記紀にはカワラという名の地名譚が載る。カハラではない。
則ち精兵を率て、進みて那羅山に登りて軍す。時に官軍屯聚みて草木を蹢跙す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。蹢跙、此には布瀰那羅須と云ふ。更那羅山を避りて進みて輪韓河に到りて、埴安彦と河を挟みて屯みて、各相挑む。故、時人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。
埴安彦、望みて、彦国葺に問ひて曰はく、「何に由りて、汝は師を興して来るや」といふ。対へて曰はく、「汝、天に逆ひて無道し。王室を傾けたてまつらむとす。故、義兵を挙げて、汝が逆ふるを打たむとす。是、天皇の命なり」といふ。是に、各先に射ることを争ふ。武埴安彦、先づ彦国葺を射るに、中つること得ず。後に彦国葺、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。其の軍衆脅えて退ぐ。則ち追ひて河の北に破りつ。而して首を斬ること半に過ぎたり。屍骨多に溢れたり。故、其の処を号けて、羽振苑と曰ふ。亦、其の卒怖ぢ走げて、屎、褌より漏ちたり。乃ち甲を脱きて逃ぐ。得免るまじきことを知りて、叩頭みて曰はく、「我君」といふ。故、時人、其の甲を脱きし処を号けて伽和羅と曰ふ。褌より屎ちし処を屎褌と曰ふ。今、樟葉と謂ふは訛れるなり。又叩頭みし処を号けて我君と曰ふ。叩頭、此には迺務と云ふ。(崇神紀十年九月)
是に、河の辺に伏し隠りし兵、彼廂此廂、一時共に興りて、矢刺して流れき。故、詞和羅之前に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、詞和羅と鳴りき。故、其地を号けて詞和羅前と謂ふ。(応神記)
両者のカワラ譚は、地名としては別の場所であるとされている。日本書紀では仁徳前紀に「考羅済」とあり、木津川の話で山城国綴喜郡河原村というところ、古事記では宇治川の話なので宇治市の甲羅崎あたりに比定されている。西郷2005.に、「地理上のことは、あまり厳密に考えぬ方がいい。」(349頁)とするのが妥当である。無理に考えた時、歴史地理学に巨椋池がいかに捉えられるかという問題につながる。古代には、宇治川と木津川がともに流れ込んでいた可能性がある。そしてまた、地名は時に住民とともにも引っ越しもする(注1)。
ヤマトコトバの使い手にとって、地名譚は、すでに存在する地名、ここではカワラという言葉(音)に対して、どうしてそう呼ばれているのかについて一つの回答を示すものである。当然のことであるが、譚として人々の記憶に刻まれるのは、珍回答をもってしてのほうが好まれる。逸話のなかで地名を登場させているのは、その地名に対する珍回答をもって話に膨らみを持たせ、聞き手に興味を与えて覚えてもらう仕掛けとして機能した(注2)。それが許されるのは、地名の義は細かな詮索をする学者頭以外、名にすぎないと了解されていたからである。名とは何か。呼ばれるものである。それが名の本質である。人の名は呼ばれることによってあった。今の綽名に匹敵するものとしていて、それ以外にはなかった。なぜなら、特徴をもってして呼ばれれば、どこへ行っても自己紹介にそれを使えばそれで通じ、反対に呼ばれそうもない名を自ら名乗っても記憶されることはない。名が覚えられなければその人はそこにいないのに等しいのである。ヤマトコトバは、今日とは異なる言語世界を形作っていた(注3)。
崇神紀、埴安彦の反乱話のカワラ地名譚
単に地名譚だからといって、カワラという地名に名づけられているから「甲」はカワラと言っていたと決めてかかってはならない。本末転倒になる。逆は必ずしも真でないことは論理学的にも理解されよう。だが、新編全集本日本書紀には、「従来ヨロヒと訓まれてきたが、次の地名「伽和羅」との関連がつかないので『通証』の説によりカワラと訓む。「甲」をカワラといったので、この地名説話が成立。」(282頁)としている。谷川士清・日本書紀通證に、「今按古者甲用レ皮故称レ甲言二加和羅一。瓦亦同レ名。盖似二鱗甲一也。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020492/465?ln=ja、句点を付した)とあるのを支持している。大系本日本書紀では、「ここ[日本書紀]もカワラは擬音語で、甲を脱ぐときにカラカラという音がしたという意に解することもできる。甲を古くカワラといったと解する説もあるが、確証はない。」(291頁)と気弱な解説を載せている。ヨロヒ(甲)という言葉が一般的で、長らくヨロヒカブト(鎧兜)と呼び習わされており、別の言い方をするには及ばない。
