(承前)
飼うことには、人間と動物との関わりのなかで、一種独特な、文化的要素が現われる。パブロフの犬のように、習慣化すると動物の方が反射的に寄って来ることを利用したものである。甘えの構造である。そして、人間が与える餌を貰いに来るのは、うまいからである。期待して寄って来るのだからすでによだれが出ている。鳥などによだれがあるのか実際の問題ではない。比喩表現である。ご飯だよ、おやつだよ、と女性に呼ばれて集まってくる男たちや子どもたちに同じである。舌なめずりしてやってくる。ナメルには、舐・嘗・甞の字が使われる。甞には、甘の字が隠れている。嘗の字の下部に、「旨」という字がある。玉篇に、「𤮻 古文の旨字なり」とある。やはり、「甘」という字がみえる。「甘」という字は、カフ(飼)ことの本質を言い当てた表現と言える。
糖質の多めの食べ物(『糖質が見える』パンフレット、大正富山医薬品株式会社、2016年、4頁)
説文に、「旨 美(うま)し也。口の一を含むに从ふ。一は道也。凡そ甘の属、皆甘に从ふ」、「甘 美(うま)し也。甘に从ひ匕声。凡そ旨の属、皆旨に从ふ。𤮻は古文の旨なり」(注12)とあり、旨も甘も同じことである。古代には糖度の高いものは少なかったから、甘(あま)いものは旨いものであった。美の字は、説文に、「美 甘(うま)し也。羊に从ひ大に从ふ。羊は六畜に在りて、主として膳に給するもの也。美と善は同意なり。」とある。神への生贄として捧げられた。本邦の新嘗祭(新甞祭)は穀物を供えるのが通例であるが、中国ではヒツジなどの肉が対象となる。よって、「美」には、羊という字が入っている。祈年祭という予祝のお供え物は、欧米化したおせち料理を思い浮かべればよい。
馬や猪や鳥などが餌付けされたとき、食べているのは、人間が食べ残した豆がらや残飯やふすま(麸、稃)である。穎(かひ)の残滓物が彼らにとってごちそうなのである。アマナフの含意にある、まあ良かろう的なものである。それで飼(かひ)の状態になる。飼葉桶などというカヒバという語は、カフという動詞がカヒという連用形名詞に先んずるのではなく、同時に、あるいはかえって早く生れた言葉であることを予感させる。刈って干しておいたり、煮て柔らかくしたり、飼料を上手に工夫してあげなければ飼うことは適わない。生き物なのだから死なれてしまう。その穎のうちの、人間の残した余りものである。アマ(余)アマ(甘)な関係が構築されている。両者兼ね合わせているから、動物を餌付けして飼うことを「甘」と記して何ら不思議ではない。頓智のなせるわざである。
雄略紀十一年十月条に、「余有り」と記されることは、余剰を手中に収めておくことの本質を裏返しで表現して見せたものである。取っておいて、いつでもモノに替えることができるのは、今にいうお金である。お金があればカフ(買)ことができる。カヒ(代・替・買、ヒは甲類)はカヒ(飼・甘)やカヒ(穎)と必ずしも同根ではなくとも同音である。洒落として理解可能になっている。よって、「○○カヒ部」が全面的には令制に受け継がれなかったのは、無文の銀・銅銭や富本銭、和同開珎などに取って代わられたからに違いない。銭は金属でできているが、その昔は貝でできていた。財、宝(寶)、貨など、みな「貝」字を負っているのはそのためである。この貝(かひ、ヒは甲類)もカヒ(飼・甘)に同音である。外殻のことを指す語であるから、カヒという貝と稃は同根の言葉である。和名抄に、「貝 尚書注に云はく、貝〈音拜、加比(かひ)〉は水物也といふ」、「説文に云はく、稃〈音孚、字亦𥞂に作る。以祢乃加比(いねのかひ)〉は米の甲也といふ」、「殻 唐韻に云はく、殻〈音角、貝と同じ〉は虫の皮甲也といふ。崔禹食経に云はく、河貝子(みな)、其の殻の上の黒きもの是なりといふ」とある。
ちなみに、和名抄に、「河貝子 崔禹食経に云はく、河貝子〈美奈(みな)、俗に蜷字を用うるは非ざる也。音挙、連蜷虫の屈む皃也〉は上(かみ)黒くして小さく狭く長く、人の身に似る者也といふ」とある。カワニナの殻をカヒの代表としている点は興味深い。貝殻を使って生きるものがいる。ヤドカリである。和名抄に、「寄居子 本草に云はく、寄居子〈加美奈(かみな)、俗に蟹蜷二字を仮用す〉は皃、蜘蛛に似る者也といふ」とある。すなわち、飼われた動物とは、哲学的な意味でヤドカリ(宿借)に等しい。カワニナは人に当たり、ヤドカリは飼育動物に当たる(注13)。
以上、「甘」字をヤマトコトバのカヒ(飼・養)に当てていた上代の言語感覚を見てきた。飼育動物は、「人民」をオホミタカラと呼んでいたのと同様、財寶のもとなのである。それも人並み以上の働きをするロボットのような存在だから、甘やかして甘いものを与えて手なずけて飼っておけばとても役に立つ。今日、女性の社会進出がすすんで大いに結構なことであるが、以前は女性が家事、特に家庭の料理を作る役割を果たしていることが多かった。女性は、うまいもの(旨・甘)をこしらえる能力が高ければ、自然と男性は寄ってきた。簡単である。男性を飼っておくと、外で働いて稼いできてくれる。家畜の馬、牛、猪、鳥、鷹に同じである。自分が働くのではなく、家畜に働かせることの方が効率が良く、楽であるし危険な目にも遭わずに済む。これは、今日、一部の富裕層が、「お金に働いて貰っている」という言い方をするのと同じである。まさに、貝を飼っているということである。そういう論理(資本主義の真実)を理解していたからこそ、「鳥甘」、「馬甘」、「猪甘」、「牛甘」、「鷹甘」などと書いて面白がっていたといえる。マルクスに先だつこと1000年以上前のことであった。
(注)
(注1)垂仁記では、言葉の出ない本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の話が長々と展開されている。
