崇神記に、感染症がパンデミックを起し、人口が激減した記事がある。最終的に、オホタタネコによる祭祀によって疫病が止み、国家が太平を取り戻したという。
此の天皇の御世(みよ)に、伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。爾に天皇、愁へ歎きて、神牀(かむとこ)に坐(いま)しし夜(よ)、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が前(まへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。
爾に天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白(まを)しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰せて、天の八十(やそ)びらかを作り、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神(さかのみをのかみ)と河瀬神(かはのせのかみ)とに、悉く遺し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息(や)み、国家(あめのした)安平らぎき。(崇神記)
三輪山の神が大物主神で、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)である(注1)としたら、それは祟りを起こすことは説明を要さないであろう。動物に雌雄転換するものは稀にある。人類の、精神的ではなく肉体的な性のありかたを見る限り、常態ではなく、はにわりの存在は社会秩序に混乱をきたす。その無秩序状態を解消するにはどのように祭ればいいか。記では、天皇の夢に、意富多多泥古(おほたたねこ)をして祭らしめれば良いということであった。そこで、オホタタネコを探して来て祭らせたら、疫病がおさまって国は平らけくなった、ということに終わっている。
そこで問題は、オホタタネコとは誰か、何者なのか、という点に絞られよう(注2)。これが難しい問題であるため、時に論点をずらして解釈されている。そこから、歴史上、崇神朝の特質を述べ立てることもされている。議論ばかり進展しているが、肝心のオホタタネコとは誰かについてほとんど謎が解かれていない(注3)。
日本書紀には、古事記の簡潔な記述と異なり、ぐずぐずといろいろな話が付加されている。両者の違いから製作意図に違いを見出そうとする向きもある。筆者は、すべては無文字文化におけるお話(咄・噺・譚)であるから、どのように加工しようが口先三寸の脚色であると考えている。むろん、それぞれに話の辻褄は合っているであろう。嘘はない。言霊信仰のもとでは、言=事であるから、間違ったことを言ってはならない。間違ってはいないが、どのように話を面白くするかは作者の口先三寸である。文字がないからライター(writer)ではなく、ペン(pen)先のことではない。うまい話をいかに作り上げるかは、頓智の能力にかかっている。
日本書紀で見逃せない記述に、「所謂大田田根子」(崇神紀八年四月)がある。「所謂(いはゆる)」とは、謂われている、の意味である。紀に、「所謂」記事は全部で14例ある。そのうち、物名に冠される例が3例(「草薙剱」、「堅間」、「鳳凰・騏驎・白雉・白烏」)、章句に冠される例が歌謡の文句をあわせて5例(「反矢可畏」、「雉頓使」、「波魯波魯儞……」、「烏智可拕能……」、「烏麼野始儞……」)、地名に冠される例が2例(「泉津平坂」、「三韓」)、神名は1例(「八雷」)、人名の3例は下に述べる(注4)。古代に人名とは、戸籍があるわけではなく、また、芸能界の名鑑があるわけでもない。文字を使っていないから当然のことである。名とは、呼ばれるもの、その呼ばれているから名前であるはずの人名に、「所謂」と冠されている。すべての人の名前は「所謂」かもしれないが、ふつうは「所謂」とは冠されない。皆が何の疑問も抱かずに、小さい頃からそう呼んでいるから当たり前であって、名は体を表すほどに歴然としてしまっている。そんななか、「所謂」と冠される人名は、知られていなかった人がその名でもって探し求められて見つかった場合である。本当にその人なのか確証は持てない。自称に過ぎない。そのような人を始祖とする末裔を示す際、氏素性が知られないかもしれないけれど、といった余韻を残しつつ、「所謂○○」という言い方が行われている。
所謂(いはゆる)大田田根子は、今の三輪君(みわのきみ)等が始祖(はじめのおや)なり。(崇神紀八年十二月)
所謂野見宿禰(のみのすくね)は、是れ土部連(はじのむらじ)等が始祖なり。(垂仁紀三十二年七月)
所謂王仁(わに)は、是(これ)書首(ふみのおびと)等が始祖なり。(応神紀十六年二月)(注5)
崇神紀では、天皇の夢にオホタタネコという名が立ちあがっている。また、垂仁紀や応神記では、天皇の問い掛けに、群臣や渡来人の阿直岐がノミノスクネやワニと答えている。知られていない人を、名前が先行して述べられている。名前とは呼ばれるもののことであったから、先に人物がいて、それに名前を付けるのが順序である。それが逆転して名前が先にあって、人物が後から登場してくる。これは奇異なことである。氏族の由来をそんな人物に委ねる時、「所謂」と冠して述べている。
野見宿禰は、垂仁天皇が、当摩蹶速(たぎまのくゑはや)よりも相撲の強い人物がいないかと群臣に問うたところ、一人がノミノスクネというのがいます、と答えたため、全国に探した結果、出雲国にいたので呼び寄せたということになっている(垂仁紀七年七月)。本当にノミノスクネという人物なのかは確認されていない。相撲を取らせたら勝った。「相撲(すまひ)」と同音に「住まひ」があり、その語はスミ(住)+アフ(合)の約とされている。ずっと住むことを表す。
…… 布細(しきたへ)の 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 座(いま)しものを ……(万460)
天地(あめつち)と 共に久しく 住まはむと 念(おも)ひて有りし 家の庭はも(万578)
天(あま)ざかる 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつつ 都の風俗(てぶり) 忘らえにけり(万880)
また、野見宿禰は後年(三十二年七月)に、殉死の人柱をやめて埴輪を並べることを提案した人物である。よって、土部連等の始祖ということになっている。ノミ(ノ・ミはともに甲類)という名は、野辺の送りの「野」の意味と、それを守る墓守の意味の「見」の続いた名と捉えられる。人が「住まひ」するのにいくら長く居つづけたとしても、人生50年ぐらいのところを、墓の場合は半永久的に「住まひ」の状態にできる。今に“古墳”時代と言っている。相撲(すまひ)に長じていた所以である。
名前が、「所謂」として語られる意味は大きい。行為者である人物よりも名前が優先されている。文字の未発達な上代に、言葉が事柄に先行してあることとは、言葉が事柄よりも先に表明してしまっていることを表す。すなわち、疫病が流行っているのは大物主神の神意であり、それを鎮めるにはオホタタネコという人物で祭らせたらよいというのである。オホタタネコという名こそ、大物主神の祟りを鎮める手立てであることが先んじて語られている。オホタタネコとは誰か、という問いには、オホタタネコとは大物主神の祟りを鎮める効果のある名前の付いている人、という答えがいちばん適切である。探してみたらいたというのは、実は大したことではない。なぜなら、口先のお話(咄・噺・噺)だからである。
オホタタネコという音の連なりは、何の意味が考えられるだろうか。一般に、オホ(大)+タタ+ネコ(尊称)とされており、タタについては、本居宣長・古事記伝に、多太神社のある地名を表すのではないかとする説がある(注6)。ネコを尊称とする例は、天皇の名に、大日本根子彦太瓊天皇(大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)、孝霊天皇)、大日本根子彦国牽天皇(大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)、孝元天皇)、稚日本根子彦大日日天皇(若倭根子日子大毘毘命(わかやかとねこひこおほびびのみこと)、開化天皇)、白髪武広国押稚日本根子天皇(白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、清寧天皇)、ほかにも、稚倭根子皇子(倭根子命)、真根子、難波根子武振熊(難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと))などとあり、尊称とされている。しかし、記のネコ称について、他の個所は紀同様「根子」とあるのに、オホタタネコの場合のみ「泥古」と記されている。夢のお告げに聞いた名前である。多様な捩りがあって不思議ではない。