「伽和羅」と、「瓦」や漢語音由来の「甲羅」という言葉とでは、微妙に音が異なる。そこで、類音の音遊びとする考え方もされている(注4)。鎧、甲羅、瓦は、それぞれが硬い鱗片でありつつ面として成ることで全体が強靭になり、中身を覆いかばうために用いられた。確かにそうではあるのだが、クソバカマ→クスバには「訛」と記されている。ところがこちらには「訛」とする注釈がない。勝手が違う。
紀についての大系本日本書紀の解説は真理をかすめていると思う。「甲を脱ぐときにカラカラという音がした」という点である。甲を着るときにはカラカラという音はしないのだろうかと問い返すことができる。筆者はしないと考える。実際に音がしないということではない。脱いだら中身はカラ(空)になるからカラカラと鳴るという洒落である。それがどうしてカワラに転ずるか言えば、脱いだ甲の胴体部分が立ち姿に立っていて、上から見れば○になっており、それを人はワ(輪)であると認識するからである。ハニワ(埴輪)と呼ばれて通じているのは、どのような形象に作ろうがハニ(埴)で作り、土に埋める台座部分はワ(輪)の形であり続けたからである。ここで、中がカラ(空)でカラ(殻)だけになってしまった「甲」がワ(輪)を成していれば、それはカワラな状態であると呼べる。ヨロヒという語は、ヨロフという動詞の連用形名詞である。脱いだからヨロフ対象を失う。なかにあるはずのものが人のカラダ(体)ではなくカラ(空)のものをヨロフことになっており、それはそれは不思議なものだという感慨が起こっている。アハ体験に悟ることができる。そんなところをカワラ(伽和羅)と呼ぶようになったとするのは尤もなことであると確かめられる。
木津川屈曲部、古戦旧跡地付近
木津川の「久世」の「空中写真(1945年~1950年)」(国土省国土地理院「地理院地図(電子国土web)」http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.68001,139.778066&z=16&base=std&ls=ort_USA10&vs=c0j0l0u0をトリミング)
「挑河」と名づけたのが訛って、今では「泉河」と言っている河川はもともと「輪韓河」と言っていた。現在の木津川のことであり、埴安彦の反乱譚に現れる。埴安彦という名からは、埴土のこと、埴輪のことが思い浮かぶ。だから、埴安彦が主役となって活躍して反乱が成功するかに見えた当初はワカラ河であった。輪が主役である(注5)。けれども、埴安彦の軍は河を下るように敗走を続け、甲を脱いで戦闘を放棄してしまった。そこは、カワラという地であると言っている。鎧をつけた武人埴輪が鎧を脱いだらどうなるか。何もなくなる。カラになる。カワラと呼んで当を得ている。河を下るにつれて形ある岩石が形を失い土砂となることに対照されて話が構成されている。
応神記、大山守命反乱話のカワラ地名譚
記の話(注6)では、鎧に鉤が引っかかってカワラと鳴ったとある。「擬声語。鎧に触れて触れて鳴った音。」(新編全集本古事記272頁)とするのが定説である。記の話に、「故、以レ鉤探二其沈処一者、繋二其衣中甲一而、訶和羅鳴。故、号二其地一謂二訶和羅前一也。」とある。カワラ(訶和羅)という音は、鉤と甲との接触音である。紀にあるように「其脱レ甲処」を「時人」が「号」けたという話ではない。甲単独に命名されているわけではないのである。つまり、記では鉤の方にカワラと鳴るべき要素が隠れていると考えられる。
「沈入」しているところは「訶和羅之前」である。「○○前」というサキという言葉は、川や海に対して洲が突き出しているような場所をいう。崎と書くこともあり、また、ミサキ(岬)という語に同じである。川の流れにある地形としては、川幅が狭くなっている場所に当たる。その分、水深は深い。だから沈み入っている。陸地が両側から迫っているところは、ミト(水門)、ミナト(水門、湊、港)と呼ばれる。トは門、戸の意である。だから鉤の話になっていてよくわかる。「故」という字を使って次々に文章をつないでいっているのはそのためである。
