尾津の崎の一つ松
ヤマトタケルが東征からの帰還にあって、尾津前の一つ松のところで御刀を失わずにあった時に歌を歌っている。記紀で展開に相違があるほか、歌謡でも語句がわずかに異なっている。そして、順路以外にも、記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であるのに対して、紀では「是始有二痛身一。」とのみ訥弁であるとされている(注1)。話をいかに組み立てていくかという脚本上の違いである(注2)。
其処より発ちて当芸野の上に到りましし時、詔りたまはく、「吾が心、恒に虚より翔り行かむと念ふ。然れども、今吾が足、得歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。故、其地を号けて当芸と謂ふ。其地より差少し幸行すに、甚疲れませるに因りて御杖を衝きて稍歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂と謂ふ。尾津前の一つ松の許に到り坐して、先に御食せし時に、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。爾くして、御歌曰みしく、
尾張に 直に向へる 尾津前なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを(記29)
其地より幸して、三重村に到りし時、亦、詔りたまはく、「吾が足、三重に勾れるが如くして甚疲れたり」とのりたまふ。故、其地を号けて三重と謂ふ。(景行記)
日本武尊、是に始めて痛身有り。然して稍に起ちて、尾張に還ります。爰に宮簀媛が家に入らずして、便に伊勢に移りて、尾津に到りたまふ。昔に日本武尊、東に向でましし歳に、尾津の浜に停りて進食す。是の時に、一の剣を解きて、松の下に置きたまふ。遂に忘れて去でましき。今、此に至るに、是の剣猶存り。故、歌して曰はく、
尾張に 直に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣着せましを 大刀佩けましを(紀27)(景行紀四十年是歳)
刀剣類を置き忘れたとする筋立てにおいて、紀では東征に赴く途上にて忘れたことになっており、記では「先」とだけあっていつ忘れたかわからないことになっている。新編全集本古事記に、「「先さき」は原則として前の叙述を受ける。しかし、前に食事をしたことは述べられていない。この点で異例であり、疑問を残す。東国に赴く時にここを通って食事をした、その時に忘れた剣がそのままあったのだと受け取られる。」(232~233頁)と、紀の記述を引いた推測が行われている(注3)。考えられるのは、紀同様に東征前に置き忘れたとするケースのほか、帰路において尾津前の一つ松のところに到着後、「御食」にあたって佩いていたのを外してそれを忘れたという事情があげられよう。後者の考え方は、これまで採られたことはなかったようである。筆者は、記の話の組み立てでは紀とは異なり後者に依っていると考える。
すなわち、ここにある「先」は、以前に、の意の「さきに」ではなく、「まづ」と訓まれるべきと考える。
到二‐坐尾津前一松之許一、先御食之時、所レ忘二其地一御刀、不レ失猶有、爾御歌曰、……
尾津前の一つ松のもとに到着したら、何はともあれ、まずはじめに、食事をしたという意味である(注4)。
それは、ヲツノサキという地名がよく物語っている。前後の文に、当芸、杖衝坂、三重(注5)といった地名が、地名譚として展開されている。尾津前ばかり地名譚となっておらず、歌謡を伴った構成になっている(注6)。前後との整合性が問われなければならない。
ヤマトコトバにヲ(尾、緒、雄、嶺)とは伸び出すもののことを言う。ツ(津)は船の停泊場を言う。そのような名にあるヲツとは、海のなかに砂州が伸び出して鈎型に曲るなどして荒波を防いでくれるのにちょうどいいところの意であろうと推測される。ツ(津)という港湾が果たす役割には、漁船の停泊場、旅客船の停泊場、輸送船の停泊場の意が考えられる。ここで、わざわざヲツノサキと断ってある。記29歌謡中に「袁都能佐岐」とあって、尾津前(ノは乙類、キは甲類)であるとわかる。サキ(先、崎)は前方へ突き出している部分、先端のことをいうが、ヲツサキではなく、ヲツノサキと言っている。ノサキは、荷前(ノは乙類、キは甲類)に同音である。荷前とは、毎年諸国から献上される貢の初物のこと、また、初穂のことをいう。
東人の 荷前の箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも(万100)
諸陵司 正一人。陵の霊 謂ふこころは、十二月に荷前の幣を奉るは是也。 を祭り、喪葬、凶礼、諸陵及び陵戸の名籍の事を掌る。(令義解・職員令)
すなわち、ヲツノサキと聞けば、そこは調の絹織物や初穂などを運ぶための港湾であると理解される。となれば、新米が届いているのだから、何はさておき食事にしようよ、ということになるであろう。よって、古事記の「先」は東征前のことではなく、到着後、マヅと訓むのが正解なのである。記に地理的に順路が違うのではないかと不思議がられている箇所は、ふつうなら海路を通るところ、陸路を通って戻ったことを語ろうとしているためである(注7)。そして、前後のゆかりを示して地名譚とする手法とは逆に、地名を示して話を展開させる新手の地名譚となっている。
デルタ河口部の渡船状況
この考えが正しいことは、記29歌謡の文脈にも確かめられる。「尾張に 直に向へる 尾津前なる 一つ松 ……」とある。尾張の地と向き合っているのが尾津前である。伊勢湾を海上に交通していたことを物語っている。江戸時代の東海道五十三次と同じようなルートである。伊勢湾奥の庄内川、日光川、木曽川、長良川、揖斐川のデルタ地帯を避けるのに合理的であった。おそらく、三角州は後の時代ほどには進行しておらず、対岸であると感じられたということであろう。それが地名に反映されている。尾張とは、ヲ(緒)にハリ(針)をつけていると聞え、対して尾津が海上へ伸び出して鈎状に曲っているところとするなら、それも釣り針の形を思わせて同じくハリなのである(注8)。互いにヲ+ハリでありその番いの関係にあると感じられ、穿った見方となっている。
七里の渡し(Koshi2016様「佐屋路と周辺の主要街道。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/七里の渡し)
問題は、デルタ河口部分を船を進めるための航路を見極めることである。河上からは絶えず土砂が運ばれてきて堆積をくり返し遠浅な地形となっている。そんななか、河川の水流の延長線上に、ある程度深さを保って水が流れる道がある。それを水脈といい、大阪湾、伊勢湾、東京湾、有明海などの内湾奥部に多く見られる。その水脈を使って船を進めた。屈曲、分岐が多く、波や流れにより軟らかい堆積砂泥は形を変えるから注意を要する。きちんと確認しながら進めないと船は座礁したり転覆したりしかねない。そんなことになったら荷前の積み荷は台無しになってしまう。どこが比較的深くて船の航行に支障がなく、どこが浅くて座礁するかを示すために、水脈を確かめる船が先に偵察することになっていた。和名抄に、「水脈船 楊氏漢語抄に水脈船〈美乎比岐能布弥〉と云ふ。」とある(注9)。