例えば、オホタ(大田)+タネコ(種子)と聞けば、大きな田をつくるための材料という意味にとれる。田んぼの面積を大きくすることは、生産・収穫効率を高めて稲作農耕にイノベーションとなった。区画を整理するには、灌漑用水、崩れない畦・畝の構築、排水設備の充実が求められる。低湿地の常湛田の拓かれてきた弥生時代の田んぼをさらに活かすには、排水溝が必要であり、沖積平野へ田んぼを拡大させるには、灌漑のための用水溝が必要である。小さな田をいかに整理して畦を少なく大きな田にするかについては、杭打ちして堅固にした畝の構築が必須である。そのような土木技術を代表する言葉は、溝、上代語にウナテという(注7)。ウネ(畝)と関係する語と考えられている。オホタ(大田)+タネコ(種子)とは、ウナテ(溝)のことらしい。
其れ多(さは)に池溝(うなて)を開(ほ)りて、民の業(なりはひ)を寛めよ。(崇神紀六十二年七月)
オホタ(大手)+タネコ(種子)と聞けば、大きな手をつくる材料ということになる。大きな手として考えられるものに、翳(さしは)がある。上代に清音である。儀式の時に貴人の顔を隠すために使われた。団扇のような形をしていて、長い柄がついている。鳥の羽を挿して作られていたからサシハと呼ばれ、指羽、刺羽とも記される。高松塚古墳の壁画の女性が手に持つのは、おそらく翳である。
日本古代の威儀具については、鈴木2000.、鈴木2001.に詳細な報告と解説がある。注意深い観察で慎重な物言いとなっている。団扇なのか、麈尾なのか、翳なのか、見極めようという態度である。そのため、一般に翳形埴輪と称される6世紀後半に関東地方で生まれた形象埴輪も、団扇や麈尾を表わしたものであろうかとされている。また、近畿地方では木製品としては認められるが、埴輪化されることはなかったという。
左:埴輪 翳(伊勢崎市豊城町権現下出土、古墳時代、6世紀、東博展示品。キャプション中国語訳に「長柄扇」とある。松木2016.参照。)、中:翳形埴輪(古墳時代、6世紀、前橋市大胡町出土、国学院大学博物館展示品。翳形埴輪は、岡本太郎「太陽の塔」にあるとおり表裏がある。)、右:翳形埴輪(埼玉県鴻巣市生出塚埴輪窯跡出土、6世紀、高78cm、鴻巣市ホームページhttp://www.city.kounosu.saitama.jp/kosodate/rekishi/1455525774912.html)
左:さしば形木製品(橿原市四条1号墳出土、古墳時代、橿原考古学研究所附属博物館展示品、「ぽこ あ ぽこ」http://s.webry.info/sp/kayanokiyama.at.webry.info/201510/article_9.html)
左:二人執高柄行燈、一人執高柄傘、一人執高柄扇(山東省嘉祥県英山徐敏行夫婦合葬墓墓室西壁中部、隋・開皇四年(584)(头条百科「徐敏行」https://m.baike.com/gwiki/%E5%BE%90%E6%95%8F%E8%A1%8C)、右:翳を掲げる従者(顧愷之・洛神賦図巻、東晋・北宋摹、絹本設色、大紀元文化網https://www.epochtimes.com/gb/18/1/31/n10102939.htm)
左:翳のある竹原古墳壁画(福岡県宮若市、6世紀後半、宮若市観光協会http://www.wakakanko.jp/blue/19.html)、右:翳を掲げる従者(絵因果経、紙本着色、奈良時代、8世紀、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/絵因果経)
左:翳(文安御即位調度図巻写、https://www.letao.com.tw/yahoojp/auctions/item.php?aID=m426021439をトリミング)、右:伊勢神宮の羅紫御翳、「産経west(http://www.sankei.com/west/news/151030/wst1510300032-n1.html)」)
左:翳(大阪府歴史博物館再現展示品。左手前のはもと菅翳の絹布仕様のものか。)、中:天平きものガールズ(「平城京天平祭(2017.5.3~5.5、)」http://www.pref.nara.jp/46614.htmの「円羽(こは)」?)、右:平城遷都之詔(同上の「大翳(おほは)」?)
筆者は、上にあげた埴輪はともに翳であると考える。放射状に突出している例など、何か違うのではないかとする慎重派に異を唱える。なぜなら、放射状に突起を設けた形のものが、ウナテという語に適うからである。ウ(鵜)+ナ(助詞ノの音転)+テ(手)とは、鵜の足の蹼(水掻き)のところである。それは、まさに、放射状の突起を持っている。それでもって水を掻いている。力強く掻いて、水面下に潜ってどこへ行ったか分からないほど潜水能力が高い。見えなくなり、隠れてしまう。翳と同じ機能を果たす。オホタ(大田)+タネコ(種子)のことを表すウナテ(溝)がウナテ(鵜手)となり、翳となっている。水のなかを“飛ぶ”のに役立つ羽というわけである(注8)。
かわう(博物館写生図、中島仰山筆、紙本着色、明治9年(1876)、東博展示品)
和名抄に、「翳 本朝式に云はく、斎王行具翳二枚〈翳の音は於計反、波(は)〉といふ。」とあり、単にハと呼ばれていた。この点は、注目されなければならない。団扇のような形のところが羽で作られている。そして、視線を遮るために用いられている。翳(かげ)を作るものが翳(さしは)である。晴れている時に下を向いて歩いていると、地面に翳(陰(かげ))を見つけることがある。木があったり、鳥が飛んでいたりした時である。木は葉のせいであり、鳥は羽のせいで太陽光線が当たらない。つまり、どちらも、ハ(葉・羽)である。ハというヤマトコトバは、遮蔽することと関係のある言葉であると納得される。そういう納得感のあるものは、言霊信仰のもとにある人々の興味をそそったに違いない。彼らのゆたかな言語感覚から容易に知れる。古代の人々は芸術活動に走った。翳形埴輪と呼ばれる埴輪を作って喜んでいる。「何作ったの?」→「ハ」というやり取りが行われていたに違いない。服玩具の翳は、ハと一音で表すに適切である。
そんな翳の材料とは、鳥の羽、それも鷲がふさわしい。
渋谿(しぶたに)の 二上山(ふたがみやま)に 鷲(わし)そ子産(む)とふ 指羽(さしは)にも 君がみために 鷲そ子産とふ(万3882)
真鳥(まとり)住む うなての神社(もり)の 菅(すが)の根を 衣(きぬ)にかきつけ 着せむ子もがも(万1344)
想はぬを 想ふと云はば 真鳥住む うなての杜(もり)の 神し知らさむ(万3100)
「真鳥」とは、鷲のことを指すといわれている。鷲は別にオホトリとも呼ばれるが、オホジカのことは漢字に「麈」と記され、その尾の毛を使って威儀を正すか蠅を払うかするために使われた団扇型の道具に、麈尾(しゅび)がある。翳を作るのにふさわしい鳥の羽とは、現存例が見られないから確かめることはできないが、オホトリともマトリとも呼ばれる鷲の羽であろう。鷲の類の中に、サシバという固有名の種がいる。別名は、大扇(おおおうぎ)と今に残っている。万3882番歌はその間の事情に負うところ大である。その鷲がウナテ(溝)の杜に住んでいるのは、オホタタネコ(大田種子・大手種子)つながりであろう。この歌は、オホタタネコの話を捩った歌である。
サシバ(Alpsdake様「飛翔するサシバ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/サシバ)
天皇の夢に出てきたオホタタネコという名は、ハ(翳、fa)であるとわかった。翳で大物主神を隠すように祭れば、祟りを鎮めることができて国家太平になる。人目にさらされるのが苦手な神さまが、三輪山に鎮座している大物主神ということである。よって、今日まで山は禁足地として立ち入りを制限されている。どうして神の祟りを、翳を使うことで鎮めることができるのか。それには二重の証明がある。第一に、ハという言葉は、羽・歯・刃・葉・端という名詞だけでなく、助詞のハという例がとても多い。助詞のハを表記したら漢字に、「者」と書く。それを無文字文化の人の多くは知らなかったかもしれないが、「者」はヤマトコトバにハのことだとインテリは知っていた。
白川1995.に、「は〔者……〕 助詞の「は」、また「ば」の表記には者(しゃ)を用いる。漢文における者の文法的機能が、国語の「は」「ば」にあたると考えられたからであろう。……[「は」「ば」の用法を]要約すると、①主語を提示する、②仮定あるいは已然条件の形をとる、の二点に帰する。……国語の「は」には、取り出す、区別する、条件化するという三種の機能を含んでいる。者もまた、そのような三種の機能を含む字であり、者はまさに「は」「ば」に相当する語である。わが国の漢字の訓読には、漢字の用義上の特質や文法上の機能が、極めて正確に把握されているということができる。」(603~604頁)とある(注9)。ヤマトの人が学ぼうとした漢字と、意味するところがまったくもってヤマトコトバに同じい。者=ハ(バ)である。人に説明するにも、「ははは(「者(は)」はハ)」と言った。言葉の説明文が言葉の説明という入れ籠構造になっている。面白かったに違いない。ただし、「者」字は、ハと訓むだけでなく、モノと訓むこともある(注10)。ヤマトコトバにモノとは、大物主神のモノである。つまり、大物主神の威力を封じるためには、モノ(物)に対してモノ(者)を以てすればいい。目には目をである(注11)。そう対処した「者」がハであるから、翳(は)を使ってうまく祭ったということである。
