はじめに
垂仁記の本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の言語障害解消の説話の後段、出雲への派遣の件において、従来の訓み方はおおむね次のとおりである。
是に、天皇(すめらみこと)患(うれ)へ賜ひて御寝(みね)しませる時、御夢(みいめ)に覚(さと)したまひて曰はく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくろ)へば、御子(みこ)必ず真事(まこと)とはむ」とのたまふ。如此(かく)覚したまふ時に、ふとまにに占相(うらな)ひて、何(いづ)れの神の心ぞと求むるに、爾(そ)の祟(たた)りは出雲大神(いづものおほかみ)の御心(みこころ)なりき。故(かれ)、其の御子を其の大神の宮を拝(をろが)ましめに遣さむとせし時、誰人(たれ)を副(そ)へしめばとするに、爾の曙立王(あけたつのみこ)、卜に食(あ)へり。故、曙立王に科(おほ)せて、うけひ白(まを)さしめしく、「此の大神を拝むに因りて誠に験(しるし)有らば、是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹(き)に住む鷺や、うけひ落ちよ」と如此(かく)詔(のりたま)ひし時、其の鷺、地(つち)に墮(お)ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活(い)け」とのりたまひき。爾(しか)すれば更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾くして、名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらあけたつのみこ)と謂ふ。即ち、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二はしらの王(みこ)を其の御子に副へて遣しし時、那良戸(ならと)より跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりも亦跛・盲に遇はむ。唯に木戸(きと)のみ是(これ)掖月(わきづき)の吉(よ)き戸ぞとトひて出で行く時、到り坐(ま)す地(ところ)毎(ごと)に品遅部(ほむちべ)を定めき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖(をは)りて還り上(のぼ)る時に、肥河(ひのかは)の中に黒き樔橋(すばし)を作り、仮宮を仕へ奉りて坐(いま)せき。(垂仁記)
本文校訂の誤りについて
本文校訂において、真福寺本を二か所改めて次のようにするものが多い。
於是天皇患賜而御寝之時覚于御夢曰修理我宮如天皇之御舎者御子必真事登波牟自登下三字以音如此覚時布斗摩邇邇占相而求何神之心爾祟出雲大神之御心故其御子令拝其大神宮将遣之時令副誰人者吉爾曙立王食ト
「崇」を「祟」、「令副誰人者」を「令副誰人者吉」としている。読んで意味が通じないと考えて間違いとしているが、筆者はそのままで通じると考える。
寝ているときに夢のお告げがあり、神さまが自分の宮を天皇の宮のように修理したら、必ず口が利けるようになるだろうと諭されている。しかし、それがどこの神さまの心なのかわからないから太占をしてみている。そして、出雲大神の御心なのだろうということになっている。占いをしてその結果という流れに見えるが、後半にあるように「食卜」などとは記されていない。むしろ、ああそうか、出雲大神の祭祀を疎かにしていたかもしれないと思い当たるところがあったということが「覚」という字の用い方であろう。自動詞と他動詞とが入り混じるところ、サトスとサトルが合致してはじめて「覚」という状況は出来する。弁舌豊かに説かれても、聞く方が理解しようという気になっていなければ、そこに「覚」という義は生れない。すなわち、「如此(かく)覚(さと)す時、ふとまにに占相(うら)へて何(いづ)れの神の心と求む。爾くして、出雲大神の御心を崇(かた)つ。」である。そんな「覚」の境地に至ったのには訳があろう。イヅレノカミ→イヅモノカミと、音から類推が働いている。
「崇」字には、紀の傍訓にカタツとあり、あがめる意の古語である。この箇所を「祟」字に改変することは、文脈的に少しおかしなことになる。「爾(そ)の祟(たた)りは出雲大神(いづものおほかみ)の御心(みこころ)なりき。」と訓まれているが、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくろ)へば、御子(みこ)必ず真事(まこと)とはむ」と夢のなかに言っている。話の順序として、タタリはその前の段階の、御子の言語の発達に遅滞が起きていたことである。解決策が提示されてから、「爾(そ)の祟(たた)りは……」と提題するのは話の蒸し返しである。話の蒸し返しが行われることは記紀の説話に数あるが、それはどういうことからそういうことになったかを縷々説明するものである。一言でまとめて「爾(そ)の祟(たた)りは……」と振り返ることは考えにくい(注1)。