鉤はいわゆる「くるる鉤」である(注7)。その形にできている鉄製の引っ掛け棒を使っている。もとは鉤(key)であり、それは門戸の鍵(lock)を開けるためのものである。門戸は古代に開き戸であった。それが用を果すためには戸締りがきちんと行われることが求められる。鎖す(注8)ことは、すなわち、落とし桟を戸閾に開けた受け口に刺すことである。そしてもちろん、本体の戸自体破れにくいものである必要がある。強固な戸を鎧戸という。そんな戸のあり方は大陸から伝わった新技術である。戸ぼそが戸まらに収まってきれいに回転する。別名を唐戸という。本邦の竪穴住居では、戸は、板戸を立てかけたり、簀戸を下ろしたりしていたのであろう。「矢刺而流。……沈入。」とあるように刺しているというのは、鎖しているというのと同じことである。つまり、鎧戸に鍵がかかっていて解決策がなかなか見つからなかった。それを解決するにはくるる鉤が必要で、唐戸がくるる鉤によって鍵が外れて開くのと同じことになった。くるる鉤が使えるのは、その形状が湾曲して輪状になっているからである。そこがからくりである。唐戸の中ほどにある鍵穴へ輪状のくるる鉤を差し込んでいるから、カラの中にワが入ってカワラだと言っている。
くるる鉤と唐戸の落とし桟の構造(向日市文化資料館再現展示)
記の話は、くるる鉤を使うことに注目が行っている。その発想は、崇神記の三輪山伝説によく知られる。
此の意富多多泥古と謂ふ人を、神の子と知る所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿端正し。是に壮夫有り。其の形姿威儀、時に比無し。夜半の時に、儵忽に到来る。故、相感でて共婚ひして共住める間に、未だ幾時も経らねば、其の美人妊身みぬ。爾くして、父母其の妊身みし事を恠しびて、其の女に問ひて曰はく、「汝は自ら妊めり。夫無きに何の由にか妊身める」といふに、答へて曰はく、「麗美しき壮夫有り。其の姓名も知らず。夕毎に到来りて、供に住める間に、自然ら懐妊みぬ」といひき。
是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひて、其の女に誨へて曰はく、「赤土以て床前に散し、閇蘇の紡麻を針に貫き、其の衣の襴に刺せ」といひき。故、教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通り出で、唯遺れる麻は三勾のみなり。爾くして、即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸に従りて尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和と謂ふぞ。(崇神記)
壮夫が夜半に来訪している。戸の鍵を掛けているのに侵入して娘は身籠ってしまった。正体を知ろうと麻糸の糸巻きを用意し、壮夫の裾につけておいたら、鍵穴から糸は抜け出ていて残りは三輪ばかりであったというのである。変幻自在に動く蛇のこととされている。つまり、鍵を掛けて戸締りしているのにくるる鉤を使って戸を開けたのと同じことになっている。くるる鉤は湾曲していて力点と作用点が輪のこちらとあちらにあり、上手に操作することで使えるものであった。輪の話として一貫した話になっている。
(注)
(注1)高麗という地名は各地にある。高句麗からの渡来人の住処であったかと目されている。倭人に限っても、出雲という地名が京都市内に遺跡としてあったり、北広島市が広島県からの農業開拓団に由来するなど、古今東西、枚挙に暇がない。
(注2)ヤマトコトバにおいて、地名譚は譚のほうに主眼が置かれて楽しまれることが目指されている。アイヌ語では、例えばエサシ(江差、枝幸)は、ナヨロ方言でエ・サ・ウシ・イ、頭を前浜に着けている者の意とされ、山が海岸まで出てきている所すなわち岬のこと(知里真志保)という。それぞれの地名が生活者の知識を当てはめることで作られていたわけだが、記紀のなかでそのような地名起源を探究する向きは皆無である。ヤマトコトバに地名が当初、どのように名づけられたかは、○○山、○○川、○○江、○○崎といった基本的地形概念は認めながらも、固有名詞に当たる○○部分は忘れられたか、無視されたかしてしまって残らない。地名譚としてあらわれているものは、すでにある地名に対して譚としておもしろおかしくこじつけた話に作られ楽しまれている。イヅミガハ(泉河)が挑河に因んでいるという場合、生活者の情報としては、それはカハ(river)であるということは確かであるが、それ以上のことはもうどうでもよいことになっている。