それは決して出鱈目ではない。大物主神が夢に出てきて語っていた。「是者、我之御心。故、以二意富多多泥古一而、令レ祭二我前一者、神気不レ起、国亦安平」。祭るべき対象が神自体ではなく、「我が前」となっている。変なところを「祭れ」と言っている。神さまの顔の前を、翳によって隠して差し上げたてまつることを求めている(注12)。そもそも大神(おおみわ)神社のご神体は、山そのものである。山を祭るために「御前」のところで隠しておくれというのである。隠さなければならない理由は、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)であったからである(注1)。見てはいけないものは目にしないように隠したい。大物主神のモノ(「物」)とは、陽物を示している可能性もある。
第二の理由は、翳をとり持つ人のことをハトリと呼んだからである。儀式・五・天皇即位儀に、「……女孺十八人執レ翳、……二九女孺執レ翳、左右分進奉レ翳、……」、同・六・元正朝賀儀に、「……各官人二人・史生一人率下執二威儀屏繖一具・円翳十具・円羽十柄・横羽八柄・……一……円翳已下分為二両行一、……上……」、延喜式・掃部寮に、「元正前一日、設下御座於大極殿高御座、…威儀命婦座。……執翳者座於二東西戸前一。……上……」などとあり、「執翳者」はハトリと訓まれている(注13)。ハトリとはふつう、今に服部さんのことに当たり、ハタ(機)+オリ(織)の約とされる。機織りをすること、その職にある人がハトリである。機織りによって祟りが解消される。なぜなら、タタリには、絡垜と記される繰った糸をかけてたるまないようにする道具の意味がある。和名抄に、「絡垜 楊氏漢語抄に云はく、絡垜〈多々理(たたり)、下は他果反〉といふ。」とある。糸のほつれなどを手直しできる器具である。
左:絡垜(寺島良安編・和漢三才図会上巻、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/263をトリミング)、中:絡垜の使用例(「tool-私の仕事場の道具たち-」http://shizengaku.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html)、右:引廻しの図(明治大学博物館・徳川幕府刑事図譜https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keijizufu/contents.html?mt=nm&hl=ja)
紡いだ糸がだらんと垂れると、不調部分を確かめられないからピンと張れるようにできている。何重にも巻きつけられている状態は、罪人がぐるぐる巻きに縄をかけられているのによく似ている。彼らは罪(つみ、ミは甲類)を犯した。糸を縒るのに使うのは、紡錘、古語にツミ(ミの甲乙不明)、ツムである。よく対応している。もうすぐ死罪なのであるが、自分の罪業は棚に上げ、「祟ってやる」などとわめいている。このようなときでも、許されることがある。火付盗賊改の場合、配下の手下、密偵となるのである。忍びの者、忍者の氏に服部くんが名高いのは、この絡垜に由来するのかもしれない。糸のほつれを直せば、準備は万端整う。糸は完成品としてタタリの上に残されている。あとどうすればそのタタリから脱することができるか。機織りをすればよい。ハトリ(服部・執翳者)によって、ツミ(罪・紡錘)のため生じたタタリ(祟・絡垜)から逃れられる。
翳の役目を果たすと知れた「オホタタネコと謂ふ人」を探してみると、いた。本当にオホタタネコなのか、自称しているだけでは確かめられない。そこで天皇は質問してみた。誰の子かと。すると流暢に答えた。大物主大神が、陶津耳命の娘の活玉依毘売を娶って生んだ子で、名は櫛御方命之子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子であって、私は意富多多泥古であると言った。どういう系図なのかよくわからない(注14)が、系譜を聞いているのでも答えているのでもない。「謂れ」を聞いている。すべては話(咄・噺・譚)である。天皇は、聞いてみてこれは本物だと思っている。
陶津耳命とあるのは、今日、陶邑の須恵器と関係する名義とされている(注15)が、話が逆である。スヱツミミなる音を導きたいがためにかこつけている。スヱとは末、ミミとは耳の意と知れば、それは、物の端っこのこととわかる。端は上代語にハである。活玉依毘売を他の個所に出てくる玉依毘売と関係する人物と考える向きもあるが、それも話が転倒している。イクタマヨリと聞けば、生きた魂が依って行くこと、言い伝えに思い出せば、ヤマトタケルが亡くなってから白鳥となって飛んで行ったことが思い起こされる(注16)。鳥はどうして飛べるのか。羽があるからである。ハである。櫛御方命という人が誰かはわからないが、クシミカタと櫛が機能するのは、櫛歯がきれいに揃っているからである。ハである。飯肩巣見命のイヒカタスミの意は詳しくはわからないが、炊いた飯に芯が残って硬ければ、歯でがちがち噛むしかない。ハである。建甕槌命は建御雷神とも書かれるタケミカヅチで、別名を建布都神(たけふつのかみ)といい、よく切れる剣、刃物である。ハである。累々の人がみなハに関係する名を持っていた。人には知られない秘密の質問に答えられるのだから、このオホタタネコと自称する輩も、確かにハ一族であると認められよう(注17)。大物主神が言っているとおり、ハ一族のオホタタネコに翳をもって前を遮蔽する形で祭らせれば、きっとうまくいくに違いない。
これは話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)として煩うことなく成立している。どうしてこのような話(咄・噺・譚)が崇神天皇の時代のこととして記されているのか。おそらく、疫病や飢饉が実際にあったのであろう。三輪山の山麓に、ハツクニシラスノスメラミコトとして統治した人の時代のこととして、人々の記憶に定着させるためにとられた方策である。なにしろ無文字の時代である。文字がなければ覚えておくしか後の時代に伝える術がない。そして、文字に頼らないということは、言葉としては頓智やなぞなぞの知恵が、今日とは比べ物にならないほど発達していたに違いあるまい。言葉を音だけで聞き分ける能力にとても秀でていた。聞く人が聞くだけでなるほどと納得し、納得するから後の時代へと語り継がれることとなる。言葉(音)が言葉(音)だけですべての事情を語り、同時に悟るのである。文字を覚え、図表を知り、パワーポイントで示し、写真を加工し、空中動画までも手にすることができる現代人は、およそ当時のたぐい稀なる言語能力に達することはできない。祟(たたり)に対するには、絡垜(たたり)に対する機織(はとり)同様、執翳者(はとり)を以てすればよい、大物主を遇するには、大者主とでもいえる大きなハ(「者」)の持ち主になればいい。そのようなことは文字を知ってしまったらなかなかに気づかない。記紀万葉の読解には、ヤマトコトバによって、オリジナルなヤマトコトバの世界への文化人類学のフィールドワークが求められている。
(注)
(注1)拙稿「三輪山伝説について」参照。
(注2)吉井1976.に、「文章の構造における明瞭な意図とは裏腹に、ここの文章の内容からだけではどこにもオホタタネコの誕生は語られておらず、オホタタネコが神の子である事実はあきらかにされていない。つまり、オホタタネコが神の子である故を問う文と、神の子であると結論する文を額縁としたこの文章は、その内容では額縁に合うものを必ずしも語っていないという点で、額縁に示された意図と伝承の中身との間に、違和感が生じていることに注目せざるを得ないのである。」(186頁)ときちんとした指摘があるが、残念ながら、そこから形而上学的な解釈へと進んでいる。
(注3)歴史学、神話学、国文学、考古学など、立場の違いにもより、いろいろである。西條2005.は、オホタタネコの祭祀にヒメヒコ制からの祭政分離を見る。和田1996.は、天皇自らの祭祀から巫女や神官への祭祀へと変わったととる。寺川2004.は、三輪氏の氏族伝承を利用しながら神祇祭祀制度が確立したことを語っているとする。青木1994.は、祟り神=境界神の位相で意味づけようとする。直木2009b.は、三輪山の神と天皇家との対立関係から王家の外来を見る。阿倍1999.は、母の活玉依毘売は須恵器生産集団出身で、祭器製造を介して三輪山の神とかかわりをもったとする。鈴木2014.は、オオタタネコの伝承に三輪山祭祀の起源譚と、その後裔を称する大神氏が王権に奉仕することの正統性を示しているとする。益田2006.は、大物主神は疫癘のカミそのものであるとする。壬生1977.、王2000.、矢島2005.、小浜2007.、谷口2008.は、大物主神は疫病神そのものではなく邪神を統治する神であるとする。