「爾」字については、新校古事記に、「爾(しか)くして」と訓むことが推奨されている。「『古事記』ではソ・ソノ・ソレは「其」(まれに「彼」)で表される。「爾」は基本的にシカ・シカクシテを表すのに用いられ、当該例もシカクシテと訓んで問題ない。」(284頁)とある。
そうか、そうだ、ということで、出雲大神の御心を尊崇した。だから、御子をその地に赴かせて崇拝させようと考えている。「故」は原因・理由を説明する接続詞である。そして、派遣させるときに、誰を副使にしようかということになった。すると、曙立王が卜占にあった。「故(かれ)、其の御子をして其の大神宮を拝ましむ。将(まさ)に遣(つか)はす時、誰人(たれ)をば副(そ)へしめむとす。爾くして、曙立王、ト(うら)に食(あ)へり。」である。
新校古事記に、「諸写本にウラナフに相当する文字はない。改めて底[真福寺本]に「吉」がない点に着目すると、必ずしも卜占を前提として理解する必要はない文脈であることが知られる。結果的に随伴者がト占で選ばれるにしても、ここは単に本牟智和気御子に「誰人」かを随伴させようとしたことを述べるに過ぎない。よって底に従う。」(284頁)とあり、「誰人かを副へしめむとす。」(90~91頁)と訓んでいる。
高貴な人だから随行する人が必要なのではなく、大きくなって鬚が胸先まで伸びているとはいえ、口の利けない子を一人で遠方へ派遣するわけにはいかず、介護者として有資格者でないといけないので誰がふさわしいかが問題となっている。ただの随行者ではなく、「副」となることが必要条件であり、それにかなっている人として曙立王が卜占でふさわしいと確かめられているから、「将遣之時令副誰人者」と「者」と付いている。
最も信頼性が高くて古い写本の真福寺本で訓めてしまっているから、そのとおり訓むことが望ましい。
於是、天皇患賜而、御寝之時、覚二于御夢一曰、修二-理我宮一如二天皇之御舎一者、御子必真事登波牟。自登下三字以音。
如此覚時、布斗摩邇邇占相而、求二何神之心一。
爾、崇二出雲大神之御心一。
故、其御子令レ拝二其大神宮一。
将遣之時、令レ副二誰人者一。
爾、曙立王食レト。(注2)
「掖月」について
終盤に「掖月」という表記があり、脇息(わきづき)のことを指すであろうと考えられているが落ち着きがない。
即曙立王・菟上王二王、副二其御子一遣時、自二那良戸一、遇二跛盲一、自二大坂戸一、亦遇二跛盲一、唯木戸、是掖月之吉戸ト而、出行之時、毎二到坐地一定二品遅部一也。
物を言わない御子、本牟知和気御子(ほむちわけのみこ)の治療に、出雲大神を参拝させようという話である。曙立王(あけたつのみこ)と菟上王(うなかみのみこ)とを御子に副えて派遣している。その際、どこから行けば良いか占ってみると、那良戸(ならど)や大坂戸(おほさかと)を通ると、跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇ってしまってうまくなく、ただ木戸(きと)だけが良い戸であると出た。それで木戸、すなわち、紀国へ抜ける道を進み、休憩する場所ごとに品遅部(ほむちべ)という名代を設置していったという話になっている。
どの道を進んだらいいかという占いに、木戸が良いというとき、「是掖月之吉戸」と修飾されている。この「掖月(わきづき)の」については、「脇息(わきづき)の」の意で、肱をもたれさせて快いところから、「よき」にかかる枕詞であるとされている(注3)。それを「掖月」と書いている理由については未詳となっている(注4)。
占いの手法については記載がないからわからないが、那良戸や大坂戸を進むと足や目の不自由な人に遭遇するというので避けられている(注5)。本牟智和気御子の一行とはそぐわないから選ばれないのである。一方、木戸は「掖月之吉戸」ということで選ばれている。話としてそういうことになっている。話になにかからくりがあるらしい。そのからくりがわからなければ、この語はわかったことにならない。
「戸(と)」は、狭く抜ける通路のことを指している。奈良口の「那良戸(ならと)」や大坂口の「大坂戸(おほさかと)」は、それぞれ、土が均(なら)されたところだったり、大きな坂になっている狭隘な通路のことを言っていると理解されよう。実際の地形がそうであったかはともかく、地名を耳にしてそういう意味を表していると感じ取られるということである。そういう道では、杖(つゑ)をついて道を確かめながら、頼りにしながら歩く人がいておかしくない。足や目の不自由な人が歩を進める際にも杖をつく。だから跛や盲に遭遇するとしている。
対して、本牟智和気御子の一行は杖をついたりしない。不自由なのは発語で、歩行は不自由ではない。その点がそぐわない。本牟智和気御子には二人の王が副えられている。曙立王と菟上王である。二人が副えられているということは、両サイドから挟まれた態勢をとっているということである。両方の肱を二人の王に支えられて前へ前へと進んでいる。本牟智和気御子は脇息に肱を置いたのと同じ状態になっている。とても安定した体勢である。脇息のことは、「つくゑ」とも言った。和名抄に、「机〈牙脚附〉 唐韻に云はく、机〈音は几〉は案の属也といふ。史記に云はく、案を持ちて食を進むといふ〈案の音は按、都久恵(つくゑ)〉。唐式に云はく、行床牙脚〈今案ふるに牙脚は此の間に牙象脚也と云ふ〉といふ。」とある(注6)。