故、其の御子[本牟智和気王]を率(ゐ)て遊びし状(さま)は、尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたをぶね)に作りて持ち上り来て、倭の市師池(いちしのいけ)・軽池(かるのいけ)に浮かべて其の御子を率て遊びき。然るに是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで真事とはず。故、今高く往く鵠(くくひ)の音(ね)を聞きて、始めてあぎとひす。爾(ここ)に山辺之大鶙(やまのべのおほたか)を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦追ひて稲羽国(いなばのくに)に越え、即ち旦波国(たにはのくに)・多遅摩国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到り、乃ち三野国(みののくに)を越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に追ひ到りて和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。亦、其の鳥を見れば啞(おし)物言ふ。而して戕牁(かし)に言ふ事勿し。是に天皇患へ賜ひて御寝(みね)しませる時、御夢(みいめ)に覚して曰く、「我が宮を天皇の御舎の如修理(つくろ)へば、御子必ず真事とはむ」といふ。如此(かく)覚す時、ふとまにに占相(うらな)ひて、何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。故、其の御子を其の大神の宮を拝(をろが)ましめに遣さむとする時、誰人(たれ)を副はしめば吉けむとうらなひき。爾に曙立王(あけたつのみこ)、卜に食(あ)へり。故、曙立王に科(おほ)せて、うけひ白(まを)さしめしく、「此の大神を拝むに因りて誠に験(しるし)有らば是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」と如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地(つち)に墮ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活け」とのりたまひき。爾(しか)すれば更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾に名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらあけたつのみこ)と謂ふ。即ち、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二はしらの王を其の御子に副へて遣しし時、那良戸(ならど)より跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりも亦跛・盲に遇はむ。唯に木戸のみ是掖月(わきづき)の吉き戸ぞとトひて出で行く時、到り坐す地毎に品遅部(ほむちべ)を定めき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖りて還り上る時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、仮宮を仕へ奉りて坐せき。爾に出雲国造の祖(おや)、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝りて其の河下に立てて大御食を献らむとせし時に、其の御子詔ひて言ひしく、「是の河下に青葉の山の如きは山と見えて山に非ず。若し出雲の石𥑎(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神(あしはらのしこをのおほかみ)を以ていつく祝(はふり)が大庭か」と問ひ賜ひき。爾に御伴に遣さえたる王等、聞き歓び見喜びて、御子を檳榔(あぢまき)の長穂宮に坐せて駅使(はゆまのつかひ)を貢上(たてまつ)りき。爾に其の御子、一宿(ひとよ)肥長比売(ひながひめ)に婚(あ)ひき。故、其の美人(をとめ)を窃かに伺へば蛇なり。即ち見畏みて遁逃(に)げたまひき。爾に其の肥長比売患へて海原を光(てら)して船より追ひ来つ。故、益(ますます)見畏みて山のたわより御船を引き越して逃げ上り行きましき。是に覆奏(かへりこと)言(まを)ししく、「大神を拝みたまひしによりて大御子物詔りたまひき。故、参ゐ上り来つ」とまをす。故、天皇歓喜(よろこ)びて、即ち菟上王を返して神宮(かみのみや)を造らしめたまひき。是に天皇、其の御子に因りて鳥取部(ととりべ)・鳥甘(とりかひ)・品遅部(ほむちべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。(垂仁記)
最後の文、真福寺本古事記に、「鳥甘」とあって「鳥甘部」とないことは、本居宣長も指摘するとおりである。トリカヒ(「養鳥人」(雄略紀十年九月条))という語が他に出ている以上、日本書紀の当該個所にかかわらず、「部」を添える必要はない。なお、途中の原文、「亦見其鳥者於思物言加思爾勿言事」部分の訓みについては、拙稿「垂仁天皇の御子、本牟智和気王(誉津別命)の言語障害の説話 其の四(鵠の一)」以下参照。日本書紀では、「鳥養部」と記されている。
……湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓(かばね)を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月条)
(注2)考古学的見地から、馬飼、鷹甘について、その実態をまとめられた論考には、基峰修「馬飼について―日本列島における古墳時代渡来文化の検証―」(http:// http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/40172)『人間社会環境研究』28号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2014年9月、ならびに、同「鷹甘の文化史的考察―考古資料の分析を中心として―」(http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/43394)『人間社会環境研究』30号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2015年9月が見られる。