そしてまた、水脈、水深の目印とするために水中に澪標を立て、水深の浅い河口港での航行に役立てた。ミヲ(水脈)+ツ(連体助詞)+クシ(串)の意である。
遠江 引佐細江の 澪標〔水乎都久思〕 吾を頼めて あさましものを(万3429)
澪標〔水咫衝石〕 心尽して 思へかも 此処にももとな 夢にし見ゆる(万3162)
凡そ難波津の頭の海中に澪標を立てよ。若し旧き標の朽ち折るること有らば、捜し求めて抜き去れ。(延喜式・雑式)
澪標(水咫衝石、安冶川口、秋里籬嶌著、竹原春朝斎画・摂津名所図会、大阪市立図書館デジタルアーカイブズhttp://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=17920010画像管理番号144248をトリミング結合)
「一つ松」は、ヤマトタケルが到着したときには「尾津前」に生えており、地上の立標的な役割を果たしていたのであろう。けれども、一般的な港湾のあり方と湾奥にある大河川のデルタでの港湾の目印とでは果たすべき役割が異なる。外海から場所を特定するために目印が必要なのではなく、浅瀬と水脈との区別にこそ目印は必要とされる。なにしろ、「尾張に 直に向へる」とはっきり対岸は見えている。記では、立標は役に立たないから陸路をたどって来ている。そして、足が疲れている。航路が確立していないから陸路を長々と歩いてきた。行っていたのは東国である。上代東国方言に徒歩のことをカシと言い、足を動かなくさせる刑具に「枷」がある。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ(万4417、防人歌)
鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、足加志、又加奈保太志(新撰字鏡)
ヤマトタケルに命じられているのは、「東方十二道」の平定である。この個所の航路も整備しておかなければ使命を全うしたことにならない。だから帰還のルートに前後するかのような形で尾津に立ち寄っている。
すなわち、水路標識にするために松の木を切り倒して海中の然るべき位置に澪標として立たせたのである。そうしておけば、今後、荷前の船が尾張と尾津前との間を行き来するのに好都合であり、ヲツノサキなる名がますますその名にふさわしいことになる。言葉と事柄とを一致させることに成功して、言霊信仰は成就していくことになる。言向け和平すことの完成である。それが東征の深意である。
記の話において、ヤマトタケルは尾津前の一つ松のところに「御食」した後、一つ松をミ(御)+ハカシ(佩)の意であるミハカシ(御刀)を使いながら切り倒してそれを澪標として設置した。しかる後切り倒したところへ戻ってみると、御刀はそこにそのままなくならずに存していた。そのことを言っている。そして、記29歌謡を歌っている。澪標に使われている松の木の柱は、航路を確保するために犠牲とされている。これが人であるなら人柱ということになる。人を斬るのと同じことだから御刀を使って伐ったということである。ミ(水)+ハ(端)+カシ(戕牁)の意に沿っていて、澪標の意味によく合致する。干潮時に川の流れの残るところは水脈として船の航行に適するが、露出する砂泥堆積部分は満潮時に水没しても浅すぎて船を進めることができない。だから、大潮の干潮時を見計らって澪標は立てられた。そういう港湾土木地形についての譚が歌に作られ、説話が成っている。顕彰される対象であり、大刀を佩かせ、衣を着させるにふさわしい。なにしろ、荷前の荷を運ぶために設けられている。調には絹製品があった。「衣着せましを」の「衣」は麻製ではなく絹製ということになる。
一つ松を人柱にする
この「御刀」、「大刀」は、諸注に「草那芸剣」とは別のものとされている。ヤマトタケルは東征に当り、倭比売命から授けられた「草那芸剣」以外に、天皇から「比々羅木の八尋矛」(注10)を賜っている。それであろう。「比々羅木の八尋矛」の実態は知られないが、ヒイラギ(柊)の葉のようなとげとげのある長矛のこととするなら、見た目はチェーンソーに似ている。電動するものではないが、鋸の役目を果たしそうに感じられる。ひいては、「尾津前の一つ松の許に到り坐して、……」とある個所も、「許」という訓み方ではまどろっこしい。松の木は刈り倒される。だから「許」と訓まれてふさわしい。「御食」は水脈(澪)と掛詞にし、強調して表している。
到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有。……
尾津前の一つ松許に到り坐して、先づ御食したまひし時、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。
ガリは、……の所へ、……のもとへ、の意である(注11)。
妹許と〔妹許登〕 吾が行く道の 川しあれば つくめ結ぶと 夜そ更けにける(万1546)
妹ら許〔妹等許〕 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ(万1795)
富士の嶺の いや遠長き 山道をも 妹許とへば〔伊母我理登倍婆〕 日に及ばず来ぬ(万3356)
古事記は、稗田阿礼の誦習していたものを太安万侶が筆記したものである。無文字時代の口頭言語は、文字時代の口頭言語以上に口頭言語的である。綴り織られていく口頭言語のテキストは、蜀江錦が表からも裏からもそれぞれの文様として浮かび上がっているように形を成している。尾津の崎に大きな松が一本生えていてそこでランチを楽しんでいるようにも、すでに航路標の戕牁として澪標とが機能しているようにも受け取ることができるのである。「御食したまひし」と敬語表現で読んだ時、ミヲ(水脈)+シタ(下)+マヒ(舞)+シ(過去)と聞くことができ、水脈が海面下で旋回運動するように流れているとわかる(注12)。水流によってマヒ(舞)が生ずると感じた表現は、紀に見える。仁徳紀十一年条の茨田堤の造成の件である。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨へて曰したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子 衫子、此には莒呂母能古と云ふ。二人を以て河伯を祭らば、必ず塞かるること獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓めて得つ。因りて河神を祷る。爰に強頸、泣ち悲びて、水に没りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏両箇を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投れて、請ひて曰はく、「河神、崇ぎて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風忽に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転ひつつ沈まず。則ち潝々に汎りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹に因りて、其の身亡ぼざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸の断間・衫子の断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