脇息(狩野養長模・一遍聖絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0062060.jpgをトリミング)
ここに、「那良戸」や「大坂戸」と「木戸」の対比が見て取れる。ツヱ(杖)とツクヱ(案・几・机)の違いである。本牟智和気御子が言語障害を治す行脚のためには、ツヱではなく、ツクヱが求められている。クが足りなければ困るということである。そのことはすでに話の展開のなかで示唆されている。ちょっと物を言うそぶりを見せたことがあった。
然、是御子、八拳鬚至二于心前一、真事登波受。此三字以レ音。故、今聞二高往鵠之音一、始為二阿芸登比一。自レ阿下四字以レ音。
鵠(くぐひ)は白鳥のことである。そして、ク+クヒ(首)の意ではないかと思わせる。語の成り立ちが実際にどのようなものであったかは不明である。それでも、特徴的な長い首を伸ばしたり曲げたりしながら、クークーと鳴いているように聞える。その鳴き方を見て、本牟智和気御子は真似して首と口を動かして片言を言うように見えることがあった。この子が言葉を発するためには、鵠のようにクという音が出せるかにかかっているのではないかと思われたらしいのである。となると、出雲への旅路にも、ツヱを突いて行くのではなく、クの音を含んだツクヱを脇挟む形で行くのが望ましいと考えられた。
そして、木戸は、狭隘な通り道が木でできているから、両側に脇息様に支えられながら進むことによくかなっている。脇息(わきづき)とは、脇に月の形が控えていることでもある。月の代わりに月のようになっている人が、本牟智和気御子を両脇から支えている。一人は曙立王(あけたつのみこ)、つまり、曙のときに見え始める月のことを示している。月が出ようとしているときに東の空が曙光に白み始めることを月白(つきしろ)という(注7)。もう一人は、菟上王(うなかみのみこ)、つまり、ウサギの髪の毛のようになっているところ、耳の出っ張りと見た羽角のある鳥、ミミズクのことをいう古語、「木菟(つく)」を表そうとしている。和名抄に、「木兎 爾雅注に云はく、木兎〈豆久(つく)〉は鴟に似て小さく、兎の頭の毛の角ありといふ。」とある(注8)。
コノハズク(ウィクショナリーhttps://ja.wiktionary.org/wiki/コノハズク)
ツクという語はツキ(月)の古形である。月は月でも満月ではなく、三日月や半月の形である。ちょうど脇息の形と同じである。両サイドに三日月や半月のカーブが並行してあれば、道なりに湾曲して進んでいくことにかなっているわけである。
木道(フリー写真素材フォトックhttps://www.photock.jp/detail/road/4757/をトリミング)
「唯木戸、是掖月之吉戸、ト而、出行之時、毎二到坐地一、定二品遅部一也。」とある「掖月(わきづき)」は、月白や木菟から三日月、半月形を思い起こさせ、両サイドに脇息(わきづき)が控え支えていることを言っており、枕詞ではないことが明らかとなった。そして、脇息のことをワキヅキと呼ぶ理由についても、もちろんこの箇所が語の源となっているわけではなかろうが、ヤマトコトバの語のあり方が確かめられる結果となっている。この話は、ヤマトコトバという言葉のネットワークによって、なるほどと納得できる話(咄・噺・譚)に仕上がっているから、深意のわかる古代の人に語り継がれていた。漫然とやみくもに作られたり、言葉以外の外部要因から構成されているものではない。
(注)
(注1)今日、「祟」に改変する注釈書、論考が多い。松本2011.に、「突発的に災厄をばらまきながら人前に示現」し、「人間に災害を起こし、その鎮静と引き換えに何かを要求してくる」(251頁)ことがパターンであるとしている。「祟」るのは神ならびにそれに準ずるものであるが、日本書紀に6例ある「祟」の例すべてで、現在の災難について語っている。本牟智和気御子の災難である言語障害は今に始まったことではない。
時皇后、傷下天皇不レ従二神教一而早崩上、以為、知二所レ祟之神一、欲レ求二財宝国一。(神功前紀仲哀九年二月)
……請之曰、河神祟之、以レ吾為レ幣。(仁徳紀十一年四月)
……葬二皇妃一。既而天皇、悔下之不レ治二神祟一、而亡中皇妃上、更求二其咎一。(履中紀五年十月)
然終日、以不レ獲二一獣一。於是、獵止以更卜矣。嶋神祟之曰、……(允恭紀十四年九月)
……蘇我大臣患疾。問二於卜者一。卜者対言、祟下於二父時一所祭仏神之心上也。(敏達紀十四年二月)
……卜二天皇病一、祟二草薙剣一。即日、送二置于尾張国熱田社一。(天武紀朱鳥元年六月)
(注2)拙稿「古事記、本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の説話について─啞をめぐって─」に従来の訓み方を踏襲したが、ここに訂正する。
