「五十鈴川上」の訓についての西宮一民説とその疑問点
上代の文献に、伊勢神宮関連の地名として、「五十鈴川上」が散見される。この訓読については、先行研究に西宮1990.があり、詳しく論じられている。はじめに、同書のあげている日本書紀の例を読み下したものを提示した。古語拾遺と皇太神宮儀式帳、祝詞の例は省いた。古語拾遺は日本書紀の「自我流の解釈」(293頁)のため、日本書紀の文意に沿わない場合があって当てにならないことがあるとされている。
①[衢神=猨田彦大神]対へて曰く、「天神の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触(くじふる)の峯(たけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは、汝なり。故、汝、我を送りて致りませ」といふ。天鈿女(あまのうずめ)、還詣(まうでかへ)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に、天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降(あまくだ)ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫(すめみま)をば筑紫の日向の高千穂の槵触の峯に致します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。(神代紀第九段、一書第一)
②時に、天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。(垂仁紀二十五年三月)
③阿閉臣国見(あへのおみくにみ)、更の名は磯特牛(しことひ)。𣑥幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人(ゆゑ)の廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)を譖ぢて曰く、「武彦、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり」といふ。湯人、此には臾衞(ゆゑ)と云ふ。武彦の父、枳莒喩(きこゆ)、此の流言(つてこと)を聞きて、禍の身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河(いほきのかは)に誘(あと)へ率(たし)みて、偽(あざむ)きて使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)して、因りて其不意(ゆくりもなく)して打ち殺しつ。天皇、聞しめして使者(つかひ)を遣して、皇女を案(かむが)へ問はしめたまふ。皇女、対へて言さく、「妾は識(し)らず」とまをす。俄にして皇女、神鏡(あやしきかがみ)を齎(と)り持ちて、五十鈴の河上に詣(い)でまして、人の行(あり)かざるを伺ひて、鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在(な)きことを疑ひたまひて、恒に闇夜(やみのよ)に東西(とさまかくさま)に求覓(もと)めしめたまふ。乃ち河上に虹の見ゆること蛇(をろち)の如くして、四五丈(よつゑいつつゑ)ばかりなり。虹の起(た)てる処を掘りて、神鏡を獲。移行未遠(たちどころ)にして、皇女の屍(かばね)を得たり。割きて観れば、腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、斯(これ)に由りて、子の罪を雪(きよ)むること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、報(たむか)ひに国見を殺さむとす。石上神宮に逃げ匿(かく)れぬ。(雄略紀三年四月)
この「五十鈴川上」、「五十鈴河上」を何と訓むかである。「イスズノ……」であることには違いあるまい。「川上(河上)」部分が問題である。大系本日本書紀と新編全集本日本書紀には、次のように訓まれている。
大系本 全集本
①カハカミ カハカミ
②カハノホトリ カハノヘ
③カハノホトリ カハカミ
西宮1990.は、「「五十鈴川上」は「五十鈴川・川上」の約とし、特に「川上」一般の訓義について検討した結果、……
A カハカミ……上流
B カハノへ乙……川岸・川の上(うへ)
C カハヘ甲乙……川岸・川岸の辺り
D カハノホトリ……川のそば
E カハラ……川原(川沿ひの平地)
となる。このうち、Eは訓注によるものであるから、訓注のないものには[その訓を]適用できない。……右のA~Dを一見して、Aのカハカミ(上流)といふのと、BCDのカハノヘ乙・カハヘ甲乙・カハノホトリ(川岸・川の上(うへ)・川岸の辺り・川のそば)といふのとの二類に分かれることを知る。すなはち、Aで訓むのと、BCDで訓むのとでは大きく異なってくるのであつて、BかCかDかは大した問題ではないといふことなのである。……[上代の用例の]「五十鈴川上」の訓義の決定の方法は、結局各の文脈によるより他はないことになると思ふ。」(290頁)とし、最終的な結論として、「「五十鈴川上」の資料に見える「川上・河上」は、すべてカハカミ(上流)と訓めばよいといふことになつたのである。」(295頁)と定めている。
西宮1990.の論拠は、「五十鈴川上」は、天孫降臨の地、「高千穂槵触之峯」に対応して、猨田彦神の到達点は高いところであるはずだということ、それは、神祭りが上流で行われたことと呼応することであるとの考えによる。垂仁紀二十五年の例でも、「文脈のきめ手は、「礒宮」にあるのではなくて、「則天照大神始自レ天降之処也」にあると考へる。「礒宮」の名は「野宮」に対するもので、「上流」にあつても、また「川岸」にあつても命名される。しかし、天神の降臨は、川の場合は「上流」である。また神祭りも「上流」でなされる。従つて、「五十鈴川上」はカハカミ(上流)である。」(292頁)とし、日本書紀の用例を拾っている。再び読み下したものを呈示する。
素戔嗚尊、天より出雲国の簸(ひ)の川上(かはかみ)に降到(いた)ります。(神代紀第八段本文)
今、美濃国の藍見川(あゐみのがは)の上(かみ)に在る喪山、是なり。(神代紀第九段本文)
厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生(にふ)の川上(かはかみ)に陟(のぼ)りて、用て天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いはひまつ)りたまふ」(神武即位前紀戊午年九月)
磐余の河上(かはかみ)に御新嘗(にひなへきこしめ)す。(用明紀二年四月)
天皇、南淵(みなぶち)の河上(かはかみ)に幸して、跪きて四方(よも)を拝む。天を仰ぎて祈(こ)ひたまふ。(皇極紀元年八月)
そして、異説に、伊勢の内宮が山裾の河原に鎮座する宮だから、「五十鈴川上」の「川上」は川の辺り、川沿いの義であるとする坂本1965.25~26頁の説を斥けている。
筆者の疑問点をあげる。皇極紀の例は雨乞いである。「河上(かはかみ)」=川の上流へ行ったのは、源の湧き水があるかどうかの確認の意味もあったのではないか。地震などで地形が変化して、流れが変わっている可能性もある。現地調査を兼ねたものと言える。また、四方拝のような行為には、小高い所がふさわしいという理由もあろう。用明紀の新嘗祭で「河上(かはかみ)」とあるのは、川の少し上流へ行ったという意味ではないか。禊ぎのためにきれいな水が欲しかった。生活排水を浴びて禊ぎしてきれいになったと気持ち的に思えるかは重要な問題であろう。「磐余の河上」は、磐余の地のなかで河上に当たるところであり、奈良盆地南東部の磐余地方の山岳部ではなく、平野部のなかで比較的上流であるというにすぎないと考える。
神が降りてくる場所は、次のようなところである。
二(ふたはしら)の神、是に、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りて、……(神代紀第九段本文)
この「小汀(をはま)」は、海や湖に面した小さな浜であろう。川沿いであってもだいぶ下流の、川原が砂地になっているところである。
垂仁紀では、その場所をわざわざ「磯宮」と名前をあげて断ってある。歴とした謂われがあるからと考えられる。言=事とする言霊信仰に生きていた人たちの行いである。「磯宮」の「磯(いそ、ソは甲類)」が、大きな岩石を表すか、それほどでもないものも表すか定かではない。イソは水中や水際のイハ(岩)を指す。イハ(岩)はイシ(石)の大きなものということで一応納得できよう。ただし、上代の用字はとても紛らわしい。イソに「磯」、「礒」、「石」、イハに「岩」、「磐」、「巌」、「石」、イシに「石」などが用いられる。紀の編者は、イシノミヤ(「石宮」)ではなく、イハノミヤ(「磐宮」)でもなく、イソノミヤ(「磯宮」)と限定している。
神代紀第九段一書第一に、「伊勢之狭長田五十鈴川上」とあるのを真に受けるなら、水耕栽培技術はなかったから岩盤が露出した場所に「田」は作れない。石ころがあるところを開拓した川沿いの狭く長い田という意味に思われる。むろん、神代紀と垂仁紀、また、雄略紀の「五十鈴川上(河上)」を、別の場所であると想定することもなお可能である。ただ、ふつうに考えれば、別扱いする理由は特にないのだから、同じところ、同じ土地柄であると認識されているものと捉えられる。
イソで伝えたかったこと
磯宮のイソ(ソは甲類)の音は、どこかで聞く音である。イは馬の鳴き声、ソ(ソは甲類)は馬を追い御する人の声である。万葉集の、「いぶせくも(馬聲蜂音石花蜘蟵)」(万2991)、「そま(追馬喚犬)」(万2645)、「まそ鏡(喚犬追馬鏡)」(万3324)、「まそ鏡(犬馬鏡)」(万2810・2980・2981・3250)の戯書、義訓や、「吾(わ)はそと追(も)はじ(和波素登毛波自)」(万3451)という仮名書きから理解できる。橋本1960.に、馬の鳴き声をイとする理由についての論がある。多少長くなるが、往事の闊達な研究も顧みられるので引用する。
「いばゆ(嘶)」といふ語の「い」も亦馬の鳴声を模した語である……。ハヒフヘホは現今では ha hi hu he ho と発音されてゐるが、かやうな音は古代の国語には無く、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれ等の仮名は fa fi fu fe fo と発音されてゐた。このf音は西洋諸国語や支那語に於ける如き歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であつて、それは更に古い時代のp音から転化したものであらうと考へられてゐるが、奈良時代には多分既にf音になつてゐたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思はれる。
鳥や獣の声であつても、之を擬した鳴声が普通の語として用ゐられる場合には、その当時の正常な国語の音として常に用ゐられる音によつて表はされるのが普通である。さすれば、国語の音として hi のやうな音が無かつた時代に於ては、馬の鳴声に最近い音としてはイ以外にないのであるから、之をイの音で模したのは当然といはなければならない。猶又後世には「ヒン」といふが、ンの音も、古くは外国語、即ち漢語(又は梵語)にはあつたけれども、普通の国語の音としては無かつたので、インとはいはず、只イといつたのであらう(蜂の音を今日ではブンといふのを、古くブといつたのも同じ理由による)。
……江戸時代に入つて、鹿野武左衛門の「鹿の巻筆」(巻三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になつた男が贔屓の歓呼に答へて「いゝんいゝんと云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は落窪物語の「いう」[巻二、「……首いと長うて、顔つきたゞ駒のやうに、鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。いうといなゝきて引き離れいぬべき顔したり。」]と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかつた事を示す適例である。(48~50頁、漢字の旧字体、一部の繰り返し記号は改めた。)
さて、磯宮のイソという音のイは、馬の嘶く音、ソ(甲類)は、馬を追うときの人の声である。新撰字鏡に、「嘽 士于反、阿波久(あはく)、又馬平、馬勞也。阿波久(あはく)、又馬伊奈久(いなく)」、和名抄に、「嘶…… 玉篇に云はく、嘶〈音は西、訓は伊波由(いばゆ)、俗に伊奈々久(いななく)と云ふ〉は馬の鳴く也といふ。」とある。新撰字鏡では、イナクの義は「馬が疲れてあえぐ意らしい」(時代別国語大辞典87頁)とされている。万葉集には挽歌に用例がある。