本稿も同様に考えられ、松の木は澪標にされて人柱に相当する。なにしろ、その澪標は荷前のためのものだったからである。荷前はその年の初物の貢物である。荷前の使とは、伊勢大神宮や陵墓へ荷前の幣を献上するための勅使のことである。尾津前は今の三重県桑名市に当たるとされており、伊勢国に属した。奉納する初荷であるのにもってこいの舞台設定である。人柱のように澪標になって命を絶たれた松の木にとってみれば、そこが陵墓にあたり葬られていると捉えられるのである(注13)。
「あせを」という語は、男性への呼びかけの語とも、また、囃し言葉とも解されている。仁徳紀の人柱伝説に同じく、人柱は男性と見立てられ、すてきな人よ、と呼び掛けているのでありつつ、また、かなり汗かく作業であったろうから、アセという語がふさわしいものとして使われているようである。
(注)
(注1)小野2019.170頁参照。
(注2)金澤2019.は、「このような歌にも『古事記』と『日本書紀』それぞれの叙述が語る「歴史」の意図が現れていると考えられる 。……それぞれの書物において、歌と散文をどうよむことをもとめているかという問題として問われる必要がある。」(4頁)としている。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「先とは、かの倭比売ノ命の御許を発して、東ノ国に趣キ坐スとて、此地に来坐シし時を云、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/152)などと見える。
(注4)記に、「先」をマヅと訓む例は多い。マツ(松)の話だからマヅと訓んで正しいと知れる。
(注5)記の地名配置は正しくなく、当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂→能煩野という順路が正しいとする説に対し、杖衝坂の比定は確かではないとする説(思想体系本古事記)や、物語の文脈として足の衰えを示す点で都合がよいとする説(新編全集本古事記)がある。
(注6)歌謡について、まことしやかな言説が通行している。例えば小野2019.には、「記29は死を眼前にした物語場面において倭建命の疲弊した姿を印象づける役割を担うとともに、倭建命の東征全体を通観した時に、歌によって倭建命と美夜受比売との恋物語を深め、奥行きを持たせる役割を有するものであった。」 (176頁)とある。また、藤原2014.では、この歌の解釈には従来、「①大刀を守った松への感謝や松褒めの歌とする説 ②尾張の美夜受比売への思慕の歌とする説」(1頁)があるが、「直接松に対する感謝や美夜受比売への思慕を語る表現は含まれていない」から再検討し、「倭建命が天皇として統治権を行使できる……東国で……「……一つ松」を臣下に見立てて授刀、賜衣を行いたいと歌うのである。これが二九番歌の『古事記』倭建命説話中で担う機能である。」(14頁)としている。これらの説は、批判する説も含めておよそナンセンスなこじつけである。古代の思考と相容れない。「役割」や「機能」を問うて歌意としたとして、歌を聞いている人にその場で即座に理解、納得されようはずがない。無文字時代の言語活動に発せられた口頭言葉は消えていくばかりで、問い返しされることはなく、後講釈など通用しない。無文字の時代、聞いてすとんと腑に落ちる言葉以外、語り継がれる話も歌もない。その場でわからなければ、覚えることも伝えることもできない。
(注7)紀では話の筋立てが異なり、ヤマトタケルは東征の行きも帰りもこの航路を通っており、東征に赴く時に「一剣」を忘れて行っている。尾津前(尾津浜)の場所の比定に関しては、「直に向へる」とあることしか記されていないので、大河の河口の反対側ということとしか定められない。
(注8)川の渡船では、ロープを両岸に渡してそれを引っ張って行き交う方法をとる場合がある。尾張と尾津前との間は、もちろん距離が離れており、実際にロープをかけ渡すようなことはないが、頻繁に行き来する人々の意識の上では緒を張っているに等しいと考えられていたことであろう。
(注9)万葉集に水脈に船を引き通すことを歌う例がある。
朝されば 妹が手に纏く 鏡なす 御津の浜びに 大船に 真楫繁貫き 韓国に 渡り行かむと 直向かふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈引き行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば ……(万3627)
堀江より 水脈引きしつつ 御船さす 賤男の伴は 川の瀬申せ(万4061)
…… 難波の宮は 聞し食す 四方の国より 奉る 御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝凪に 楫引き泝り 夕潮に 棹さし下り ……(万4360)
延喜式・雑式に、「凡そ大宰の雑の官物を貢する船、縁海の国に到らば、澪引して泊つる処を知らしめよ。」とあり、「縁海国」は瀬戸内海諸国をいう。大宰府からは大陸との交易品のほか、外蕃の使節も遣わされた。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按西鄙及外蕃船舶之至、恐不レ知二海之浅深一、或誤膠二浅処一、不レ得三到二泊涯岸一、使下知二水脈一者、乗二小舟一以引導上、謂二之澪引舟一也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/61、漢字の旧字体は改めた。)と説明されている。
(注10)「爾くして、天皇、亦、頻りに倭建命に詔はく、「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等を言向け和平せ」とのりたまひて、吉備臣等が祖、名は御鉏友耳建日子を副へて遣しし時、比々羅木の八尋矛を給ひき。」(景行記)とある。対応する紀の箇所には、「則ち天皇、斧鉞を持りて、日本武尊に授けて曰はく、……」(景行紀四十年七月)となっている。木材伐採が予め設定されていたようである。