(注3)山口2005.に、大智度論に見える「甘受」の訓のアマナヒから、「これらのアマナフは<良しとする>の意で、アマには<良い・立派だ>の意のあったことを窺わせる。」(395頁)とし、また、憲法十七条の用例に見える「アマナフは、<(他人と)調和する・協同する>意と考えられる。これは<(他人を)良しとする>の意から、<(他人と)調和する・協同する>の意の出て来たものと考えられよう。」(同頁)とされている。筆者は、「良しとする」という語義は、まあ良かろう、ということと考える。程度として better であるということであり、けっして best ではない。諸手を挙げて喜んで受け入れているのではなく、甘んじて受け入れることだから、「甘受」と書いてアマナヒと訓んでいたものである。そして、ナフという動詞化する接尾辞は、ナフ(綯)という言葉が示すように、相手との絡み合いによってできあがっている。アキナフ(商)、アタナフ(敵)、イザナフ(誘)、ウベナフ(肯)、ツミナフ(罪)、トモナフ(伴)、ニナフ(担)、マヒナフ(賄・幣)など、相手との相互作用、被動や使役の意味を強めることが多い。アマナフには、同じ調和や協同においても、させられた感があるというニュアンスを含んでいる。
(注4)ローレンツ2009.参照。
(注5)筆者は、この考え方について、「西アジア遊牧民の染織―丸山コレクション 塩袋と旅するじゅうたん―」展(たばこと塩の博物館(2017年)により教えられた。古墳時代の列島においても、蔀屋北遺跡では、ウマの出土が多くなる5世紀半ばから後半にかけて、製塩土器が出現して急増している。馬の飼育に塩が欠かせないことの証明である。今日、動物園や牧場へ行けば、ウマもウシもイノシシもミネラルブロックの鉱塩が与えられているのを目にすることができる。
埋葬土坑出土の馬の全身骨格(大阪府四条畷市蔀屋北遺跡出土、古墳時代、5世紀、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品、ウィキペディア Saigen Jiro氏撮影https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Saigen_Jiro)
鉱塩とイノシシのおもちゃ(多摩動物公園)
(注6)内山2009.に、「縄文時代のイヌは、埋葬地点が人(とくに成人男性)の墓に近接することや怪我の多さなどから、狩猟犬であったとみられている……。弥生時代にも狩猟犬などとして使役されたイヌはいたが、ほとんどのイヌは最終的に食用にされたため、『使役犬は死後に埋葬される』という図式が弥生時代には成り立たない。」(123頁)とある。犬の生産地のような遺跡が見られるという。それが食用犬の生産地なのか、筆者は勉強不足でわからない。若鶏もも肉のように、若犬むね肉が消費されたのであろうか。「最終的に食用」に供される前、狩猟犬、番犬、愛玩犬、軍用犬などといろいろ役立てていたのではないかと推測している。資本財として有効であると考えるからである。ご批判を賜わりたい。
首輪をつけた犬の埴輪(群馬県伊勢崎市境上武士出土、高さ47.1cm、古墳時代、6世紀、東京国立博物館コレクション名品ギャラリー(http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J20711))
(注7)ブタと人間は食べるものが似ており、人間の食料と競合するため、むしろ飼料に当てずに人間が食べた方が、養える人口は増えると考えられている。現代の世界の人口問題に対する見解に同じである。ブタは飼料の約30%、ウシに至っては約6.5%しか肉に還元できないと調べられている。それでもウシは草を食べるから人と競合しない。ただし、メタンガスを発生させて困っている。ブタは人間同様、セルロースを消化できない。田畑を増やし、その里山の先近くの、今日、鳥獣保護法で手出しできず、被害に悩んでいる場所にイノシシをおびき寄せて、罠などで捕まえる方が食糧確保の点からは理に適っているらしい。
(注8)この記事は限りなくあやしい。瑞祥記事かと思われるが、なぜここに放り込まれているのか、筆者はまだ十分にわからない。こういった記事がなにゆえ存在しているのか、それが解明された時、はじめて日本書紀の編纂者の意図がわかったことになり、“読めた”という段階に至る。今日、その解明に誰も取り組まれていないように見える。文献を書いた人の意図を無視して、“歴史研究”や“文学研究”が行われている。“学界”はどうしてそれを“研究”と呼んで憚らないのか、筆者には理解できない。
(注9)志田1972.には、次のようにある。
ここにみえる「旦暮にして食へども、尚其の余有り」というのは、たとえ菟田の人の狗が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあるという意味なのか、それとも天皇が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあると解釈するのかによって、大分事情がちがってくる。「鳥官の禽」について本居宣長は、「鳥官とは御饌料の鳥を養設け置所かとも思へど、比天皇の御瞋の事を以見れば、さにはあらで、御翫の鳥なるべし」としており、日本書紀通釈にも、「鳥官は令になし。天皇御翫の禽なるべし」とみえる。そうすると、天皇が愛玩する鳥を朝夕食べるわけがないから、ここの解釈は「菟田の人の狗が、朝夕食べたとしても」という意味になる。つまり鳥官で飼っていた鳥は、愛玩用であって食事のためのものではなかったことになる。(402頁)