筆者は、文字を持たずに言葉を大切に扱ったヤマトコトバの立場から、国文学の側が勝手な解釈をして屋上屋を積むことに危機感を覚える。烏谷2016.に、「依り来る神の原郷は「物」の存在するところと観想されていたようであり、「物」はモノを生成したり、モノの力によって疫病を流行させたりする霊(モノ)が原初的な姿であったと思われる。」(5頁)とある。無文字の時代に立ち戻って検討されたい。「物」概念を拡大解釈し、都合よく種々に用いている。これでは、森羅万象すべてが「物」という一語に還元可能になる。モノ(物)とカミ(神)とタマ(魂)と、なにゆえ別の言葉(音)があるのだろうか。それとも、モノ⊃カミ、モノ⊃タマ、という言語体系であったというのだろうか。記紀のいちばん初めの天地創造の不可思議な記述から、そのように言葉を弄ぶことなどあり得ないと考える。
(注4)古事記における「所謂」の冠する例は、「黃泉比良坂」(記上)、「久延毘古」(記上)、「建豊波豆羅和気王」(開化記)、「五村屯宅」(安康記)がある。「所謂」をイハユルと訓じない例に、崇神記の、「汝所謂之言何言」の例がある。お前の謂っている言葉は何のことか、の意である。
(注5)「所謂王仁」については、稿を改めて論じる。
(注6)古事記伝は、「【此ノ名は、意富(オホ)とよみ、多々(タヽ)とよみ、泥古(ネコ)と読むべし、意富多(オホタ)とよみ、多泥古(タネコ)と読ムはわろし、】旧事紀に、大直禰古(タゞネコ)とも書り、多々は地ノ名なるべし、神名帳に、……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/16)などと決めてかかっている。何を“分析”しようとしているのか不明である。
(注7)日本書紀には、「池溝」、「大溝」、「溝瀆」、「渠」といった例が見られる。津出1989.、広瀬1989.、木下2009.など参照。
(注8)鈴木2000.に、「現状では翳形埴輪は厳密には存在せず、翳は蓋と違い埴輪も木製品も墳丘にはめぐらされることはなかったようである。」(37頁)とある。関東地方の放射状に線刻されたり、突起の突き出たタイプの“翳形”と呼ばれている埴輪について、筆者は、やはり翳であると考える。両者を同じものからの形象と捉える根拠は、翳に見えるばかりでなく、鵜の蹼にも見えるからである。蹼なら何もウ(鵜)でなくても、カモなどでもそうなっていると反論もあろう。しかし、翳の機能としての隠蔽に当たるほど潜水ができる鳥は、ペンギンやウミガラスなど数が限られている。さらに、ウは鵜飼に使われて、自然界に対して人の側に立っている。とても役に立ち、身近である。つまり、貴人の周りにいて手助けをする従者に同じい。深く掘った溝(うなて)に鵜飼をしている。5世紀の四条大田中遺跡や南郷大東遺跡の翳形木製品は、集落周辺の溝から出土するという。何の祭り、ないし、遊びをしていて興趣が湧いているのか理解されよう。
鵜飼の様子(宇治市ホームページhttps://www.city.uji.kyoto.jp/site/uji-kankou/6209.html)
埴輪に穴が開いているのは、被葬者の“君(きみ)”に当たる人が覗き見れるようにする穴か、鵜の目鷹の目のウの目をあけているのか、絡垜から糸を巻き取る時に上に吊られる輪を示しているのか不明ではある。糸がほつれると絡まるから、あらかじめ絡垜にかけて整えておく。鵜飼に、鵜の足に糸が絡まることがある。鵜匠が下手なのであるが、翳に穴が開いていることは糸の絡み合いを防ぐことを示しているように感じられる。そして、ハニワリ(半月)という語とハニワ(埴輪)という語はよく似ている。ハ、ハ、ハと笑うしかない。
(注9)白川1996.には、「者」の訓に「かくす」と記され、「堵の初文、お土居、お土居に埋めかくした呪祝、かくす、遮と通じる。」(701頁)とある。山口2005.は、直木1964.、瀬間1994.の研究を踏まえたうえで、古事記の「者」字の用法を次のように結論づけている。
『古事記』の「者」は、次のいずれかによって説明できることが明らかになった。①提示用法・対比用法②条件用法③強調用法④文末用法⑤添義用法⑥連体用法(連体節中の主格表示用法を含む)
『古事記』の解釈は、その解釈の手掛かりを、まず『古事記』自身の中に求めるのが、最良の方法である。(83頁)
(注10)大野1974.に次のようにある。
……平安時代初期の漢文訓読体では、「者」の字は人間に関してはヒトと訓むのが普通で、モノとは訓じなかったという……。ヒトといえば社会的に一人前の存在をいう。モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった。それ故、「者」はヒトと訓んでモノとは訓じなかった。『源氏物語』などを見ても、痴(し)れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、わかもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、……ものという複合語が使われ、痴れひと、悪(わる)ひと、ひがひとなどとはいわなかった。(33~34頁)
「者」字についてモノと訓む例としては、平安初期にも仏典に多く見られる。万葉集では、「生ける者 遂にも死ぬる 物に有れば この世なる間は 楽しくを有らな」(万349)とある。日本書紀では、図書寮本(永治二年(1142)訓)に、「譬如物積船以待潮者」(安康紀元年二月)は、「譬へば物を船に積みて潮(シホ)を待つ者(モノ)の如し」とある。古事記では、「此稲羽之素菟者也(此は稲羽(いなば)の素菟(しろうさぎ)といふ者(もの)なり」(記上)、「於今者山田之曽富騰者也(今には山田の曽富騰(そほど)といふ者(もの)なり」(記上)、「是化白猪者其神之使者(是の白き猪(ゐ)と化(な)れる者(もの)は其の神の使(つかひ)の者(もの)ぞ」(景行記)、「執檝者(檝(かぢ)を執(と)れる者(もの)」(応神記)といった訓が見られる。一人前の人間、それをヒトと言うが、それ以下の存在として明らかに「者」字が用いられているところをみると、モノという言葉に「者」字を当てる意識が働いていたことがわかる。
(注11)ハンムラビ法典のそれは、「目には目を、歯には歯を」であるが、ヤマトコトバには「者(もの、は)には翳(は)を」と優れている。なぞなぞ大王の治める国である。
(注12)新編全集本古事記の頭注に、「神などを指す時に、それと直接示すことを避けることによって、敬意を表す言い方。ここでは「御心」と同じく、発言者が神であるための自己尊敬の表現。」(183頁)とある。将軍のことを「殿」という言い方に同じであると誤っている。頓智話のヒントをふいにしている。
(注13)延喜式・内匠式に「翳柏形四枚」とあり、「翳の柏形(かしはがた)」と訓んでいる。虎尾2007.に、「柏形 翳に付ける柏の葉の形をした銅製の装飾品か。」(429頁頭注)とある。実物は管見にしてわからない。あるいは、柏の葉の形は、羽を連ねたような形をしているから、鷲類のサシバの羽を使った古来より伝承されるタイプの翳のことを指しているかと想像する。羽(は)を連ねた葉(は)の形の翳(は)である。上にあげた顧愷之の絵に見られるタイプはそれを物語っている。カシハ(柏)という植物名は、ハ(葉)がハ(羽)の連なりになっていることに注目した語かとも思われる。素材が羅になったから、今日伝わる羅紫御翳のような形に行きついたのではないか。
左:柏餅、中:カシハハ?(柏葉)、右:カシワ(東北森林管理局HP、管内の樹木図鑑・カシワhttps://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/sidou/jumoku/shubetu/kasiwa.html)
(注14)青木1994.には、古事記の意富多々泥古の系譜を四世の孫ととって、欠史八代の天皇の系譜と対応させようとしている。
(注15)須恵器生産の開始によって陶器生産が行われて「陶邑」が出現したのは古墳時代の5世紀のことで、崇神天皇の時代から100年後のことである。直木2009a.、佐々木1975.、吉井1976.らは、このギャップを疑問視して議論を展開している。けれども、スヱツミミという音義を理屈づけるために、紀は、「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)」といった形容を行っているにすぎない。田中1987.は、和泉の〝スヱ〟といふ土地で、新来の陶器の生産が始められ、盛行したので、製品が〝スヱ(の土地)のウツハ〟と呼ばれ、〝スヱ〟の漢字として、「陶」の字が宛て用ひられるやうになつたのであらう。」(366頁)とする。地名譚が適当であることは、記紀の多くの記事に確かめられる。崇神記にも、「三勾」→ミワ、「挑」→イヅミ、「屎褌(くそばかま)」→クスバなど、下らない文章が頻出している。記紀の記された当時において、地名にある固有名詞は、なんとでもこじつけて良いものと考えられていたのであろう。名とは何か、それは呼ばれるものにすぎない。そう呼ばれることを“説明”するのに、紀の編者は時代的に合わないことを承知の上で、須恵器のことをにおわせる譚をしている。だから、挙句の果てに、「所謂大田田根子」という表現が成立している。まともな話としてはあり得ないことを示唆している。知恵がゆたかで、杓子定規に陥らない、とても賢い人たちである。