(注11)思想大系本古事記に、ガリと訓んでいる。
(注12)拙稿「ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7965bbf1ceaaf989360cdecb8d9eab59参照。「御食之時」は、ミヲシセシトキ、ミヲシシタマヒシトキといった「御食」をミヲシという連用形名詞にしてさらにス(為)という動詞を加えて訓むことは誤りで、ミヲシタマヒシトキと訓むべきであることも述べた。
(注13)記29歌謡にある「尾津前なる」の一句が紀27歌謡にはない。説話との関係からあった方が結びつきが強いとも考えられている。記では東征からの復路にあって「一つ松」のところで食事をし、すぐにその松を伐採して澪標にしたという話だから「尾津前なる」と修飾している。紀では東征への往路の「歳」(景行紀四十年是歳だから同年であるが)に「尾津浜」で食事し、「是時、解二一剣一置二於松下一、遂忘而去。今至二於此一、是剣猶存。」となっている。「尾津浜」という言葉使いからは、音声言語伝達の観点からは直接に荷前のことは思い浮かばない。ハマ(浜)はここに海浜であり、塩浜(塩田)であるとすれば調味料としての塩が得られるとして食事をしようということになる。他には、囲碁で盤上から取り除かれた石をハマ(浜)と呼ぶ。黒白の胡麻塩が思い浮かぶが胡麻塩の歴史は不明である。また、桑名地方の時雨蛤が知られていたのかも不明である。いずれにせよ、「尾津浜」から想起される杭は澪標ではなく、船をつなぎとめる舫杭であろう。
紀には次のような例もある。
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、績麻郊に挽き至る時、其の船、夜中に故も無くして艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(斉明紀六年是歳)
新造した船が一夜のうちに舳艫を反転させ、くるりと回ったとする記事である。績麻郊は同じく伊勢湾内の伊勢市祓川河口付近と考えられている。干満の差が大きく、その3倍も干満差のある白村江に敗れる前兆として記されているようである。拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f0d6d7b1f0d734bc459b39e8358d80fcほか参照。当然、湾奥では船の航行に十分気をつけなければならないが、満潮時に七里程度を渡すのであれば水脈を気遣うほどではないとの認識により割愛されているのであろうか。
紀の行程では、胆吹山→居醒泉→尾張→尾津→能褒野へと順を追って進んでおり、記のように当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂といった徒歩での徘徊を示していない。水運の難について述べられていないのである。つまり、紀の「一つ松」は「浜」に生えたままになっている。「昔、日本武尊向レ東之歳、停二尾津浜一而進食。」とあって、そこに剣を忘れたままになっていたのも、今還ってきて松はそのままになっていたからで、伐られずにあったということであろう。東征に当って「尾津浜」で「進食」していたとするのは、河岸と同音にカシ(淅)という語があり、水につけてふやかすことを言った。名義抄に、「淅 相亦反、カス、ウルフ」とある。ここはカシ(河岸)でこの松の木はカシ(戕牁)なのだから、持参している糒、乾飯をカシ(淅)て食事をしようと思い立ち、後で返してもらうつもりでその松のところに剣をカシ(貸)ておいた、という意味である。松の木だけにマツ(待)ことが求められている。
「日本武尊、於レ是始有二痛身一、然稍起之、還二於尾張一。」という病気の状態で、船を使いながら最小限の労力で帰還を果たそうと進んでいる。紀27歌謡に続いてすぐ、「逮二于能褒野一、而痛甚之。」となり、蝦夷等の神宮への献上、天皇への奏上を伝えるために吉備武彦を派遣し、「既而崩二于能褒野一。時年三十。」と卒っている。記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であったが、もっぱら陸路を歩いて足が疲れたことばかり述べられている。尾張と尾津前との間の航路の難を話にしようとするための誘導としてありつつ、それはそれでおもしろくて楽しめる話である。成熟度として考えれば、口承ならではの巧みな話になっていると言える。
(引用・参考文献)
大脇2016. 大脇由紀子「伊勢と熱田─ヤマトタケルと関わって─」佐藤隆編著『東海の「道」から見た上代文学─東海・東山道を基軸に─』中京大学文化科学研究所、平成28年。
小野2019. 小野諒巳『倭建命物語論─古事記の抒情表現─』花鳥社、2019年。
金澤2019. 金澤和美「『日本書紀』の日本武尊「一つ松」歌と散文について」『昭和女子大学大学院日本文学紀要』第30集、2019年3月。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
藤原2014. 藤原享和「『古事記』二九番歌─大刀佩けましを 衣着せましを─考」 『同志社国文学』第81号、2014年11月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014301(『上代歌謡と儀礼の表現』和泉書院、2021年所収)
(English Summary)
The story of the conquest of Yamatö Takeru to the east has a short anecdote when he remained in WotunösakI (尾津前) on his way home. The course he took in Kojiki is different from that of Nihon Shoki, and there are delicate differences in each poem accompanied by. In this paper, we will focus on the treatment of a single pine tree (一つ松) in these poems. And we will understand the sea route sign in the water (澪標) made of the pine tree looked like a human pillar. Because the waterways (水脈) sounded the same as a meal (御食), Yamatö Takeru had a meal. In the delta that located in Twelve roads to the east (東方十二道), the sea route was perhaps discovered for the first time at the time.