また、新編全集本日本書紀にも、「食用・観賞用に鳥を飼育する役所、またはその職員を仮にこう記したか。奈良時代に宮内省園池司が孔雀を飼育していたことが『正倉院文書』にみえる。」(②190頁頭注)とある。しかし、「禽」自体を食べる、愛玩する、という発想は、後代のそれであろう。「鳥官」が管掌する「禽」に意図があるとすれば、猛禽類を表すと考えられる。「未だ任那を禽(と)らざりし間(から)に」(欽明紀二年七月条)という動詞の用例も見られる。トリという言葉(音)が「鳥」でもあり、「取(捕・獲・採)り」でもあるという洒落でもあろう。この思い付きをアクセントの違いから排除してしまうことは、今日でも最も視聴率の高い番組の一つである『笑点』(日テレ)をさえ否定するのと同じである。言葉の学問が言葉の現場を見失っている。なお、「取る」のト音が早くから甲乙に混乱をきたしていると調査されている。どうして混乱を来たしたかについて、あるいはこの洒落のせいかとも思われるが、あくまで推測の域を出ない。
それはさて、奈良時代ではなく、古墳時代やせいぜい飛鳥時代初期のことである。「禽」は、鷹狩に使うことのできるタカやハヤブサのことで、鑑賞したのではなく利用したのであろう。万能叉手網とでも呼べる代物であったのではないか。「馬官(うまのつかさ)」(推古紀元年正月条)などとある馬が、乗用車であったのと思考回路は同じである。
和名抄に、「鳥 尓雅注に云はく、二足にして羽ある者は禽〈音琴、和名、鳥と同じ〉と曰ふといふ。一説に、飛ぶものは鳥と曰ひ、走るものは獣と曰ふ、捴じて之れを禽獣〈訓は獣と同じ〉と謂ふ。……」とある。禽獣という言葉については、あまり厳密に禽と獣とを区別していないと考えられている。獰猛さをもって集められているのであろうか。
(注10)拙稿「天寿国繍帳銘を内部から読む」参照。
(注11)筆者は、古代日本におけるペット前史について考究している。雄略紀の「禽」が観賞用や愛玩用のペットであるとすると、「天皇聞而使二聚積一之」と記される道理が合わない。鳥籠を100個置いて飼うことはいけないことではないが、尋常なことではない。そうではなく、使役を目的とする動物利用に、“カヒ(甘=貝)の文化”を見ている。藤原京から出土した木簡に、「亀甘部伊皮〔田〕」という人名表記が見られる。最終的に食べることになったとしても、当初の目的は、亀甲をもって卜をするために亀を飼っていた。「亀甘部」なる部民がいたらしい。
「亀甘部伊皮〔田〕」(奈良文化財研究所編『飛鳥藤原京木簡二―藤原京木簡―』吉川弘文館、2007年、PL.118、3623(赤外)。難しい「龜」字と「部」の略体の「ア」字が見られる。)
トゥアン1988.は、ペットとして飼っていたカメを殺して食べる話や子豚に人間の乳を飲ませる写真を載せるが、この使役家畜の意味への配慮に乏しい。すなわち、ペット前史である。この部分を論考するだけで、大掛かりな文化誌が展開されるであろう。導線だけ示すなら、古墳時代の飼い犬に、絶対にとは言わないが、室内犬は見られないのではないかというのが筆者の考えである。文化人類学のフィールドワークに、動物の擬人化を徹底的に嫌う文化を記すものがある。現代の“文明人”との違いが浮き彫りになるであろう。雄略天皇は、紫禁城に籠らされているのではなく、「走(わし)り出の よろしき山の 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の あやにうら麗(ぐは)し」(紀77歌謡)き朝倉宮に開放的に住んでいる。いつでも狩りに出張る態勢が整っており(雄略前紀安康三年十月条、雄略紀二年十月条、四年二月条・八月条、五年二月条)、「鮮(なます)」を作る「宍人部(ししひとべ)」を置くに及んでいる。
なお、人民のことを、古訓にオホミタカラとよんでいる。適用される用字は、民・百姓・黎元・民庶・衆庶・億兆・黔首・民萌・万民・居民・公民などと多い。味噌汁などをオミオツケ(御御御付け)というように、オホ(大)+ミ(御)+タカラの意であろうとされる。タカラは、喜田貞吉、松岡静雄、大野晋らの説に、タ(田)+カラ(族)であるという。語源というのはわからないから、“説”以上のものはない。漁民はオホミタカラではないのか、といった批判がありそうである。筆者は、上述のとおり、タカラ(寶)とはカヒ(貝)で表わされることだから、人民は大王にとってみればカヒ(甘・飼)の対象であると捉えている。使役家畜同然の存在であったという意味である。働いてもらう。構造的にそうなっているからどうしようもない。ヤマトコトバは認識するに、とても素直な言葉である。
(注12)白川1995.は、「旨」は「[甘と]声が合わず、また甘に従う字ではない。」(161頁)、「[説文は]附会の説である。」(86頁)とするが、当時の権威ある字書、説文を、太安万侶や日本書紀の編纂者は見て、それに従っていると考える。
(注13)和名抄の「河貝子」の説明は、「髪(かみ、ミは甲類)」が「上(かみ、ミは甲類)」に由来するかとされる有力な根拠である。本ブログ「十月(かむなづき)について」参照。カワニナが人で、ヤドカリは飼育動物であるとの比喩対比は、そのまま俗世の人と、剃髪した僧、尼僧との関係に当たるものと思われる。托鉢で食べている者への皮肉が込められている。確かに、寺にある瓦葺の塔は、ヤドカリに等価である。人々の住まいは、住むほどに黒ずんでふさふさした茅葺屋根である。
(引用文献)
内山2009. 内山幸子「狩猟犬から食肉犬へ」設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編『弥生時代の考古学5 食糧の獲得と生産』同成社、2009年。
時代別国語大辞典上代編 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
志田1972. 志田諄一「鳥取造」『古代氏族の性格と伝承』雄山閣、昭和47年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
瀧川1991. 瀧川政次郎「鳥甘部考(上)」『日本歴史』第272号、1971年1月。
トゥアン1988. イーフー・トゥアン、片岡しのぶ・金利光訳『愛と支配の博物誌』工作舎、1988年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
ローレンツ2009. コンラート・ローレンツ、小原秀雄訳『人イヌにあう』早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、2009年。