なお、記に「於河内之美努村見得其人貢進」とあり、「河内」の「美努村」という地名が明記されている。オホタタネコという名の一解釈に「大田」+「種子」が溝のこととした。河の内の話である。「美努」については、「努」字がヌとノ(甲類)のどちらにでも訓まれるため、ミヌかミノか確かめられていなかった。記に「努」字はこの1例である。オホタタネコの一解釈に「大手」+「種子」が翳のことであるとした。翳で隠すとよく見えないから、「見ぬ」の村ということから注目させる地名をもってきている。訂正古訓古事記、延佳本鼈頭古事記、兼永筆本、猪熊本古事記、前田本古事記などにある古訓ヌが正解のようである。(注12)にも触れたように、大きな葉の代表にカシハがある。仁徳紀三十年九月条に、「御綱葉、葉、此には箇始婆(かしは)と云ふ。」とある。カシワの木は、離層を作らずその大きな枯れ葉を翌春まで残す傾向に強い。「葉」の代表にカシハを選ぶ上代の人々の感性が知られる。
(注16)ヤマトタケルの逸話は、景行天皇時代のことだから、崇神朝に合わないとする意見もあろう。そういった四角四面な考え方は、お話(咄・噺・譚)を聞くうえで建設的ではない。落語を聞くのに屁理屈を捏ねて間違いだと言っても、何も得られるものはない。魂が生きていて飛んでいくと考えるのはよくある発想である。豊作の米を餅にして矢の的にして粗末にしていたら、鳥になって飛んで行ったとする話が豊後風土記に載る。的のことをイクハという。どうしてイクハというのか定かではないが、イクハと言っていたのだからそう認めるしかない。本稿は、イクもハも出てくる言葉となっている。イクタマヨリビメがハと関連していることを示唆している。
(注17)「ハ一族」という形容は、理解をすすめるために用いている。当たり前の話であるが、蘇我氏、物部氏、三輪氏と並んでハという人たちがいるわけではない。すべては、頓智、なぞなぞである。
(引用・参考文献)
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※本稿は、2017年4~5月稿を2020年10月に整理したものである。
此の天皇の御世(みよ)に、伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。爾に天皇、愁へ歎きて、神牀(かむとこ)に坐(いま)しし夜(よ)、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が前(まへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。
爾に天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白(まを)しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰せて、天の八十(やそ)びらかを作り、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神(さかのみをのかみ)と河瀬神(かはのせのかみ)とに、悉く遺し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息(や)み、国家(あめのした)安平らぎき。(崇神記)
三輪山の神が大物主神で、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)である(注1)としたら、それは祟りを起こすことは説明を要さないであろう。動物に雌雄転換するものは稀にある。人類の、精神的ではなく肉体的な性のありかたを見る限り、常態ではなく、はにわりの存在は社会秩序に混乱をきたす。その無秩序状態を解消するにはどのように祭ればいいか。記では、天皇の夢に、意富多多泥古(おほたたねこ)をして祭らしめれば良いということであった。そこで、オホタタネコを探して来て祭らせたら、疫病がおさまって国は平らけくなった、ということに終わっている。
そこで問題は、オホタタネコとは誰か、何者なのか、という点に絞られよう(注2)。これが難しい問題であるため、時に論点をずらして解釈されている。そこから、歴史上、崇神朝の特質を述べ立てることもされている。議論ばかり進展しているが、肝心のオホタタネコとは誰かについてほとんど謎が解かれていない(注3)。
日本書紀には、古事記の簡潔な記述と異なり、ぐずぐずといろいろな話が付加されている。両者の違いから製作意図に違いを見出そうとする向きもある。筆者は、すべては無文字文化におけるお話(咄・噺・譚)であるから、どのように加工しようが口先三寸の脚色であると考えている。むろん、それぞれに話の辻褄は合っているであろう。嘘はない。言霊信仰のもとでは、言=事であるから、間違ったことを言ってはならない。間違ってはいないが、どのように話を面白くするかは作者の口先三寸である。文字がないからライター(writer)ではなく、ペン(pen)先のことではない。うまい話をいかに作り上げるかは、頓智の能力にかかっている。
日本書紀で見逃せない記述に、「所謂大田田根子」(崇神紀八年四月)がある。「所謂(いはゆる)」とは、謂われている、の意味である。紀に、「所謂」記事は全部で14例ある。そのうち、物名に冠される例が3例(「草薙剱」、「堅間」、「鳳凰・騏驎・白雉・白烏」)、章句に冠される例が歌謡の文句をあわせて5例(「反矢可畏」、「雉頓使」、「波魯波魯儞……」、「烏智可拕能……」、「烏麼野始儞……」)、地名に冠される例が2例(「泉津平坂」、「三韓」)、神名は1例(「八雷」)、人名の3例は下に述べる(注4)。古代に人名とは、戸籍があるわけではなく、また、芸能界の名鑑があるわけでもない。文字を使っていないから当然のことである。名とは、呼ばれるもの、その呼ばれているから名前であるはずの人名に、「所謂」と冠されている。すべての人の名前は「所謂」かもしれないが、ふつうは「所謂」とは冠されない。皆が何の疑問も抱かずに、小さい頃からそう呼んでいるから当たり前であって、名は体を表すほどに歴然としてしまっている。そんななか、「所謂」と冠される人名は、知られていなかった人がその名でもって探し求められて見つかった場合である。本当にその人なのか確証は持てない。自称に過ぎない。そのような人を始祖とする末裔を示す際、氏素性が知られないかもしれないけれど、といった余韻を残しつつ、「所謂○○」という言い方が行われている。
所謂(いはゆる)大田田根子は、今の三輪君(みわのきみ)等が始祖(はじめのおや)なり。(崇神紀八年十二月)
所謂野見宿禰(のみのすくね)は、是れ土部連(はじのむらじ)等が始祖なり。(垂仁紀三十二年七月)
所謂王仁(わに)は、是(これ)書首(ふみのおびと)等が始祖なり。(応神紀十六年二月)(注5)
崇神紀では、天皇の夢にオホタタネコという名が立ちあがっている。また、垂仁紀や応神記では、天皇の問い掛けに、群臣や渡来人の阿直岐がノミノスクネやワニと答えている。知られていない人を、名前が先行して述べられている。名前とは呼ばれるもののことであったから、先に人物がいて、それに名前を付けるのが順序である。それが逆転して名前が先にあって、人物が後から登場してくる。これは奇異なことである。氏族の由来をそんな人物に委ねる時、「所謂」と冠して述べている。
野見宿禰は、垂仁天皇が、当摩蹶速(たぎまのくゑはや)よりも相撲の強い人物がいないかと群臣に問うたところ、一人がノミノスクネというのがいます、と答えたため、全国に探した結果、出雲国にいたので呼び寄せたということになっている(垂仁紀七年七月)。本当にノミノスクネという人物なのかは確認されていない。相撲を取らせたら勝った。「相撲(すまひ)」と同音に「住まひ」があり、その語はスミ(住)+アフ(合)の約とされている。ずっと住むことを表す。
…… 布細(しきたへ)の 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 座(いま)しものを ……(万460)
天地(あめつち)と 共に久しく 住まはむと 念(おも)ひて有りし 家の庭はも(万578)
天(あま)ざかる 鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつつ 都の風俗(てぶり) 忘らえにけり(万880)
また、野見宿禰は後年(三十二年七月)に、殉死の人柱をやめて埴輪を並べることを提案した人物である。よって、土部連等の始祖ということになっている。ノミ(ノ・ミはともに甲類)という名は、野辺の送りの「野」の意味と、それを守る墓守の意味の「見」の続いた名と捉えられる。人が「住まひ」するのにいくら長く居つづけたとしても、人生50年ぐらいのところを、墓の場合は半永久的に「住まひ」の状態にできる。今に“古墳”時代と言っている。相撲(すまひ)に長じていた所以である。
名前が、「所謂」として語られる意味は大きい。行為者である人物よりも名前が優先されている。文字の未発達な上代に、言葉が事柄に先行してあることとは、言葉が事柄よりも先に表明してしまっていることを表す。すなわち、疫病が流行っているのは大物主神の神意であり、それを鎮めるにはオホタタネコという人物で祭らせたらよいというのである。オホタタネコという名こそ、大物主神の祟りを鎮める手立てであることが先んじて語られている。オホタタネコとは誰か、という問いには、オホタタネコとは大物主神の祟りを鎮める効果のある名前の付いている人、という答えがいちばん適切である。探してみたらいたというのは、実は大したことではない。なぜなら、口先のお話(咄・噺・噺)だからである。