古戦場を流れているからという説明は聞いても仕方がない。その上流も下流もすべて挑河であって、どこで挑んだのか定まらない。地名譚に見える地名は、当該場所の情報を伝えることから切り離されている。ヤマトコトバが独自に文化的な爛熟を迎えたためであると筆者は評価している。言葉が言葉の論理のなかで独り歩きを始めている。ガラパゴス化していてわかりにくいのであるが、それぞれの言語にはそれぞれの特徴があるばかりでなく、論理学的な発達具合が異なっていると考える。ヤマトコトバは上代において、他言語に見られない稀有な性格を有していた。なぞなぞ的理解を目指して良しとし、一つの言葉は一つの義に収斂されることを求め、直接的ではなく頓智を働かせて巧みにこじつけていた。発している言葉(音)がその言葉(音)の他の用法からも確かめられるという自己定義的、循環論法的な正当性の証明に与ることを旨としていたのである。同音異義語から同一音同義性を導き出していた。他の民族において、このように智恵ある企てをした痕跡は今日までのところ見出せない。1300年前の我々の祖先らしい人々の思惟に敬意を抱きつつ、その道を推し進めたわけではなく別の道、文字併用文化へ我々は進んだ。これはもはや異文化であり、かなりの程度異民族であるとさえ言える。後の時代の日本語人が用いているのとはОSが違うから、記紀の話は今日の人、特にいわゆる知識人に理解されにくいものとなっている。
(注3)西洋哲学史に心身二元論が当たり前であるが、古代社会に人は、自由意志をもって存在できるものではなかった。
(注4)飯田武郷・日本書紀通釈に、「本より此方の言にて。和の波に転りたるにもやあらむ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933889/369、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注5)木津川は現在の木津川市において西流してきた流れを一気に北流に変える。非常に癖の強い曲り方をしており、「久世」(新撰字鏡)と呼ばれる地形であったと考えられる。くるる鉤の形状によく似ている。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注6)拙稿「大山守命の反乱譚の歌謡について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21ca4e1e1d9e7c06d1b09fe8af836106参照。
(注7)合田1998.参照。
(注8)岩波古語辞典に、「鎖し・扃し」は「戸刺しの意。平安時代にはトサシと清音」(936頁)とある。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
合田1998. 合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
※本稿は、2021年12月稿を2024年8月にルビ形式にしたものである。
(English Summary)
In this paper, we will consider the names of places “Kawara” described in Nihon Shoki and Kojiki.In ancient Japan, the names of places that existed a priori were reinterpreted and could be persuaded, remembered, and communicated. Because the name was just what was called among people who had no letters. It is the origin of the place name narrative. The more funny and interesting it was, the more it became established. At that time, Yamato Kotoba was self-sufficient with words alone, and had evolved into the most effective and logically complete form, an original cultural maturity.