飼うことには、人間と動物との関わりのなかで、一種独特な、文化的要素が現われる。パブロフの犬のように、習慣化すると動物の方が反射的に寄って来ることを利用したものである。甘えの構造である。そして、人間が与える餌を貰いに来るのは、うまいからである。期待して寄って来るのだからすでによだれが出ている。鳥などによだれがあるのか実際の問題ではない。比喩表現である。ご飯だよ、おやつだよ、と女性に呼ばれて集まってくる男たちや子どもたちに同じである。舌なめずりしてやってくる。ナメルには、舐・嘗・甞の字が使われる。甞には、甘の字が隠れている。嘗の字の下部に、「旨」という字がある。玉篇に、「𤮻 古文の旨字なり」とある。やはり、「甘」という字がみえる。「甘」という字は、カフ(飼)ことの本質を言い当てた表現と言える。
糖質の多めの食べ物(『糖質が見える』パンフレット、大正富山医薬品株式会社、2016年、4頁)
説文に、「旨 美(うま)し也。口の一を含むに从ふ。一は道也。凡そ甘の属、皆甘に从ふ」、「甘 美(うま)し也。甘に从ひ匕声。凡そ旨の属、皆旨に从ふ。𤮻は古文の旨なり」(注12)とあり、旨も甘も同じことである。古代には糖度の高いものは少なかったから、甘(あま)いものは旨いものであった。美の字は、説文に、「美 甘(うま)し也。羊に从ひ大に从ふ。羊は六畜に在りて、主として膳に給するもの也。美と善は同意なり。」とある。神への生贄として捧げられた。本邦の新嘗祭(新甞祭)は穀物を供えるのが通例であるが、中国ではヒツジなどの肉が対象となる。よって、「美」には、羊という字が入っている。祈年祭という予祝のお供え物は、欧米化したおせち料理を思い浮かべればよい。
馬や猪や鳥などが餌付けされたとき、食べているのは、人間が食べ残した豆がらや残飯やふすま(麸、稃)である。穎(かひ)の残滓物が彼らにとってごちそうなのである。アマナフの含意にある、まあ良かろう的なものである。それで飼(かひ)の状態になる。飼葉桶などというカヒバという語は、カフという動詞がカヒという連用形名詞に先んずるのではなく、同時に、あるいはかえって早く生れた言葉であることを予感させる。刈って干しておいたり、煮て柔らかくしたり、飼料を上手に工夫してあげなければ飼うことは適わない。生き物なのだから死なれてしまう。その穎のうちの、人間の残した余りものである。アマ(余)アマ(甘)な関係が構築されている。両者兼ね合わせているから、動物を餌付けして飼うことを「甘」と記して何ら不思議ではない。頓智のなせるわざである。
雄略紀十一年十月条に、「余有り」と記されることは、余剰を手中に収めておくことの本質を裏返しで表現して見せたものである。取っておいて、いつでもモノに替えることができるのは、今にいうお金である。お金があればカフ(買)ことができる。カヒ(代・替・買、ヒは甲類)はカヒ(飼・甘)やカヒ(穎)と必ずしも同根ではなくとも同音である。洒落として理解可能になっている。よって、「○○カヒ部」が全面的には令制に受け継がれなかったのは、無文の銀・銅銭や富本銭、和同開珎などに取って代わられたからに違いない。銭は金属でできているが、その昔は貝でできていた。財、宝(寶)、貨など、みな「貝」字を負っているのはそのためである。この貝(かひ、ヒは甲類)もカヒ(飼・甘)に同音である。外殻のことを指す語であるから、カヒという貝と稃は同根の言葉である。和名抄に、「貝 尚書注に云はく、貝〈音拜、加比(かひ)〉は水物也といふ」、「説文に云はく、稃〈音孚、字亦𥞂に作る。以祢乃加比(いねのかひ)〉は米の甲也といふ」、「殻 唐韻に云はく、殻〈音角、貝と同じ〉は虫の皮甲也といふ。崔禹食経に云はく、河貝子(みな)、其の殻の上の黒きもの是なりといふ」とある。
ちなみに、和名抄に、「河貝子 崔禹食経に云はく、河貝子〈美奈(みな)、俗に蜷字を用うるは非ざる也。音挙、連蜷虫の屈む皃也〉は上(かみ)黒くして小さく狭く長く、人の身に似る者也といふ」とある。カワニナの殻をカヒの代表としている点は興味深い。貝殻を使って生きるものがいる。ヤドカリである。和名抄に、「寄居子 本草に云はく、寄居子〈加美奈(かみな)、俗に蟹蜷二字を仮用す〉は皃、蜘蛛に似る者也といふ」とある。すなわち、飼われた動物とは、哲学的な意味でヤドカリ(宿借)に等しい。カワニナは人に当たり、ヤドカリは飼育動物に当たる(注13)。
以上、「甘」字をヤマトコトバのカヒ(飼・養)に当てていた上代の言語感覚を見てきた。飼育動物は、「人民」をオホミタカラと呼んでいたのと同様、財寶のもとなのである。それも人並み以上の働きをするロボットのような存在だから、甘やかして甘いものを与えて手なずけて飼っておけばとても役に立つ。今日、女性の社会進出がすすんで大いに結構なことであるが、以前は女性が家事、特に家庭の料理を作る役割を果たしていることが多かった。女性は、うまいもの(旨・甘)をこしらえる能力が高ければ、自然と男性は寄ってきた。簡単である。男性を飼っておくと、外で働いて稼いできてくれる。家畜の馬、牛、猪、鳥、鷹に同じである。自分が働くのではなく、家畜に働かせることの方が効率が良く、楽であるし危険な目にも遭わずに済む。これは、今日、一部の富裕層が、「お金に働いて貰っている」という言い方をするのと同じである。まさに、貝を飼っているということである。そういう論理(資本主義の真実)を理解していたからこそ、「鳥甘」、「馬甘」、「猪甘」、「牛甘」、「鷹甘」などと書いて面白がっていたといえる。マルクスに先だつこと1000年以上前のことであった。
(注)
(注1)垂仁記では、言葉の出ない本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の話が長々と展開されている。