オホタタネコという音の連なりは、何の意味が考えられるだろうか。一般に、オホ(大)+タタ+ネコ(尊称)とされており、タタについては、本居宣長・古事記伝に、多太神社のある地名を表すのではないかとする説がある(注6)。ネコを尊称とする例は、天皇の名に、大日本根子彦太瓊天皇(大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)、孝霊天皇)、大日本根子彦国牽天皇(大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)、孝元天皇)、稚日本根子彦大日日天皇(若倭根子日子大毘毘命(わかやかとねこひこおほびびのみこと)、開化天皇)、白髪武広国押稚日本根子天皇(白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、清寧天皇)、ほかにも、稚倭根子皇子(倭根子命)、真根子、難波根子武振熊(難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと))などとあり、尊称とされている。しかし、記のネコ称について、他の個所は紀同様「根子」とあるのに、オホタタネコの場合のみ「泥古」と記されている。夢のお告げに聞いた名前である。多様な捩りがあって不思議ではない。
例えば、オホタ(大田)+タネコ(種子)と聞けば、大きな田をつくるための材料という意味にとれる。田んぼの面積を大きくすることは、生産・収穫効率を高めて稲作農耕にイノベーションとなった。区画を整理するには、灌漑用水、崩れない畦・畝の構築、排水設備の充実が求められる。低湿地の常湛田の拓かれてきた弥生時代の田んぼをさらに活かすには、排水溝が必要であり、沖積平野へ田んぼを拡大させるには、灌漑のための用水溝が必要である。小さな田をいかに整理して畦を少なく大きな田にするかについては、杭打ちして堅固にした畝の構築が必須である。そのような土木技術を代表する言葉は、溝、上代語にウナテという(注7)。ウネ(畝)と関係する語と考えられている。オホタ(大田)+タネコ(種子)とは、ウナテ(溝)のことらしい。
其れ多(さは)に池溝(うなて)を開(ほ)りて、民の業(なりはひ)を寛めよ。(崇神紀六十二年七月)
オホタ(大手)+タネコ(種子)と聞けば、大きな手をつくる材料ということになる。大きな手として考えられるものに、翳(さしは)がある。上代に清音である。儀式の時に貴人の顔を隠すために使われた。団扇のような形をしていて、長い柄がついている。鳥の羽を挿して作られていたからサシハと呼ばれ、指羽、刺羽とも記される。高松塚古墳の壁画の女性が手に持つのは、おそらく翳である。
日本古代の威儀具については、鈴木2000.、鈴木2001.に詳細な報告と解説がある。注意深い観察で慎重な物言いとなっている。団扇なのか、麈尾なのか、翳なのか、見極めようという態度である。そのため、一般に翳形埴輪と称される6世紀後半に関東地方で生まれた形象埴輪も、団扇や麈尾を表わしたものであろうかとされている。また、近畿地方では木製品としては認められるが、埴輪化されることはなかったという。













筆者は、上にあげた埴輪はともに翳であると考える。放射状に突出している例など、何か違うのではないかとする慎重派に異を唱える。なぜなら、放射状に突起を設けた形のものが、ウナテという語に適うからである。ウ(鵜)+ナ(助詞ノの音転)+テ(手)とは、鵜の足の蹼(水掻き)のところである。それは、まさに、放射状の突起を持っている。それでもって水を掻いている。力強く掻いて、水面下に潜ってどこへ行ったか分からないほど潜水能力が高い。見えなくなり、隠れてしまう。翳と同じ機能を果たす。オホタ(大田)+タネコ(種子)のことを表すウナテ(溝)がウナテ(鵜手)となり、翳となっている。水のなかを“飛ぶ”のに役立つ羽というわけである(注8)。

和名抄に、「翳 本朝式に云はく、斎王行具翳二枚〈翳の音は於計反、波(は)〉といふ。」とあり、単にハと呼ばれていた。この点は、注目されなければならない。団扇のような形のところが羽で作られている。そして、視線を遮るために用いられている。翳(かげ)を作るものが翳(さしは)である。晴れている時に下を向いて歩いていると、地面に翳(陰(かげ))を見つけることがある。木があったり、鳥が飛んでいたりした時である。木は葉のせいであり、鳥は羽のせいで太陽光線が当たらない。つまり、どちらも、ハ(葉・羽)である。ハというヤマトコトバは、遮蔽することと関係のある言葉であると納得される。そういう納得感のあるものは、言霊信仰のもとにある人々の興味をそそったに違いない。彼らのゆたかな言語感覚から容易に知れる。古代の人々は芸術活動に走った。翳形埴輪と呼ばれる埴輪を作って喜んでいる。「何作ったの?」→「ハ」というやり取りが行われていたに違いない。服玩具の翳は、ハと一音で表すに適切である。
そんな翳の材料とは、鳥の羽、それも鷲がふさわしい。
渋谿(しぶたに)の 二上山(ふたがみやま)に 鷲(わし)そ子産(む)とふ 指羽(さしは)にも 君がみために 鷲そ子産とふ(万3882)
真鳥(まとり)住む うなての神社(もり)の 菅(すが)の根を 衣(きぬ)にかきつけ 着せむ子もがも(万1344)
想はぬを 想ふと云はば 真鳥住む うなての杜(もり)の 神し知らさむ(万3100)
「真鳥」とは、鷲のことを指すといわれている。鷲は別にオホトリとも呼ばれるが、オホジカのことは漢字に「麈」と記され、その尾の毛を使って威儀を正すか蠅を払うかするために使われた団扇型の道具に、麈尾(しゅび)がある。翳を作るのにふさわしい鳥の羽とは、現存例が見られないから確かめることはできないが、オホトリともマトリとも呼ばれる鷲の羽であろう。鷲の類の中に、サシバという固有名の種がいる。別名は、大扇(おおおうぎ)と今に残っている。万3882番歌はその間の事情に負うところ大である。その鷲がウナテ(溝)の杜に住んでいるのは、オホタタネコ(大田種子・大手種子)つながりであろう。この歌は、オホタタネコの話を捩った歌である。

天皇の夢に出てきたオホタタネコという名は、ハ(翳、fa)であるとわかった。翳で大物主神を隠すように祭れば、祟りを鎮めることができて国家太平になる。人目にさらされるのが苦手な神さまが、三輪山に鎮座している大物主神ということである。よって、今日まで山は禁足地として立ち入りを制限されている。どうして神の祟りを、翳を使うことで鎮めることができるのか。それには二重の証明がある。第一に、ハという言葉は、羽・歯・刃・葉・端という名詞だけでなく、助詞のハという例がとても多い。助詞のハを表記したら漢字に、「者」と書く。それを無文字文化の人の多くは知らなかったかもしれないが、「者」はヤマトコトバにハのことだとインテリは知っていた。
白川1995.に、「は〔者……〕 助詞の「は」、また「ば」の表記には者(しゃ)を用いる。漢文における者の文法的機能が、国語の「は」「ば」にあたると考えられたからであろう。……[「は」「ば」の用法を]要約すると、①主語を提示する、②仮定あるいは已然条件の形をとる、の二点に帰する。……国語の「は」には、取り出す、区別する、条件化するという三種の機能を含んでいる。者もまた、そのような三種の機能を含む字であり、者はまさに「は」「ば」に相当する語である。わが国の漢字の訓読には、漢字の用義上の特質や文法上の機能が、極めて正確に把握されているということができる。」(603~604頁)とある(注9)。ヤマトの人が学ぼうとした漢字と、意味するところがまったくもってヤマトコトバに同じい。者=ハ(バ)である。人に説明するにも、「ははは(「者(は)」はハ)」と言った。言葉の説明文が言葉の説明という入れ籠構造になっている。面白かったに違いない。ただし、「者」字は、ハと訓むだけでなく、モノと訓むこともある(注10)。ヤマトコトバにモノとは、大物主神のモノである。つまり、大物主神の威力を封じるためには、モノ(物)に対してモノ(者)を以てすればいい。目には目をである(注11)。そう対処した「者」がハであるから、翳(は)を使ってうまく祭ったということである。
それは決して出鱈目ではない。大物主神が夢に出てきて語っていた。「是者、我之御心。故、以二意富多多泥古一而、令レ祭二我前一者、神気不レ起、国亦安平」。祭るべき対象が神自体ではなく、「我が前」となっている。変なところを「祭れ」と言っている。神さまの顔の前を、翳によって隠して差し上げたてまつることを求めている(注12)。そもそも大神(おおみわ)神社のご神体は、山そのものである。山を祭るために「御前」のところで隠しておくれというのである。隠さなければならない理由は、その正体がはにわり(半月、黄門、paṇḍaka)であったからである(注1)。見てはいけないものは目にしないように隠したい。大物主神のモノ(「物」)とは、陽物を示している可能性もある。