則ち精兵を率て、進みて那羅山に登りて軍す。時に官軍屯聚みて草木を蹢跙す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。蹢跙、此には布瀰那羅須と云ふ。更那羅山を避りて進みて輪韓河に到りて、埴安彦と河を挟みて屯みて、各相挑む。故、時人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。
埴安彦、望みて、彦国葺に問ひて曰はく、「何に由りて、汝は師を興して来るや」といふ。対へて曰はく、「汝、天に逆ひて無道し。王室を傾けたてまつらむとす。故、義兵を挙げて、汝が逆ふるを打たむとす。是、天皇の命なり」といふ。是に、各先に射ることを争ふ。武埴安彦、先づ彦国葺を射るに、中つること得ず。後に彦国葺、埴安彦を射つ。胸に中てて殺しつ。其の軍衆脅えて退ぐ。則ち追ひて河の北に破りつ。而して首を斬ること半に過ぎたり。屍骨多に溢れたり。故、其の処を号けて、羽振苑と曰ふ。亦、其の卒怖ぢ走げて、屎、褌より漏ちたり。乃ち甲を脱きて逃ぐ。得免るまじきことを知りて、叩頭みて曰はく、「我君」といふ。故、時人、其の甲を脱きし処を号けて伽和羅と曰ふ。褌より屎ちし処を屎褌と曰ふ。今、樟葉と謂ふは訛れるなり。又叩頭みし処を号けて我君と曰ふ。叩頭、此には迺務と云ふ。(崇神紀十年九月)
是に、河の辺に伏し隠りし兵、彼廂此廂、一時共に興りて、矢刺して流れき。故、詞和羅之前に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、詞和羅と鳴りき。故、其地を号けて詞和羅前と謂ふ。(応神記)
両者のカワラ譚は、地名としては別の場所であるとされている。日本書紀では仁徳前紀に「考羅済」とあり、木津川の話で山城国綴喜郡河原村というところ、古事記では宇治川の話なので宇治市の甲羅崎あたりに比定されている。西郷2005.に、「地理上のことは、あまり厳密に考えぬ方がいい。」(349頁)とするのが妥当である。無理に考えた時、歴史地理学に巨椋池がいかに捉えられるかという問題につながる。古代には、宇治川と木津川がともに流れ込んでいた可能性がある。そしてまた、地名は時に住民とともにも引っ越しもする(注1)。
ヤマトコトバの使い手にとって、地名譚は、すでに存在する地名、ここではカワラという言葉(音)に対して、どうしてそう呼ばれているのかについて一つの回答を示すものである。当然のことであるが、譚として人々の記憶に刻まれるのは、珍回答をもってしてのほうが好まれる。逸話のなかで地名を登場させているのは、その地名に対する珍回答をもって話に膨らみを持たせ、聞き手に興味を与えて覚えてもらう仕掛けとして機能した(注2)。それが許されるのは、地名の義は細かな詮索をする学者頭以外、名にすぎないと了解されていたからである。名とは何か。呼ばれるものである。それが名の本質である。人の名は呼ばれることによってあった。今の綽名に匹敵するものとしていて、それ以外にはなかった。なぜなら、特徴をもってして呼ばれれば、どこへ行っても自己紹介にそれを使えばそれで通じ、反対に呼ばれそうもない名を自ら名乗っても記憶されることはない。名が覚えられなければその人はそこにいないのに等しいのである。ヤマトコトバは、今日とは異なる言語世界を形作っていた(注3)。
崇神紀、埴安彦の反乱話のカワラ地名譚
単に地名譚だからといって、カワラという地名に名づけられているから「甲」はカワラと言っていたと決めてかかってはならない。本末転倒になる。逆は必ずしも真でないことは論理学的にも理解されよう。だが、新編全集本日本書紀には、「従来ヨロヒと訓まれてきたが、次の地名「伽和羅」との関連がつかないので『通証』の説によりカワラと訓む。「甲」をカワラといったので、この地名説話が成立。」(282頁)としている。谷川士清・日本書紀通證に、「今按古者甲用レ皮故称レ甲言二加和羅一。瓦亦同レ名。盖似二鱗甲一也。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200020492/465?ln=ja、句点を付した)とあるのを支持している。大系本日本書紀では、「ここ[日本書紀]もカワラは擬音語で、甲を脱ぐときにカラカラという音がしたという意に解することもできる。甲を古くカワラといったと解する説もあるが、確証はない。」(291頁)と気弱な解説を載せている。ヨロヒ(甲)という言葉が一般的で、長らくヨロヒカブト(鎧兜)と呼び習わされており、別の言い方をするには及ばない。