(注3)田邊1957.に、「身辺の調度の一つである「わきづき」をとりあげて、それは肱をもたらせてこころよいものであるとの意味から、形容詞「よき」をひき出す枕詞として用ゐたものと考える」(370頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。中村2009.に、「月は肉月で肉の異体か。獣の脇腹の肉のよくついた意を「吉き」にかけているとも見られる。膂宍(そじし)の空国(神代紀下)の反対の言いかた。」(128頁)とする説もある。
(注4)山口2005.に、「〈脇息〉の意をもつワキヅキを「掖月」と表記したという考え方は、『古事記』の表記法全体から見て、成り立ちにくい。」(143頁)とある。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「首途に、跛盲の行遇ふを不吉とするは、跛は行くことあたはず、盲は、前途を見ることあたはざる者なれば、共に旅行に殊に忌嫌ふべければなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/70、漢字の旧字体は改めた。)以下、尾崎1966.389頁、古典集成本古事記151頁、西郷2005.329頁と踏襲されているが、捉え方として誤りである。
(注6)机は和名抄にツクヱであるが、「案」にツクエとする平安初期点(小川本願経四分律)が見え、大坪1958.112~114頁に、ツクエが古い形とする。筆者は、鯨(クヂラ・クジラ)のように揺れる例があり、同じく両方あったのではないかと考える。そして、記のこの箇所では、以下に述べる音韻の洒落のためにツクヱと捉えていると考える。
(注7)実例としては中古にまでしか遡ることができない。「いでぬまの 月しろに見む あまつぼし 有明までの 雲隠れする」(大斎院御集・131)と見える。
(注8)紀にも活写されている。「初め天皇生(あ)れます日に、木菟(つく)、産殿に入(とびい)れり。明旦(くつるあした)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣武内宿禰を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣、対へて言さく「吉祥(よきさが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)、産屋に入れり。是、亦異(あや)し」とまをす。爰(ここ)に、天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日(おなじひ)に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表(しるし)なり。以為(おも)ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子(みこ)に名けて、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に号けて、木菟宿禰(つくのすくね)と曰へり。是、平群臣が始祖(はじめのおや)なり。」(仁徳紀元年正月)
(引用・参考文献)
大坪1958. 大坪併治「小川本願経四分律古點」『訓点語と訓点資料』第九輯、昭和33年。国会図書館デジタルコレクションinfo:ndljp/pid/10387517
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
古典集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
田邊1957. 田邊正男「訓詁篇(中・下巻)」『古事記大成3─言語文字篇─』平凡社、昭和32年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版古事記 現代語訳』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
(English Summary)
In the text of Emperor Suinin in Kojiki, which dispatches 本牟智和気御子 to Izumo, we have some parts that couldn't be read accurately. In this paper, we will reconsider the traditional collated text, confirm that "爾" is a conjunction, and also examine the meaning of the word "掖月". By reading it correctly, we will be able to deeply understand the contents of the story. As a result, we will approach the essence of Ancient Japanese, Yamato kotoba, that is, how it was used.