第二の理由は、翳をとり持つ人のことをハトリと呼んだからである。儀式・五・天皇即位儀に、「……女孺十八人執レ翳、……二九女孺執レ翳、左右分進奉レ翳、……」、同・六・元正朝賀儀に、「……各官人二人・史生一人率下執二威儀屏繖一具・円翳十具・円羽十柄・横羽八柄・……一……円翳已下分為二両行一、……上……」、延喜式・掃部寮に、「元正前一日、設下御座於大極殿高御座、…威儀命婦座。……執翳者座於二東西戸前一。……上……」などとあり、「執翳者」はハトリと訓まれている(注13)。ハトリとはふつう、今に服部さんのことに当たり、ハタ(機)+オリ(織)の約とされる。機織りをすること、その職にある人がハトリである。機織りによって祟りが解消される。なぜなら、タタリには、絡垜と記される繰った糸をかけてたるまないようにする道具の意味がある。和名抄に、「絡垜 楊氏漢語抄に云はく、絡垜〈多々理(たたり)、下は他果反〉といふ。」とある。糸のほつれなどを手直しできる器具である。



紡いだ糸がだらんと垂れると、不調部分を確かめられないからピンと張れるようにできている。何重にも巻きつけられている状態は、罪人がぐるぐる巻きに縄をかけられているのによく似ている。彼らは罪(つみ、ミは甲類)を犯した。糸を縒るのに使うのは、紡錘、古語にツミ(ミの甲乙不明)、ツムである。よく対応している。もうすぐ死罪なのであるが、自分の罪業は棚に上げ、「祟ってやる」などとわめいている。このようなときでも、許されることがある。火付盗賊改の場合、配下の手下、密偵となるのである。忍びの者、忍者の氏に服部くんが名高いのは、この絡垜に由来するのかもしれない。糸のほつれを直せば、準備は万端整う。糸は完成品としてタタリの上に残されている。あとどうすればそのタタリから脱することができるか。機織りをすればよい。ハトリ(服部・執翳者)によって、ツミ(罪・紡錘)のため生じたタタリ(祟・絡垜)から逃れられる。
翳の役目を果たすと知れた「オホタタネコと謂ふ人」を探してみると、いた。本当にオホタタネコなのか、自称しているだけでは確かめられない。そこで天皇は質問してみた。誰の子かと。すると流暢に答えた。大物主大神が、陶津耳命の娘の活玉依毘売を娶って生んだ子で、名は櫛御方命之子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子であって、私は意富多多泥古であると言った。どういう系図なのかよくわからない(注14)が、系譜を聞いているのでも答えているのでもない。「謂れ」を聞いている。すべては話(咄・噺・譚)である。天皇は、聞いてみてこれは本物だと思っている。
陶津耳命とあるのは、今日、陶邑の須恵器と関係する名義とされている(注15)が、話が逆である。スヱツミミなる音を導きたいがためにかこつけている。スヱとは末、ミミとは耳の意と知れば、それは、物の端っこのこととわかる。端は上代語にハである。活玉依毘売を他の個所に出てくる玉依毘売と関係する人物と考える向きもあるが、それも話が転倒している。イクタマヨリと聞けば、生きた魂が依って行くこと、言い伝えに思い出せば、ヤマトタケルが亡くなってから白鳥となって飛んで行ったことが思い起こされる(注16)。鳥はどうして飛べるのか。羽があるからである。ハである。櫛御方命という人が誰かはわからないが、クシミカタと櫛が機能するのは、櫛歯がきれいに揃っているからである。ハである。飯肩巣見命のイヒカタスミの意は詳しくはわからないが、炊いた飯に芯が残って硬ければ、歯でがちがち噛むしかない。ハである。建甕槌命は建御雷神とも書かれるタケミカヅチで、別名を建布都神(たけふつのかみ)といい、よく切れる剣、刃物である。ハである。累々の人がみなハに関係する名を持っていた。人には知られない秘密の質問に答えられるのだから、このオホタタネコと自称する輩も、確かにハ一族であると認められよう(注17)。大物主神が言っているとおり、ハ一族のオホタタネコに翳をもって前を遮蔽する形で祭らせれば、きっとうまくいくに違いない。
これは話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)として煩うことなく成立している。どうしてこのような話(咄・噺・譚)が崇神天皇の時代のこととして記されているのか。おそらく、疫病や飢饉が実際にあったのであろう。三輪山の山麓に、ハツクニシラスノスメラミコトとして統治した人の時代のこととして、人々の記憶に定着させるためにとられた方策である。なにしろ無文字の時代である。文字がなければ覚えておくしか後の時代に伝える術がない。そして、文字に頼らないということは、言葉としては頓智やなぞなぞの知恵が、今日とは比べ物にならないほど発達していたに違いあるまい。言葉を音だけで聞き分ける能力にとても秀でていた。聞く人が聞くだけでなるほどと納得し、納得するから後の時代へと語り継がれることとなる。言葉(音)が言葉(音)だけですべての事情を語り、同時に悟るのである。文字を覚え、図表を知り、パワーポイントで示し、写真を加工し、空中動画までも手にすることができる現代人は、およそ当時のたぐい稀なる言語能力に達することはできない。祟(たたり)に対するには、絡垜(たたり)に対する機織(はとり)同様、執翳者(はとり)を以てすればよい、大物主を遇するには、大者主とでもいえる大きなハ(「者」)の持ち主になればいい。そのようなことは文字を知ってしまったらなかなかに気づかない。記紀万葉の読解には、ヤマトコトバによって、オリジナルなヤマトコトバの世界への文化人類学のフィールドワークが求められている。
(注)
(注1)拙稿「三輪山伝説について」参照。
(注2)吉井1976.に、「文章の構造における明瞭な意図とは裏腹に、ここの文章の内容からだけではどこにもオホタタネコの誕生は語られておらず、オホタタネコが神の子である事実はあきらかにされていない。つまり、オホタタネコが神の子である故を問う文と、神の子であると結論する文を額縁としたこの文章は、その内容では額縁に合うものを必ずしも語っていないという点で、額縁に示された意図と伝承の中身との間に、違和感が生じていることに注目せざるを得ないのである。」(186頁)ときちんとした指摘があるが、残念ながら、そこから形而上学的な解釈へと進んでいる。
(注3)歴史学、神話学、国文学、考古学など、立場の違いにもより、いろいろである。西條2005.は、オホタタネコの祭祀にヒメヒコ制からの祭政分離を見る。和田1996.は、天皇自らの祭祀から巫女や神官への祭祀へと変わったととる。寺川2004.は、三輪氏の氏族伝承を利用しながら神祇祭祀制度が確立したことを語っているとする。青木1994.は、祟り神=境界神の位相で意味づけようとする。直木2009b.は、三輪山の神と天皇家との対立関係から王家の外来を見る。阿倍1999.は、母の活玉依毘売は須恵器生産集団出身で、祭器製造を介して三輪山の神とかかわりをもったとする。鈴木2014.は、オオタタネコの伝承に三輪山祭祀の起源譚と、その後裔を称する大神氏が王権に奉仕することの正統性を示しているとする。益田2006.は、大物主神は疫癘のカミそのものであるとする。壬生1977.、王2000.、矢島2005.、小浜2007.、谷口2008.は、大物主神は疫病神そのものではなく邪神を統治する神であるとする。
筆者は、文字を持たずに言葉を大切に扱ったヤマトコトバの立場から、国文学の側が勝手な解釈をして屋上屋を積むことに危機感を覚える。烏谷2016.に、「依り来る神の原郷は「物」の存在するところと観想されていたようであり、「物」はモノを生成したり、モノの力によって疫病を流行させたりする霊(モノ)が原初的な姿であったと思われる。」(5頁)とある。無文字の時代に立ち戻って検討されたい。「物」概念を拡大解釈し、都合よく種々に用いている。これでは、森羅万象すべてが「物」という一語に還元可能になる。モノ(物)とカミ(神)とタマ(魂)と、なにゆえ別の言葉(音)があるのだろうか。それとも、モノ⊃カミ、モノ⊃タマ、という言語体系であったというのだろうか。記紀のいちばん初めの天地創造の不可思議な記述から、そのように言葉を弄ぶことなどあり得ないと考える。
(注4)古事記における「所謂」の冠する例は、「黃泉比良坂」(記上)、「久延毘古」(記上)、「建豊波豆羅和気王」(開化記)、「五村屯宅」(安康記)がある。「所謂」をイハユルと訓じない例に、崇神記の、「汝所謂之言何言」の例がある。お前の謂っている言葉は何のことか、の意である。
(注5)「所謂王仁」については、稿を改めて論じる。
(注6)古事記伝は、「【此ノ名は、意富(オホ)とよみ、多々(タヽ)とよみ、泥古(ネコ)と読むべし、意富多(オホタ)とよみ、多泥古(タネコ)と読ムはわろし、】旧事紀に、大直禰古(タゞネコ)とも書り、多々は地ノ名なるべし、神名帳に、……」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/16)などと決めてかかっている。何を“分析”しようとしているのか不明である。
(注7)日本書紀には、「池溝」、「大溝」、「溝瀆」、「渠」といった例が見られる。津出1989.、広瀬1989.、木下2009.など参照。
