に流れ込んできた五行思想に遠く及ぶものではない。
(注5)本居宣長・古事記伝・十八(神武)に、「日下と二字連ねてこそ久佐加とは読め、日字のみを久佐と読べき由なし、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805(477/600))、同・四十一(雄畧)には、「按に此地名暗坂の意にて、其を日下と書は、日の下れば暗きものなるを以てにやなほよく考べし、師[賀茂真淵]は低坂にてその比を日と書き、久を省き下ると云訓を借リて坂を下と書るにや、と云れつれど甚物遠し、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(433~4/577))とある。
(注6)名義抄(高山寺本、鎌倉時代初め)に、「卅 先合反、三十 𠦄 同」とある。異体字、ないし通用として実例があるのか管見にて調べたところ、経覚私要抄・第三に、「卉人出仕了」(康正二年(1456年)三月条)、和漢三才図会(正徳2年(1712年))に、「卉は三十也。字彙に、孔戣の墓誌(はかしるし)に孔世卉八と云へり。孔戣は乃ち孔子三十八世の孫也。今省きて卅の字に作る。」などとあった。時代の下った出土木簡では、「観世音卉三所遭礼同道数四人」(長浜市鴨田遺跡、宝徳四年(1452年))とある。
なお、正倉院文書や藤原京木簡、平城宮木簡、平城京木簡には、二十のことが「廿」の略字で「廾」(にじゅうあし)に記し、その縮まった「艹」(いわゆる3画くさかんむり)に見える字も多く使われている。「艹」は「艹」(いわゆる4画くさかんむり)や「艸」の異体字である。すると、20も30もクサの意味ではないか、雑多に多いものだからクサの義ではないかとも考えられるが、草(grass)は案外一定の間隔でもって節目でつながって伸びていっている。月という単位でもって継がれる30という単位こそ、クサというに値するであろう。
(注7)けっしてないとは断じ切れない。ヤマトを「日本」と書いた人の気持ちに、ブラックユーモアがあったかもしれない。歴史学などでは、「日本」は国号として、その字面とニホン、ニッポンという音として検討されているが、ヤマトという音に「日本」という字を当てたのが始まりである。「日本、此には耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に効(なら)へ。」(神代紀第四段本文)とあり、「日本武尊」(景行紀)はヤマトタケルノミコトである。絶対にニホンブソンではない。本邦のいわゆる国号なるものの最初は、〔yamato〕(発音記号表示)であった。無文字時代にヤマトであり、文字文化が始まってもヤマトであり、その表記に「倭」、「日本」、「山跡」などと記されていた。後に漢字の字面がひとり歩きをし始めて、いわゆる国号なるものがニホン、ニッポン、ジッポン、ジャパン、ヤーパン、ジパングなどとなった。筆者は不勉強で、天武天皇の時代に音読みの「日本」がいわゆる国号と決められたという今般流行の議論の根拠を知らない。国の正式な歴史書である日本書紀(日本紀)に、「日本(夲)」と書いてヤマトと訓んでいるのだから、撰上された奈良時代の養老四年(720年)に、本邦の国の名はヤマトであったと考える。
然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即、辞理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。(記序)
然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)と意(こころ)と並びに朴(すなほ)にして、文(ふみ)を敷き句(をち)を構ふること、字(つら)に於きては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述ぶれば、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全く音(こゑ)を以て連ぬれば、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て今、或は一句(ひとをち)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)しぬ。即ち、辞理(ことわり)の見え叵(がた)きは、注(しるし)を以て明らかにし、意況(うらかた)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(うぢ)に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随(まにま)に改めず。(書き下し文(注1))
