古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

三輪山伝説について 其の一

2020年10月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本稿では、よく知られている古事記の三輪山伝説について論ずる。記に語られる内容は、半月(はにわり)の交わりから祟り神として祓の対象とされていたというものである。すべては、ヤマトコトバによってテキストのなかに記されている。

 此の意富多多泥古(おほたたねこ)と謂ふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘売(いくたまよりびめ)、其の容姿端正(かほよ)かりき。是に壮夫(をとこ)有り。其の形姿威儀(かほすがた)、時に比(たぐひ)無し。夜半之時(よなか)に、儵忽(たちまち)に到来(き)つ。故、相感(め)でて共婚(まぐは)ひして共住(す)める間に、未だ幾時(いくだ)も経(あ)らねば、其の美人(をとめ)妊身(はら)みぬ。爾に父母其の妊身(はら)みし事を恠(あや)しみて、其の女に問ひて曰ひしく、「汝(な)は自(おのづか)ら妊めり。夫(を)无(な)きに何由(いか)にして妊身(はら)める」といへば、答へて曰ひしく、「麗美(うるは)しき壮夫(をとこ)有り。其の姓名(な)も知らず。夕(よ)毎(ごと)に到来(き)て、共住める間に、自然(おのづか)ら懐妊(はら)みぬ」といひき。
 是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひきて、其の女に誨(をし)へて曰ひしく、「赤土(はに)以て床前(とこのへ)に散し、閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)を針に貫きて、其の衣の襴(すそ)に刺せ」といひき。故、教の如くして旦時(あした)に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ)き通り出で、唯(ただ)遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、糸に従(よ)りて尋ね行けば、美和山(みわやま)に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地(そこ)を名づけて美和と謂ふ也。(崇神記)

 三輪山がミワヤマと言われるに至った地名譚が語られている。当然ながら“話(話・噺・譚)”のレベルのことである。そう言われ、そう知られている。鞠状の「閇蘇(へそ)」の「紡麻(うみを)」が伸びていって「三勾(みわ)」残ったという話である。「赤土(はに)」をしるしになるように散しておいて、績み麻につける工夫が行われている。「鉤穴(かぎあな)」を通って出て行っている。その輪から逆に手繰って行ったら、三輪山の「神の社」にたどり着いた。大神神社は、今日でも三輪山自体をご神体としており、本殿はない。つまり、元のヘソのところが「三勾」、向こう側も三輪ということである。両サイドで釣り合いが取れている。
ヘソ(岩手県紫波郡紫波町船久保、昭和44年頃、日本民家園展示品)
 「閇蘇(へそ)」は、績んだ麻(を)が巻かれて玉のようになっている。内側から端先が出ていて引いた時に転がって行かないものである。和名抄に、「巻子 楊氏漢語抄に云はく、巻子〈閇蘇(へそ)、今案ずるに本文未だ詳らかならず。但し、閭巷に伝へる所、麻を續[=績]みて円く巻く名也〉といふ。」とある。三輪山伝説では、ヘソから出て行った紡麻を手繰って行って三輪山の社にたどり着いている。その間に糸が撚られて行ったのをたどるのだから、崇神記に「従」とあるのは、ヨリテと訓むべきであろう。ヨル(撚・縒)という語は、複数の繊維を捩りながら絡ませて際限なく進めてつながり伸ばして糸とする作業を表す語である。マニマニ、シタガヒテなどという訓は、意味は通じてもまどろっこしく不適切である。
 深い観察に基づいてヘソと呼んでいる。動物の臍に同じということである。胞衣(えな)の内側へ引かれて胎児に至っている。その腸(わた)のような緒(を)のようなつながりが臍(へそ)ということである。腸(わた)のようなものが繰られている。ワタクリによってワ(輪)+タクリ(手繰)をしたという洒落であろう。活玉依毘売の身籠った理由を探る話である。母胎と胎児とは臍の緒を通して栄養が送られている。臍の緒は撚れるようになっている。だからこそ、「閇蘇」が話にのぼっている。順当で違和感がない。
胞衣図(刑死者解剖図、1800年、1842年複写、東洋文庫ミュージアムデジタルブック)
 三輪山がミワと名付けられた経緯については、もとより不明である。記紀万葉当時において、地名の語源よりも、当該地名のミワという言葉(音)を人々がどのように捉えられていたか、それが肝要である。枕詞を作るなど、ユニークに言葉を楽しんだのが上代の人たちである。

 隠所(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川ゆ 流れ来る …… 御諸(みもろ)が上に …… 帯(お)ばせる ささらの御帯の ……(紀97)
 三諸(みもろ)の 神の帯ばせる 泊瀬川 水脈(みを)し絶えずは 吾忘れめや(万1770)