…… 何しかも 葦毛の馬の 鳴(いな)き立ちつる(万3327)
衣袖 葦毛の馬の 嘶(いな)く声 情(こころ)有れかも 常ゆ異(け)に鳴く(万3328)
この部分を、イナクと訓むか、イバユと訓むかについては、馬の飼い主の死を悼む挽歌であるから、馬の鳴き声のイに加えて、嫌だ嫌だというイナ(否)という意を掛けてイナクと言っているものと理解される。
イソの宮という固有名詞は、どうしても馬のことが思い浮かぶ仕掛けになっている。それが、文字を持たず、言葉が口頭語でしかあり得なかった人々の間の共通認識であった。無文字文化である。それが確かであることは、紀自身に記述されている。「伊勢之狭長田五十鈴川上」(神代紀第九段一書第一)である。サナガタ(注1)は狭くて長い田であるとを示している。山間部を縫うように流れる川の少し両岸に平地があって、そこを田として拓いたところを指して言うのであろう。馬の面のような形の長細い田圃である。真ん中を川が流れている。川が馬の口の隙間である。今日でもウマヅラ(馬面)といえば長い顔を誰もが思い浮かべるように長く伸びている。
左:道産子の馬面(多摩動物公園)、右:馬鍬代掻き図(六道絵模、松平定信・古画類聚、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0029535をトリミング)
馬面な地形を田として利用した。言霊信仰なのだから馬耕したい。牛馬耕のはじめは、馬鍬を引かせた代掻きであったとされる。聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅では、馬が馬鍬を引いている姿の後方に、杭が打たれてある。川の護岸を補強する工作である。ちょっとした水の流れ出を活用し、下方には杭を使って流れを狭めたところに小さな堰を設ければ、水は溜まり、水田の条件は整う。
イセという地名に「伊勢」という字を当てたのは、もちろん、後付けである。セというヤマトコトバが、イ(接頭語)+セ(狭・瀬)を印象づけるならば、狭まっていてしかも川の浅瀬であるということで、川の下流ではなく、中流より上流の場所のことを言葉の音から彷彿させる。そして、そのイ音に馬の嘶きを感じ取るなら、イセという国名の音は、馬の背の細長さを思い起こさせる。その細長さのダブルイメージとしてサナガタ(狭長田)とあるのだから、馬面のような細長い田のことを表して、「磯宮」と呼んでいるとわかる。話の聞き手が、空中を飛んでいる言葉から直観的に了解できる。それがわからなければ、無文字文化に暮らす人としては話のわからぬ奴であり、話がわからなければ、訳のわからぬ愚か者として蔑まれたであろう。ほぼ文字がないのだから、意思疎通の確認ツールは言葉そのもの、音声言語ばかりであった。
「伊勢之狭長田」が馬の面のような細長い田で、中央を馬の口筋のように川が流れているとすると、「五十鈴川上」の「川上」をカハカミと訓むのはそぐわない。地形を示すための馬面の表現、「磯宮」のイソ、「狭長田」との関係が現れないからである。ほか可能性のある訓のうち、カハノホトリやカハラも排除されよう。馬面地形を示さない。残るは、カハノへ(ヘは乙類)かカハヘ(ヘには甲乙両方ある)かいずれかである。後者のカハヘには、川岸の辺りの印象が強くにじんでいる。視線が川の辺りから川を眺めている。馬面の口の上と口の下のように細長く伸びている田圃を形容するのに、辺りというニュアンスは似つかわしくない。前者のカハノヘという訓がふさわしい。川の真上から川の両サイドに目が配られている。
川の上(へ)の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて(万22)(注2)
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢(こせ)の春野を(万54)
川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
川の上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万1931)
川上(かはかみ)の 根白高萱 あやにあやに さ寝さ寝てこそ 言に出にしか(万3497)
万56・1931番歌に、カハノヘノと訓み、そのあとにツラツラや、イツモイツモといった言葉の繰り返しがある。カハノヘは、川の上(うへ)の約された言い方ながら川岸を指す語である。川が一筋流れていれば、必然的に両サイドに岸が2つある。川岸が川の両側にあるのは当たり前と思われるかもしれないが、川原となって両サイドに現れるとは限らない。一方は平らな川原であっても、反対側は急峻な崖になっているところも多い。そんななか、カハノヘといって両サイドを示すことが面白いから、ツラツラやイツモイツモなどといった繰り返し言葉が続いている。ツラツラニといった言い方は、馬面のツラを言い当てている。口から上の顔と口から下の顔との両側のことを、ツラツラニと言って、その川の両サイドに椿が生えているのを見ている。ツバキとは、植物の椿のこととともに、口から飛び出す唾のことを洒落にしている。馬の口から唾が湧くように出ていることが思い起こされる。万3497番歌は、アヤニアヤニ、ネテネテと繰り返し言葉が入っているから、第一句はカハノヘノとあって然るべきである。歌の筆記者が、一字ごとの万葉仮名表記に改めた際、「河上乃」などとあったのを、「可波加美能」と誤って訓んで写し間違えたということであろう。上代ヤマトコトバの口語がよくわからない時代に入り始めてからのことと考えられる。
以上から、「五十鈴川上(河上)」は、イスズノカハノヘ(ヘは乙類)と訓むのが適当であると確かめられた。では、雄略紀の記述から、それが正しいか検証してみる。
雄略紀の「虹」の現れる記述は、古訓にヌジと訓まれている。和名抄に、「虹 毛詩注に云はく、螮蝀は虹也〈螮の音は帝、蝀の音は董、螮は亦、蝃に作る。和名は尓之(にじ)〉といふ。兼名苑に云はく、虹は一名に蜺〈五稽反、鯢と同じ。今案ずるに雄を虹と曰ひ、雌を蜺と曰ふとあんず〉といふ。」とある。また、「虹・蛇をともにナブサともいう」(大系本上補注、634頁)とされている。ナブサという語には、また、新撰字鏡に、「騧 古華反、黄馬黒喙也。浅黄也。馬黄白色也。騧、奈夫佐乃馬(なぶさのうま)、又馬。」とある。和名抄には、「騧馬 尓雅注に云はく、騧〈音は花、漢語抄に騧馬は鹿毛也と云ふ〉は浅黄色の馬也といふ。」、黒沢定幸編輯・驪黄物色図説・乾巻(早稲田大学古典籍データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ni15/ni15_00591/ni15_00591_p0017.jpg)に、「騧 音爪○今按久智倶路加計比巴利(くちぐろかげひばり)」となっている。比定に若干違いがあるように思われるが、往時、全体的に黄白色で口部が黒いものをいったのではないか。伊勢の狭長田の五十鈴の河上の磯宮のあるところに、馬にまつわるナブサが出現している。馬面の部分の「黒喙」の黒さは、田圃の畦畔(あぜくろ)が作られて耕作されたと表したいのではないか。また、「なぶさなぶさ」という語もある。名義抄に、「随分 ナフサナフサ」とある。分相応に、という意である。馬はもともと騎乗用に舶来させたものであったが、鈍足な馬も生れてきてしまい、「なぶさなぶさ」に農耕馬に払い下げられてしまうものもいたのであろう。
騧(趙孟頫、白鼻騧、元代、台湾故宮博物院蔵、http://chinapalacemuseum.com/元趙孟頫白鼻騧-軸-故-畫-001952-00000/)(注3)
雄略紀に讒言した者の名は、また「磯特牛(しことひ)」といい、牛馬対決になっている。シコトヒは、「讒(しこ)ぢて問ふ」ことを表しているようである。讒言するきっかけを与えたのは、「湯人(ゆゑ)」という言葉が、風呂を沸かす係やそのための薪の調達役のことばかりでなく、産湯を沸かす役としても称された“ゆゑ”であろう。「廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)」は、「五十木(いほき、キは乙類)」というほどたくさんの材木を調達してきている。いやに湯沸しのための材木が多いではないか、産湯を沸かすためではないか、と勘ぐられる隙を与えたらしい。𣑥幡皇女という名も、𣑥と呼ばれた楮で幡のように長いものを名に負っていると見られてしまう。それはひょっとして晒の腹帯に当たるものではないのか、と疑われたのであろう。むろん、話(咄・噺・譚)のレベルでのことである。
彼女は、「神鏡」を埋めている。鏡(かがみ)だから屈んで埋めたのであろう。鏡は写すものだから、川の反対岸にも同じことように埋まっているとわかる。つまり、「移行未レ遠、得二皇女屍一。」とは、鏡の埋まっていたのと川をはさんでちょうど反対側、対称となる地点で屍が見つかったということである。その両者を渡すように虹がかかっていた。
狭長田の開墾から鍬の話へ
ニジ(虹)の語源については、ニージなどといった言い方であったらしいところから探ることもあり得ようかと思われる。筆者は、語源を探究する立場に立たない。当該語が上代に、どのような語感で捉えられていたかこそが問題で、洒落やなぞなぞとして頭をめぐらせれば納得できると感じられていたに違いないと考えている。ニジ(虹)という語とニジル(躙)という語との間の関連を見る。新撰字鏡に、「跌 不牟(ふむ) 又爾志留(にじる)」とある。踏みつけて押しまわすことの意であろう。茶室の躙り口などは、膝を押しつけるようにじりじりと動くことである。新撰字鏡のニジルという語の観念には、脚と足とが踵(かかと)、踝(くるぶし)のところで直角に曲がっている様をよく観察した成果があらわれている。踏みにじる行為は、単に叩くや潰すといった動作ではなく、踏んでおきつつ横ずれや回転を伴ってぐうの音も出ないようにすることである。煙草の吸殻を地面に捨てて靴底で踏みにじって火を消している。新撰字鏡に、「蹹」、「蹉跎」、「蹉跌」といった字にフミニジルという訓が付けられている。脚と足とを道具に見立てるなら、それは鍬である。柄の先に刃となる部分をつけながらその刃の平面を使ってこすって塗りつけるようなことである。農具の鍬は、柄と角度をもって刃がついているが、もとは刃全体が木製であり、古墳時代に鉄製の刃先を取り付けるように改良された。柔らかい土や泥田を掘り起こしたり、刃によって雑草の根を切ることもできるようになった。と同時に、田圃の畦畔を作るには、その刃の平面を使って土を押しつけながら形を整えていく。その結果、水が湛えられて水田稲作農耕ができる状態を保っている。すなわち、畦畔によって川上(かはのへ)にいつも水に浸る田圃が形成されている。古墳時代の田の傾向に、一年を通して水が浸っている常湛法の細長い田が畦畔によって作られ、それを並行させることがあった。細長い田を横に仕切るのは、後から水準を保つために設けられた小畔である。
有馬条里遺跡(渋川市)の水田跡(群馬県ホームページhttps://www.pref.gunma.jp/contents/100156048.pdfをトリミング)
白川1995.に、「人の足のかかとから足先までの形は、柄を装着した「くは」に似ているので、その部分を「くは」といい、かかとを立てて遠くを望むことを「くは立つ」という。「企(くはた)つ」の意である。鍬がもと疌声で地にうちこむものであったように、「くは」は地にうちこむときの擬声語であったかと思われる。」(300頁)、「足首を「くは」といい、その身体用語から「くはたつ」という語が派生するような語構成は、外来語にはほとんどないことである。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。」(301頁)とある。このクハについての白川説には異論も多い。筆者は、農具のほうが後から名づけられたであろうと考える(注4)。道具は、身体の延長と考えられることが多い。しかるに、クハという語は、「企つ」を含めて、立てる、入れる、均すためのものといえる。対照的なスキ(鋤)の場合、柄と刃が一直線についているから、掘るのに適している。鍬だけで井戸を掘る気にはならない。