(注8)鈴木2000.に、「現状では翳形埴輪は厳密には存在せず、翳は蓋と違い埴輪も木製品も墳丘にはめぐらされることはなかったようである。」(37頁)とある。関東地方の放射状に線刻されたり、突起の突き出たタイプの“翳形”と呼ばれている埴輪について、筆者は、やはり翳であると考える。両者を同じものからの形象と捉える根拠は、翳に見えるばかりでなく、鵜の蹼にも見えるからである。蹼なら何もウ(鵜)でなくても、カモなどでもそうなっていると反論もあろう。しかし、翳の機能としての隠蔽に当たるほど潜水ができる鳥は、ペンギンやウミガラスなど数が限られている。さらに、ウは鵜飼に使われて、自然界に対して人の側に立っている。とても役に立ち、身近である。つまり、貴人の周りにいて手助けをする従者に同じい。深く掘った溝(うなて)に鵜飼をしている。5世紀の四条大田中遺跡や南郷大東遺跡の翳形木製品は、集落周辺の溝から出土するという。何の祭り、ないし、遊びをしていて興趣が湧いているのか理解されよう。

埴輪に穴が開いているのは、被葬者の“君(きみ)”に当たる人が覗き見れるようにする穴か、鵜の目鷹の目のウの目をあけているのか、絡垜から糸を巻き取る時に上に吊られる輪を示しているのか不明ではある。糸がほつれると絡まるから、あらかじめ絡垜にかけて整えておく。鵜飼に、鵜の足に糸が絡まることがある。鵜匠が下手なのであるが、翳に穴が開いていることは糸の絡み合いを防ぐことを示しているように感じられる。そして、ハニワリ(半月)という語とハニワ(埴輪)という語はよく似ている。ハ、ハ、ハと笑うしかない。
(注9)白川1996.には、「者」の訓に「かくす」と記され、「堵の初文、お土居、お土居に埋めかくした呪祝、かくす、遮と通じる。」(701頁)とある。山口2005.は、直木1964.、瀬間1994.の研究を踏まえたうえで、古事記の「者」字の用法を次のように結論づけている。
『古事記』の「者」は、次のいずれかによって説明できることが明らかになった。①提示用法・対比用法②条件用法③強調用法④文末用法⑤添義用法⑥連体用法(連体節中の主格表示用法を含む)
『古事記』の解釈は、その解釈の手掛かりを、まず『古事記』自身の中に求めるのが、最良の方法である。(83頁)
(注10)大野1974.に次のようにある。
……平安時代初期の漢文訓読体では、「者」の字は人間に関してはヒトと訓むのが普通で、モノとは訓じなかったという……。ヒトといえば社会的に一人前の存在をいう。モノといえば物体である。だから、モノは一人前の人間つまりヒト以下の存在を指すという意識が、平安時代初期までは明確にあった。それ故、「者」はヒトと訓んでモノとは訓じなかった。『源氏物語』などを見ても、痴(し)れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、わかもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、……ものという複合語が使われ、痴れひと、悪(わる)ひと、ひがひとなどとはいわなかった。(33~34頁)
「者」字についてモノと訓む例としては、平安初期にも仏典に多く見られる。万葉集では、「生ける者 遂にも死ぬる 物に有れば この世なる間は 楽しくを有らな」(万349)とある。日本書紀では、図書寮本(永治二年(1142)訓)に、「譬如物積船以待潮者」(安康紀元年二月)は、「譬へば物を船に積みて潮(シホ)を待つ者(モノ)の如し」とある。古事記では、「此稲羽之素菟者也(此は稲羽(いなば)の素菟(しろうさぎ)といふ者(もの)なり」(記上)、「於今者山田之曽富騰者也(今には山田の曽富騰(そほど)といふ者(もの)なり」(記上)、「是化白猪者其神之使者(是の白き猪(ゐ)と化(な)れる者(もの)は其の神の使(つかひ)の者(もの)ぞ」(景行記)、「執檝者(檝(かぢ)を執(と)れる者(もの)」(応神記)といった訓が見られる。一人前の人間、それをヒトと言うが、それ以下の存在として明らかに「者」字が用いられているところをみると、モノという言葉に「者」字を当てる意識が働いていたことがわかる。
(注11)ハンムラビ法典のそれは、「目には目を、歯には歯を」であるが、ヤマトコトバには「者(もの、は)には翳(は)を」と優れている。なぞなぞ大王の治める国である。
(注12)新編全集本古事記の頭注に、「神などを指す時に、それと直接示すことを避けることによって、敬意を表す言い方。ここでは「御心」と同じく、発言者が神であるための自己尊敬の表現。」(183頁)とある。将軍のことを「殿」という言い方に同じであると誤っている。頓智話のヒントをふいにしている。
(注13)延喜式・内匠式に「翳柏形四枚」とあり、「翳の柏形(かしはがた)」と訓んでいる。虎尾2007.に、「柏形 翳に付ける柏の葉の形をした銅製の装飾品か。」(429頁頭注)とある。実物は管見にしてわからない。あるいは、柏の葉の形は、羽を連ねたような形をしているから、鷲類のサシバの羽を使った古来より伝承されるタイプの翳のことを指しているかと想像する。羽(は)を連ねた葉(は)の形の翳(は)である。上にあげた顧愷之の絵に見られるタイプはそれを物語っている。カシハ(柏)という植物名は、ハ(葉)がハ(羽)の連なりになっていることに注目した語かとも思われる。素材が羅になったから、今日伝わる羅紫御翳のような形に行きついたのではないか。



(注14)青木1994.には、古事記の意富多々泥古の系譜を四世の孫ととって、欠史八代の天皇の系譜と対応させようとしている。
(注15)須恵器生産の開始によって陶器生産が行われて「陶邑」が出現したのは古墳時代の5世紀のことで、崇神天皇の時代から100年後のことである。直木2009a.、佐々木1975.、吉井1976.らは、このギャップを疑問視して議論を展開している。けれども、スヱツミミという音義を理屈づけるために、紀は、「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)」といった形容を行っているにすぎない。田中1987.は、和泉の〝スヱ〟といふ土地で、新来の陶器の生産が始められ、盛行したので、製品が〝スヱ(の土地)のウツハ〟と呼ばれ、〝スヱ〟の漢字として、「陶」の字が宛て用ひられるやうになつたのであらう。」(366頁)とする。地名譚が適当であることは、記紀の多くの記事に確かめられる。崇神記にも、「三勾」→ミワ、「挑」→イヅミ、「屎褌(くそばかま)」→クスバなど、下らない文章が頻出している。記紀の記された当時において、地名にある固有名詞は、なんとでもこじつけて良いものと考えられていたのであろう。名とは何か、それは呼ばれるものにすぎない。そう呼ばれることを“説明”するのに、紀の編者は時代的に合わないことを承知の上で、須恵器のことをにおわせる譚をしている。だから、挙句の果てに、「所謂大田田根子」という表現が成立している。まともな話としてはあり得ないことを示唆している。知恵がゆたかで、杓子定規に陥らない、とても賢い人たちである。
なお、記に「於河内之美努村見得其人貢進」とあり、「河内」の「美努村」という地名が明記されている。オホタタネコという名の一解釈に「大田」+「種子」が溝のこととした。河の内の話である。「美努」については、「努」字がヌとノ(甲類)のどちらにでも訓まれるため、ミヌかミノか確かめられていなかった。記に「努」字はこの1例である。オホタタネコの一解釈に「大手」+「種子」が翳のことであるとした。翳で隠すとよく見えないから、「見ぬ」の村ということから注目させる地名をもってきている。訂正古訓古事記、延佳本鼈頭古事記、兼永筆本、猪熊本古事記、前田本古事記などにある古訓ヌが正解のようである。(注12)にも触れたように、大きな葉の代表にカシハがある。仁徳紀三十年九月条に、「御綱葉、葉、此には箇始婆(かしは)と云ふ。」とある。カシワの木は、離層を作らずその大きな枯れ葉を翌春まで残す傾向に強い。「葉」の代表にカシハを選ぶ上代の人々の感性が知られる。
(注16)ヤマトタケルの逸話は、景行天皇時代のことだから、崇神朝に合わないとする意見もあろう。そういった四角四面な考え方は、お話(咄・噺・譚)を聞くうえで建設的ではない。落語を聞くのに屁理屈を捏ねて間違いだと言っても、何も得られるものはない。魂が生きていて飛んでいくと考えるのはよくある発想である。豊作の米を餅にして矢の的にして粗末にしていたら、鳥になって飛んで行ったとする話が豊後風土記に載る。的のことをイクハという。どうしてイクハというのか定かではないが、イクハと言っていたのだからそう認めるしかない。本稿は、イクもハも出てくる言葉となっている。イクタマヨリビメがハと関連していることを示唆している。
(注17)「ハ一族」という形容は、理解をすすめるために用いている。当たり前の話であるが、蘇我氏、物部氏、三輪氏と並んでハという人たちがいるわけではない。すべては、頓智、なぞなぞである。
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※本稿は、2017年4~5月稿を2020年10月に整理したものである。