垂仁記の本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の言語障害解消の説話の後段、出雲への派遣の件において、従来の訓み方はおおむね次のとおりである。
是に、天皇(すめらみこと)患(うれ)へ賜ひて御寝(みね)しませる時、御夢(みいめ)に覚(さと)したまひて曰はく、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくろ)へば、御子(みこ)必ず真事(まこと)とはむ」とのたまふ。如此(かく)覚したまふ時に、ふとまにに占相(うらな)ひて、何(いづ)れの神の心ぞと求むるに、爾(そ)の祟(たた)りは出雲大神(いづものおほかみ)の御心(みこころ)なりき。故(かれ)、其の御子を其の大神の宮を拝(をろが)ましめに遣さむとせし時、誰人(たれ)を副(そ)へしめばとするに、爾の曙立王(あけたつのみこ)、卜に食(あ)へり。故、曙立王に科(おほ)せて、うけひ白(まを)さしめしく、「此の大神を拝むに因りて誠に験(しるし)有らば、是の鷺巣池(さぎすのいけ)の樹(き)に住む鷺や、うけひ落ちよ」と如此(かく)詔(のりたま)ひし時、其の鷺、地(つち)に墮(お)ちて死にき。又、詔ひしく、「うけひ活(い)け」とのりたまひき。爾(しか)すれば更に活きぬ。又、甜白檮之前(あまかしのさき)に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)をうけひ枯れしめ、亦、うけひ生かしめき。爾くして、名を其の曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらあけたつのみこ)と謂ふ。即ち、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二はしらの王(みこ)を其の御子に副へて遣しし時、那良戸(ならと)より跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりも亦跛・盲に遇はむ。唯に木戸(きと)のみ是(これ)掖月(わきづき)の吉(よ)き戸ぞとトひて出で行く時、到り坐(ま)す地(ところ)毎(ごと)に品遅部(ほむちべ)を定めき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖(をは)りて還り上(のぼ)る時に、肥河(ひのかは)の中に黒き樔橋(すばし)を作り、仮宮を仕へ奉りて坐(いま)せき。(垂仁記)
本文校訂の誤りについて
本文校訂において、真福寺本を二か所改めて次のようにするものが多い。
於是天皇患賜而御寝之時覚于御夢曰修理我宮如天皇之御舎者御子必真事登波牟自登下三字以音如此覚時布斗摩邇邇占相而求何神之心爾祟出雲大神之御心故其御子令拝其大神宮将遣之時令副誰人者吉爾曙立王食ト
「崇」を「祟」、「令副誰人者」を「令副誰人者吉」としている。読んで意味が通じないと考えて間違いとしているが、筆者はそのままで通じると考える。
寝ているときに夢のお告げがあり、神さまが自分の宮を天皇の宮のように修理したら、必ず口が利けるようになるだろうと諭されている。しかし、それがどこの神さまの心なのかわからないから太占をしてみている。そして、出雲大神の御心なのだろうということになっている。占いをしてその結果という流れに見えるが、後半にあるように「食卜」などとは記されていない。むしろ、ああそうか、出雲大神の祭祀を疎かにしていたかもしれないと思い当たるところがあったということが「覚」という字の用い方であろう。自動詞と他動詞とが入り混じるところ、サトスとサトルが合致してはじめて「覚」という状況は出来する。弁舌豊かに説かれても、聞く方が理解しようという気になっていなければ、そこに「覚」という義は生れない。すなわち、「如此(かく)覚(さと)す時、ふとまにに占相(うら)へて何(いづ)れの神の心と求む。爾くして、出雲大神の御心を崇(かた)つ。」である。そんな「覚」の境地に至ったのには訳があろう。イヅレノカミ→イヅモノカミと、音から類推が働いている。
「崇」字には、紀の傍訓にカタツとあり、あがめる意の古語である。この箇所を「祟」字に改変することは、文脈的に少しおかしなことになる。「爾(そ)の祟(たた)りは出雲大神(いづものおほかみ)の御心(みこころ)なりき。」と訓まれているが、「我が宮を天皇の御舎(みあらか)の如(ごと)修理(つくろ)へば、御子(みこ)必ず真事(まこと)とはむ」と夢のなかに言っている。話の順序として、タタリはその前の段階の、御子の言語の発達に遅滞が起きていたことである。解決策が提示されてから、「爾(そ)の祟(たた)りは……」と提題するのは話の蒸し返しである。話の蒸し返しが行われることは記紀の説話に数あるが、それはどういうことからそういうことになったかを縷々説明するものである。一言でまとめて「爾(そ)の祟(たた)りは……」と振り返ることは考えにくい(注1)。