スキ(鋤)という語は、地面をスク(梳・鋤・梳)ことに由来した動詞連用形の名詞と考えられている。隙間を作る農耕具が、鋤であろう。「掘串(ふくし)」(万1)の大きなシャベル・スコップ類に当たる。「金鋤」(記98)とは刃先に鉄が付けられたものであろう。さらに牛馬に引かせたのがカラスキ(犂)である。動力源を身体以外に借り、それまで鋤において行っていた力の入れ方、鋤の刃の縁を踏む方法とは違う方向、モーメントを考えなければならない方向から牛馬の力に頼っている。そこがからくりである。よってカラスキと呼ばれた。外来物だから何でもカラと付けているとばかり考えるのでは、ヤマトコトバの名折れである。反対に、外来物であったであろう馬鍬は、馬に引かせたから馬鍬なのであろうが、カラクハとは呼ばれていない。「唐鍬」と呼ばれるものは別にあり、鍬の角度が80°のもので、専ら開墾、株掘りに用いられた。鍬は当初から柄と刃の付き方に角度があり、それは馬鍬の場合も同じで、力の入れ方は似ている。そして、馬鍬を引かせていくことは、田圃のなかに筋を入れて行くことで、整形ではない細長い田(「狭長田」)であれば、虹を描くように孤を描くこともあったであろう。
漢字に虹という虫偏の字を使っているのは、龍の一種とされたからである。
龍(たつ)の馬(ま)も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため(万806)
龍の馬を 我(あれ)は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに(万808)
「龍」字はまた、地名のタツタ(ヤマ)(龍田(山))に当てられている。龍は騎乗するのが嬉しい馬に近しく、牛とは遠い存在と思われていたようである。虹も馬に親しく、牛に疎遠である。
𣑥幡皇女の屍の腹を割いてみると水のようなものがあってその中に石があった。カガミには道徳的に手本となる鑑の意もあり、「上善は水の若し(上善若レ水)」(老子・易性)、「親の過ち小にして怨むは、是れ磯(き)す可からざるなり(親之過小而怨、是不レ可レ磯也)」(孟子・告子章句)を引いたものかもしれない。鏡は埋められていたのだから、掘り返すと川原だから水が滲み出てくる。当然、石ころも残っている。反対岸の𣑥幡皇女も、水の中に石が入っていた。これはまぎれもなく、川の中心ラインを挟んで鏡像のツラツラな状態である。馬面地形をもって体を成している。きちんと神に仕えた斎宮であったとわかる。五十鈴の川上の狭長田の磯宮の主としてあったということである。主(ぬし)が虹(ぬじ)に変じた、ないしは、変じていないという、言霊信仰にもとづくお話である。
「神鏡(あやしきかがみ)」とある個所について、一説に、いわゆる三種の神器の一ではないかともする。この「神鏡」は、「猨田彦神」と関係する「鏡」であろう。猨田彦神とゆかりの伊勢の狭長田にある五十鈴河上に出没する「神鏡」とは、馬に関わりの鏡、すなわち、轡に飾りつけた鏡板のことを指すと思われる。鏡板は、鉄地の上に金銅の金ぴかを鋲でとめて飾っている。馬を制御するための馬具として機能的に必要なものではない。轡をきれいに見せる飾り馬具である。この鏡板の形態にはいろいろあるが、古墳時代の特徴として、f字形鏡板、鐘形鏡板、楕円形・心葉形鏡板などがあげられる。考古学では、朝鮮半島の特徴と考えあわせたとき、非新羅系か新羅系かと分類されたり、時代的に製法にも技術的な革新がある。この鏡板こそ、雄略紀の逸話にいう「神鏡」のイメージの発端であると考える。
左:鈴付f字形鏡板付轡(模造、和歌山県和歌山市大谷古墳、5~6世紀、東博展示品)、中:金銅装パルメット文鏡板(大阪府茨木市海北塚古墳出土、古墳時代後期、6世紀、東博展示品)、右:長方形鏡板付轡(三重県伊勢市塚山古墳出土、古墳時代、6~7世紀、山本貞蔵・平尾長松・山下創太郎氏寄贈、東博展示品)
埴輪 馬(高崎市箕郷町上芝古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
鏡板は、縁部が盛り上がって鋲が付けられている。そのなかに模様が描かれることもあるが、十字に区画されていることも多い。その様子は、畦畔を形容に重なるところがある。塚山古墳の例など、十字の区画は典型的に漢字の「田」に対応できる。f字形鏡板の場合、それは上述の馬面地形に展開される「狭長田」を表わしているように思われる。川の蛇行に沿うように田を開いた。轡のことは、和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音は秘、訓は久豆和都良(くつわつら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一名に钀〈魚列反〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢の二音、和名は上に同じ〉は一名に馬鞚といふ。」とある。顔の両側に着けられている。クツワツラと「つらつら」なものが轡であり、それを何の目的か知らないが飾るのが鏡板である。反射して虹のように輝いていたのであろう。むろん、飾り馬具は、騎乗用の馬に着けられる。埴輪に裸馬として作られているものは、農耕用に使役されたものであろうと考えられている。よく走る馬は騎乗用に、鈍足な馬はそれなりにということで耕作に用いられたのであろう。分相応の馬、「なぶさなぶさ」の馬ということである。とはいえ、馬は馬である。ヤマトコトバのウマという概念に、馳せるもの、乗り物、耕耘機のエンジンとなるものというすべてを考え併せていたことは、人類の行う言語活動の上から当然のことである。今日、セダンも軽も、トラックもタンクローリーも、消防車もタクシーもバスも救急車も、車道を走っている四輪を中心とした燃料で動くものはすべてクルマという言い方で呼んでいる。二輪の場合、バイク、自転車などは、クルマとは通称していないようである。言葉が範疇を決定している。
f字形鏡板は、馬面地形の狭長田で馬鍬を引くことを暗示しており、不思議な形でキラキラ光るから「神鏡」と呼んでみたり、体温の高い馬が口から湯気を吐いて光線の具合でプリズム的に見えたりするところから、「虹」という表現が導かれているのであろう。馬は農耕具を引かされて、こりゃかなわんなあと喘いでいる。馬の発する声は、イに変わりはないが、その動作を表わす動詞は、イバユではなく、イナクである。疲れて喘いで声をあげていると解された。もともと身体が丈夫で足の速い馬ならば、騎乗用に高貴な人の手に渡っていた。しかし、足が遅いからということで農家に飼われている。それが分相応、ナブサノウマ(騧)と分類され、泥田へ入れられて重い馬鍬を引かされている。重い荷物を背負わされることもある。否、否、と思いながらイと鳴いている、と感じられたと考えられる。
川の左右にある狭小なところを田に拓く際、馬の畜力を使って開墾するようになったことが話の背景にあるのだろう。轡、鏡板の形に「田」の字形があり、後の轡文も丸に十字で田の字に見える。ただ、その時代考証は難しい。平安時代の930年代に成った和名抄に、「犂 唐韻に云はく、犂〈音は黎、加良須岐(からすき)〉は田を墾く器也といふ。……」とあって、「鐴(へら)」、「耒底(ゐさり)」、「耒骨(ゐさりのえ)」、「耒𣓻(とりくび)」、「耒箭(たたりがた)」、「耒鑱(さき)」と部品名まで記されている(注5)。対して、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶。弁色立成に、馬杷は宇麻久波(うまぐは)と云ふ。一に馬歯と云ふ〉は田を作る具也といふ。……」とある。カラスキ=「墾田器」とウマグハ=「作田具」では、用途が違うと認識されている。また、「鋤 唐韻に云はく、鎡錤〈孜期の二音〉は鋤の別名也といふ。釈名に云はく、鋤〈士魚反、須岐(すき)〉は穢を去り苗を助く也といふ。◆(金偏に挿の旁)〈音は插、和名は上に同じ〉は地に挿し土を起す也といふ。」、「鍫 兼名苑に云はく、鍫〈七遥反、字は亦、鐰に作る。久波(くは)〉は一名に鏵〈音は華〉といふ。説文に云はく、钁〈補各反、楊氏漢語抄に、和名は上に同じと云ふ〉は大鋤也といふ。」とある。ヤマトにおける漢字の用法は厳密とは言えないようである。猨田彦神のところの狭長田を拓いた際、人力のみか、牛馬の力を活用したのかわからない。ただ、狭い範囲であり、小川に沿って開拓するのだから、今も谷津田(やつだ)と呼ばれるようなところと推測される。廬城部連武彦は「使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)」で殺されている。川の浅瀬を連想させ、谷津田のようである。鵜飼と牛飼との洒落かもしれない。
川に沿っているから水は容易に供給できるし、急傾斜地でもないから棚田にする必要もない。葦が茂っていたところを焼いてから杭なども活用しながら川を浅く堰き止めて水が溜まるようにし、周りを畦畔で囲めば田圃の条件は適う。常時灌水させることで、生える雑草の種類は限られる。この場合、いわゆる耕盤が確かでなくとも、川からの水の流入が絶えないから水田として機能する。すると、「五十鈴川上」が川のすごく上流を指向する語であるとは考えられない。上流に進んで山が近づいてしまうと、水は冷たくて稲は育たず、傾斜が急になって一つの面として拓くことのできる面積は小さくなり、もともとの川岸は石ころばかりで葦さえ育っていない。
「磯特牛」なる人物が登場しているから、牛を使って犂を引かせようとしたことを表すのではなかろうか。彼の名が負っているのは、堅田の掘り返しか畠かはわからないが、犂を用いていると思われたであろう。「磯特牛」という名が「𣑥幡皇女」に意地悪をしたのは、田圃を畠へ転換しようと企てたということに当たる。そして、もともとの「狭長田」は「田」であるからその限りにおいて、「河上」は水稲の育たないカハカミとは訓じ得ないと検証される。𣑥幡皇女の名のタクハタとは、畠を梳(たく)しあげることや、𣑥という楮の樹皮からとった繊維から作った灌頂幡のような白くて長い幡ということから、畠と間違われやすいが、タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)とも解釈できる。無文字であるヤマトコトバに文字を当てている。田圃のなかに鍬を入れて耕している。田に囲まれて鍬を使っている様とは、馬鍬を使った代掻きに違いない。代掻きを、白いものを掻き混ぜること、楮から繊維を抽出する作業に準えたのであろう。畠よりも水田に水の張られて反射する白さの方が目にまぶしく、𣑥の様に適っている。「人不レ行」場所を選んでいるのは、農耕馬の行くところということで、「東西」に探しているのは、代掻きの様子に準えている。
「安芸のはやし田」の代掻き(広島広域観光情報サイト「ひろたび」https://www.hiroshima-navi.or.jp/event/2017/04/027324.html)
すなわち、𣑥幡皇女は、自ら身を以て冤罪であることを証明している。畠ではなく田であるから、腹の中に水があってその中に石がある。原の中に水が溜まっていたのだから田圃に相違なく、谷津田だから石ころもあったということを表している。𣑥幡皇女の話の場合、虹の話に展開しており、虹がナブサとも呼ばれて騧に同じ音であって、馬面地形の馬の口のところに畦畔があり、そこが水浸しになってさらに馬鍬による代掻きが行われ、筋目が入ってレインボー様に見立てている。
代掻きと馬鍬のこと
代掻き(注6)の重要性について、河野1994.は論じている。鎌倉時代に馬に馬鍬、牛に犂の図が定着しているが、中国絵画とは異なるから本邦独自の写生に基づくものであろうとする。中国では、北部の畑作地帯で牛を使い、南部の水田地帯では水牛を使うのがオーソドックスであるという。南宋期には水牛が描かれているようである。一方、本邦で農耕に家畜を活用した当初、水田を拓きながら水牛はいないから、そして最初は牛もいなかったから、「いやがる馬を泥田に追い込んだ」とされている。また、古代の出土事例に馬鍬は多いが犂はほとんど確かめられないから、大化改新以前には馬鍬のみが用いられたらしいとする。大変興味深い提題である。
左:馬鍬(昭和30年代まで牛による耕耘作業に用いられていたもの、堺市博物館展示品)、右:犂の向こう側に放置されたマンガ(馬鍬)(川崎市立日本民家園)
河野1994.によれば、「古代では犂(カラスキ)のことをウシクハ(牛鍬)とも呼んだ。……牛鍬は馬鍬とは対照的な言葉で、古代では犂は牛に引かせるもの、馬鍬は馬に引かせるものというのが一般常識であったことを思わせる。絵画資料でも〈牛=犂〉〈馬=馬鍬〉という対応は見られる。……このように牛には牛鍬(犂)・馬には馬鍬という対照的な対応関係が見られたことは、日本でこれらの農具が使われ始めた当初において、犂はもっぱら牛に引かせたのであり、馬鍬は馬に引かせていたということを反映しているものと見なせよう。」(37頁)という。香川県や広島県の犂の民具呼称のウシンガからして犂は牛に結びつき、絵画資料でも、鎌倉時代の聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅や、松崎天神縁起の犂耕図、法然上人絵伝(堂本家本)の代掻き場面、江戸時代の宗達派の農耕図屏風、石川流宣の大和耕作絵抄に、馬には馬鍬、牛には犂が描かれている点を指摘する。
聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅について、「牛耕場面もまた日本の風俗を写生にもとづくものと考えている。第一に、牛耕場面の牛は水牛ではなく、普通の牛を描いていることである。広大な中国では、北部では牛(黄牛)が使われるのに対し、南部ではもっぱら水牛が利用される。このことを反映してか、宋の南遷以降の中国絵画では、……水牛が描かれることが多くなる。……『六道絵』の人道無常図には中国風の人物に引かれて屠所に向かう角の大きな水牛が描かれており……、中国=水牛、日本=牛という区別をふまえた上で畜生道図には日本の風俗として普通の牛を描いたとみることができる。第二に、牛と農具にかけられた綱の張り具合や結び目、力が加わった時の首木や尻枷の反りなどの描き方は、力学的に見ても民具例に照らしても矛盾撞着がなく、粉本を模写・転用したのではなくて写生を基本において制作されたものと考えられることである。……第三に、『六道絵』の牛が背中に鞍を置いていることである。……牛耕で首木の他に首木(ママ)[鞍]を併用する首引き・胴引き法は日本独自の牽引法であり、首の負担を和らげることによって力の弱い牝牛からも有効に牽引力を引き出すことに成功した工夫であった。第四に、畜生道図の犂の犂へらは、犂柱の左方向に偏角をつけてとりつけられており、掘り上げた土を左に反転するものであったことを示している。ところが中国の犂は一般に右反転と言われている。」(419~420頁)とある。
さらに馬鍬の起源については、「馬鍬は六世紀後半には九州から東北まで当然のような顔をして出土するので、その初源は六世紀前半から五世紀にも遡るのではないか。……馬の飼養の普及と馬鍬の普及は近接しており、その年代差は多く見積もっても一〇〇年以内で、馬具の普及のあとをを(ママ)追うようにして馬鍬も拡がっていったものと思われる。」(44頁)、「古墳時代の日本列島は、北西にひろがる牛文化、南西にひろがる水牛文化に囲まれた中にあって、ただひとり馬の利用に踏み切った特異な地域なのである。……朝鮮半島では牛が馬鍬を引く。もし古墳時代の日本が主流として朝鮮半島から馬鍬を受け入れたのなら、牛の引く農具として牛ごと首木などの牽引法もそのまま導入していてもよさそうである。[しかし現実には、]……馬鍬は牛とセットでは入ってきていないのである。日本の馬鍬は伝来当初から馬と結びついた農具としてあった。……江南からの直接伝来ルート[を考えると、]……江南では馬鍬は水牛が引いたと推定される。……やむをえず農具だけの導入とならざるをえない。……当時の日本には大型家畜は馬しかいなかった。馬しかいないから仕方なしに馬に牽引させ、当初はいやがる馬を泥田に追い込んだのであろう。牽引法としては背鞍に綱をかけて引かせる胴引き法が行われたと推定される。……古墳時代五世紀の地方社会は、大王に政治上統合されながらも経済的にはなお自立した単位であり、地域の政治に主体性を持ちえたと考えられる。……出土馬鍬の伝来時期が古く、かつ早くから全国的拡がりをみせ、呼称も全国一律ウマクハ系であり、犂耕の普及しなかった関東・東北でも馬鍬だけは近時まで使ってきたという定着度の高さは、渡来氏族の生活技術が周辺の農村に徐々にひろがったというような偶然的な出来ごとなどではなく、また中央政府の上から押しつけ的導入でもなく、地方社会の側に意欲や主体性のある積極的な導入であろう。ものの動きだけを見ていれば「馬鍬の伝来」であるが、それに関わる人々の心にまで考え及ぶなら、「馬鍬の導入」と呼ぶにふさわしい状況だと考えている。」(54~57頁)とある。河野2009.でも同様に論じている。
松井2004.に、「牛馬とも弥生時代以降に朝鮮半島を経由して渡来し、当時の人々に飼養されていたと考えられているが、弥生時代には牛馬耕作用の農具が見られないことから、牛馬が農耕に利用されるのは、馬鍬、犂などが出現した古墳時代以降と考えられる。ただ出土した骨等から考えれば、日本列島には馬よりも牛が先に渡来しており、河野氏が言うように定型馬鍬が日本列島に渡来した時期に大型家畜は馬しかいなかったために仕方なしに馬に牽引させたという論ははたして成り立つのであろうか。」(79頁)と疑問を呈している。樋上2012.には、出土した農耕具の時代的な変遷を記した一覧図表が掲載されている。馬鍬については、はたしていつが始源であるのか、6世紀後半の福岡県カキ遺跡のものはみな賛同されているが、それ以前のものについては決め手を欠いている。同書では、「弥生時代中期からの流れをみれば、直柄多又鍬→曲柄多又鍬→馬鍬というような代掻きの系譜が復元できる。」(19頁)とある。水田稲作農耕の農法が変わったのではなく、農具が変わったに過ぎないということのようである。
すると、ウマクハ(馬鍬)の前身にマタクハ(又鍬)があったことになる。マタクハのことをマクハと呼ぶことに抵抗は少ない。刃が片方欠けてしまったものをカタクハ(片鍬)、揃っていればマクハ(真鍬)と呼んで楽しめる。技術革新でそれの大型版が登場すれば、それに似た言葉でうまく表したくなる気持ちは理解できよう。ウマクハという言葉以前にマクハという言葉があったのではないかという説である。民俗用語で馬鍬のことをマグワ、マンガと言っている。むろん、誰が作った言葉かわからないのだから確証にはならない。それでも、外来語に由来する言葉ではなさそうであることは、水牛に引かせていた馬鍬の中国での呼び方が、「耙」や「耖」とされているところからもわかる(注7)。
又鍬(逗子市池子遺跡群№1-A地点出土、弥生時代、かながわ考古学財団蔵、レプリカ、柄は復元、横浜歴史博物館展示品)
左:甘粛省嘉峪関二牛牽拉耙田図(史晓雷「画説科技史—开篇語—」http://wap.sciencenet.cn/blog-451927-1100457.html?mobile=1)、右:黒陶水田(広東省連県附城公社龍口大隊一座墓出土、西晋時代、永嘉六年(312)、広東省博物館蔵、才府https://sns.91ddcc.com/t/194061。彭1993.に、「長19厘米 寛16.5厘米 西晋。泥質黒陶。呈長方形、平底、四角有漏斗状装置、中間以田埂分田両塊。一塊一人駕牛犂田、另一塊一人駕牛耙田、相向而行。耙為六歯、与現代的耖耙相似。水田四角設置漏斗状排灌装置、可按需要灌水或排水;水田内施行一牛挽犂和一牛拉耙的整地技術、反映了広東地区西晋時農業生産技術又有了新的発展。模型塑造精緻、形象生動逼真。……」(108頁)と解説されている。)
言葉としてのウマクハに、いったん馬鍬という字が当てられれば、絵を描く際、馬に引かせたくなる傾向はあるであろう。物語絵に見られるように、言葉が先、絵が後であるのがふつうのことである。今日のマンガ(漫画)家のように、絵が先に描かれて絵筆の趣くに任せてストーリーが作られていくという在り方はほとんどない。言葉は人の思考を大きく縛る。馬鍬を牛に引かせてはいけないわけではなく、古くから行われていたことは、河野1994.に記載の連歌「牛に馬鍬(むまくは) かけたるもあやし」源俊頼(1055~1129)にも見えるとおりである。河野1994.のクハ、ウマクハという言葉の成立に対する考え方は科学的であって語学的ではない。
クハと並び称されるスキの場合は、スクという動詞の連用形でもあり古来の日本語であることは明白であるが、クハには活用語の派生語群が存在せず、外来語の音読みと考えるべきであろう。……[尾子音を持たない]一音の鏵(クヮ)が伸びてクハとなったと見るのが自然であろう。古代のハ音は唇を閉じておいてから発するファ音なので、クワは容易にクファ(クハ)に転じうる。……『延喜式』では内膳司の園の耕作用具として「鍬七十四口、鍬柄卌枝、鋤柄卅四枝」が用意されており、……同じ形の鉄製の刃先に異なる木部を取りつけることによって鍬と鋤とに使い分けたことがすでに指摘されている。つまり鍬とは鍬・鋤共通の鉄製刃先を指していたのであり、考古遺物で知られるU字形刃先をクハと呼んでいたのである。中国で鏵とは犂の刃先で、三角形のものもあればV字形のものもあるが要するに鉄製の刃先であり、日本でU字形刃先をクハと称したことと、用途は若干ことなるものの形態上はうまく一致する。クハの語源はやはり钁[(クヮク)]ではなく鏵なのであろう。(35~36頁)
稲作以前の原始農耕時代から、クハと呼ばれる農具があったと考える白川1995.の議論と噛み合わない。上代特殊仮名遣いについての、コクハ(「許久波」)が小鍬(こくは、コは甲類)か木鍬(こくは、コは乙類)かという有名な話がある(岩波古語辞典9頁)。相当に古い時代から鍬の形の木製農具が出土している。縄文時代にさえ遡りかねない木鍬らしい道具がありながら、外来語を採り入れたとは考えにくい。ヤマトコトバとして定着していた。また、クヮ→クハへと転じたとする説は、クヮ→クワへとなぜ進まなかったかという理由を説明できず、音韻においてもあり得ない。平安時代のことではない。
大陸で水牛に引かせていたのが元祖となれば、馬鍬という漢語を受け取ったのではなく、ウマクハと造語して字を当てたにすぎない。ヤマトコトバのウマクハの成り立ちには、うまく作られた鍬という考え方も可能であろう。白川1995.に、「「くはしめ」に対しては「うましを」という。」(161頁)とあるように、美女美男を言っている。精巧に作られている鍬のことを、クハクハというか、ウマクハというか、言った者勝ちの様相がある。鍬が人から見て手前に動かすものであるのに対して、馬鍬は人から見て向こう側へとやるものである。男女比的に考えれば、ウマクハと言いたくなる。「良人(うまひと)」(万853)、「熟寝(うまい)」(紀96)といった例もある。そういった仮定が成り立つとすれば、農耕具のウマクハが、当初、馬にのみ引かせていたものかどうか定かといえない。筆者は、動力源として大型家畜にウマとウシのいずれかがいれば、新技術の代掻き道具を目にすれば、そのいずれであっても引かせるように工夫したに違いないと考える。隣の村には馬がいて馬に引かせていても、自分の村には牛しかいなければ、牛に引かせたであろう。出土する代掻き具のウマクハの形態に多様性が感じられるのは、それぞれに工夫したからであろう。それこそ言葉的にウマクハが“導入”されている。そのとき、雄略紀に記述されるような逸話が作られるほどにウマという動物のことを深く観察していたとすれば、しかも引かせる大型獣は馬の方が多かったと想定されているのだから、うまくできたクハであってウマに牽引させるのだからウマクハと名付けて然りという気になったということではないか。以上が語学的考察である。
鍬のもとの形態の木鍬については、とても土を掘り起こせる代物ではなく、土を盛ったり塗ったりする鏝のようなものとする見解もある。伏見2011.に、「地力の高い表土には雑木草が繁茂して、これらの根が互いにからみあっており、これを剥がす作業は困難をともなう。生い茂った草木は燃やして処理できるが、根の処理に多くの労力を費やす。小規模開墾では、大鎌や斧で小区画に縦横に切り込みを入れて横方向に張った根を切り、根層の下部に掘棒を入れて梃子の原理で引き剥がす。」(289頁)とし、木鍬や刃先に鉄をつけただけの鍬の出番はないように記されている。しかし、弥生時代以来、多くがそうであった泥田の場合、木鍬を使うことが不可能であるとは認めがたい。伏見2011.が参照する樋上2000.には、木製農耕具について、曲柄平鍬・曲柄二又鍬・一木平鋤・組み合わせ平鋤は、環濠・溝・方形周溝墓・井戸から出土することが多く、「土木具指向」がより強く、直柄小型鍬・直柄又鍬・組み合わせ又鋤は、自然流路・谷から出土することが多く、「農耕具指向」が強い器種であると把握され、直柄平鍬はどちらからも出土していて、「万能機種」であるとされている。大規模工事には作業をスムーズに遂行させるために大量の「土木具」を作り、工事中に壊れたら水田の大アゼ(畦畔)や堰の構造材などに転用されたか、放置されたから出土例が多く、ふだん使いの「農耕具」は数自体、作業に当たる家族人数分以上は不要で、毎日使っては家の中に大事にしまわれて使い続けられたから出土例が少ないのではないかと仮説を立てられている。
古代の水田は、今のように秋に水を落として冬場は乾いていたのではなく、常時湛水田、つまりは泥田であったとされる。二毛作をする「麦田」ではなく、冬の間も水を湛えた「春田」とも言われるものを掘り起こす際、木製農耕具でも役に立ったであろう。蓮根を育てているような深田も戦前には多く見られ、田下駄がなければ対処できない湿田も多かった。そんなところには牛馬は入れられず、そもそも耕したり均したりすることもない。馬鍬が入れられる程度のところが「狭長田」に当たるのであろう。乾田を耕起するやり方は、日本の稲作の始まりの時期には見られなかった。河野2015.には、「朝鮮半島は雨期が日本より遅れるので田植え法の普及は遅く、畑状態で耕して籾を播き、後から灌水して水田とする方法が広くおこなわれていた。」(351頁)とある。馬鍬の江南伝来説(導入説)の証拠の一つとされている。道具名とヤマトコトバにおける呼び方とは、一致しなくても構わない。ヤマトの人が納得できることが言葉としては大切なのである。コミュニケーションするのはヤマトの人の間であって、中国南朝の人とは通訳を介して交流している。