 これらの歌に、御諸(三諸)とは、現在の三輪山のことを指している。その三輪山のまわりを泊瀬川(大和川)、纏向川の水がたわんで、腰のところに帯(ベルト)を巻くようになっていると見ていたとわかる。
 古典基礎語辞典に、「みもろ【御諸・三諸】」の「解説」に、「ミ(御)は神にかかわるものに付く接頭語。モロはモル(盛る、自動ラ四)やモリ(森・杜)と同根で、神の降下してくる所をいう。また、ムロ(室)の意かとする説もある。中古以降はミムロ(御室)の形が一般化して用いられた」(1158頁、この項、北川和秀)とある。神の依りつく場所の意ということらしい。時代別国語大辞典にも、「【考】ミモロのミが接頭語であることは疑いない。モロについては定説がない。通説は室(ムロ)の意とする」(716頁)とある。西宮1990.には、「ミムロは、神の宿ります場所の状態に基づいた命名である。そして一方の、ミモロは神の宿ります森に基づいた命名である。……ミムロとミモロとは、音韻上の交替なのではなく、元来別語(共通するのは、ミ=神霊のみ)であった」(380頁)といった考究も行われている。語源への現代人の飽くなき探求が見られる。不確かながら語源的にはそういうことかもしれないが、枕詞を生んだほどの上代において、言語はもっと口語的で、駄洒落、地口の類が蔓延っていたものと考えられる。語感が重要である。その語感の復原には、記紀万葉の用字が手掛かりになる。
 万葉集において、ミモロという語の用字には、「三諸」(万156・324・1059・1095・1377・1761・1770・2472・2981・3222・3227(2)・3228・3231・3268・4241)が圧倒的に多く、それ以外の「御諸」(万420)、「三毛呂」(万1093)、「三毛侶」(万2512)、「将見圓」(万94)、「見諸(戸山)」(万1240)は数えるほどである。ここから、ミモロという言葉に対する上代人の心性を垣間見ることができる。万葉人の感覚では、ミモロのミには「御」(「霊」)ではなく「三」が意識され、モロには「諸」が近しいと感じられていたようである。もし現代の辞書的解釈のように感じていたなら、「御盛」や「御杜」と記した例が見られていいように思われる。語源説にはたいへんな勘違いがあるようである。
 地名のミワ(三輪)についても、記には、「美和」、紀には、「三輪」、万葉集には、「三輪」(万17・18・712・1095・1517)、「三和」(万1119・1684・2222)、「神」(万156・157・265・1226・1403・3014・3840)、「弥和」(万1118)とある。記紀万葉当時の人にとって、ミワという地名を「水輪」のことであると考える傾向にはなかったらしい。“語源”のようなものは、飛鳥時代の人にとって特段に重視すべきものではない。三輪山のある地をミワと呼んでいること、それが出発点となって、ではそれにふさわしいあり方を人々のほうで取ろうではないかと考えた。それが、上代の言霊信仰にある人たちの振る舞いとして正しい。ミワと聞いて、「三」+「輪」のイメージで思い浮かぶものとは何か。そもそもワ(輪)とは何か。ワとは、まるい輪郭をもつもののことである。和名抄に、「輪〈輞附〉 野王案に云はく、輪〈音は倫、和(わ)〉は車脚の転進する所以也といふ。四声字苑に云はく、輞〈文両反、楊氏漢語抄に於保和(おほわ)と云ふ。一に輪牙と云ふ〉は車輪の郭曲木也といふ。」とある。今、卑近に知られる車の輪であり、転がって進むのがその実質である。
 今のような車輪を作り上げるまでには、人類はたいへん頭を使ったに違いない。車輪の完成は、人類史にとって、革命的な出来事であった。軽戦車が開発されれば、外からの攻撃を防げて都市国家は安定的に繁栄できる。富めるものが強くなったのである。富が築けても掠奪されるリスクが高ければ、人は退屈な農耕作業に勤勉にはならない。それほどに重要な機具を支えるのが車の構造である。まず、コロのようなものをまるい軸を地面にあてがって運搬の助けとした。コロがコロコロと転がるのは、まるい輪郭をもつからである(注1)。次に、車軸に円盤状の車輪をつけた車が登場する。当初は1枚の材を削って作ることしか思いつかないが、円周を大きくすれば車の性能はあがることから、円盤を2枚組み合わせるといった工夫も成されたであろう。ウルのスタンダードに見られるタイプである。これら円盤状の車輪は、漢字に「輇」と書かれる。車軸のワと輇のワの2つのワからなる第2の輪である。そして、円周をさらに大きくするために、車輪の途中にスポークを入れてタイヤを支えるようにした。その場合、車軸のワ、いちばん外側の地面に接する「輞」と書かれるタイヤ部分のワ、そして、スポークをまとめながら車軸を通すハブ部分、「轂(こしき)」と呼ばれるワが拵えられる。都合3つのワによって成り立っているのが、第3の輪である。本邦では、平安時代によく見られる牛車に採用されている。3つのまるい輪郭でできあがっているもの、それがミワ(三輪)である。接頭語ミ(御)+ワ(輪)と捉える意にも値する、すばらしいワ(輪)である。そもそも、まるい輪郭を作る目的には、和名抄にもあるとおり、コロコロと転がそうとすることがあった。それが発達して、効率よく進む車が開発され、クルクルと軽快に回転して行くようになった。そのからくりは、大陸のカラ(韓・唐)の教えによるものである。本邦では、カラカラと急回転する二輪馬車までは展開しなかったが、クルクル回る車までは到達した。詩経・王風・大車に、「大車は檻檻(かんかん)たり」とあるのは、車の快調な回転を表わす音であろう。
コロ(石山寺縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589669/23をトリミング)
左から、ウルのスタンダード(大英博物館蔵、牽引はオナジャー、「戦争の場面」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウルのスタンダードをトリミング)、輇出土品(吉田南遺跡、奈良~平安時代の河川から出土した直径約60cmの木製の車輪。神戸市埋蔵文化財センターhttps://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/spots/html/nishi/yosida7.html)、をくり(小栗判官絵巻、伝岩佐又兵衛筆、江戸時代、17世紀、三の丸尚蔵館蔵、「絵巻を愉しむ」展パンフレット)、大坂輇車(べかくるま)(喜田川季荘・守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592419/28をトリミング回転)