「伽和羅」と、「瓦」や漢語音由来の「甲羅」という言葉とでは、微妙に音が異なる。そこで、類音の音遊びとする考え方もされている(注4)。鎧、甲羅、瓦は、それぞれが硬い鱗片でありつつ面として成ることで全体が強靭になり、中身を覆いかばうために用いられた。確かにそうではあるのだが、クソバカマ→クスバには「訛」と記されている。ところがこちらには「訛」とする注釈がない。勝手が違う。
紀についての大系本日本書紀の解説は真理をかすめていると思う。「甲を脱ぐときにカラカラという音がした」という点である。甲を着るときにはカラカラという音はしないのだろうかと問い返すことができる。筆者はしないと考える。実際に音がしないということではない。脱いだら中身はカラ(空)になるからカラカラと鳴るという洒落である。それがどうしてカワラに転ずるか言えば、脱いだ甲の胴体部分が立ち姿に立っていて、上から見れば○になっており、それを人はワ(輪)であると認識するからである。ハニワ(埴輪)と呼ばれて通じているのは、どのような形象に作ろうがハニ(埴)で作り、土に埋める台座部分はワ(輪)の形であり続けたからである。ここで、中がカラ(空)でカラ(殻)だけになってしまった「甲」がワ(輪)を成していれば、それはカワラな状態であると呼べる。ヨロヒという語は、ヨロフという動詞の連用形名詞である。脱いだからヨロフ対象を失う。なかにあるはずのものが人のカラダ(体)ではなくカラ(空)のものをヨロフことになっており、それはそれは不思議なものだという感慨が起こっている。アハ体験に悟ることができる。そんなところをカワラ(伽和羅)と呼ぶようになったとするのは尤もなことであると確かめられる。
木津川屈曲部、古戦旧跡地付近
木津川の「久世」の「空中写真(1945年~1950年)」(国土省国土地理院「地理院地図(電子国土web)」http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.68001,139.778066&z=16&base=std&ls=ort_USA10&vs=c0j0l0u0をトリミング)
「挑河」と名づけたのが訛って、今では「泉河」と言っている河川はもともと「輪韓河」と言っていた。現在の木津川のことであり、埴安彦の反乱譚に現れる。埴安彦という名からは、埴土のこと、埴輪のことが思い浮かぶ。だから、埴安彦が主役となって活躍して反乱が成功するかに見えた当初はワカラ河であった。輪が主役である(注5)。けれども、埴安彦の軍は河を下るように敗走を続け、甲を脱いで戦闘を放棄してしまった。そこは、カワラという地であると言っている。鎧をつけた武人埴輪が鎧を脱いだらどうなるか。何もなくなる。カラになる。カワラと呼んで当を得ている。河を下るにつれて形ある岩石が形を失い土砂となることに対照されて話が構成されている。
応神記、大山守命反乱話のカワラ地名譚
記の話(注6)では、鎧に鉤が引っかかってカワラと鳴ったとある。「擬声語。鎧に触れて触れて鳴った音。」(新編全集本古事記272頁)とするのが定説である。記の話に、「故、以レ鉤探二其沈処一者、繋二其衣中甲一而、訶和羅鳴。故、号二其地一謂二訶和羅前一也。」とある。カワラ(訶和羅)という音は、鉤と甲との接触音である。紀にあるように「其脱レ甲処」を「時人」が「号」けたという話ではない。甲単独に命名されているわけではないのである。つまり、記では鉤の方にカワラと鳴るべき要素が隠れていると考えられる。
「沈入」しているところは「訶和羅之前」である。「○○前」というサキという言葉は、川や海に対して洲が突き出しているような場所をいう。崎と書くこともあり、また、ミサキ(岬)という語に同じである。川の流れにある地形としては、川幅が狭くなっている場所に当たる。その分、水深は深い。だから沈み入っている。陸地が両側から迫っているところは、ミト(水門)、ミナト(水門、湊、港)と呼ばれる。トは門、戸の意である。だから鉤の話になっていてよくわかる。「故」という字を使って次々に文章をつないでいっているのはそのためである。