牛馬耕の始まりに関して、ウシやウマが日本列島へ渡ってきた時期を考えあわせることも当然必要となる。いなければできない。ではあるが、いたからと言って直ちに使役したとも言い切れない。松井2005.に、「古代遺跡ではウマに比べるとウシの出土例ははるかに少ない。埴輪についても、ウマに比べるとウシのそれは圧倒的に少ない。それはウシがウマほどの軍事的価値を持たず、威信材としての価値が低かったからだと考えられる。」(195頁)とある。また、列島に渡ってきた時期について、ウシが先かウマが先か論じられている。考古学では、本格的なウマの渡来時期は古墳時代中期以降とされ、それ以前には単発的に搬入された可能性が、ウシ、ウマともに4世紀以前からもないわけではないようである(注8)。大陸、わけても朝鮮半島に、ウマしかいなかった、ウシしかいなかったという時期に列島に連れて来られたというのならどちらかが先であるかという議論は質問として的を射ていようが、両方いたのに渡来人が片方だけしか連れて来なかったと考えるのはなかなか容認できない。応神紀に、「百済の王(こきし)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して良馬(よきうま)二匹(ふたつぎ)を貢る」(応神紀十五年八月)、安閑紀に、「牛を難破(なには)の大隅嶋と媛嶋松原とに放て」(安閑紀二年九月)とある。鳥獣人物戯画に野生の牛が描かれており、半野生状態の時期はあったかもしれない。応神紀の記事から、ヤマト朝廷の側からの要請があり、騎乗用に馬が選択的に多く連れて来られたと考えることができる。求める人は朝廷の人であり、農家ではない。「貢レ牛」という記事は見られない。つまり、馬は“導入”されて多く、それに比して牛は少なくなる。
そこで耙・耖のような便利なものが知られた時、ヤマトの人はいろいろ工夫してウマクハを使うようになった。その際、相対的にウマが多かったことと、川の両側のカハノヘ(川上・河上)のつらつらな馬面地形を田にするのに使われたから、馬鍬と言われてなるほどと納得に至ったのではないか、というのが筆者の第一の推測である。語源の探究ではなく、飛鳥時代にどのような語感で捉えられていたかについて論考している。当時の人がいかに認識していたであろうかという点において、すなわち、言葉の音に語義をいかに感じていたかが問題である。タクハタ(𣑥幡)=タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)という駄洒落的な考えがあって、クハ(鍬)という言葉がタ(田)という言葉に挟まれ、銜えられており、クハ(鍬)がクハ(銜)えられているとして面白がったと考えるのである。自己説明によって循環論法になる上代語の特徴をよく表しており、絶妙な言語遊戯となっている。
その証拠に、馬の轡とは、馬の歯槽間縁に食ませるものである。そこだけ歯がないから、いくら噛んでも噛むことはできない。轡(くつわ、クチ(口)+ワ(輪)の意か)の口中部分は銜(はみ)とも言い、必ず「銜(くは)」えることになっている。そして、ウマクハは馬の口同様にすきっ歯である。これをスキ(ウマスキ)と呼ばなかったことは、それでは洒落にならないからである。つまり、馬鍬という新技術製品に、クハ(鍬)の新形式を悟ったのである。馬に引かせたから馬鍬であるというのは、実際上も馬に引かせるのが多く、言葉の上からも歯槽間縁がコントローラーになって起動しており、耕具もそれに適合した形をしていて確かめられる。人間が使うウマという“仕組み”を熟知して、はじめてウマグハという言葉も生きて来て、それはほとんど悦に入る程であると言うことができる。もしウマが「牛」のように鼻輪によって動かされているとしたら、耙や耖をウマクワと呼び、「馬鍬」という字で記されるようになったと考えるには心もとないというのが筆者の第二の語学的推測である。
左:馬の骨(蔀屋北遺跡馬埋葬土坑出土、「遥馬」号、近つ飛鳥博物館展示品)、右:歯槽間縁をチェック(JRA育成馬日誌「騎乗馴致の前には、歯の検査(日高)」http://blog.jra.jp/ikusei/2008/10/post-d57f.html)
以上、「五十鈴川上」はイスズノカハカミと訓み、代掻き具をウマグハと呼んだ経緯について検討した。
(注)
(注1)「狭長田」は、大系本日本書紀に、「サナダと訓むのであろう。……長をナと訓む例は、渟長田をヌナタとするのがある。」((一)135頁)とし、「サナダも神稲の田の意。」(同頁)とある。訓注もないなか、「長」をナと訓まなければならない理由は不明である。筆者はとらない。
(注2)万22番歌の定訓に、筆者は納得していない。稿を改めて論ずることとする。
(注3)趙孟頫のそれは白鼻という特徴を描いている。騧(鹿毛)については、宗如筆(元禄9年(1696))の驥毛図解にも描かれている。
(注4)クハという言葉について、外来語由来、擬声語由来とするほかに、クフ(食)から派生するクハフ(クフ(食)+アフ(合)の約)という語との関係も見出されないだろうか。鳥が餌を食うのはがつがつと食べることであるが、クハフ(銜・咥)のは、嘴に挟んで巣に帰って雛に与える行為である。犬が仔犬を銜えて運ぶこともある。決して噛みついているのではない。鍬はもともと木製であった。土に張っている根を噛み切ったり、かちんかちんに乾いた土を食いちぎることはできない。できるのは、軟らかい土や泥を銜えて、塊ごと余所へ移動させることである。栄養豊富な表土をとっておき、耕盤を整えてからもとへ戻すことに使われたとするなら、クハという語は鍬という道具に正しく当てはまる言葉であると考えるがどうであろうか。
(注5)同造作具に、「鑱 唐韻に云はく、鑱〈音は讒、一音に暫、漢語抄に加奈布久之(かなふくし)と云ふ〉は犂の鉄、又、土の具也といふ。」ともある。
(注6)HiROsimicom 様「【乾田馬耕】60年ぶりに馬で代掻き」(https://www.youtube.com/watch?v=K09jgATnfVg、初めの19秒までが馬鍬)参照。
(注7)水牛耕の実例は、top NEWS台數科「雲林新聞網-人工智慧牛犁田 地更平稻更滿」(https://www.youtube.com/watch?v=5oMhk210jwc)などに見ることができる。
(注8)久保・松井1999.に、「ウマもウシも少産で、ふつう1回の妊娠で1頭しか産まず、短期間のうちに繁殖させ飼育頭数を増やすためには、牧を設け牧子をつけるといった、広い土地と専従する技術者集団を抱えるなど、大きな権力を必要とする。そのため、牛馬の普及の背景には、古墳時代中期の広い範囲にわたる巨大な権力の出現と密接な関係があるのであろう。」(171頁)とある。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
久保・松井1999. 久保和士・松井章「家畜<その2─ウマ・ウシ>」西本豊弘・松井章編『考古学と動物学』同成社、1999年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具の基礎的研究』和泉書院、1994年。
河野2009. 河野通明「農耕と牛馬」中澤克昭編『人と動物の日本史2─歴史のなかの動物たち─』吉川弘文館、2009年。
河野2015. 河野通明『大化改新は身近にあった─公地制・天皇・農業の一新─』和泉書院、2015年。
坂本1965. 坂本広太郎『神宮祭祀概説』神宮教養叢書第七集、神宮司庁刊行、昭和40年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年、同『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)(二)(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
西宮1990. 西宮一民「『五十鈴川上』考」『上代祭司と言語』桜楓社、平成2年。
橋本1960. 橋本進吉「駒のいななき」『国語音韻の研究』岩波書店、昭和35年。
樋上2000. 樋上昇「『木製農耕具』ははたして『農耕具』なのか─新たな機能論的研究の展開を考える─」『考古学研究』第47巻第3号(通巻187号)、2000年12月。
樋上2012. 樋上昇「農具と農業生産」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学5─時代を支えた生産と技術─』同成社、2012年。
伏見2011. 伏見元嘉『中近世農業史の再解釈─「清良記」の研究─』思文閣出版、2011年。
彭1993. 彭卿雲編『中国文物精華大全 陶瓷巻』台湾商務印書館、1993年。
松井2005. 松井章「狩猟と家畜」『列島の古代史2─暮らしと生業─』岩波書店、2005年。
松井2004. 松井和幸「馬鍬の起源と変遷」『考古学研究』第51巻第1号(通巻201号)、2004年6月。
※本稿は、2016年10~11月稿を改稿した2017年5月稿を2020年10月にさらに改稿したものである。
上代の文献に、伊勢神宮関連の地名として、「五十鈴川上」が散見される。この訓読については、先行研究に西宮1990.があり、詳しく論じられている。はじめに、同書のあげている日本書紀の例を読み下したものを提示した。古語拾遺と皇太神宮儀式帳、祝詞の例は省いた。古語拾遺は日本書紀の「自我流の解釈」(293頁)のため、日本書紀の文意に沿わない場合があって当てにならないことがあるとされている。
①[衢神=猨田彦大神]対へて曰く、「天神の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触(くじふる)の峯(たけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは、汝なり。故、汝、我を送りて致りませ」といふ。天鈿女(あまのうずめ)、還詣(まうでかへ)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に、天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降(あまくだ)ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫(すめみま)をば筑紫の日向の高千穂の槵触の峯に致します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到る。(神代紀第九段、一書第一)
②時に、天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。(垂仁紀二十五年三月)
③阿閉臣国見(あへのおみくにみ)、更の名は磯特牛(しことひ)。𣑥幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人(ゆゑ)の廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)を譖ぢて曰く、「武彦、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり」といふ。湯人、此には臾衞(ゆゑ)と云ふ。武彦の父、枳莒喩(きこゆ)、此の流言(つてこと)を聞きて、禍の身に及ばむことを恐る。武彦を廬城河(いほきのかは)に誘(あと)へ率(たし)みて、偽(あざむ)きて使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)して、因りて其不意(ゆくりもなく)して打ち殺しつ。天皇、聞しめして使者(つかひ)を遣して、皇女を案(かむが)へ問はしめたまふ。皇女、対へて言さく、「妾は識(し)らず」とまをす。俄にして皇女、神鏡(あやしきかがみ)を齎(と)り持ちて、五十鈴の河上に詣(い)でまして、人の行(あり)かざるを伺ひて、鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在(な)きことを疑ひたまひて、恒に闇夜(やみのよ)に東西(とさまかくさま)に求覓(もと)めしめたまふ。乃ち河上に虹の見ゆること蛇(をろち)の如くして、四五丈(よつゑいつつゑ)ばかりなり。虹の起(た)てる処を掘りて、神鏡を獲。移行未遠(たちどころ)にして、皇女の屍(かばね)を得たり。割きて観れば、腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。枳莒喩、斯(これ)に由りて、子の罪を雪(きよ)むること得たり。還りて子を殺せることを悔いて、報(たむか)ひに国見を殺さむとす。石上神宮に逃げ匿(かく)れぬ。(雄略紀三年四月)