※本稿は、2021年11月稿を2023年10月にルビ化したものである。
ヤマトタケルが東征からの帰還にあって、尾津前の一つ松のところで御刀を失わずにあった時に歌を歌っている。記紀で展開に相違があるほか、歌謡でも語句がわずかに異なっている。そして、順路以外にも、記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であるのに対して、紀では「是始有二痛身一。」とのみ訥弁であるとされている(注1)。話をいかに組み立てていくかという脚本上の違いである(注2)。
其処より発ちて当芸野の上に到りましし時、詔りたまはく、「吾が心、恒に虚より翔り行かむと念ふ。然れども、今吾が足、得歩まずてたぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。故、其地を号けて当芸と謂ふ。其地より差少し幸行すに、甚疲れませるに因りて御杖を衝きて稍歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂と謂ふ。尾津前の一つ松の許に到り坐して、先に御食せし時に、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。爾くして、御歌曰みしく、
尾張に 直に向へる 尾津前なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを(記29)
其地より幸して、三重村に到りし時、亦、詔りたまはく、「吾が足、三重に勾れるが如くして甚疲れたり」とのりたまふ。故、其地を号けて三重と謂ふ。(景行記)
日本武尊、是に始めて痛身有り。然して稍に起ちて、尾張に還ります。爰に宮簀媛が家に入らずして、便に伊勢に移りて、尾津に到りたまふ。昔に日本武尊、東に向でましし歳に、尾津の浜に停りて進食す。是の時に、一の剣を解きて、松の下に置きたまふ。遂に忘れて去でましき。今、此に至るに、是の剣猶存り。故、歌して曰はく、
尾張に 直に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣着せましを 大刀佩けましを(紀27)(景行紀四十年是歳)
刀剣類を置き忘れたとする筋立てにおいて、紀では東征に赴く途上にて忘れたことになっており、記では「先」とだけあっていつ忘れたかわからないことになっている。新編全集本古事記に、「「先さき」は原則として前の叙述を受ける。しかし、前に食事をしたことは述べられていない。この点で異例であり、疑問を残す。東国に赴く時にここを通って食事をした、その時に忘れた剣がそのままあったのだと受け取られる。」(232~233頁)と、紀の記述を引いた推測が行われている(注3)。考えられるのは、紀同様に東征前に置き忘れたとするケースのほか、帰路において尾津前の一つ松のところに到着後、「御食」にあたって佩いていたのを外してそれを忘れたという事情があげられよう。後者の考え方は、これまで採られたことはなかったようである。筆者は、記の話の組み立てでは紀とは異なり後者に依っていると考える。
すなわち、ここにある「先」は、以前に、の意の「さきに」ではなく、「まづ」と訓まれるべきと考える。
到二‐坐尾津前一松之許一、先御食之時、所レ忘二其地一御刀、不レ失猶有、爾御歌曰、……
尾津前の一つ松のもとに到着したら、何はともあれ、まずはじめに、食事をしたという意味である(注4)。
それは、ヲツノサキという地名がよく物語っている。前後の文に、当芸、杖衝坂、三重(注5)といった地名が、地名譚として展開されている。尾津前ばかり地名譚となっておらず、歌謡を伴った構成になっている(注6)。前後との整合性が問われなければならない。
ヤマトコトバにヲ(尾、緒、雄、嶺)とは伸び出すもののことを言う。ツ(津)は船の停泊場を言う。そのような名にあるヲツとは、海のなかに砂州が伸び出して鈎型に曲るなどして荒波を防いでくれるのにちょうどいいところの意であろうと推測される。ツ(津)という港湾が果たす役割には、漁船の停泊場、旅客船の停泊場、輸送船の停泊場の意が考えられる。ここで、わざわざヲツノサキと断ってある。記29歌謡中に「袁都能佐岐」とあって、尾津前(ノは乙類、キは甲類)であるとわかる。サキ(先、崎)は前方へ突き出している部分、先端のことをいうが、ヲツサキではなく、ヲツノサキと言っている。ノサキは、荷前(ノは乙類、キは甲類)に同音である。荷前とは、毎年諸国から献上される貢の初物のこと、また、初穂のことをいう。
東人の 荷前の箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも(万100)
諸陵司 正一人。陵の霊 謂ふこころは、十二月に荷前の幣を奉るは是也。 を祭り、喪葬、凶礼、諸陵及び陵戸の名籍の事を掌る。(令義解・職員令)
すなわち、ヲツノサキと聞けば、そこは調の絹織物や初穂などを運ぶための港湾であると理解される。となれば、新米が届いているのだから、何はさておき食事にしようよ、ということになるであろう。よって、古事記の「先」は東征前のことではなく、到着後、マヅと訓むのが正解なのである。記に地理的に順路が違うのではないかと不思議がられている箇所は、ふつうなら海路を通るところ、陸路を通って戻ったことを語ろうとしているためである(注7)。そして、前後のゆかりを示して地名譚とする手法とは逆に、地名を示して話を展開させる新手の地名譚となっている。
デルタ河口部の渡船状況
この考えが正しいことは、記29歌謡の文脈にも確かめられる。「尾張に 直に向へる 尾津前なる 一つ松 ……」とある。尾張の地と向き合っているのが尾津前である。伊勢湾を海上に交通していたことを物語っている。江戸時代の東海道五十三次と同じようなルートである。伊勢湾奥の庄内川、日光川、木曽川、長良川、揖斐川のデルタ地帯を避けるのに合理的であった。おそらく、三角州は後の時代ほどには進行しておらず、対岸であると感じられたということであろう。それが地名に反映されている。尾張とは、ヲ(緒)にハリ(針)をつけていると聞え、対して尾津が海上へ伸び出して鈎状に曲っているところとするなら、それも釣り針の形を思わせて同じくハリなのである(注8)。互いにヲ+ハリでありその番いの関係にあると感じられ、穿った見方となっている。
七里の渡し(Koshi2016様「佐屋路と周辺の主要街道。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/七里の渡し)
問題は、デルタ河口部分を船を進めるための航路を見極めることである。河上からは絶えず土砂が運ばれてきて堆積をくり返し遠浅な地形となっている。そんななか、河川の水流の延長線上に、ある程度深さを保って水が流れる道がある。それを水脈といい、大阪湾、伊勢湾、東京湾、有明海などの内湾奥部に多く見られる。その水脈を使って船を進めた。屈曲、分岐が多く、波や流れにより軟らかい堆積砂泥は形を変えるから注意を要する。きちんと確認しながら進めないと船は座礁したり転覆したりしかねない。そんなことになったら荷前の積み荷は台無しになってしまう。どこが比較的深くて船の航行に支障がなく、どこが浅くて座礁するかを示すために、水脈を確かめる船が先に偵察することになっていた。和名抄に、「水脈船 楊氏漢語抄に水脈船〈美乎比岐能布弥〉と云ふ。」とある(注9)。