左から、輻付き車出土状況(桜井市小立古墳、7世紀後半、産経新聞、平成13年(西暦2001年)12月5日)、牛車の交通事故(年中行事絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591110/5をトリミング)、トラック(石山寺縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589669/22をトリミング)、大八車(日本民家園展示品)、人力車(光峨飯島明・旅日記、1876年、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586581/9をトリミング)
 そのようなミワ(三輪)の最深奥のからくりは、轂という器具にある。車軸に貫かれた「轂(こしき、コは乙類、キは甲類)」こそ、放射状に広がる「輻(や)」をまとめて車輪を支える役割を果たしている(注2)。新撰字鏡に、「▼(轂の旁が欠) 古久反、己志支(こしき)」、和名抄に、「轂 説文に云はく、轂〈古禄反、楊氏漢語抄に車乃古之岐(こしき)と云ふ。俗に筒と云ふ〉は、輻(や)の湊(あつま)る所なりといふ。」とある。
左:車作(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444/17をトリミング)、右:輻のはずれかかった状態(神田明神山車(須田町)、江戸東京博物館展示品、江戸末期に古川長延が復元したもののを江戸博開館時に1/1で複製?)
 今日、当たり前のものと見られるスポークで車輪を支える車の構造は、ヤマトの人々には驚きであったろう。中国では馬車、牛車に用いられ、ルーツは古代メソポタミアに遡る。馬はスピードが出るから、しっかりした車輪が作られなければならない。技術的な点から推測したとき、牛車が先、馬車が後のように考えられている。古くオナジャーに曳かせたのではないかとする資料も見られる。日本では、平安時代に貴族が乗った牛車がよく知られている(注3)
 和名抄に、「輻 老子経に云はく、古の車に三十(みそ)輻〈音は福、夜(や)〉有り。以て月数に象る也といふ。」とある。老子・無用第十一に、「三十輻共一轂。」とあり、河上公注に、「古者車三十輻、法月数也。共一轂者、轂中有孔、故衆輻共湊之。治身者当除情去慾、使五蔵空虚、神乃帰之也。治国者、寡能惣衆、弱共扶強之也。」とある(注4)。車輪のスポークの数が30本なのは、ひと月が30日だからであるということが記されている。それは、周礼・冬官・考工記の「輈人」に、「軫之方也、以象地也。蓋之圜也、以象天也。輪輻三十、以象日月也。蓋弓二十有八、以象星也。」とあるのに由来するらしい。引き継がれており、後漢書・輿服に、「輿方法地。蓋円象天。三十輻、以象日月。〈鄭玄曰、輪象日月者、以其運行也。日月三十日而合宿。〉蓋弓二十八以象列星。」とある。
 以上のことから、ミワという地名を聞いて、上代の人は、三つの輪から構成されたスポーク付きの車輪のことをイメージしていたと推測された。本当にそうなのかは、轂(こしき)と同じ訓みの甑(こしき、コは乙類、キは甲類)を検討すればわかる。甑は米などを蒸すための土器で、蒸籠の焼物版である。和名抄には、木器に、「甑〈甑帯附〉 蒋魴切韻に云はく、甑〈音は勝、古之岐(こしき)〉は炊飯器也といふ。本草に云はく、甑帯灰〈古之幾和良乃波飛(こしきわらのはひ)〉といふ。弁色立成に云はく、炊単也といふ。」とある。円筒形ないし鉢形をしており、左右に耳状の把手が付くこともある。外見は甕のようであるが、底にいくつか穴が開いている。穴が中心に1つの場合もある。簀子状のものを敷くなどして、その上に洗って水に浸しておいた米ほかを入れて蒸した。中国では河姆渡遺跡からも発掘例があるほど古くからある。3~4世紀にかけて朝鮮半島を伝って伝来したと見られ、5世紀、須恵器や土師器の甑が見られる。竃、釜、甑の三点セットで本邦に伝わったとされる。古墳時代の関東地方の遺跡からは、竃に長胴形の甕を嵌め殺しにして据え、その上に甑をのせて使っていた事情がそのまま発掘されている。また、それ以前からも似た形の底に穴の開いた土器は出土している。これは起源的に違うけれども、同じように用いられたものということであろう。熱効率は竃が圧倒的にすぐれているから、当時においても甑というものは、須恵器技術の伝来と時を同じくして伝えられたと考えた人もいたのではないか。なぜ甑が必要か。蒸した米を使ってお酒を造りたいからである。山上憶良の貧窮問答歌に、「…… 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊(かし)く ……」(万892)とあるのを、酒米を蒸せずに酒が飲めないことの謂いとする解釈(佐原真説)もある。後に述べる崇神紀にある「陶津耳」という人名は、耳のような把手の付いた須恵器、甑の謂いかとも推測される。
左:甑(奈良県御所市南郷遺跡群出土、古墳時代中期、5世紀、橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:甑(月桂冠大倉記念館展示品)
 甑は、本邦では橧とも書く。播磨風土記・宍禾郡条に、「阜(をか)の形も橧・箕(み)・竃(かまど)等に似たり。」とある。橧の字は、白川1995.に、「〔新撰字鏡〕に「橧 己志支(こしき)なり」とあり、また木偏に甑を加えた字をも録する。いずれも甑の異文とみてよく、〔康煕字典〕にもみえない字である。」(326頁)とするが、中国では、「橧巣」と使うように、木の枝を積み上げてその上に住むようにした古代の住居のことである。夏暑いから橧に住む。新撰字鏡には、「橧 辞陵反、豕の寝る所也、草也、己志支(こしき)也」、また、「△(木偏に甑) 己志支(こしき)」とある。甑が湯気に蒸されて熱いのに同じである。様子は鳥の巣さながらである。平城旧址出土の橧も確認されており、早くから木製のこしきが考案され、使われていたようである。