鉤はいわゆる「くるる鉤」である(注7)。その形にできている鉄製の引っ掛け棒を使っている。もとは鉤(key)であり、それは門戸の鍵(lock)を開けるためのものである。門戸は古代に開き戸であった。それが用を果すためには戸締りがきちんと行われることが求められる。鎖す(注8)ことは、すなわち、落とし桟を戸閾に開けた受け口に刺すことである。そしてもちろん、本体の戸自体破れにくいものである必要がある。強固な戸を鎧戸という。そんな戸のあり方は大陸から伝わった新技術である。戸ぼそが戸まらに収まってきれいに回転する。別名を唐戸という。本邦の竪穴住居では、戸は、板戸を立てかけたり、簀戸を下ろしたりしていたのであろう。「矢刺而流。……沈入。」とあるように刺しているというのは、鎖しているというのと同じことである。つまり、鎧戸に鍵がかかっていて解決策がなかなか見つからなかった。それを解決するにはくるる鉤が必要で、唐戸がくるる鉤によって鍵が外れて開くのと同じことになった。くるる鉤が使えるのは、その形状が湾曲して輪状になっているからである。そこがからくりである。唐戸の中ほどにある鍵穴へ輪状のくるる鉤を差し込んでいるから、カラの中にワが入ってカワラだと言っている。
くるる鉤と唐戸の落とし桟の構造(向日市文化資料館再現展示)
記の話は、くるる鉤を使うことに注目が行っている。その発想は、崇神記の三輪山伝説によく知られる。
此の意富多多泥古と謂ふ人を、神の子と知る所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿端正し。是に壮夫有り。其の形姿威儀、時に比無し。夜半の時に、儵忽に到来る。故、相感でて共婚ひして共住める間に、未だ幾時も経らねば、其の美人妊身みぬ。爾くして、父母其の妊身みし事を恠しびて、其の女に問ひて曰はく、「汝は自ら妊めり。夫無きに何の由にか妊身める」といふに、答へて曰はく、「麗美しき壮夫有り。其の姓名も知らず。夕毎に到来りて、供に住める間に、自然ら懐妊みぬ」といひき。
是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひて、其の女に誨へて曰はく、「赤土以て床前に散し、閇蘇の紡麻を針に貫き、其の衣の襴に刺せ」といひき。故、教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通り出で、唯遺れる麻は三勾のみなり。爾くして、即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸に従りて尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和と謂ふぞ。(崇神記)
壮夫が夜半に来訪している。戸の鍵を掛けているのに侵入して娘は身籠ってしまった。正体を知ろうと麻糸の糸巻きを用意し、壮夫の裾につけておいたら、鍵穴から糸は抜け出ていて残りは三輪ばかりであったというのである。変幻自在に動く蛇のこととされている。つまり、鍵を掛けて戸締りしているのにくるる鉤を使って戸を開けたのと同じことになっている。くるる鉤は湾曲していて力点と作用点が輪のこちらとあちらにあり、上手に操作することで使えるものであった。輪の話として一貫した話になっている。
(注)
(注1)高麗という地名は各地にある。高句麗からの渡来人の住処であったかと目されている。倭人に限っても、出雲という地名が京都市内に遺跡としてあったり、北広島市が広島県からの農業開拓団に由来するなど、古今東西、枚挙に暇がない。
(注2)ヤマトコトバにおいて、地名譚は譚のほうに主眼が置かれて楽しまれることが目指されている。アイヌ語では、例えばエサシ(江差、枝幸)は、ナヨロ方言でエ・サ・ウシ・イ、頭を前浜に着けている者の意とされ、山が海岸まで出てきている所すなわち岬のこと(知里真志保)という。それぞれの地名が生活者の知識を当てはめることで作られていたわけだが、記紀のなかでそのような地名起源を探究する向きは皆無である。ヤマトコトバに地名が当初、どのように名づけられたかは、○○山、○○川、○○江、○○崎といった基本的地形概念は認めながらも、固有名詞に当たる○○部分は忘れられたか、無視されたかしてしまって残らない。地名譚としてあらわれているものは、すでにある地名に対して譚としておもしろおかしくこじつけた話に作られ楽しまれている。イヅミガハ(泉河)が挑河に因んでいるという場合、生活者の情報としては、それはカハ(river)であるということは確かであるが、それ以上のことはもうどうでもよいことになっている。古戦場を流れているからという説明は聞いても仕方がない。