そしてまた、水脈、水深の目印とするために水中に澪標を立て、水深の浅い河口港での航行に役立てた。ミヲ(水脈)+ツ(連体助詞)+クシ(串)の意である。
遠江 引佐細江の 澪標〔水乎都久思〕 吾を頼めて あさましものを(万3429)
澪標〔水咫衝石〕 心尽して 思へかも 此処にももとな 夢にし見ゆる(万3162)
凡そ難波津の頭の海中に澪標を立てよ。若し旧き標の朽ち折るること有らば、捜し求めて抜き去れ。(延喜式・雑式)
澪標(水咫衝石、安冶川口、秋里籬嶌著、竹原春朝斎画・摂津名所図会、大阪市立図書館デジタルアーカイブズhttp://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=17920010画像管理番号144248をトリミング結合)
「一つ松」は、ヤマトタケルが到着したときには「尾津前」に生えており、地上の立標的な役割を果たしていたのであろう。けれども、一般的な港湾のあり方と湾奥にある大河川のデルタでの港湾の目印とでは果たすべき役割が異なる。外海から場所を特定するために目印が必要なのではなく、浅瀬と水脈との区別にこそ目印は必要とされる。なにしろ、「尾張に 直に向へる」とはっきり対岸は見えている。記では、立標は役に立たないから陸路をたどって来ている。そして、足が疲れている。航路が確立していないから陸路を長々と歩いてきた。行っていたのは東国である。上代東国方言に徒歩のことをカシと言い、足を動かなくさせる刑具に「枷」がある。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ(万4417、防人歌)
鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、足加志、又加奈保太志(新撰字鏡)
ヤマトタケルに命じられているのは、「東方十二道」の平定である。この個所の航路も整備しておかなければ使命を全うしたことにならない。だから帰還のルートに前後するかのような形で尾津に立ち寄っている。
すなわち、水路標識にするために松の木を切り倒して海中の然るべき位置に澪標として立たせたのである。そうしておけば、今後、荷前の船が尾張と尾津前との間を行き来するのに好都合であり、ヲツノサキなる名がますますその名にふさわしいことになる。言葉と事柄とを一致させることに成功して、言霊信仰は成就していくことになる。言向け和平すことの完成である。それが東征の深意である。
記の話において、ヤマトタケルは尾津前の一つ松のところに「御食」した後、一つ松をミ(御)+ハカシ(佩)の意であるミハカシ(御刀)を使いながら切り倒してそれを澪標として設置した。しかる後切り倒したところへ戻ってみると、御刀はそこにそのままなくならずに存していた。そのことを言っている。そして、記29歌謡を歌っている。澪標に使われている松の木の柱は、航路を確保するために犠牲とされている。これが人であるなら人柱ということになる。人を斬るのと同じことだから御刀を使って伐ったということである。ミ(水)+ハ(端)+カシ(戕牁)の意に沿っていて、澪標の意味によく合致する。干潮時に川の流れの残るところは水脈として船の航行に適するが、露出する砂泥堆積部分は満潮時に水没しても浅すぎて船を進めることができない。だから、大潮の干潮時を見計らって澪標は立てられた。そういう港湾土木地形についての譚が歌に作られ、説話が成っている。顕彰される対象であり、大刀を佩かせ、衣を着させるにふさわしい。なにしろ、荷前の荷を運ぶために設けられている。調には絹製品があった。「衣着せましを」の「衣」は麻製ではなく絹製ということになる。
一つ松を人柱にする
この「御刀」、「大刀」は、諸注に「草那芸剣」とは別のものとされている。ヤマトタケルは東征に当り、倭比売命から授けられた「草那芸剣」以外に、天皇から「比々羅木の八尋矛」(注10)を賜っている。それであろう。「比々羅木の八尋矛」の実態は知られないが、ヒイラギ(柊)の葉のようなとげとげのある長矛のこととするなら、見た目はチェーンソーに似ている。電動するものではないが、鋸の役目を果たしそうに感じられる。ひいては、「尾津前の一つ松の許に到り坐して、……」とある個所も、「許」という訓み方ではまどろっこしい。松の木は刈り倒される。だから「許」と訓まれてふさわしい。「御食」は水脈(澪)と掛詞にし、強調して表している。
到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有。……
尾津前の一つ松許に到り坐して、先づ御食したまひし時、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。
ガリは、……の所へ、……のもとへ、の意である(注11)。
妹許と〔妹許登〕 吾が行く道の 川しあれば つくめ結ぶと 夜そ更けにける(万1546)
妹ら許〔妹等許〕 今木の嶺に 茂り立つ 嬬松の木は 古人見けむ(万1795)
富士の嶺の いや遠長き 山道をも 妹許とへば〔伊母我理登倍婆〕 日に及ばず来ぬ(万3356)
古事記は、稗田阿礼の誦習していたものを太安万侶が筆記したものである。無文字時代の口頭言語は、文字時代の口頭言語以上に口頭言語的である。綴り織られていく口頭言語のテキストは、蜀江錦が表からも裏からもそれぞれの文様として浮かび上がっているように形を成している。尾津の崎に大きな松が一本生えていてそこでランチを楽しんでいるようにも、すでに航路標の戕牁として澪標とが機能しているようにも受け取ることができるのである。「御食したまひし」と敬語表現で読んだ時、ミヲ(水脈)+シタ(下)+マヒ(舞)+シ(過去)と聞くことができ、水脈が海面下で旋回運動するように流れているとわかる(注12)。水流によってマヒ(舞)が生ずると感じた表現は、紀に見える。仁徳紀十一年条の茨田堤の造成の件である。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨へて曰したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子 衫子、此には莒呂母能古と云ふ。二人を以て河伯を祭らば、必ず塞かるること獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓めて得つ。因りて河神を祷る。爰に強頸、泣ち悲びて、水に没りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏両箇を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投れて、請ひて曰はく、「河神、崇ぎて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風忽に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転ひつつ沈まず。則ち潝々に汎りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹に因りて、其の身亡ぼざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸の断間・衫子の断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