この「五十鈴川上」、「五十鈴河上」を何と訓むかである。「イスズノ……」であることには違いあるまい。「川上(河上)」部分が問題である。大系本日本書紀と新編全集本日本書紀には、次のように訓まれている。
大系本 全集本
①カハカミ カハカミ
②カハノホトリ カハノヘ
③カハノホトリ カハカミ
西宮1990.は、「「五十鈴川上」は「五十鈴川・川上」の約とし、特に「川上」一般の訓義について検討した結果、……
A カハカミ……上流
B カハノへ乙……川岸・川の上(うへ)
C カハヘ甲乙……川岸・川岸の辺り
D カハノホトリ……川のそば
E カハラ……川原(川沿ひの平地)
となる。このうち、Eは訓注によるものであるから、訓注のないものには[その訓を]適用できない。……右のA~Dを一見して、Aのカハカミ(上流)といふのと、BCDのカハノヘ乙・カハヘ甲乙・カハノホトリ(川岸・川の上(うへ)・川岸の辺り・川のそば)といふのとの二類に分かれることを知る。すなはち、Aで訓むのと、BCDで訓むのとでは大きく異なってくるのであつて、BかCかDかは大した問題ではないといふことなのである。……[上代の用例の]「五十鈴川上」の訓義の決定の方法は、結局各の文脈によるより他はないことになると思ふ。」(290頁)とし、最終的な結論として、「「五十鈴川上」の資料に見える「川上・河上」は、すべてカハカミ(上流)と訓めばよいといふことになつたのである。」(295頁)と定めている。
西宮1990.の論拠は、「五十鈴川上」は、天孫降臨の地、「高千穂槵触之峯」に対応して、猨田彦神の到達点は高いところであるはずだということ、それは、神祭りが上流で行われたことと呼応することであるとの考えによる。垂仁紀二十五年の例でも、「文脈のきめ手は、「礒宮」にあるのではなくて、「則天照大神始自レ天降之処也」にあると考へる。「礒宮」の名は「野宮」に対するもので、「上流」にあつても、また「川岸」にあつても命名される。しかし、天神の降臨は、川の場合は「上流」である。また神祭りも「上流」でなされる。従つて、「五十鈴川上」はカハカミ(上流)である。」(292頁)とし、日本書紀の用例を拾っている。再び読み下したものを呈示する。
素戔嗚尊、天より出雲国の簸(ひ)の川上(かはかみ)に降到(いた)ります。(神代紀第八段本文)
今、美濃国の藍見川(あゐみのがは)の上(かみ)に在る喪山、是なり。(神代紀第九段本文)
厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生(にふ)の川上(かはかみ)に陟(のぼ)りて、用て天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いはひまつ)りたまふ」(神武即位前紀戊午年九月)
磐余の河上(かはかみ)に御新嘗(にひなへきこしめ)す。(用明紀二年四月)
天皇、南淵(みなぶち)の河上(かはかみ)に幸して、跪きて四方(よも)を拝む。天を仰ぎて祈(こ)ひたまふ。(皇極紀元年八月)
そして、異説に、伊勢の内宮が山裾の河原に鎮座する宮だから、「五十鈴川上」の「川上」は川の辺り、川沿いの義であるとする坂本1965.25~26頁の説を斥けている。
筆者の疑問点をあげる。皇極紀の例は雨乞いである。「河上(かはかみ)」=川の上流へ行ったのは、源の湧き水があるかどうかの確認の意味もあったのではないか。地震などで地形が変化して、流れが変わっている可能性もある。現地調査を兼ねたものと言える。また、四方拝のような行為には、小高い所がふさわしいという理由もあろう。用明紀の新嘗祭で「河上(かはかみ)」とあるのは、川の少し上流へ行ったという意味ではないか。禊ぎのためにきれいな水が欲しかった。生活排水を浴びて禊ぎしてきれいになったと気持ち的に思えるかは重要な問題であろう。「磐余の河上」は、磐余の地のなかで河上に当たるところであり、奈良盆地南東部の磐余地方の山岳部ではなく、平野部のなかで比較的上流であるというにすぎないと考える。
神が降りてくる場所は、次のようなところである。
二(ふたはしら)の神、是に、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)りて、……(神代紀第九段本文)
この「小汀(をはま)」は、海や湖に面した小さな浜であろう。川沿いであってもだいぶ下流の、川原が砂地になっているところである。
垂仁紀では、その場所をわざわざ「磯宮」と名前をあげて断ってある。歴とした謂われがあるからと考えられる。言=事とする言霊信仰に生きていた人たちの行いである。「磯宮」の「磯(いそ、ソは甲類)」が、大きな岩石を表すか、それほどでもないものも表すか定かではない。イソは水中や水際のイハ(岩)を指す。イハ(岩)はイシ(石)の大きなものということで一応納得できよう。ただし、上代の用字はとても紛らわしい。イソに「磯」、「礒」、「石」、イハに「岩」、「磐」、「巌」、「石」、イシに「石」などが用いられる。紀の編者は、イシノミヤ(「石宮」)ではなく、イハノミヤ(「磐宮」)でもなく、イソノミヤ(「磯宮」)と限定している。
神代紀第九段一書第一に、「伊勢之狭長田五十鈴川上」とあるのを真に受けるなら、水耕栽培技術はなかったから岩盤が露出した場所に「田」は作れない。石ころがあるところを開拓した川沿いの狭く長い田という意味に思われる。むろん、神代紀と垂仁紀、また、雄略紀の「五十鈴川上(河上)」を、別の場所であると想定することもなお可能である。ただ、ふつうに考えれば、別扱いする理由は特にないのだから、同じところ、同じ土地柄であると認識されているものと捉えられる。
イソで伝えたかったこと
磯宮のイソ(ソは甲類)の音は、どこかで聞く音である。イは馬の鳴き声、ソ(ソは甲類)は馬を追い御する人の声である。万葉集の、「いぶせくも(馬聲蜂音石花蜘蟵)」(万2991)、「そま(追馬喚犬)」(万2645)、「まそ鏡(喚犬追馬鏡)」(万3324)、「まそ鏡(犬馬鏡)」(万2810・2980・2981・3250)の戯書、義訓や、「吾(わ)はそと追(も)はじ(和波素登毛波自)」(万3451)という仮名書きから理解できる。橋本1960.に、馬の鳴き声をイとする理由についての論がある。多少長くなるが、往事の闊達な研究も顧みられるので引用する。
「いばゆ(嘶)」といふ語の「い」も亦馬の鳴声を模した語である……。ハヒフヘホは現今では ha hi hu he ho と発音されてゐるが、かやうな音は古代の国語には無く、江戸時代以後にはじめて生じたもので、それ以前はこれ等の仮名は fa fi fu fe fo と発音されてゐた。このf音は西洋諸国語や支那語に於ける如き歯唇音(上歯と下唇との間で発する音)ではなく、今日のフの音の子音に近い両唇音(上唇と下唇との間で発する音)であつて、それは更に古い時代のp音から転化したものであらうと考へられてゐるが、奈良時代には多分既にf音になつてゐたのであり、江戸初期に更にh音に変じたものと思はれる。
鳥や獣の声であつても、之を擬した鳴声が普通の語として用ゐられる場合には、その当時の正常な国語の音として常に用ゐられる音によつて表はされるのが普通である。さすれば、国語の音として hi のやうな音が無かつた時代に於ては、馬の鳴声に最近い音としてはイ以外にないのであるから、之をイの音で模したのは当然といはなければならない。猶又後世には「ヒン」といふが、ンの音も、古くは外国語、即ち漢語(又は梵語)にはあつたけれども、普通の国語の音としては無かつたので、インとはいはず、只イといつたのであらう(蜂の音を今日ではブンといふのを、古くブといつたのも同じ理由による)。
……江戸時代に入つて、鹿野武左衛門の「鹿の巻筆」(巻三、第三話)に、堺町の芝居で馬の脚になつた男が贔屓の歓呼に答へて「いゝんいゝんと云ながらぶたいうちをはねまわつた」とあるが、この「いゝん」は落窪物語の「いう」[巻二、「……首いと長うて、顔つきたゞ駒のやうに、鼻のいらゝぎたる事かぎりなし。いうといなゝきて引き離れいぬべき顔したり。」]と通ずるもので、馬の嘶きを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかつた事を示す適例である。(48~50頁、漢字の旧字体、一部の繰り返し記号は改めた。)
さて、磯宮のイソという音のイは、馬の嘶く音、ソ(甲類)は、馬を追うときの人の声である。新撰字鏡に、「嘽 士于反、阿波久(あはく)、又馬平、馬勞也。阿波久(あはく)、又馬伊奈久(いなく)」、和名抄に、「嘶…… 玉篇に云はく、嘶〈音は西、訓は伊波由(いばゆ)、俗に伊奈々久(いななく)と云ふ〉は馬の鳴く也といふ。」とある。新撰字鏡では、イナクの義は「馬が疲れてあえぐ意らしい」(時代別国語大辞典87頁)とされている。万葉集には挽歌に用例がある。
…… 何しかも 葦毛の馬の 鳴(いな)き立ちつる(万3327)
衣袖 葦毛の馬の 嘶(いな)く声 情(こころ)有れかも 常ゆ異(け)に鳴く(万3328)
この部分を、イナクと訓むか、イバユと訓むかについては、馬の飼い主の死を悼む挽歌であるから、馬の鳴き声のイに加えて、嫌だ嫌だというイナ(否)という意を掛けてイナクと言っているものと理解される。
イソの宮という固有名詞は、どうしても馬のことが思い浮かぶ仕掛けになっている。それが、文字を持たず、言葉が口頭語でしかあり得なかった人々の間の共通認識であった。無文字文化である。それが確かであることは、紀自身に記述されている。「伊勢之狭長田五十鈴川上」(神代紀第九段一書第一)である。サナガタ(注1)は狭くて長い田であるとを示している。山間部を縫うように流れる川の少し両岸に平地があって、そこを田として拓いたところを指して言うのであろう。馬の面のような形の長細い田圃である。真ん中を川が流れている。川が馬の口の隙間である。今日でもウマヅラ(馬面)といえば長い顔を誰もが思い浮かべるように長く伸びている。
左:道産子の馬面(多摩動物公園)、右:馬鍬代掻き図(六道絵模、松平定信・古画類聚、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0029535をトリミング)
馬面な地形を田として利用した。言霊信仰なのだから馬耕したい。牛馬耕のはじめは、馬鍬を引かせた代掻きであったとされる。聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅では、馬が馬鍬を引いている姿の後方に、杭が打たれてある。川の護岸を補強する工作である。ちょっとした水の流れ出を活用し、下方には杭を使って流れを狭めたところに小さな堰を設ければ、水は溜まり、水田の条件は整う。
イセという地名に「伊勢」という字を当てたのは、もちろん、後付けである。セというヤマトコトバが、イ(接頭語)+セ(狭・瀬)を印象づけるならば、狭まっていてしかも川の浅瀬であるということで、川の下流ではなく、中流より上流の場所のことを言葉の音から彷彿させる。そして、そのイ音に馬の嘶きを感じ取るなら、イセという国名の音は、馬の背の細長さを思い起こさせる。その細長さのダブルイメージとしてサナガタ(狭長田)とあるのだから、馬面のような細長い田のことを表して、「磯宮」と呼んでいるとわかる。話の聞き手が、空中を飛んでいる言葉から直観的に了解できる。それがわからなければ、無文字文化に暮らす人としては話のわからぬ奴であり、話がわからなければ、訳のわからぬ愚か者として蔑まれたであろう。ほぼ文字がないのだから、意思疎通の確認ツールは言葉そのもの、音声言語ばかりであった。
「伊勢之狭長田」が馬の面のような細長い田で、中央を馬の口筋のように川が流れているとすると、「五十鈴川上」の「川上」をカハカミと訓むのはそぐわない。地形を示すための馬面の表現、「磯宮」のイソ、「狭長田」との関係が現れないからである。ほか可能性のある訓のうち、カハノホトリやカハラも排除されよう。馬面地形を示さない。残るは、カハノへ(ヘは乙類)かカハヘ(ヘには甲乙両方ある)かいずれかである。後者のカハヘには、川岸の辺りの印象が強くにじんでいる。視線が川の辺りから川を眺めている。馬面の口の上と口の下のように細長く伸びている田圃を形容するのに、辺りというニュアンスは似つかわしくない。前者のカハノヘという訓がふさわしい。川の真上から川の両サイドに目が配られている。