古事記の序文で太安万侶は、「日下」とする姓にクサカということはもともとそうしているからそれに随って改めない、と記している。和銅五年(712年)正月廿八日に上奏している。
クサカの表記には、記では「日下」、紀ではもっぱら「草香」、風土記には「日」と「下」を合字した国字、飛鳥京木簡には「日下」、万葉集には「草香」といった用字がとられている。このうち、「日下」と書いてどうしてクサカと訓むのかについて、長い間人々を悩ませてきた。江戸時代の研究については割愛し、戦後のおもな見解を紹介する。
……「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである。此の様な環境が自ら、「日下の→草香」の如き枕詞的修辞法を生み出したのではないだらうかと考へるのである。……「日下(ひのした)の」の如き枕詞が……歌謡にも和歌にも残らなかつたのは、当時既に極端に不可解になつてゐた事と、枕詞として活かすほどの新鮮味か必然性が無かつたのであらう。(西宮一民「日下と記紀萬葉(其の一)」『ひらおか』第5号(河内郷土研究会、1959年3月、7~8頁)
[日下]の日は草の簡体字、草冠(くさかんむり)と十の部分を省略した簡体字と見れば説明ができるではありませんか。……例えば木簡では、「マ」は「部」であるという例もあるからです。『行基年譜』に[「菩薩」の簡体字である]草冠を二つ重ねた「𦬇」という字が、たびたび使われています。……『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述によって成ったという経緯があります。この経緯が、「速記」を要し、簡単な文字を必要としたという解釈はどうでしょう。(足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年、242~243頁)
近年になって、平林章仁『「日」の御子の古代史』(塙書房、2015年)に論じられている。そこでは、古事記には難しい字も多数見られ、速記ではなく、また、行基年譜には、地名のクサカを「早」一字で表わしていることを指摘する。そして、「早」ではクサカの音を表現できないから、「日」+「下」の合字の誤写ではないかとされている。そして、もともとの「日下」表記については、「[神武記の地名の]『日下』が日神信仰に関わる、漢字の表意性を重視した用字(表記)であることは間違いない。」(24頁)とする(注2)。しかし、これは間違いである。
故、其の国より上り行きし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊つ。此の時、登美能那賀須泥毘古(とよのながすねびこ)、軍を興し待ち向へて戦ふ。爾に御船に入れたる楯を取りて下り立つ。故、其地を号けて楯津(たてつ)と謂ふ。今には日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云ふ。是に、登美毘古(とみびこ)と戦ひし時、五瀬命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)を負ふ。故、爾に詔ひしく、「吾は日神(ひのかみ)の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴の痛手を負ふ。今よりは行き廻りて背に日を負ひて以て撃たむ」と、期りて南の方より廻り幸しし時、血沼海(ちぬのうみ)に到りて其の御手の血を洗ふ。故、血沼海と謂ふ。(神武記)
日神の御子が日の出る方向、東を向いて戦うのは正しくないという小理屈話である。その地は楯をたてた津だからタテツ(楯津)とされたのが、訛ってタデツ(蓼津)となっているという。ろくでもない駄洒落である。蓼津は今のクサカ(日下)のタデツ(蓼津)のことであるとしている。小理屈話として、日、それも朝日に向かって戦うのはいけないから紀伊半島をぐるりと熊野へ迂回し、東から大和の地へ入ったとする物語になっている。それと駄洒落話の余談の今の地名の説明とは別の話である。仮に両者を同列の話とし、五瀬命が痛手を負った楯津の現在地表記、「日下之蓼津」が日神信仰と関係させた表記とすると、話に齟齬が生じる。「日下」とあるからには、日(太陽)は高いところにあるであろう(注3)。お昼の戦いである。「日に向ひて戦ふこと」とは、切り立った城壁の上の相手と戦うことを意味する。敵の登美毘古は天守閣から矢を下に放っている。また、熊野から宇陀、忍坂方面へ回って来ても、夕方の戦いでは「日に向ひて戦ふこと」になってしまう。戦は朝に行うものという決まりがあったとは知られない。日神信仰の「日」は朝日のことが念頭にある(注4)から、「日下」という用字とは無関係と考えられる。