その上流も下流もすべて挑河であって、どこで挑んだのか定まらない。地名譚に見える地名は、当該場所の情報を伝えることから切り離されている。ヤマトコトバが独自に文化的な爛熟を迎えたためであると筆者は評価している。言葉が言葉の論理のなかで独り歩きを始めている。ガラパゴス化していてわかりにくいのであるが、それぞれの言語にはそれぞれの特徴があるばかりでなく、論理学的な発達具合が異なっていると考える。ヤマトコトバは上代において、他言語に見られない稀有な性格を有していた。なぞなぞ的理解を目指して良しとし、一つの言葉は一つの義に収斂されることを求め、直接的ではなく頓智を働かせて巧みにこじつけていた。発している言葉(音)がその言葉(音)の他の用法からも確かめられるという自己定義的、循環論法的な正当性の証明に与ることを旨としていたのである。同音異義語から同一音同義性を導き出していた。他の民族において、このように智恵ある企てをした痕跡は今日までのところ見出せない。1300年前の我々の祖先らしい人々の思惟に敬意を抱きつつ、その道を推し進めたわけではなく別の道、文字併用文化へ我々は進んだ。これはもはや異文化であり、かなりの程度異民族であるとさえ言える。後の時代の日本語人が用いているのとはОSが違うから、記紀の話は今日の人、特にいわゆる知識人に理解されにくいものとなっている。
(注3)西洋哲学史に心身二元論が当たり前であるが、古代社会に人は、自由意志をもって存在できるものではなかった。
(注4)飯田武郷・日本書紀通釈に、「本より此方の言にて。和の波に転りたるにもやあらむ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933889/369、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注5)木津川は現在の木津川市において西流してきた流れを一気に北流に変える。非常に癖の強い曲り方をしており、「久世」(新撰字鏡)と呼ばれる地形であったと考えられる。くるる鉤の形状によく似ている。拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。
(注6)拙稿「大山守命の反乱譚の歌謡について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21ca4e1e1d9e7c06d1b09fe8af836106参照。
(注7)合田1998.参照。
(注8)岩波古語辞典に、「鎖し・扃し」は「戸刺しの意。平安時代にはトサシと清音」(936頁)とある。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
合田1998. 合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
※本稿は、2021年12月稿を2024年8月にルビ形式にしたものである。
(English Summary)
In this paper, we will consider the names of places “Kawara” described in Nihon Shoki and Kojiki.In ancient Japan, the names of places that existed a priori were reinterpreted and could be persuaded, remembered, and communicated. Because the name was just what was called among people who had no letters. It is the origin of the place name narrative. The more funny and interesting it was, the more it became established. At that time, Yamato Kotoba was self-sufficient with words alone, and had evolved into the most effective and logically complete form, an original cultural maturity.