 和名抄に記述のあるコシキワラなるものについては、今のところ何であるか定められていない。狩谷棭斎は箋注倭名抄で、「源君、四声字苑を引くは、箅・箄の混同の誤れるを襲ふ也。」(原漢文、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991787/97)、コシキワラのことは、「説文を按ずるに、箄は甑底を蔽ふ所以、古之幾和良(こしきわら)は蓋し是の類か。」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991787(86/111))としている。けれども、新撰字鏡に、「箄箅 二同、方奚反、平、冠飾也、又卑婢反、小籠也」とあるから、混同というよりも、字義に膨らみを持たせて通用していたのであろう。和名抄に、「箄 四声字苑に云はく、箄〈博継反、漢語抄に飯箄は以比之太美(いひしたみ)と云ふ〉は甑の底を蔽ふ竹筺(たけかご)也といふ。」、「籮 考声切韻に云はく、江南の人は筺の底を方にして上の円なる者を謂ひて籮〈音は羅、之太美(したみ)〉と為(す)といふ。」とあり、新撰字鏡には、「籔䈹 二同、竹伯(?)反、亦同、蘇后反、上、濂米器、志太彌(したみ)」とある。イヒシタミはイヒ(飯)+シタミの意である。
 箄(いひしたみ)と呼ばれる品は、米を洗ったり、水に適度に浸したり、その後水切りする笊機能のあるものと思われる。民俗用語にフカシザル、サルと呼ばれる小型のものは、逆さに伏せて甑のなかに入れ、蒸気噴出口の調節をはかったものということであろう。洗った米を甑に入れて蒸すには、簀子かフカシザルを中にセットするか、木製のものならば一体化して作られており、米は布にくるんだりした。土器製の甑ならば、箄(したみ)と呼ばれるうどんを温める際に用いる手籠様のものを、焼き物の甑に入れるなどいろいろ工夫したのではないかと思われる(注5)
 シタミ(箄)という語は、動詞シタムの連用形と思われる。新撰字鏡に、「漉 渇也、涸也、尽也、志太牟(したむ)」、和名抄に、「醅〈釃字附〉 ……唐韻に云はく、釃〈所宜反、又上声、釃酒は佐介之太无(さけしたむ)、俗に阿久(あく)と云ふ〉は酒を下む也といふ。」とあり、笊にあげて水気を下方へ落とし切ることを言っている。酒を搾ることとは固形物を取り除くことである。今日では濁り酒を、布を使い、あるいは圧力をかけて濾過し、濁りを除き切って透明にしている。古代にどのように行われていたのかわからないものの、一滴残らず酒にして味わおうとしていたであろう。酒を醸造するために甑を使って米を蒸すなら、洗米、浸水を行ってから箄にあげて水気を落とすことが第1段階としてある。次に蒸す際、水蒸気が米の中を通って上って行っても、結露となって釜(甕)のほうへ水滴が落ちることもあるであろう。箄に洗米を入れて甑中にセットするか、フカシザル形式かわからないが、それが第2段階としてある。さらに、蒸した米を杉板の上で麹と合わせるような過程を経た後、発酵させて酒を造り、発酵してできたどぶろくを箄を使って粗く漉してお酒(濁り酒)として完成させていた、それが第3段階としてある。仮に竹製の箄という字を当てる道具が使われなくても、シタムという行為が都合3回行われていると認識できる。
左:シタミ(寺島良安・和漢三才図会 上、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/246をトリミング)、中:シタミ(蘿)(底が四角で上が丸い籠。「宝島生活文化図鑑」www.toshima-sc.net › takarajima-seikatsubunkazukann(6/8)をトリミング)(注6)、右:サル(米を蒸す作業の時、甑の底の上に置いて、釜から上がる蒸気を甑内に均等に分散させ、蒸米を上手く仕上げるための小道具。長龍酒造株式会社「蔵人日記」http://www.choryo.jp/blog/diary/2010/06/post-196.html)
 すなわち、酒のなかでも良い酒、神さまに捧げるような、あるいは、神さまから授かったような酒とは、製造工程の3段階においてシタムことをしたもの、ということが象徴的に言い表されていると考えられる。シタ(下)という語は、物の下側のこと、それは、裏側とも言い表され、裏とは上(うへ)の反対、卜(うら)、末(うれ)に当たり、それは末(すゑ)に当たる。酒を釃(した)むとき、下に置いておく甕は、須恵器(すゑのうつはもの)が適当である。シタムときにシタに置く器とは、スヱということである。せっかく漉した良い酒が、素焼きの鉢のように水分を通してしまってはもったいない。三輪地方と須恵器、陶邑との交流関係が指摘されているのは、初めに言葉ありきゆえそういうことになっている。シタムの類語に、シタヅ(瀝)、シタダル(垂)がある。シタダルから、シタ(下)にはタルを置くと思ってタル(樽)なる語が後世、作られたのかもしれない。列島では、酒の容器は甕、壺、瓶など土器であった(注7)
 「甑帯」と書いて、甑の外側にあるはずと考え、甑を甕に据える際のクッション材として藁を用い、それが炭化して、コシキワラノハヒとなったとも考えられる。民俗事例に、甑の下に米俵を転用して敷いて使った例がある。甑・橧・蒸籠・蒸し器のような定式を持たない利用法については、もはや字書の及ぶ域ではなく、民俗考古学的な実証がなければ見極められない。筆者は、言葉のうえでは、甑「帯」という用字から、それをお腹の臍帯、つまり、へその緒と関係するものと見る。へその緒を大事にしまっておいて成長した暁に桐箱をあけて見たときに、ボロボロに灰状化していることに気づかされる。コシキワラノハヒなるものは、そんな状態に近いと意識されたのではないか。甑落としという風習は、後産に障りがないようにするおまじないである。 古代の人は「甑」に何を見たのか、深く検討されなければならない。筆者は、神功皇后が新羅親征にあたり、御子が生れないように鎮懐石を当てていたこととは、石の雰囲気をかもし出す灰色の須恵器を腹帯のように当てていた、ないし、パンツのように穿いていたことを表すと考えている(注8)。須恵器の甑は底に穴があるから、脚を出すことができる。貞操帯ならぬ出産予防腹帯である。下の記事になぜ「伊斗(いと)」なのかについては、三輪山伝説に「糸」との関連を後に見る。