本稿も同様に考えられ、松の木は澪標にされて人柱に相当する。なにしろ、その澪標は荷前のためのものだったからである。荷前はその年の初物の貢物である。荷前の使とは、伊勢大神宮や陵墓へ荷前の幣を献上するための勅使のことである。尾津前は今の三重県桑名市に当たるとされており、伊勢国に属した。奉納する初荷であるのにもってこいの舞台設定である。人柱のように澪標になって命を絶たれた松の木にとってみれば、そこが陵墓にあたり葬られていると捉えられるのである(注13)。
「あせを」という語は、男性への呼びかけの語とも、また、囃し言葉とも解されている。仁徳紀の人柱伝説に同じく、人柱は男性と見立てられ、すてきな人よ、と呼び掛けているのでありつつ、また、かなり汗かく作業であったろうから、アセという語がふさわしいものとして使われているようである。
(注)
(注1)小野2019.170頁参照。
(注2)金澤2019.は、「このような歌にも『古事記』と『日本書紀』それぞれの叙述が語る「歴史」の意図が現れていると考えられる 。……それぞれの書物において、歌と散文をどうよむことをもとめているかという問題として問われる必要がある。」(4頁)としている。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「先とは、かの倭比売ノ命の御許を発して、東ノ国に趣キ坐スとて、此地に来坐シし時を云、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/152)などと見える。
(注4)記に、「先」をマヅと訓む例は多い。マツ(松)の話だからマヅと訓んで正しいと知れる。
(注5)記の地名配置は正しくなく、当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂→能煩野という順路が正しいとする説に対し、杖衝坂の比定は確かではないとする説(思想体系本古事記)や、物語の文脈として足の衰えを示す点で都合がよいとする説(新編全集本古事記)がある。
(注6)歌謡について、まことしやかな言説が通行している。例えば小野2019.には、「記29は死を眼前にした物語場面において倭建命の疲弊した姿を印象づける役割を担うとともに、倭建命の東征全体を通観した時に、歌によって倭建命と美夜受比売との恋物語を深め、奥行きを持たせる役割を有するものであった。」 (176頁)とある。また、藤原2014.では、この歌の解釈には従来、「①大刀を守った松への感謝や松褒めの歌とする説 ②尾張の美夜受比売への思慕の歌とする説」(1頁)があるが、「直接松に対する感謝や美夜受比売への思慕を語る表現は含まれていない」から再検討し、「倭建命が天皇として統治権を行使できる……東国で……「……一つ松」を臣下に見立てて授刀、賜衣を行いたいと歌うのである。これが二九番歌の『古事記』倭建命説話中で担う機能である。」(14頁)としている。これらの説は、批判する説も含めておよそナンセンスなこじつけである。古代の思考と相容れない。「役割」や「機能」を問うて歌意としたとして、歌を聞いている人にその場で即座に理解、納得されようはずがない。無文字時代の言語活動に発せられた口頭言葉は消えていくばかりで、問い返しされることはなく、後講釈など通用しない。無文字の時代、聞いてすとんと腑に落ちる言葉以外、語り継がれる話も歌もない。その場でわからなければ、覚えることも伝えることもできない。
(注7)紀では話の筋立てが異なり、ヤマトタケルは東征の行きも帰りもこの航路を通っており、東征に赴く時に「一剣」を忘れて行っている。尾津前(尾津浜)の場所の比定に関しては、「直に向へる」とあることしか記されていないので、大河の河口の反対側ということとしか定められない。
(注8)川の渡船では、ロープを両岸に渡してそれを引っ張って行き交う方法をとる場合がある。尾張と尾津前との間は、もちろん距離が離れており、実際にロープをかけ渡すようなことはないが、頻繁に行き来する人々の意識の上では緒を張っているに等しいと考えられていたことであろう。
(注9)万葉集に水脈に船を引き通すことを歌う例がある。
朝されば 妹が手に纏く 鏡なす 御津の浜びに 大船に 真楫繁貫き 韓国に 渡り行かむと 直向かふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈引き行けば 沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば ……(万3627)
堀江より 水脈引きしつつ 御船さす 賤男の伴は 川の瀬申せ(万4061)
…… 難波の宮は 聞し食す 四方の国より 奉る 御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝凪に 楫引き泝り 夕潮に 棹さし下り ……(万4360)
延喜式・雑式に、「凡そ大宰の雑の官物を貢する船、縁海の国に到らば、澪引して泊つる処を知らしめよ。」とあり、「縁海国」は瀬戸内海諸国をいう。大宰府からは大陸との交易品のほか、外蕃の使節も遣わされた。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按西鄙及外蕃船舶之至、恐不レ知二海之浅深一、或誤膠二浅処一、不レ得三到二泊涯岸一、使下知二水脈一者、乗二小舟一以引導上、謂二之澪引舟一也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991786/61、漢字の旧字体は改めた。)と説明されている。
(注10)「爾くして、天皇、亦、頻りに倭建命に詔はく、「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等を言向け和平せ」とのりたまひて、吉備臣等が祖、名は御鉏友耳建日子を副へて遣しし時、比々羅木の八尋矛を給ひき。」(景行記)とある。対応する紀の箇所には、「則ち天皇、斧鉞を持りて、日本武尊に授けて曰はく、……」(景行紀四十年七月)となっている。木材伐採が予め設定されていたようである。