「日下」をクサカと訓む問題は、「下」はカと訓めるから、「日」をどうしてクサと訓むのか、また、行基年譜の「早」字一字でどうしてクサカと訓むのか、という問題である。
「草」という字は grass の意味である。その「草」という字の冠の「艸」も grass の意味である。grass の下の部分は「早」という字である。上下(うへした)のしたのことを表す「下」という字は、漢音にカと音読みする。つまり、草の下部の「早」字は、クサカと訓むことができる。行基年譜に見える「早」=クサカは、これにより解決した。「日」+「下」の合字の誤写ではない。ここに何か思想的背景があるかといえば、何もない。漢字を見ていて面白がっているだけである。
「日下」はなぜクサカと訓めるのか(注5)。「日」がクサに当たるはずである。クサは漢字で、「草」、「種」のほか、「卉」とも書く。いまでも「花卉(かき)」という言い方をする。説文に、「卉 艸の総名也。艸屮に从ふ。」とある。新撰字鏡に、「卉 許謂反、衆也、百草物名。」の「物」とあるのは、「惣」字の誤り、ないし通用であろう。「卉」の字はもともと、「屮」が三角に構成された「芔」で、「屮」の略字の「十」字が三角形に配される「𠦄」字のはずであるが、略体となって「卉」と書かれている。上の「十」字の縦棒が下に突き抜けた「𠦃」字は、説文に、「𠦃 三の十の并ぶ也。今卅に作り三十の字と為(す)。」とあって、「𠦄」字と「卅」字と「卉」字とは通用している。そのほかにも、「世」と同字の「卋」や、「代」の通字の「𠦄」にも通用して「卉」は使われる。「卋」を「卅」と考える場合、「十」と「廿」の合字とする説もある(注6)。
三十という数は、ひと月の日数である。太陰暦である。大の月は30日、小の月は29日で、ひと月は30日目にしてめぐることになっている。その最終日は、晦日である。晦日とは、つごもり、月が籠もることをいう。月が姿を現わすのは太陽の影だからであることぐらい、古代の人も知っていたであろう。日中に月が見えることもあって、それが段々と太陽に近づいていけば、夜間は月が見えなくなり、最終的に晦日になる。すなわち、晦日とは、日の下に月が隠れてしまうことを言っている。閏月を含め、その月が終わりになって、また新しい月が始まる。その月はお亡くなりになって、再びよみがえることを指している。月が草葉の陰にいる状態が晦日のこと、それは三十日、「十十十」と書いた日、卉日、その「十」の書き方を上に2つ下に1つにして中に「日」字を入れたのが「草」字である。「草」も「卉」もクサとなれば、「日」もクサでなければ納得できないこととなる。
クサビ(左:清水寺、右:日本民家園)
どういう日に当たるかといえば、晦日の日、すなわち、月と月とをまたがらせてつなぐ日のことである。「世」や「代」の通字とも通じていた。草が伸びる時、節ができて葉の出る部分と、ただつるんと伸びている部分とがある。そのいずれも、ヤマトコトバに混同されてか「よ」と言っている。ササ類で考えれば、葉が出る節の部分となかが空洞になっている部分とが交互に現れる。節目となるのが晦日の日に当たるようである。
人間が物を作る場合にも、木材と木材をつなぐために入れるV字状の小材は、楔(くさび)という。どちらも木材である。新撰字鏡に、「輨轄 上古緩反、上又◆(囊のような上部に下部が牛、筆者には不明)鎋同二形、鍵也。下胡𦟈反、二字訓同じ、久佐比(くさび)也。」とある。あるいはクサヒと清音であったかもしれないが、それらヒ・ビは甲類で、日のヒも甲類である。どこにでも転がっていそうな端材である。同じように、ひとつひとつは端材が一部分となってつながり合って一続きになるものは鎖(くさり)である。新撰字鏡に、「琑鏁 同じく思果・思招二反、鏁月字、久佐利(くさり)、又、止良布(とらふ)、又、保太須(ほだす)。」とある。その部分部分の種々(くさぐさ)のような、どこにでもありそうな小さな破片のようなものをクサ(雑)と言っている。クサ(草)とクサ(種)は名義抄にアクセントが違い別語とする見解もあるが、白川静『字訓』(平凡社、1995年)には、「くさ〔草・種・雑(雜)〕」(287頁)と同じ項にあげられている。
記紀には、「うつしき青人草(あをひとくさ)」(記上、応神記)、「国内(くぬち)の人民(ひとくさ)」(神代紀第五段本文)とある。どうだっていい有象無象の輩は、クサなのである。自分のことをクサではないと主張している近代人は、近代社会の殻の中に暮らしてそう信じているが、たやすくクサ化されてしまう。俺が、私が、の人生が道徳を越えて俺様がとなると、人ではなくなる。あるいは、全体主義のなかで、人はクサとして統計的に処理される対象に過ぎない。