川の上(へ)の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて(万22)(注2)
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢(こせ)の春野を(万54)
川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は(万56)
川の上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも(万1931)
川上(かはかみ)の 根白高萱 あやにあやに さ寝さ寝てこそ 言に出にしか(万3497)
万56・1931番歌に、カハノヘノと訓み、そのあとにツラツラや、イツモイツモといった言葉の繰り返しがある。カハノヘは、川の上(うへ)の約された言い方ながら川岸を指す語である。川が一筋流れていれば、必然的に両サイドに岸が2つある。川岸が川の両側にあるのは当たり前と思われるかもしれないが、川原となって両サイドに現れるとは限らない。一方は平らな川原であっても、反対側は急峻な崖になっているところも多い。そんななか、カハノヘといって両サイドを示すことが面白いから、ツラツラやイツモイツモなどといった繰り返し言葉が続いている。ツラツラニといった言い方は、馬面のツラを言い当てている。口から上の顔と口から下の顔との両側のことを、ツラツラニと言って、その川の両サイドに椿が生えているのを見ている。ツバキとは、植物の椿のこととともに、口から飛び出す唾のことを洒落にしている。馬の口から唾が湧くように出ていることが思い起こされる。万3497番歌は、アヤニアヤニ、ネテネテと繰り返し言葉が入っているから、第一句はカハノヘノとあって然るべきである。歌の筆記者が、一字ごとの万葉仮名表記に改めた際、「河上乃」などとあったのを、「可波加美能」と誤って訓んで写し間違えたということであろう。上代ヤマトコトバの口語がよくわからない時代に入り始めてからのことと考えられる。
以上から、「五十鈴川上(河上)」は、イスズノカハノヘ(ヘは乙類)と訓むのが適当であると確かめられた。では、雄略紀の記述から、それが正しいか検証してみる。
雄略紀の「虹」の現れる記述は、古訓にヌジと訓まれている。和名抄に、「虹 毛詩注に云はく、螮蝀は虹也〈螮の音は帝、蝀の音は董、螮は亦、蝃に作る。和名は尓之(にじ)〉といふ。兼名苑に云はく、虹は一名に蜺〈五稽反、鯢と同じ。今案ずるに雄を虹と曰ひ、雌を蜺と曰ふとあんず〉といふ。」とある。また、「虹・蛇をともにナブサともいう」(大系本上補注、634頁)とされている。ナブサという語には、また、新撰字鏡に、「騧 古華反、黄馬黒喙也。浅黄也。馬黄白色也。騧、奈夫佐乃馬(なぶさのうま)、又馬。」とある。和名抄には、「騧馬 尓雅注に云はく、騧〈音は花、漢語抄に騧馬は鹿毛也と云ふ〉は浅黄色の馬也といふ。」、黒沢定幸編輯・驪黄物色図説・乾巻(早稲田大学古典籍データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ni15/ni15_00591/ni15_00591_p0017.jpg)に、「騧 音爪○今按久智倶路加計比巴利(くちぐろかげひばり)」となっている。比定に若干違いがあるように思われるが、往時、全体的に黄白色で口部が黒いものをいったのではないか。伊勢の狭長田の五十鈴の河上の磯宮のあるところに、馬にまつわるナブサが出現している。馬面の部分の「黒喙」の黒さは、田圃の畦畔(あぜくろ)が作られて耕作されたと表したいのではないか。また、「なぶさなぶさ」という語もある。名義抄に、「随分 ナフサナフサ」とある。分相応に、という意である。馬はもともと騎乗用に舶来させたものであったが、鈍足な馬も生れてきてしまい、「なぶさなぶさ」に農耕馬に払い下げられてしまうものもいたのであろう。
騧(趙孟頫、白鼻騧、元代、台湾故宮博物院蔵、http://chinapalacemuseum.com/元趙孟頫白鼻騧-軸-故-畫-001952-00000/)(注3)
雄略紀に讒言した者の名は、また「磯特牛(しことひ)」といい、牛馬対決になっている。シコトヒは、「讒(しこ)ぢて問ふ」ことを表しているようである。讒言するきっかけを与えたのは、「湯人(ゆゑ)」という言葉が、風呂を沸かす係やそのための薪の調達役のことばかりでなく、産湯を沸かす役としても称された“ゆゑ”であろう。「廬城部連武彦(いほきべのむらじたけひこ)」は、「五十木(いほき、キは乙類)」というほどたくさんの材木を調達してきている。いやに湯沸しのための材木が多いではないか、産湯を沸かすためではないか、と勘ぐられる隙を与えたらしい。𣑥幡皇女という名も、𣑥と呼ばれた楮で幡のように長いものを名に負っていると見られてしまう。それはひょっとして晒の腹帯に当たるものではないのか、と疑われたのであろう。むろん、話(咄・噺・譚)のレベルでのことである。
彼女は、「神鏡」を埋めている。鏡(かがみ)だから屈んで埋めたのであろう。鏡は写すものだから、川の反対岸にも同じことように埋まっているとわかる。つまり、「移行未レ遠、得二皇女屍一。」とは、鏡の埋まっていたのと川をはさんでちょうど反対側、対称となる地点で屍が見つかったということである。その両者を渡すように虹がかかっていた。
狭長田の開墾から鍬の話へ
ニジ(虹)の語源については、ニージなどといった言い方であったらしいところから探ることもあり得ようかと思われる。筆者は、語源を探究する立場に立たない。当該語が上代に、どのような語感で捉えられていたかこそが問題で、洒落やなぞなぞとして頭をめぐらせれば納得できると感じられていたに違いないと考えている。ニジ(虹)という語とニジル(躙)という語との間の関連を見る。新撰字鏡に、「跌 不牟(ふむ) 又爾志留(にじる)」とある。踏みつけて押しまわすことの意であろう。茶室の躙り口などは、膝を押しつけるようにじりじりと動くことである。新撰字鏡のニジルという語の観念には、脚と足とが踵(かかと)、踝(くるぶし)のところで直角に曲がっている様をよく観察した成果があらわれている。踏みにじる行為は、単に叩くや潰すといった動作ではなく、踏んでおきつつ横ずれや回転を伴ってぐうの音も出ないようにすることである。煙草の吸殻を地面に捨てて靴底で踏みにじって火を消している。新撰字鏡に、「蹹」、「蹉跎」、「蹉跌」といった字にフミニジルという訓が付けられている。脚と足とを道具に見立てるなら、それは鍬である。柄の先に刃となる部分をつけながらその刃の平面を使ってこすって塗りつけるようなことである。農具の鍬は、柄と角度をもって刃がついているが、もとは刃全体が木製であり、古墳時代に鉄製の刃先を取り付けるように改良された。柔らかい土や泥田を掘り起こしたり、刃によって雑草の根を切ることもできるようになった。と同時に、田圃の畦畔を作るには、その刃の平面を使って土を押しつけながら形を整えていく。その結果、水が湛えられて水田稲作農耕ができる状態を保っている。すなわち、畦畔によって川上(かはのへ)にいつも水に浸る田圃が形成されている。古墳時代の田の傾向に、一年を通して水が浸っている常湛法の細長い田が畦畔によって作られ、それを並行させることがあった。細長い田を横に仕切るのは、後から水準を保つために設けられた小畔である。
有馬条里遺跡(渋川市)の水田跡(群馬県ホームページhttps://www.pref.gunma.jp/contents/100156048.pdfをトリミング)
白川1995.に、「人の足のかかとから足先までの形は、柄を装着した「くは」に似ているので、その部分を「くは」といい、かかとを立てて遠くを望むことを「くは立つ」という。「企(くはた)つ」の意である。鍬がもと疌声で地にうちこむものであったように、「くは」は地にうちこむときの擬声語であったかと思われる。」(300頁)、「足首を「くは」といい、その身体用語から「くはたつ」という語が派生するような語構成は、外来語にはほとんどないことである。「くは」は稲作以前の原始農耕の時代からあったと考えてよい。」(301頁)とある。このクハについての白川説には異論も多い。筆者は、農具のほうが後から名づけられたであろうと考える(注4)。道具は、身体の延長と考えられることが多い。しかるに、クハという語は、「企つ」を含めて、立てる、入れる、均すためのものといえる。対照的なスキ(鋤)の場合、柄と刃が一直線についているから、掘るのに適している。鍬だけで井戸を掘る気にはならない。
スキ(鋤)という語は、地面をスク(梳・鋤・梳)ことに由来した動詞連用形の名詞と考えられている。隙間を作る農耕具が、鋤であろう。「掘串(ふくし)」(万1)の大きなシャベル・スコップ類に当たる。「金鋤」(記98)とは刃先に鉄が付けられたものであろう。さらに牛馬に引かせたのがカラスキ(犂)である。動力源を身体以外に借り、それまで鋤において行っていた力の入れ方、鋤の刃の縁を踏む方法とは違う方向、モーメントを考えなければならない方向から牛馬の力に頼っている。そこがからくりである。よってカラスキと呼ばれた。外来物だから何でもカラと付けているとばかり考えるのでは、ヤマトコトバの名折れである。反対に、外来物であったであろう馬鍬は、馬に引かせたから馬鍬なのであろうが、カラクハとは呼ばれていない。「唐鍬」と呼ばれるものは別にあり、鍬の角度が80°のもので、専ら開墾、株掘りに用いられた。鍬は当初から柄と刃の付き方に角度があり、それは馬鍬の場合も同じで、力の入れ方は似ている。そして、馬鍬を引かせていくことは、田圃のなかに筋を入れて行くことで、整形ではない細長い田(「狭長田」)であれば、虹を描くように孤を描くこともあったであろう。
漢字に虹という虫偏の字を使っているのは、龍の一種とされたからである。
龍(たつ)の馬(ま)も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため(万806)
龍の馬を 我(あれ)は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに(万808)
「龍」字はまた、地名のタツタ(ヤマ)(龍田(山))に当てられている。龍は騎乗するのが嬉しい馬に近しく、牛とは遠い存在と思われていたようである。虹も馬に親しく、牛に疎遠である。
𣑥幡皇女の屍の腹を割いてみると水のようなものがあってその中に石があった。カガミには道徳的に手本となる鑑の意もあり、「上善は水の若し(上善若レ水)」(老子・易性)、「親の過ち小にして怨むは、是れ磯(き)す可からざるなり(親之過小而怨、是不レ可レ磯也)」(孟子・告子章句)を引いたものかもしれない。鏡は埋められていたのだから、掘り返すと川原だから水が滲み出てくる。当然、石ころも残っている。反対岸の𣑥幡皇女も、水の中に石が入っていた。これはまぎれもなく、川の中心ラインを挟んで鏡像のツラツラな状態である。馬面地形をもって体を成している。きちんと神に仕えた斎宮であったとわかる。五十鈴の川上の狭長田の磯宮の主としてあったということである。主(ぬし)が虹(ぬじ)に変じた、ないしは、変じていないという、言霊信仰にもとづくお話である。
「神鏡(あやしきかがみ)」とある個所について、一説に、いわゆる三種の神器の一ではないかともする。この「神鏡」は、「猨田彦神」と関係する「鏡」であろう。猨田彦神とゆかりの伊勢の狭長田にある五十鈴河上に出没する「神鏡」とは、馬に関わりの鏡、すなわち、轡に飾りつけた鏡板のことを指すと思われる。鏡板は、鉄地の上に金銅の金ぴかを鋲でとめて飾っている。馬を制御するための馬具として機能的に必要なものではない。轡をきれいに見せる飾り馬具である。この鏡板の形態にはいろいろあるが、古墳時代の特徴として、f字形鏡板、鐘形鏡板、楕円形・心葉形鏡板などがあげられる。考古学では、朝鮮半島の特徴と考えあわせたとき、非新羅系か新羅系かと分類されたり、時代的に製法にも技術的な革新がある。この鏡板こそ、雄略紀の逸話にいう「神鏡」のイメージの発端であると考える。
左:鈴付f字形鏡板付轡(模造、和歌山県和歌山市大谷古墳、5~6世紀、東博展示品)、中:金銅装パルメット文鏡板(大阪府茨木市海北塚古墳出土、古墳時代後期、6世紀、東博展示品)、右:長方形鏡板付轡(三重県伊勢市塚山古墳出土、古墳時代、6~7世紀、山本貞蔵・平尾長松・山下創太郎氏寄贈、東博展示品)
埴輪 馬(高崎市箕郷町上芝古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)