 故、其の政、未だ竟らぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて以て御裳(みも)の腰に纏(ま)きて、竺紫国(つくしのくに)に渡るに、其の御子はあれ坐(ま)しし。故、其の御子を生みし地を号けて宇美(うみ)と謂ふぞ。亦、其の御裳に纏ける石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら)に在り。(仲哀記)

 輻を曲げて車輪全体に反りを入れたのを、漢代に「綆」から改め「箄」と呼んでいた。そして、米を蒸す際に活躍する籠笊も「箄」と呼んでいる。どちらも漏斗状にまるく湾曲しながら窄まっていく形をしている。同じ様態だから、同じ漢字となっている。轂のなかに曲がった輻を差し込むことを箄といい、甑のなかに入れて蒸すのに使ったかもしれない底窄まりの竹籠も箄という。本邦で轂に曲げる工夫が施された痕跡は見られないが、上代の識字インテリには、舶来のコシキ(甑・轂)に箄は付き物であると確認されたであろう。
 ここで問題となるのは、輻の本数はひと月の日数と合わせて30本とされていた点である。実際の車輪のスポークについては、発掘事例から中国においても必ずしも30本ではなかったようである。とはいえ、輻が30本なのは、ひと月が30日だからであるという決め事がそれらしく伝えられている。スポークを持った車輪という実物か書物、また、教えてくれる人によって、そのことがまことしやかに本邦へ伝わっていたとする(注9)と、次のことが仮定される。すなわち、ミワ(三輪)という言葉は、3×30=90日を意味する。春夏秋冬、四季の廻りを表わし、季節は、孟(はじめ)・仲(なか)・季(すゑ)と表され、3カ月でスヱを迎える。そして、「九十」という数字の縦書きは、今日、卒寿という賀の祝いがあるように、「卒」の異体字、「卆」から90を表わしている。卒寿を賀の祝いとする例は平安時代にあるものの、さすがに90歳まで生きる例は珍しく、また、「卒」という字はヲハル、シヌを意味することもあり、賀とするには適当とはされなかった可能性が高い(注10)。論理矛盾を催す字面である。
左:「其慧眼卆不」(法華義疏・巻第一、聖徳太子筆、飛鳥時代、7世紀、ウィキペディア、尾上八郎 様「御物『法華義疏』(巻第一の巻頭部分)」https://ja.wikipedia.org/wiki/三経義疏をトリミング)、右:「……九月廿一日卆」(奈良県宇陀郡榛原区八滝文祢麻呂墓出土墓誌、銅製鋳造、奈良時代、慶雲四年(707)、東博展示品。e国宝http://www.emuseum.jp/detail/100202/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D113%26num%3D8参照。)
 月のことを輪と表現するのは、仏教思想も関係しながら中国から移入された観念が関係しているであろう。「月輪」はガツリン、ガチリンと読み、形が円くて輪のように見えるから、「輪」の字を添えたものとされている。後拾遺和歌集に例があり、3つの月輪でもって90日、卆を表したことが知れる。