筆者は、飛鳥時代にクサカを「日下」と書き表そうとした人と知恵比べをしているに過ぎず、語源は問うていない。上代に、いわゆる語源をもって言葉を考える風潮があったとは、記紀歌謡や万葉集の言葉遊びにしか思われない歌を聞くにつけ、まったく感じられない。そして、日常生活においての「日(ひ、day)」という単位は、現在でこそ週という単位が設けられていて、今日は月曜日、明日は火曜日、毎週水曜日は定例会見日というように確固たるものとしてあるが、江戸時代まで、藪入り以外はすべてが勤務日で、月末の〆を区切りとしているぐらいであって、「日(ひ、day)」は特段代わり映えのしないものであった。今日でも、ラストフライデーの実施が空回りしているのは、月末の会計処理繁忙にそぐわない失策だからである。どこにでもある代わり映えのしない時間単位、そして必ずつながれる連続もの、それが「日(ひ、day)」である。更新されるのは晦日を経た月ごとである。「日(ひ、day)」はクサ(雑)と呼んで適当であった。
クサ
以上が、クサカという名(人名・地名)に「日下」という字を“深い”理由である。「日出づる処の天子」や「日本(ひのもと)」などの「日(ひ、sun)」とはほぼ関係がない。当たり前ではないか。クサカはクサカと言い、ヒシタとは言わないのである。西宮先生の推測に、「日下(ひのした)の草香」のような枕詞的修辞句の可能性を指摘されていたが、実例がないものは証明のしようがない。むろん、そうでなかったことも証明できない。悪魔の証明はできない。悪魔に付き合っている「暇(ひま、ヒは甲類)」はない。クサ(草・種・雑)というヤマトコトバの本質と、そのクサに「卉」という字があること、「日(ひ、day)」とは何かを見極めればわかることである。草葉の陰のニュアンスもあるから、「日本」という書き方と同列のものではなさそうである(注7)。
(注1)この書き下し文は、筆者の独自見解を交えている。文字を一字書くのはフミ(文)、それを連ねるのはヲチ(条)、それをひとつの紋様と見ることができるのはカホ(顔、皃)やツラ(面)、この場合、連なっているからツラが妥当、「辞理」は言葉の意味する筋道のことだからコトワリ(道理)、「意況」は意味の状況のことだからウラカタ(占状)と苦し紛れに峻別している。
(注2)平林、同書には、次のようにある。
関連史料が僅少なこともあって諸説の当否を判ずることは困難だが、漢語の「日下」についても一瞥しておこう。『大漠和辞典』(諸橋轍次・修訂第二版)は漢代に編纂がはじまった中国最初の訓話の書『爾雅』などを引用して、漢語日下に次のような意味があったとする。①日が照らす下。天下。②京師をいふ。③遠い処。日の下。④東方の荒遠の国をいふ。⑤日が下る。
格調高い駢儷体の『記』序文を書いた太安万侶が、右の漢語日下の意味を知らなかったとは考えられない。……最初にクサカに日下の表記をあてた人物は、案外、漢語日下の意味を踏まえていたのかも知れない。国号「倭」に「日本」をあてた『紀』が、「日下」の表記を採用することができなかった理由も、その辺りにあるのではないかと推察される。おそらく、太安万侶は右の知見に加えて、以下に述べる河内日下の歴史上の重要性を強く意識していたのではないかと考えられる。(29~30頁)
日本書紀の編者がクサカを「草香」と記した理由は、日神信仰から憚られたからではなく、そう記したらわかりやすいと思ってそう記したに過ぎないであろう。万葉集にどうして「草香」と記して「日下」と記さないのか、それは、そう記したかったからそう記したのであろう。また、河内日下の歴史がとても重要であることは、他のどこの歴史もとても重要なことと同等で、河内日下の歴史がさほど重要でないことは、他のどこの歴史もさほど重要でないことと同等であろう。まず先に、音としてのヤマトコトバがあり、それにどのような漢字を当てたか。好字令(和銅六年(713年))を遡る飛鳥時代において、どのような用字にするかは、人々が本質的に“わかる”ことこそ求められていた。なぞなぞとしてわかること、それが当時の人々の思考回路に合致していた。そうでなくてどうして、楯を立てたところだから「楯津」、今は訛って「蓼津」などとくだらないことが言えるのだろうか。漢語「日下」はジツカのことであり、クサカとはおよそ縁がないと考える。
山田純「『日下』をめぐる神話的思考―『古事記』序文の対句表現―」(『古代文学』48、2009年3月)は、古事記の序文に、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」とあるのを曲解されている。古事記本文に「日下」“姓”の人は確かには出て来ないから、漢語の「日下(ジッカ)」=「天下」という意味を表わしていて、天皇版の中華観を「帝国の言語」で示しているとされている。