故、其の御子[本牟智和気王]を率(ゐ)て遊びし状(さま)は、尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)を二俣小舟(ふたまたをぶね)に作りて持ち上り来て、倭の市師池(いちしのいけ)・軽池(かるのいけ)に浮かべて其の御子を率て遊びき。然るに是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで真事とはず。故、今高く往く鵠(くくひ)の音(ね)を聞きて、始めてあぎとひす。爾(ここ)に山辺之大鶙(やまのべのおほたか)を遣はして其の鳥を取らしむ。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国(きのくに)より針間国(はりまのくに)に到り、亦追ひて稲羽国(いなばのくに)に越え、即ち旦波国(たにはのくに)・多遅摩国(たぢまのくに)に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国(ちかつあふみのくに)に到り、乃ち三野国(みののくに)を越え、尾張国より伝ひて科野国(しなののくに)に追ひ、遂に高志国(こしのくに)に追ひ到りて和那美(わなみ)の水門(みなと)に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献る。故、其の水門を号けて和那美の水門と謂ふ。亦、其の鳥を見れば啞(おし)物言ふ。而して戕牁(かし)に言ふ事勿し。是に天皇患へ賜ひて御寝(みね)しませる時、御夢(みいめ)に覚して曰く、「我が宮を天皇の御舎の如修理(つくろ)へば、御子必ず真事とはむ」といふ。如此(かく)覚す時、ふとまにに占相(うらな)ひて、何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。故、其の御子を其の大神の宮を拝(をろが)ましめに遣さむとする時、誰人(たれ)を副はしめば吉けむとうらなひき。爾に曙立王(あけたつのみこ)、卜に食(あ)へり。故、曙立王に科(おほ)せて、うけひ白(まを)さしめしく、「此の大神を拝むに因りて誠に験(しるし)有らば是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹に住む鷺や、うけひ落ちよ」と如此(かく)詔ひし時に、其の鷺、地(つち)に墮ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活け」とのりたまひき。爾(しか)すれば更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾に名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらあけたつのみこ)と謂ふ。即ち、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二はしらの王を其の御子に副へて遣しし時、那良戸(ならど)より跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりも亦跛・盲に遇はむ。唯に木戸のみ是掖月(わきづき)の吉き戸ぞとトひて出で行く時、到り坐す地毎に品遅部(ほむちべ)を定めき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖りて還り上る時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、仮宮を仕へ奉りて坐せき。爾に出雲国造の祖(おや)、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝りて其の河下に立てて大御食を献らむとせし時に、其の御子詔ひて言ひしく、「是の河下に青葉の山の如きは山と見えて山に非ず。若し出雲の石𥑎(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神(あしはらのしこをのおほかみ)を以ていつく祝(はふり)が大庭か」と問ひ賜ひき。爾に御伴に遣さえたる王等、聞き歓び見喜びて、御子を檳榔(あぢまき)の長穂宮に坐せて駅使(はゆまのつかひ)を貢上(たてまつ)りき。爾に其の御子、一宿(ひとよ)肥長比売(ひながひめ)に婚(あ)ひき。故、其の美人(をとめ)を窃かに伺へば蛇なり。即ち見畏みて遁逃(に)げたまひき。爾に其の肥長比売患へて海原を光(てら)して船より追ひ来つ。故、益(ますます)見畏みて山のたわより御船を引き越して逃げ上り行きましき。是に覆奏(かへりこと)言(まを)ししく、「大神を拝みたまひしによりて大御子物詔りたまひき。故、参ゐ上り来つ」とまをす。故、天皇歓喜(よろこ)びて、即ち菟上王を返して神宮(かみのみや)を造らしめたまひき。是に天皇、其の御子に因りて鳥取部(ととりべ)・鳥甘(とりかひ)・品遅部(ほむちべ)・大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めたまひき。(垂仁記)
最後の文、真福寺本古事記に、「鳥甘」とあって「鳥甘部」とないことは、本居宣長も指摘するとおりである。トリカヒ(「養鳥人」(雄略紀十年九月条))という語が他に出ている以上、日本書紀の当該個所にかかわらず、「部」を添える必要はない。なお、途中の原文、「亦見其鳥者於思物言加思爾勿言事」部分の訓みについては、拙稿「垂仁天皇の御子、本牟智和気王(誉津別命)の言語障害の説話 其の四(鵠の一)」以下参照。日本書紀では、「鳥養部」と記されている。
……湯河板挙(ゆかはたな)、鵠(くぐひ)を献る。誉津別命(ほむつわけのみこと)、是の鵠を弄びて、遂に言語(ものい)ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板挙に賞(たまひもの)す。則ち姓(かばね)を賜ひて鳥取造(ととりのみやつこ)と曰ふ。因りて亦鳥取部(ととりべ)・鳥養部(とりかひべ)・誉津部(ほむつべ)を定む。(垂仁紀二十三年十一月条)
(注2)考古学的見地から、馬飼、鷹甘について、その実態をまとめられた論考には、基峰修「馬飼について―日本列島における古墳時代渡来文化の検証―」(http:// http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/40172)『人間社会環境研究』28号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2014年9月、ならびに、同「鷹甘の文化史的考察―考古資料の分析を中心として―」(http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/43394)『人間社会環境研究』30号、金沢大学大学院人間社会環境研究科、2015年9月が見られる。