「爾」字については、新校古事記に、「爾(しか)くして」と訓むことが推奨されている。「『古事記』ではソ・ソノ・ソレは「其」(まれに「彼」)で表される。「爾」は基本的にシカ・シカクシテを表すのに用いられ、当該例もシカクシテと訓んで問題ない。」(284頁)とある。
そうか、そうだ、ということで、出雲大神の御心を尊崇した。だから、御子をその地に赴かせて崇拝させようと考えている。「故」は原因・理由を説明する接続詞である。そして、派遣させるときに、誰を副使にしようかということになった。すると、曙立王が卜占にあった。「故(かれ)、其の御子をして其の大神宮を拝ましむ。将(まさ)に遣(つか)はす時、誰人(たれ)をば副(そ)へしめむとす。爾くして、曙立王、ト(うら)に食(あ)へり。」である。
新校古事記に、「諸写本にウラナフに相当する文字はない。改めて底[真福寺本]に「吉」がない点に着目すると、必ずしも卜占を前提として理解する必要はない文脈であることが知られる。結果的に随伴者がト占で選ばれるにしても、ここは単に本牟智和気御子に「誰人」かを随伴させようとしたことを述べるに過ぎない。よって底に従う。」(284頁)とあり、「誰人かを副へしめむとす。」(90~91頁)と訓んでいる。
高貴な人だから随行する人が必要なのではなく、大きくなって鬚が胸先まで伸びているとはいえ、口の利けない子を一人で遠方へ派遣するわけにはいかず、介護者として有資格者でないといけないので誰がふさわしいかが問題となっている。ただの随行者ではなく、「副」となることが必要条件であり、それにかなっている人として曙立王が卜占でふさわしいと確かめられているから、「将遣之時令副誰人者」と「者」と付いている。
最も信頼性が高くて古い写本の真福寺本で訓めてしまっているから、そのとおり訓むことが望ましい。
於是、天皇患賜而、御寝之時、覚二于御夢一曰、修二-理我宮一如二天皇之御舎一者、御子必真事登波牟。自登下三字以音。
如此覚時、布斗摩邇邇占相而、求二何神之心一。
爾、崇二出雲大神之御心一。
故、其御子令レ拝二其大神宮一。
将遣之時、令レ副二誰人者一。
爾、曙立王食レト。(注2)
「掖月」について
終盤に「掖月」という表記があり、脇息(わきづき)のことを指すであろうと考えられているが落ち着きがない。
即曙立王・菟上王二王、副二其御子一遣時、自二那良戸一、遇二跛盲一、自二大坂戸一、亦遇二跛盲一、唯木戸、是掖月之吉戸ト而、出行之時、毎二到坐地一定二品遅部一也。
物を言わない御子、本牟知和気御子(ほむちわけのみこ)の治療に、出雲大神を参拝させようという話である。曙立王(あけたつのみこ)と菟上王(うなかみのみこ)とを御子に副えて派遣している。その際、どこから行けば良いか占ってみると、那良戸(ならど)や大坂戸(おほさかと)を通ると、跛(あしなへ)・盲(めしひ)に遇ってしまってうまくなく、ただ木戸(きと)だけが良い戸であると出た。それで木戸、すなわち、紀国へ抜ける道を進み、休憩する場所ごとに品遅部(ほむちべ)という名代を設置していったという話になっている。
どの道を進んだらいいかという占いに、木戸が良いというとき、「是掖月之吉戸」と修飾されている。この「掖月(わきづき)の」については、「脇息(わきづき)の」の意で、肱をもたれさせて快いところから、「よき」にかかる枕詞であるとされている(注3)。それを「掖月」と書いている理由については未詳となっている(注4)。
占いの手法については記載がないからわからないが、那良戸や大坂戸を進むと足や目の不自由な人に遭遇するというので避けられている(注5)。本牟智和気御子の一行とはそぐわないから選ばれないのである。一方、木戸は「掖月之吉戸」ということで選ばれている。話としてそういうことになっている。話になにかからくりがあるらしい。そのからくりがわからなければ、この語はわかったことにならない。
「戸(と)」は、狭く抜ける通路のことを指している。奈良口の「那良戸(ならと)」や大坂口の「大坂戸(おほさかと)」は、それぞれ、土が均(なら)されたところだったり、大きな坂になっている狭隘な通路のことを言っていると理解されよう。実際の地形がそうであったかはともかく、地名を耳にしてそういう意味を表していると感じ取られるということである。そういう道では、杖(つゑ)をついて道を確かめながら、頼りにしながら歩く人がいておかしくない。足や目の不自由な人が歩を進める際にも杖をつく。だから跛や盲に遭遇するとしている。
対して、本牟智和気御子の一行は杖をついたりしない。不自由なのは発語で、歩行は不自由ではない。その点がそぐわない。本牟智和気御子には二人の王が副えられている。曙立王と菟上王である。二人が副えられているということは、両サイドから挟まれた態勢をとっているということである。両方の肱を二人の王に支えられて前へ前へと進んでいる。本牟智和気御子は脇息に肱を置いたのと同じ状態になっている。とても安定した体勢である。脇息のことは、「つくゑ」とも言った。和名抄に、「机〈牙脚附〉 唐韻に云はく、机〈音は几〉は案の属也といふ。史記に云はく、案を持ちて食を進むといふ〈案の音は按、都久恵(つくゑ)〉。唐式に云はく、行床牙脚〈今案ふるに牙脚は此の間に牙象脚也と云ふ〉といふ。」とある(注6)。