  故土御門右大臣の家の女房、車三つに相乗りて菩薩講にまいりて侍けるに、雨の降りければ、二つの車は帰り侍りにけり、いま一つの車に乗りたる人、講にあひてのち、帰りにける人のもとにつかはしける  よみ人しらず
 もろともに 三(みつ)の車に 乗りしかど 我は一味(いちみ)の 雨にぬれにき(1187)
  月輪観をよめる  僧都覚超
 月の輪に 心をかけし ゆふべより よろづのことを 夢と見るかな(1188)

 仏教では、三車の譬えが唱えられる。法華経・譬喩品に、火のついた燃えている家、火宅の中で、それと知らずに遊んでいる子供に、羊車・鹿車・牛車というおもちゃをあげるからと言って屋外に出させたという譬え話がある。救いに導くための方便として、譬喩が説かれている。羊・鹿・牛の三車である。周礼・考工記との計算からしても、三車にそれぞれ輻が30本だから、計90日、卆(卒)ということになる。火宅とは、煩悩や苦しみに満ちたこの世のことを、火に焼けている家に喩えたものである。日常生活が火の車かどうかを経済状態にのみ言うようになったのは、後代のことではないか。いずれにせよ、いろいろあって苦しくなっていくとき、自らの穢れを祓うことによってリフレッシュして再活性化したいと願うものである。法華経では、人びとが三界のうちに生きていて、諸々の迷いや悩みに苦しめられることばかりか、その苦しみにさえ自覚しないでいる愚かな状態までも、焼けていく家屋に喩えており、迷える人を、家の中で迫って来る運命も知らずに戯れている子どもに喩えている。煩悩から卒業したいという言い分である。
 以上のことから、コシキ(轂)はミワ(三輪)という言葉を介して、90日、スヱ(季)と関係がありそうであるとわかる。コシキ(甑)がスヱ(陶)と関係がありそうであったことと対照を成している。須恵器製の甑が、真新しい甑と認識され、神功皇后の鎮懐石にまでイメージ展開された。牛車の轂の場合、轂を含めた車輪全体が黒く漆で塗られている。それも、ヤマトコトバでのつながりから連想されたものかもしれない。赤く塗ったら、土師器に近くて何となく漏れ出る。黒く塗ったら地肌が硬い須恵器に近い。スヱとは末、世も末の最後の意味である。酒を据えて神さまに捧げて、なにとぞお助けくださいと祈りたいところである。そこで、須恵器製の甕に酒を入れてイハフ(祝・忌)のである。土師器ではしみ出て行って減るから、さっさと祭りを終えて宴の席にしてしまう。取っておけるのが須恵器、取っておきの酒を供えるのである。それが御酒である。それをなぜかミワという。今日、神のことをミワといい、神酒のこともミワというとされている。時代別国語大辞典に、「みわ【三輪・神】(名)神。」の「考」に、「「味酒(ウマサケ)瀰和(みわ)の殿の朝門(アサト)にも出でて行かな」(崇神紀八年)「味酒三輪(みわ)の社(ヤシロ)の山照らす」(万一五一七)「美和(みわ)之(ノ)大物主神見感(メデ)而」(記神武)などとある大和の三輪の地の大物主神の神威が大きく、神といえば三輪の神が思い起こされたので、ミワに神があてられるようになったのであろうか。」(719頁)、「みわ【御酒】(名)神に供える酒。」の「考」に、「鍋や甕の類を総称してワといい、御甕(ミワ)で酒を醸したからミワというとみる説もあるが、鍋や甕の類をワといったという確かな証拠はない。」(同頁)とある。説明になっていない。
 大物主神は、ありがたくてたてまつりたい神ではなく、祟りを起こすと困るからお祓いしたい神である。それは、モノと言って確かである。「鬼」の字を当ててもふさわしい。新撰字鏡に、「鬼 九偉反、上。人神曰鬼。慧也、帰也、送身也、遠也」とある。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名は於邇(おに)。或説に、於邇(おに)は隠奇(オンキ)の訛れる也と云ふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴪〈音は蟻、又、音は祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人死の神魂也といふ。」とある。新撰字鏡の説明にある「遠也」とは、論語・学而に、「曽子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。(曽子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣。)」とある「遠」の意で、先祖のことである。「人神」を「鬼」と言っており、亡くなったご先祖様のことを言っている。すなわち、大物主神がモノと扱われる神、人神であると捉えるなら、人が死んで化けた亡霊のイメージが近い。人のようでありながら人でなしなのが鬼である。卒(卆)した者が人神、鬼、である。九十、つまり、三輪にふさわしい。
 「鬼」は、康煕字典に、「唐韻・集韻・韻会」を引き、「鬼」は「从居偉切。音詭。」とある(注11)。「詭」は、過委切である。ヤマトコトバに直すと、「過」は「過所」をクワソ、「悔過」をケクワと言ったようにクワの音、「委」はヰの音である。つまり、鬼はクワヰと読める。慈姑・烏芋とも書くクワヰという植物は、万葉集でヱグと呼ばれている。
クワイの葉(「人」の形に似て人でなし。両刃の剣の3つついた三諸の形。井の頭自然文化園)
 君がため 山田の沢に ゑぐ(恵具)採(つ)むと 雪消(ゆきげ)の水に 裳の裾濡れぬ(万1839)
 あしひきの 山沢ゑぐ(佪具)を 採みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責めても(万2760)

 時代別国語大辞典に、黒ぐわいのこととする。「考」に、「ヱグの名称は、ヱグシ(形ク)(名義抄に「𨣲・醶 エグシ」とある)の語幹と関係があろう。」(826頁)とある(注12)。えぐいものとしては、和名抄に、「茄子〈醶字附〉 釈氏切韻に云はく、茄子〈上の音は荷〉は一名、紫瓜子といふ。崔禹食経に云はく、茄〈奈須比(なすび)〉は味は甘鹸〈唐韻に力减反、𨣲醋味也、𨣲は初感反、酢味也。俗に鹸を恵久之(ゑぐし)と云ふ〉、温にして小毒、烝煮及び水醸して食ふに快菜と為るといふ」とある。茄子は、調理によってえぐ味が少なくなる。この「ゑぐし」という語には、名詞で、酒をほめていう言葉がある。「ヱは笑(ヱ)ムの語幹のヱで、飲んで心楽しくほほえまれる酒の意であろう。」(826頁)とする。

 須須許理(すすこり)が 醸(か)みし御酒(みき)に 我酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) ゑぐしに 我酔ひにけり(記49)