(注3)山口2005.に、大智度論に見える「甘受」の訓のアマナヒから、「これらのアマナフは<良しとする>の意で、アマには<良い・立派だ>の意のあったことを窺わせる。」(395頁)とし、また、憲法十七条の用例に見える「アマナフは、<(他人と)調和する・協同する>意と考えられる。これは<(他人を)良しとする>の意から、<(他人と)調和する・協同する>の意の出て来たものと考えられよう。」(同頁)とされている。筆者は、「良しとする」という語義は、まあ良かろう、ということと考える。程度として better であるということであり、けっして best ではない。諸手を挙げて喜んで受け入れているのではなく、甘んじて受け入れることだから、「甘受」と書いてアマナヒと訓んでいたものである。そして、ナフという動詞化する接尾辞は、ナフ(綯)という言葉が示すように、相手との絡み合いによってできあがっている。アキナフ(商)、アタナフ(敵)、イザナフ(誘)、ウベナフ(肯)、ツミナフ(罪)、トモナフ(伴)、ニナフ(担)、マヒナフ(賄・幣)など、相手との相互作用、被動や使役の意味を強めることが多い。アマナフには、同じ調和や協同においても、させられた感があるというニュアンスを含んでいる。
(注4)ローレンツ2009.参照。
(注5)筆者は、この考え方について、「西アジア遊牧民の染織―丸山コレクション 塩袋と旅するじゅうたん―」展(たばこと塩の博物館(2017年)により教えられた。古墳時代の列島においても、蔀屋北遺跡では、ウマの出土が多くなる5世紀半ばから後半にかけて、製塩土器が出現して急増している。馬の飼育に塩が欠かせないことの証明である。今日、動物園や牧場へ行けば、ウマもウシもイノシシもミネラルブロックの鉱塩が与えられているのを目にすることができる。
埋葬土坑出土の馬の全身骨格(大阪府四条畷市蔀屋北遺跡出土、古墳時代、5世紀、大阪府立近つ飛鳥博物館展示品、ウィキペディア Saigen Jiro氏撮影https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Saigen_Jiro)
鉱塩とイノシシのおもちゃ(多摩動物公園)
(注6)内山2009.に、「縄文時代のイヌは、埋葬地点が人(とくに成人男性)の墓に近接することや怪我の多さなどから、狩猟犬であったとみられている……。弥生時代にも狩猟犬などとして使役されたイヌはいたが、ほとんどのイヌは最終的に食用にされたため、『使役犬は死後に埋葬される』という図式が弥生時代には成り立たない。」(123頁)とある。犬の生産地のような遺跡が見られるという。それが食用犬の生産地なのか、筆者は勉強不足でわからない。若鶏もも肉のように、若犬むね肉が消費されたのであろうか。「最終的に食用」に供される前、狩猟犬、番犬、愛玩犬、軍用犬などといろいろ役立てていたのではないかと推測している。資本財として有効であると考えるからである。ご批判を賜わりたい。
首輪をつけた犬の埴輪(群馬県伊勢崎市境上武士出土、高さ47.1cm、古墳時代、6世紀、東京国立博物館コレクション名品ギャラリー(http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J20711))
(注7)ブタと人間は食べるものが似ており、人間の食料と競合するため、むしろ飼料に当てずに人間が食べた方が、養える人口は増えると考えられている。現代の世界の人口問題に対する見解に同じである。ブタは飼料の約30%、ウシに至っては約6.5%しか肉に還元できないと調べられている。それでもウシは草を食べるから人と競合しない。ただし、メタンガスを発生させて困っている。ブタは人間同様、セルロースを消化できない。田畑を増やし、その里山の先近くの、今日、鳥獣保護法で手出しできず、被害に悩んでいる場所にイノシシをおびき寄せて、罠などで捕まえる方が食糧確保の点からは理に適っているらしい。
(注8)この記事は限りなくあやしい。瑞祥記事かと思われるが、なぜここに放り込まれているのか、筆者はまだ十分にわからない。こういった記事がなにゆえ存在しているのか、それが解明された時、はじめて日本書紀の編纂者の意図がわかったことになり、“読めた”という段階に至る。今日、その解明に誰も取り組まれていないように見える。文献を書いた人の意図を無視して、“歴史研究”や“文学研究”が行われている。“学界”はどうしてそれを“研究”と呼んで憚らないのか、筆者には理解できない。
(注9)志田1972.には、次のようにある。
ここにみえる「旦暮にして食へども、尚其の余有り」というのは、たとえ菟田の人の狗が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあるという意味なのか、それとも天皇が朝夕に食べたとしても、まだあまりがあると解釈するのかによって、大分事情がちがってくる。「鳥官の禽」について本居宣長は、「鳥官とは御饌料の鳥を養設け置所かとも思へど、比天皇の御瞋の事を以見れば、さにはあらで、御翫の鳥なるべし」としており、日本書紀通釈にも、「鳥官は令になし。天皇御翫の禽なるべし」とみえる。そうすると、天皇が愛玩する鳥を朝夕食べるわけがないから、ここの解釈は「菟田の人の狗が、朝夕食べたとしても」という意味になる。つまり鳥官で飼っていた鳥は、愛玩用であって食事のためのものではなかったことになる。(402頁)