(注11)思想大系本古事記に、ガリと訓んでいる。
(注12)拙稿「ミヲシ(進食・御食)のこと─ミヲ(水脈、澪)との関連をめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7965bbf1ceaaf989360cdecb8d9eab59参照。「御食之時」は、ミヲシセシトキ、ミヲシシタマヒシトキといった「御食」をミヲシという連用形名詞にしてさらにス(為)という動詞を加えて訓むことは誤りで、ミヲシタマヒシトキと訓むべきであることも述べた。
(注13)記29歌謡にある「尾津前なる」の一句が紀27歌謡にはない。説話との関係からあった方が結びつきが強いとも考えられている。記では東征からの復路にあって「一つ松」のところで食事をし、すぐにその松を伐採して澪標にしたという話だから「尾津前なる」と修飾している。紀では東征への往路の「歳」(景行紀四十年是歳だから同年であるが)に「尾津浜」で食事し、「是時、解二一剣一置二於松下一、遂忘而去。今至二於此一、是剣猶存。」となっている。「尾津浜」という言葉使いからは、音声言語伝達の観点からは直接に荷前のことは思い浮かばない。ハマ(浜)はここに海浜であり、塩浜(塩田)であるとすれば調味料としての塩が得られるとして食事をしようということになる。他には、囲碁で盤上から取り除かれた石をハマ(浜)と呼ぶ。黒白の胡麻塩が思い浮かぶが胡麻塩の歴史は不明である。また、桑名地方の時雨蛤が知られていたのかも不明である。いずれにせよ、「尾津浜」から想起される杭は澪標ではなく、船をつなぎとめる舫杭であろう。
紀には次のような例もある。
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、績麻郊に挽き至る時、其の船、夜中に故も無くして艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(斉明紀六年是歳)
新造した船が一夜のうちに舳艫を反転させ、くるりと回ったとする記事である。績麻郊は同じく伊勢湾内の伊勢市祓川河口付近と考えられている。干満の差が大きく、その3倍も干満差のある白村江に敗れる前兆として記されているようである。拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f0d6d7b1f0d734bc459b39e8358d80fcほか参照。当然、湾奥では船の航行に十分気をつけなければならないが、満潮時に七里程度を渡すのであれば水脈を気遣うほどではないとの認識により割愛されているのであろうか。
紀の行程では、胆吹山→居醒泉→尾張→尾津→能褒野へと順を追って進んでおり、記のように当芸野→尾津前→三重村→杖衝坂といった徒歩での徘徊を示していない。水運の難について述べられていないのである。つまり、紀の「一つ松」は「浜」に生えたままになっている。「昔、日本武尊向レ東之歳、停二尾津浜一而進食。」とあって、そこに剣を忘れたままになっていたのも、今還ってきて松はそのままになっていたからで、伐られずにあったということであろう。東征に当って「尾津浜」で「進食」していたとするのは、河岸と同音にカシ(淅)という語があり、水につけてふやかすことを言った。名義抄に、「淅 相亦反、カス、ウルフ」とある。ここはカシ(河岸)でこの松の木はカシ(戕牁)なのだから、持参している糒、乾飯をカシ(淅)て食事をしようと思い立ち、後で返してもらうつもりでその松のところに剣をカシ(貸)ておいた、という意味である。松の木だけにマツ(待)ことが求められている。
「日本武尊、於レ是始有二痛身一、然稍起之、還二於尾張一。」という病気の状態で、船を使いながら最小限の労力で帰還を果たそうと進んでいる。紀27歌謡に続いてすぐ、「逮二于能褒野一、而痛甚之。」となり、蝦夷等の神宮への献上、天皇への奏上を伝えるために吉備武彦を派遣し、「既而崩二于能褒野一。時年三十。」と卒っている。記においてヤマトタケルの疲弊について雄弁であったが、もっぱら陸路を歩いて足が疲れたことばかり述べられている。尾張と尾津前との間の航路の難を話にしようとするための誘導としてありつつ、それはそれでおもしろくて楽しめる話である。成熟度として考えれば、口承ならではの巧みな話になっていると言える。
(引用・参考文献)
大脇2016. 大脇由紀子「伊勢と熱田─ヤマトタケルと関わって─」佐藤隆編著『東海の「道」から見た上代文学─東海・東山道を基軸に─』中京大学文化科学研究所、平成28年。
小野2019. 小野諒巳『倭建命物語論─古事記の抒情表現─』花鳥社、2019年。
金澤2019. 金澤和美「『日本書紀』の日本武尊「一つ松」歌と散文について」『昭和女子大学大学院日本文学紀要』第30集、2019年3月。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
藤原2014. 藤原享和「『古事記』二九番歌─大刀佩けましを 衣着せましを─考」 『同志社国文学』第81号、2014年11月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014301(『上代歌謡と儀礼の表現』和泉書院、2021年所収)
(English Summary)
The story of the conquest of Yamatö Takeru to the east has a short anecdote when he remained in WotunösakI (尾津前) on his way home. The course he took in Kojiki is different from that of Nihon Shoki, and there are delicate differences in each poem accompanied by. In this paper, we will focus on the treatment of a single pine tree (一つ松) in these poems. And we will understand the sea route sign in the water (澪標) made of the pine tree looked like a human pillar. Because the waterways (水脈) sounded the same as a meal (御食), Yamatö Takeru had a meal. In the delta that located in Twelve roads to the east (東方十二道), the sea route was perhaps discovered for the first time at the time.
※本稿は、2021年11月稿を2023年10月にルビ化したものである。