 銘酒の名に「鬼」とつく酒は、その意をよく伝えるものである。このヱグシという語の洒落によって、大物主神の関係する御酒は、鬼の字音の表すクワヰ(慈姑・烏芋)の味のヱグシであると納得できる。お正月に煮転がして食べるクワヰは、何ともえぐ味を帯びていながらシャリシャリとした食感がある。シャリシャリしているとは、舎利舎利していること、つまり、亡くなってお骨となっている「人神」=「鬼」を表す。酒も銀舎利がなくなって、液状化した代物である。味噌と醬油の違いのように、下等な酒は泥状の食べるもの、舐めるもの、上等の酒は液状の飲むものである。シャリの洒落が行きわたっている。そして、クワヰの葉は、三方に両刃の剣を伸ばしている。ミモロ(三諸)ということである。九十、つまり、卆(卒)とはミワ(三輪)であって、大物主神であって、ミモロ(三諸)であることに同じである。だから、三輪という地名にのみ当てて大三輪を大神と記し、神の字をミワと訓む。そして、大物主神の醸んだ酒をこそ、ヱグシと称えてミワ(御酒)と言っている。それらの言葉のつながりは、卆(九十)によってスヱ(季)となる月のめぐりの上に成り立っている。スヱとなって尽きてしまってヲハル(卒)ようになったら、気分を一新して生まれ変わりたい。よって、更新されるべく、今日でも夏越の祓が行われている。
 神祇令に、「凡そ六月、十二月の晦の日の大祓には、中臣、御幣麻(おほぬさ)上(たてまつ)れ。東西の文部(ぶんひとべ)、祓の刀(たち)上りて、祓詞(はらへごと)読め。訖(をは)りなば百官の男女祓の所に聚(あつま)り集れ。中臣、祓詞宣べ。卜部、解(はら)へ除くこと為よ。」とある。年2回の儀式であったが、宮中では中世には途絶えてしまった。各地の神社ではとり行われ、民間では茅の輪くぐりとしても伝わって来た。茅の輪の由来としては、蘇民将来との関係を示す用例が、釈日本紀の備後風土記逸文に残る(注13)。腰に小さな輪をつけてお守りとした。
 大森1975.に、三輪の大神神社と茅の輪行事との深い結びつきへの考究がある。「大和の三輪の大神神社の茅の輪行事は、おんぱら祭とよばれて……本社の第一鳥居の際で行われる。そこに綱越神社が祀られており、おんぱら祭は、綱越神社の例祭となっている。この、おんぱら祭という名称は、お祓の訛と思われるが、……厳密にいえば、祓は祭の一部というよりも、禊祓は祭祀を奉仕するための前提あるいは準備というべきで、祓そのものが祭祀ではありえないはずである。おんぱら祭という名は矛盾を含んだ名辞といわねばならぬが、庶民が祭という言葉を広義に用いるようになったものであろう。その祓の行事を司るために、特立の神社が存在するというのも、やや異様で、他に例を見ないが、これは大神神社にとって、この行事が重大な意味をもっていることを語るものと言えよう。そして綱越神社という名が、綱状のものを越すことを意味しておることは、大和の大神神社のなごしの人形・茅の輪くぐりの神事が、古くは輪ではなく、綱を越す形で行われていたことを推測させる。大神神社の祭神がよばいに通われたあとに糸の輪が三勾(わ)残っていたという、神婚説話と地名伝説と結合した、いわゆる三輪型神話は、この糸の勾は、スガヌキ・茅の輪と形を同じうし、この神の姿でもあったことに注目せねばならぬ。」(91~92頁、漢字の旧字体は改めた。)とある(注14)
 茅の輪くぐりが縄跳びであったとは思わないが、重要な指摘が含まれている。お祓い自体が祭りであることの違和感をきちんと説明している。人は何をするために神社を設けているのか、よくよく検討しなければならない。三輪の大神神社の場合、お祓いをするために、それが第一目的として存立していた。そして筆者は、その茅の輪くぐりのくぐり方について思いをめぐらせている。左、右、左と8の字を描きながら回って最後は真ん中から向こう側へ抜け出る。なぜこのような方法がとられているのか理解されていない。お祓いを受ける時も、神職が大麻(おおぬさ)を使って祓う時、左、右、左と祓う。神宮本廰規呈類集に、「大麻 右手に下部を、左手にて上部を執り、胸の高さに、左高に捧げ持つ。之を以て祓ふには、大麻を立て、右手を上げ、左手を下げて、左右左と振る。畢りて元の如く捧げ持つ。」(392~393頁)とある。いつからそうされているか、なぜそうされているか、“科学的”に解明されることはないであろう。けれども、推論として、いくつかの説はあげられよう(注15)。崇神紀には、崇神記の三輪山伝説の別バージョンがある。

 五年に、国内(くにのうち)に疾疫(えのやまひ)多くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。六年に、……。七年の春二月……。是の時に神明(かみ)倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に憑りて曰はく、「天皇、何ぞ国の治らざることを憂ふる。若し能く我を敬(ゐやま)ひ祭らば、必ず当に自平(たひら)ぎなむ」とのたまふ。天皇問ひて曰はく、「如此(かく)教(のたま)ふは誰(いづれ)の神ぞ」とのたまふ。答へて曰はく、「我は是、倭国(やまとのくに)の域(さかひ)の内に所居(を)る神、名を大物主神と為(い)ふ」とのたまふ。……殿戸(みあらかのほとり)に対(むか)ひ立ちて、自から大物主神と称(なの)りて曰はく、「天皇、復(また)な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児、大田田根子(おほたたねこ)を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。……秋八月……布(あまね)く天下(あめのした)に告(のたま)ひて、大田田根子を求(ま)ぐに、即ち茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)に大田田根子を得て貢(たてまつ)る。天皇、即ち親(みづか)ら神浅茅原(かむあさぢはら)に臨(いでま)して、諸王卿(おほきみたちまへつきみたち)及び八十諸部(やそもろとものを)を会(めしつど)へて、大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主大神と曰ひ、母をば活玉依媛(いくたまよりびめ)と曰す。陶津耳(すゑつみみ)の女なり」とまをす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なりといふ。……八年……冬十二月……天皇、大田田根子を以て、大神(おほみわのかみ)を祭(いはひまつ)らしむ。是の日に、活日(いくひ)、自ら神酒(みわ)を挙(ささ)げて天皇に献る。仍りて歌(うたよみ)して曰く、
 此の御酒(みき)は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし御酒 幾久幾久(いくひさいくひさ)(紀15)
如此(かく)歌して、神宮(かみのみや)に宴(とよのあかり)す。即ち宴竟りて、諸大夫等(まへつきみたち)歌して曰く、
 味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出でて行かな 三輪の殿戸を(紀16)
茲(ここ)に、天皇歌して曰はく、
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(紀17)
即ち神宮の門(みかど)を開きて幸行(いでま)す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖(はじめのおや)なり。(崇神紀五年~八年十二月)