また、新編全集本日本書紀にも、「食用・観賞用に鳥を飼育する役所、またはその職員を仮にこう記したか。奈良時代に宮内省園池司が孔雀を飼育していたことが『正倉院文書』にみえる。」(②190頁頭注)とある。しかし、「禽」自体を食べる、愛玩する、という発想は、後代のそれであろう。「鳥官」が管掌する「禽」に意図があるとすれば、猛禽類を表すと考えられる。「未だ任那を禽(と)らざりし間(から)に」(欽明紀二年七月条)という動詞の用例も見られる。トリという言葉(音)が「鳥」でもあり、「取(捕・獲・採)り」でもあるという洒落でもあろう。この思い付きをアクセントの違いから排除してしまうことは、今日でも最も視聴率の高い番組の一つである『笑点』(日テレ)をさえ否定するのと同じである。言葉の学問が言葉の現場を見失っている。なお、「取る」のト音が早くから甲乙に混乱をきたしていると調査されている。どうして混乱を来たしたかについて、あるいはこの洒落のせいかとも思われるが、あくまで推測の域を出ない。
それはさて、奈良時代ではなく、古墳時代やせいぜい飛鳥時代初期のことである。「禽」は、鷹狩に使うことのできるタカやハヤブサのことで、鑑賞したのではなく利用したのであろう。万能叉手網とでも呼べる代物であったのではないか。「馬官(うまのつかさ)」(推古紀元年正月条)などとある馬が、乗用車であったのと思考回路は同じである。
和名抄に、「鳥 尓雅注に云はく、二足にして羽ある者は禽〈音琴、和名、鳥と同じ〉と曰ふといふ。一説に、飛ぶものは鳥と曰ひ、走るものは獣と曰ふ、捴じて之れを禽獣〈訓は獣と同じ〉と謂ふ。……」とある。禽獣という言葉については、あまり厳密に禽と獣とを区別していないと考えられている。獰猛さをもって集められているのであろうか。
(注10)拙稿「天寿国繍帳銘を内部から読む」参照。
(注11)筆者は、古代日本におけるペット前史について考究している。雄略紀の「禽」が観賞用や愛玩用のペットであるとすると、「天皇聞而使二聚積一之」と記される道理が合わない。鳥籠を100個置いて飼うことはいけないことではないが、尋常なことではない。そうではなく、使役を目的とする動物利用に、“カヒ(甘=貝)の文化”を見ている。藤原京から出土した木簡に、「亀甘部伊皮〔田〕」という人名表記が見られる。最終的に食べることになったとしても、当初の目的は、亀甲をもって卜をするために亀を飼っていた。「亀甘部」なる部民がいたらしい。
「亀甘部伊皮〔田〕」(奈良文化財研究所編『飛鳥藤原京木簡二―藤原京木簡―』吉川弘文館、2007年、PL.118、3623(赤外)。難しい「龜」字と「部」の略体の「ア」字が見られる。)
トゥアン1988.は、ペットとして飼っていたカメを殺して食べる話や子豚に人間の乳を飲ませる写真を載せるが、この使役家畜の意味への配慮に乏しい。すなわち、ペット前史である。この部分を論考するだけで、大掛かりな文化誌が展開されるであろう。導線だけ示すなら、古墳時代の飼い犬に、絶対にとは言わないが、室内犬は見られないのではないかというのが筆者の考えである。文化人類学のフィールドワークに、動物の擬人化を徹底的に嫌う文化を記すものがある。現代の“文明人”との違いが浮き彫りになるであろう。雄略天皇は、紫禁城に籠らされているのではなく、「走(わし)り出の よろしき山の 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の あやにうら麗(ぐは)し」(紀77歌謡)き朝倉宮に開放的に住んでいる。いつでも狩りに出張る態勢が整っており(雄略前紀安康三年十月条、雄略紀二年十月条、四年二月条・八月条、五年二月条)、「鮮(なます)」を作る「宍人部(ししひとべ)」を置くに及んでいる。
なお、人民のことを、古訓にオホミタカラとよんでいる。適用される用字は、民・百姓・黎元・民庶・衆庶・億兆・黔首・民萌・万民・居民・公民などと多い。味噌汁などをオミオツケ(御御御付け)というように、オホ(大)+ミ(御)+タカラの意であろうとされる。タカラは、喜田貞吉、松岡静雄、大野晋らの説に、タ(田)+カラ(族)であるという。語源というのはわからないから、“説”以上のものはない。漁民はオホミタカラではないのか、といった批判がありそうである。筆者は、上述のとおり、タカラ(寶)とはカヒ(貝)で表わされることだから、人民は大王にとってみればカヒ(甘・飼)の対象であると捉えている。使役家畜同然の存在であったという意味である。働いてもらう。構造的にそうなっているからどうしようもない。ヤマトコトバは認識するに、とても素直な言葉である。
(注12)白川1995.は、「旨」は「[甘と]声が合わず、また甘に従う字ではない。」(161頁)、「[説文は]附会の説である。」(86頁)とするが、当時の権威ある字書、説文を、太安万侶や日本書紀の編纂者は見て、それに従っていると考える。
(注13)和名抄の「河貝子」の説明は、「髪(かみ、ミは甲類)」が「上(かみ、ミは甲類)」に由来するかとされる有力な根拠である。本ブログ「十月(かむなづき)について」参照。カワニナが人で、ヤドカリは飼育動物であるとの比喩対比は、そのまま俗世の人と、剃髪した僧、尼僧との関係に当たるものと思われる。托鉢で食べている者への皮肉が込められている。確かに、寺にある瓦葺の塔は、ヤドカリに等価である。人々の住まいは、住むほどに黒ずんでふさふさした茅葺屋根である。
(引用文献)
内山2009. 内山幸子「狩猟犬から食肉犬へ」設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編『弥生時代の考古学5 食糧の獲得と生産』同成社、2009年。
時代別国語大辞典上代編 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
志田1972. 志田諄一「鳥取造」『古代氏族の性格と伝承』雄山閣、昭和47年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
瀧川1991. 瀧川政次郎「鳥甘部考(上)」『日本歴史』第272号、1971年1月。
トゥアン1988. イーフー・トゥアン、片岡しのぶ・金利光訳『愛と支配の博物誌』工作舎、1988年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
ローレンツ2009. コンラート・ローレンツ、小原秀雄訳『人イヌにあう』早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、2009年。