脇息(狩野養長模・一遍聖絵模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0062060.jpgをトリミング)
ここに、「那良戸」や「大坂戸」と「木戸」の対比が見て取れる。ツヱ(杖)とツクヱ(案・几・机)の違いである。本牟智和気御子が言語障害を治す行脚のためには、ツヱではなく、ツクヱが求められている。クが足りなければ困るということである。そのことはすでに話の展開のなかで示唆されている。ちょっと物を言うそぶりを見せたことがあった。
然、是御子、八拳鬚至二于心前一、真事登波受。此三字以レ音。故、今聞二高往鵠之音一、始為二阿芸登比一。自レ阿下四字以レ音。
鵠(くぐひ)は白鳥のことである。そして、ク+クヒ(首)の意ではないかと思わせる。語の成り立ちが実際にどのようなものであったかは不明である。それでも、特徴的な長い首を伸ばしたり曲げたりしながら、クークーと鳴いているように聞える。その鳴き方を見て、本牟智和気御子は真似して首と口を動かして片言を言うように見えることがあった。この子が言葉を発するためには、鵠のようにクという音が出せるかにかかっているのではないかと思われたらしいのである。となると、出雲への旅路にも、ツヱを突いて行くのではなく、クの音を含んだツクヱを脇挟む形で行くのが望ましいと考えられた。
そして、木戸は、狭隘な通り道が木でできているから、両側に脇息様に支えられながら進むことによくかなっている。脇息(わきづき)とは、脇に月の形が控えていることでもある。月の代わりに月のようになっている人が、本牟智和気御子を両脇から支えている。一人は曙立王(あけたつのみこ)、つまり、曙のときに見え始める月のことを示している。月が出ようとしているときに東の空が曙光に白み始めることを月白(つきしろ)という(注7)。もう一人は、菟上王(うなかみのみこ)、つまり、ウサギの髪の毛のようになっているところ、耳の出っ張りと見た羽角のある鳥、ミミズクのことをいう古語、「木菟(つく)」を表そうとしている。和名抄に、「木兎 爾雅注に云はく、木兎〈豆久(つく)〉は鴟に似て小さく、兎の頭の毛の角ありといふ。」とある(注8)。
コノハズク(ウィクショナリーhttps://ja.wiktionary.org/wiki/コノハズク)
ツクという語はツキ(月)の古形である。月は月でも満月ではなく、三日月や半月の形である。ちょうど脇息の形と同じである。両サイドに三日月や半月のカーブが並行してあれば、道なりに湾曲して進んでいくことにかなっているわけである。
木道(フリー写真素材フォトックhttps://www.photock.jp/detail/road/4757/をトリミング)
「唯木戸、是掖月之吉戸、ト而、出行之時、毎二到坐地一、定二品遅部一也。」とある「掖月(わきづき)」は、月白や木菟から三日月、半月形を思い起こさせ、両サイドに脇息(わきづき)が控え支えていることを言っており、枕詞ではないことが明らかとなった。そして、脇息のことをワキヅキと呼ぶ理由についても、もちろんこの箇所が語の源となっているわけではなかろうが、ヤマトコトバの語のあり方が確かめられる結果となっている。この話は、ヤマトコトバという言葉のネットワークによって、なるほどと納得できる話(咄・噺・譚)に仕上がっているから、深意のわかる古代の人に語り継がれていた。漫然とやみくもに作られたり、言葉以外の外部要因から構成されているものではない。
(注)
(注1)今日、「祟」に改変する注釈書、論考が多い。松本2011.に、「突発的に災厄をばらまきながら人前に示現」し、「人間に災害を起こし、その鎮静と引き換えに何かを要求してくる」(251頁)ことがパターンであるとしている。「祟」るのは神ならびにそれに準ずるものであるが、日本書紀に6例ある「祟」の例すべてで、現在の災難について語っている。本牟智和気御子の災難である言語障害は今に始まったことではない。
時皇后、傷下天皇不レ従二神教一而早崩上、以為、知二所レ祟之神一、欲レ求二財宝国一。(神功前紀仲哀九年二月)
……請之曰、河神祟之、以レ吾為レ幣。(仁徳紀十一年四月)
……葬二皇妃一。既而天皇、悔下之不レ治二神祟一、而亡中皇妃上、更求二其咎一。(履中紀五年十月)
然終日、以不レ獲二一獣一。於是、獵止以更卜矣。嶋神祟之曰、……(允恭紀十四年九月)
……蘇我大臣患疾。問二於卜者一。卜者対言、祟下於二父時一所祭仏神之心上也。(敏達紀十四年二月)
……卜二天皇病一、祟二草薙剣一。即日、送二置于尾張国熱田社一。(天武紀朱鳥元年六月)
(注2)拙稿「古事記、本牟智和気王(ほむちわけのみこ)の説話について─啞をめぐって─」に従来の訓み方を踏襲したが、ここに訂正する。