ふつうに読んで、「亦、姓に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。」である。本文に登場する「日下」さんはクサカ、「帯」の字を帯びるのはタラシです、と、洒落を言いながら語っている。もし仮に倭語のクサカが「天下」をとるような意味とするなら、壬申の乱で勝利して平定した天武天皇は、さしずめ「日下帯天皇(くさかたらしのすめらみこと)」とでもなっていないといけない。
(注3)「日下」の「下」をシタ、ウヘシタ(上下)と考えると三次元のこととなる。シモ、カミシモ(上下)と考えると河川の上下のように平面的に考えることが可能である。朝日のある方向が上流で、そこから流れ出した日差しによって西方向が下流であるとの考えもできなくはない。東西を向いた切通しの場合に当てはめる試みである。けれども、同じ場所で夕方を迎えると、日差しは逆流することに当たるのであろうか。やはり日光を流れとして捉えていたとは考えにくい。東を向いていればカミ(上)で、だから伊勢神宮は都からみて東にあるとすることが共通認識とされていたのか、管見にして文献用例を知らない。また、東国(あづまのくに)はどう認識されていたのかや、「日に向ひて」という形容に「日の下(しも)に当りて」といった言い回しがあるのか、総合的に判断されなければならないであろう。
(注4)飛鳥時代に、「日出づる国」としてやけに早起きして勤務のため出廷しなければならなかったことからそう言える。ただし、因幡国伊福部臣古志に見える記事から、天磐船から「日下」を見たら国があったので降臨したとする話と、地名クサカの記述の「日下」とを混同させて考えるのには無理がある。文字の記号としての連想である。記号的な考え方としても、飛鳥時代後期に流れ込んできた五行思想に遠く及ぶものではない。
(注5)本居宣長・古事記伝・十八(神武)に、「日下と二字連ねてこそ久佐加とは読め、日字のみを久佐と読べき由なし、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805(477/600))、同・四十一(雄畧)には、「按に此地名暗坂の意にて、其を日下と書は、日の下れば暗きものなるを以てにやなほよく考べし、師[賀茂真淵]は低坂にてその比を日と書き、久を省き下ると云訓を借リて坂を下と書るにや、と云れつれど甚物遠し、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(433~4/577))とある。
(注6)名義抄(高山寺本、鎌倉時代初め)に、「卅 先合反、三十 𠦄 同」とある。異体字、ないし通用として実例があるのか管見にて調べたところ、経覚私要抄・第三に、「卉人出仕了」(康正二年(1456年)三月条)、和漢三才図会(正徳2年(1712年))に、「卉は三十也。字彙に、孔戣の墓誌(はかしるし)に孔世卉八と云へり。孔戣は乃ち孔子三十八世の孫也。今省きて卅の字に作る。」などとあった。時代の下った出土木簡では、「観世音卉三所遭礼同道数四人」(長浜市鴨田遺跡、宝徳四年(1452年))とある。
なお、正倉院文書や藤原京木簡、平城宮木簡、平城京木簡には、二十のことが「廿」の略字で「廾」(にじゅうあし)に記し、その縮まった「艹」(いわゆる3画くさかんむり)に見える字も多く使われている。「艹」は「艹」(いわゆる4画くさかんむり)や「艸」の異体字である。すると、20も30もクサの意味ではないか、雑多に多いものだからクサの義ではないかとも考えられるが、草(grass)は案外一定の間隔でもって節目でつながって伸びていっている。月という単位でもって継がれる30という単位こそ、クサというに値するであろう。
(注7)けっしてないとは断じ切れない。ヤマトを「日本」と書いた人の気持ちに、ブラックユーモアがあったかもしれない。歴史学などでは、「日本」は国号として、その字面とニホン、ニッポンという音として検討されているが、ヤマトという音に「日本」という字を当てたのが始まりである。「日本、此には耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に効(なら)へ。」(神代紀第四段本文)とあり、「日本武尊」(景行紀)はヤマトタケルノミコトである。絶対にニホンブソンではない。本邦のいわゆる国号なるものの最初は、〔yamato〕(発音記号表示)であった。無文字時代にヤマトであり、文字文化が始まってもヤマトであり、その表記に「倭」、「日本」、「山跡」などと記されていた。後に漢字の字面がひとり歩きをし始めて、いわゆる国号なるものがニホン、ニッポン、ジッポン、ジャパン、ヤーパン、ジパングなどとなった。筆者は不勉強で、天武天皇の時代に音読みの「日本」がいわゆる国号と決められたという今般流行の議論の根拠を知らない。国の正式な歴史書である日本書紀(日本紀)に、「日本(夲)」と書いてヤマトと訓んでいるのだから、撰上された奈良時代の養老四年(720年)に、本邦の国の名はヤマトであったと考える。