 ストーリーの展開の要旨は以上のとおりである。冒頭にあげた崇神記に、「……従糸尋行者、至美和山而留神社。故、知其神子。故、因其麻之三勾遺而、名其地美和也。」とあった。この記の記述には、大きな矛盾をはらんでいる。「美和山に至りて神の社に留」とある点である。今日、三輪に所在の大神(おおみわ)神社は、ご神体が山そのもので社はない。いつからそうなったかはわからないが、昔からそうだったのであろう。この記述には種も仕掛けもある。崇神紀の「神宮(かみのみや)」、「殿門(とのと)」という謂い方にも矛盾がある。矛盾を面白がったのが上代の人であり、有り難がってしまって“合理的”に解釈しようとして、不思議な考えをしているのが現代人である。新編全集本日本書紀頭注は、「三輪山自体が神体なので神殿はなく、神殿で宴することはないから、この「神宮」は次の歌の「殿門」の語からみて「拝殿」であろう。」(①275~276頁)とする。しかし、拝殿や神楽殿を「神宮」と定められるか疑問である。崇神紀の「宮」は、ご神体となる山(の麓)で蓆を敷いて幕をめぐらし、「宴」をしたことの譬えと考えたほうが自然である(注16)
 そう捉えなければ、「神宮の門(と)」という言い方が生きて来ない。大神神社には、三ツ鳥居という一風変わった鳥居がある。鳥居の形が3つ、中央の大きなものの左右に小さなものがついていて、それぞれが門となって扉が付いていたはずである。崇神紀の記事は、「三輪の殿戸を」と記されており、御殿にあるような「殿戸」を出て行こうぞ、と歌っている。「殿門」は立派であることを示している。拝殿の外側にある門ではない。大神神社に特徴的な三ツ鳥居しか該当する門はないからである。とともに、建物としての本殿がないことを婉曲的に物語っている。ふつうに「社」があるなら、ふつうに「門」がある。それ以上にもそれ以下にも表現しないであろう。では、その「三輪の殿戸」をどのような作法で出て行ったか。
 茅の輪くぐりのように、左、右、左と8の字を描きながら出て行ったと推測される。そうでなければ、三ツ鳥居をくぐって出て行ったことに当たらないと感じられたのではないか。現在、図面上でも現実にも、大神神社の三ツ鳥居は、中央の大きな鳥居の下だけが門になっており、左右の鳥居の下には両側の塀が続いてきている。しかし、他の神社の三ツ鳥居の例からも、鳥居の下は3つともくぐれるものでなければ言を事とする言霊信仰に適わないように感じられる。中山1999.にも、「両方の脇鳥居には扉がなく、瑞垣と同形式の透塀で塞がれており、まことに奇異の感をうける。」(148頁)とある(注17)。つまり、ミワというスヱをイメージさせる場所は、お祓いをしなければならないところであり、その作法(事)をもってミワという言葉(言)を贖った。言霊信仰に従うと、そのように考えられる。茅の輪が血の輪との洒落をもって定着していることは後述する。
 ところが、神祇令に祓を行事としているのは、六月と十二月の年2回である。特に、夏の季のそれは、夏越の祓として今日でも行われている。江戸時代の年中行事の図絵にも、神官の祓えの儀式と、茅の輪くぐりの情景とが二つながら描かれている。同じ目的で、2通りの形態が併存している。その間に矛盾はないと感じられ続けてきたのであろう。茅の輪くぐりの原初的形態としては、年中行事絵巻に描かれるような小さな輪を左足から、右足から、左足からとくぐることで厄払いとする風習のあったらしいことが伝わっている。
左:茅の輪くぐり(速水恒章・諸国図絵 年中行事大成、江戸時代、文化3年(1806)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0077416をトリミング)、右:宮中での茅の輪くぐり(年中行事絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591105/8をトリミング)
左:三つ鳥居くぐり方(三輪神社ホームページhttps://miwajinnjya.com/history/miwa-torii/)、右:茅の輪くぐり方(箱根神社ホームページhttp://hakonejinja.or.jp/02-contents/02-main/09-gokitou/03-gokitou-contents/01-gokitou-main-contents/01tinowano-kugurikata.html)
 すなわち、いつの間にか、祓を行わなければならない時季が、年2回、それも季夏の六月、水無月(注18)がクローズアップされるに至っている。とても早い時期からそのような傾向にあるから、それにはそれなりの口語上の語学的理由があったと考えられる。その発端は、俎上に載せている三輪山伝説にあったのではないか。
(つづく)

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