(注3)田邊1957.に、「身辺の調度の一つである「わきづき」をとりあげて、それは肱をもたらせてこころよいものであるとの意味から、形容詞「よき」をひき出す枕詞として用ゐたものと考える」(370頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。中村2009.に、「月は肉月で肉の異体か。獣の脇腹の肉のよくついた意を「吉き」にかけているとも見られる。膂宍(そじし)の空国(神代紀下)の反対の言いかた。」(128頁)とする説もある。
(注4)山口2005.に、「〈脇息〉の意をもつワキヅキを「掖月」と表記したという考え方は、『古事記』の表記法全体から見て、成り立ちにくい。」(143頁)とある。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「首途に、跛盲の行遇ふを不吉とするは、跛は行くことあたはず、盲は、前途を見ることあたはざる者なれば、共に旅行に殊に忌嫌ふべければなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/70、漢字の旧字体は改めた。)以下、尾崎1966.389頁、古典集成本古事記151頁、西郷2005.329頁と踏襲されているが、捉え方として誤りである。
(注6)机は和名抄にツクヱであるが、「案」にツクエとする平安初期点(小川本願経四分律)が見え、大坪1958.112~114頁に、ツクエが古い形とする。筆者は、鯨(クヂラ・クジラ)のように揺れる例があり、同じく両方あったのではないかと考える。そして、記のこの箇所では、以下に述べる音韻の洒落のためにツクヱと捉えていると考える。
(注7)実例としては中古にまでしか遡ることができない。「いでぬまの 月しろに見む あまつぼし 有明までの 雲隠れする」(大斎院御集・131)と見える。
(注8)紀にも活写されている。「初め天皇生(あ)れます日に、木菟(つく)、産殿に入(とびい)れり。明旦(くつるあした)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣武内宿禰を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣、対へて言さく「吉祥(よきさが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)、産屋に入れり。是、亦異(あや)し」とまをす。爰(ここ)に、天皇の曰はく、「今朕が子と大臣の子と、同日(おなじひ)に共に産れたり。並に瑞有り。是天つ表(しるし)なり。以為(おも)ふに、其の鳥の名を取りて、各相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子(みこ)に名けて、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に号けて、木菟宿禰(つくのすくね)と曰へり。是、平群臣が始祖(はじめのおや)なり。」(仁徳紀元年正月)
(引用・参考文献)
大坪1958. 大坪併治「小川本願経四分律古點」『訓点語と訓点資料』第九輯、昭和33年。国会図書館デジタルコレクションinfo:ndljp/pid/10387517
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
古典集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
田邊1957. 田邊正男「訓詁篇(中・下巻)」『古事記大成3─言語文字篇─』平凡社、昭和32年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版古事記 現代語訳』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
松本2011. 松本弘毅『古事記と歴史叙述』新典社、平成23年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
(English Summary)
In the text of Emperor Suinin in Kojiki, which dispatches 本牟智和気御子 to Izumo, we have some parts that couldn't be read accurately. In this paper, we will reconsider the traditional collated text, confirm that "爾" is a conjunction, and also examine the meaning of the word "掖月". By reading it correctly, we will be able to deeply understand the contents of the story. As a result, we will approach the essence of Ancient Japanese, Yamato kotoba, that is, how it was used.