鏡板は、縁部が盛り上がって鋲が付けられている。そのなかに模様が描かれることもあるが、十字に区画されていることも多い。その様子は、畦畔を形容に重なるところがある。塚山古墳の例など、十字の区画は典型的に漢字の「田」に対応できる。f字形鏡板の場合、それは上述の馬面地形に展開される「狭長田」を表わしているように思われる。川の蛇行に沿うように田を開いた。轡のことは、和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音は秘、訓は久豆和都良(くつわつら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一名に钀〈魚列反〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢の二音、和名は上に同じ〉は一名に馬鞚といふ。」とある。顔の両側に着けられている。クツワツラと「つらつら」なものが轡であり、それを何の目的か知らないが飾るのが鏡板である。反射して虹のように輝いていたのであろう。むろん、飾り馬具は、騎乗用の馬に着けられる。埴輪に裸馬として作られているものは、農耕用に使役されたものであろうと考えられている。よく走る馬は騎乗用に、鈍足な馬はそれなりにということで耕作に用いられたのであろう。分相応の馬、「なぶさなぶさ」の馬ということである。とはいえ、馬は馬である。ヤマトコトバのウマという概念に、馳せるもの、乗り物、耕耘機のエンジンとなるものというすべてを考え併せていたことは、人類の行う言語活動の上から当然のことである。今日、セダンも軽も、トラックもタンクローリーも、消防車もタクシーもバスも救急車も、車道を走っている四輪を中心とした燃料で動くものはすべてクルマという言い方で呼んでいる。二輪の場合、バイク、自転車などは、クルマとは通称していないようである。言葉が範疇を決定している。
f字形鏡板は、馬面地形の狭長田で馬鍬を引くことを暗示しており、不思議な形でキラキラ光るから「神鏡」と呼んでみたり、体温の高い馬が口から湯気を吐いて光線の具合でプリズム的に見えたりするところから、「虹」という表現が導かれているのであろう。馬は農耕具を引かされて、こりゃかなわんなあと喘いでいる。馬の発する声は、イに変わりはないが、その動作を表わす動詞は、イバユではなく、イナクである。疲れて喘いで声をあげていると解された。もともと身体が丈夫で足の速い馬ならば、騎乗用に高貴な人の手に渡っていた。しかし、足が遅いからということで農家に飼われている。それが分相応、ナブサノウマ(騧)と分類され、泥田へ入れられて重い馬鍬を引かされている。重い荷物を背負わされることもある。否、否、と思いながらイと鳴いている、と感じられたと考えられる。
川の左右にある狭小なところを田に拓く際、馬の畜力を使って開墾するようになったことが話の背景にあるのだろう。轡、鏡板の形に「田」の字形があり、後の轡文も丸に十字で田の字に見える。ただ、その時代考証は難しい。平安時代の930年代に成った和名抄に、「犂 唐韻に云はく、犂〈音は黎、加良須岐(からすき)〉は田を墾く器也といふ。……」とあって、「鐴(へら)」、「耒底(ゐさり)」、「耒骨(ゐさりのえ)」、「耒𣓻(とりくび)」、「耒箭(たたりがた)」、「耒鑱(さき)」と部品名まで記されている(注5)。対して、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶。弁色立成に、馬杷は宇麻久波(うまぐは)と云ふ。一に馬歯と云ふ〉は田を作る具也といふ。……」とある。カラスキ=「墾田器」とウマグハ=「作田具」では、用途が違うと認識されている。また、「鋤 唐韻に云はく、鎡錤〈孜期の二音〉は鋤の別名也といふ。釈名に云はく、鋤〈士魚反、須岐(すき)〉は穢を去り苗を助く也といふ。◆(金偏に挿の旁)〈音は插、和名は上に同じ〉は地に挿し土を起す也といふ。」、「鍫 兼名苑に云はく、鍫〈七遥反、字は亦、鐰に作る。久波(くは)〉は一名に鏵〈音は華〉といふ。説文に云はく、钁〈補各反、楊氏漢語抄に、和名は上に同じと云ふ〉は大鋤也といふ。」とある。ヤマトにおける漢字の用法は厳密とは言えないようである。猨田彦神のところの狭長田を拓いた際、人力のみか、牛馬の力を活用したのかわからない。ただ、狭い範囲であり、小川に沿って開拓するのだから、今も谷津田(やつだ)と呼ばれるようなところと推測される。廬城部連武彦は「使鸕鷀没水捕魚(うかはするまね)」で殺されている。川の浅瀬を連想させ、谷津田のようである。鵜飼と牛飼との洒落かもしれない。
川に沿っているから水は容易に供給できるし、急傾斜地でもないから棚田にする必要もない。葦が茂っていたところを焼いてから杭なども活用しながら川を浅く堰き止めて水が溜まるようにし、周りを畦畔で囲めば田圃の条件は適う。常時灌水させることで、生える雑草の種類は限られる。この場合、いわゆる耕盤が確かでなくとも、川からの水の流入が絶えないから水田として機能する。すると、「五十鈴川上」が川のすごく上流を指向する語であるとは考えられない。上流に進んで山が近づいてしまうと、水は冷たくて稲は育たず、傾斜が急になって一つの面として拓くことのできる面積は小さくなり、もともとの川岸は石ころばかりで葦さえ育っていない。
「磯特牛」なる人物が登場しているから、牛を使って犂を引かせようとしたことを表すのではなかろうか。彼の名が負っているのは、堅田の掘り返しか畠かはわからないが、犂を用いていると思われたであろう。「磯特牛」という名が「𣑥幡皇女」に意地悪をしたのは、田圃を畠へ転換しようと企てたということに当たる。そして、もともとの「狭長田」は「田」であるからその限りにおいて、「河上」は水稲の育たないカハカミとは訓じ得ないと検証される。𣑥幡皇女の名のタクハタとは、畠を梳(たく)しあげることや、𣑥という楮の樹皮からとった繊維から作った灌頂幡のような白くて長い幡ということから、畠と間違われやすいが、タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)とも解釈できる。無文字であるヤマトコトバに文字を当てている。田圃のなかに鍬を入れて耕している。田に囲まれて鍬を使っている様とは、馬鍬を使った代掻きに違いない。代掻きを、白いものを掻き混ぜること、楮から繊維を抽出する作業に準えたのであろう。畠よりも水田に水の張られて反射する白さの方が目にまぶしく、𣑥の様に適っている。「人不レ行」場所を選んでいるのは、農耕馬の行くところということで、「東西」に探しているのは、代掻きの様子に準えている。
「安芸のはやし田」の代掻き(広島広域観光情報サイト「ひろたび」https://www.hiroshima-navi.or.jp/event/2017/04/027324.html)
すなわち、𣑥幡皇女は、自ら身を以て冤罪であることを証明している。畠ではなく田であるから、腹の中に水があってその中に石がある。原の中に水が溜まっていたのだから田圃に相違なく、谷津田だから石ころもあったということを表している。𣑥幡皇女の話の場合、虹の話に展開しており、虹がナブサとも呼ばれて騧に同じ音であって、馬面地形の馬の口のところに畦畔があり、そこが水浸しになってさらに馬鍬による代掻きが行われ、筋目が入ってレインボー様に見立てている。
代掻きと馬鍬のこと
代掻き(注6)の重要性について、河野1994.は論じている。鎌倉時代に馬に馬鍬、牛に犂の図が定着しているが、中国絵画とは異なるから本邦独自の写生に基づくものであろうとする。中国では、北部の畑作地帯で牛を使い、南部の水田地帯では水牛を使うのがオーソドックスであるという。南宋期には水牛が描かれているようである。一方、本邦で農耕に家畜を活用した当初、水田を拓きながら水牛はいないから、そして最初は牛もいなかったから、「いやがる馬を泥田に追い込んだ」とされている。また、古代の出土事例に馬鍬は多いが犂はほとんど確かめられないから、大化改新以前には馬鍬のみが用いられたらしいとする。大変興味深い提題である。
左:馬鍬(昭和30年代まで牛による耕耘作業に用いられていたもの、堺市博物館展示品)、右:犂の向こう側に放置されたマンガ(馬鍬)(川崎市立日本民家園)
河野1994.によれば、「古代では犂(カラスキ)のことをウシクハ(牛鍬)とも呼んだ。……牛鍬は馬鍬とは対照的な言葉で、古代では犂は牛に引かせるもの、馬鍬は馬に引かせるものというのが一般常識であったことを思わせる。絵画資料でも〈牛=犂〉〈馬=馬鍬〉という対応は見られる。……このように牛には牛鍬(犂)・馬には馬鍬という対照的な対応関係が見られたことは、日本でこれらの農具が使われ始めた当初において、犂はもっぱら牛に引かせたのであり、馬鍬は馬に引かせていたということを反映しているものと見なせよう。」(37頁)という。香川県や広島県の犂の民具呼称のウシンガからして犂は牛に結びつき、絵画資料でも、鎌倉時代の聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅や、松崎天神縁起の犂耕図、法然上人絵伝(堂本家本)の代掻き場面、江戸時代の宗達派の農耕図屏風、石川流宣の大和耕作絵抄に、馬には馬鍬、牛には犂が描かれている点を指摘する。
聖衆来迎寺の六道絵・畜生道幅について、「牛耕場面もまた日本の風俗を写生にもとづくものと考えている。第一に、牛耕場面の牛は水牛ではなく、普通の牛を描いていることである。広大な中国では、北部では牛(黄牛)が使われるのに対し、南部ではもっぱら水牛が利用される。このことを反映してか、宋の南遷以降の中国絵画では、……水牛が描かれることが多くなる。……『六道絵』の人道無常図には中国風の人物に引かれて屠所に向かう角の大きな水牛が描かれており……、中国=水牛、日本=牛という区別をふまえた上で畜生道図には日本の風俗として普通の牛を描いたとみることができる。第二に、牛と農具にかけられた綱の張り具合や結び目、力が加わった時の首木や尻枷の反りなどの描き方は、力学的に見ても民具例に照らしても矛盾撞着がなく、粉本を模写・転用したのではなくて写生を基本において制作されたものと考えられることである。……第三に、『六道絵』の牛が背中に鞍を置いていることである。……牛耕で首木の他に首木(ママ)[鞍]を併用する首引き・胴引き法は日本独自の牽引法であり、首の負担を和らげることによって力の弱い牝牛からも有効に牽引力を引き出すことに成功した工夫であった。第四に、畜生道図の犂の犂へらは、犂柱の左方向に偏角をつけてとりつけられており、掘り上げた土を左に反転するものであったことを示している。ところが中国の犂は一般に右反転と言われている。」(419~420頁)とある。
さらに馬鍬の起源については、「馬鍬は六世紀後半には九州から東北まで当然のような顔をして出土するので、その初源は六世紀前半から五世紀にも遡るのではないか。……馬の飼養の普及と馬鍬の普及は近接しており、その年代差は多く見積もっても一〇〇年以内で、馬具の普及のあとをを(ママ)追うようにして馬鍬も拡がっていったものと思われる。」(44頁)、「古墳時代の日本列島は、北西にひろがる牛文化、南西にひろがる水牛文化に囲まれた中にあって、ただひとり馬の利用に踏み切った特異な地域なのである。……朝鮮半島では牛が馬鍬を引く。もし古墳時代の日本が主流として朝鮮半島から馬鍬を受け入れたのなら、牛の引く農具として牛ごと首木などの牽引法もそのまま導入していてもよさそうである。[しかし現実には、]……馬鍬は牛とセットでは入ってきていないのである。日本の馬鍬は伝来当初から馬と結びついた農具としてあった。……江南からの直接伝来ルート[を考えると、]……江南では馬鍬は水牛が引いたと推定される。……やむをえず農具だけの導入とならざるをえない。……当時の日本には大型家畜は馬しかいなかった。馬しかいないから仕方なしに馬に牽引させ、当初はいやがる馬を泥田に追い込んだのであろう。牽引法としては背鞍に綱をかけて引かせる胴引き法が行われたと推定される。……古墳時代五世紀の地方社会は、大王に政治上統合されながらも経済的にはなお自立した単位であり、地域の政治に主体性を持ちえたと考えられる。……出土馬鍬の伝来時期が古く、かつ早くから全国的拡がりをみせ、呼称も全国一律ウマクハ系であり、犂耕の普及しなかった関東・東北でも馬鍬だけは近時まで使ってきたという定着度の高さは、渡来氏族の生活技術が周辺の農村に徐々にひろがったというような偶然的な出来ごとなどではなく、また中央政府の上から押しつけ的導入でもなく、地方社会の側に意欲や主体性のある積極的な導入であろう。ものの動きだけを見ていれば「馬鍬の伝来」であるが、それに関わる人々の心にまで考え及ぶなら、「馬鍬の導入」と呼ぶにふさわしい状況だと考えている。」(54~57頁)とある。河野2009.でも同様に論じている。
松井2004.に、「牛馬とも弥生時代以降に朝鮮半島を経由して渡来し、当時の人々に飼養されていたと考えられているが、弥生時代には牛馬耕作用の農具が見られないことから、牛馬が農耕に利用されるのは、馬鍬、犂などが出現した古墳時代以降と考えられる。ただ出土した骨等から考えれば、日本列島には馬よりも牛が先に渡来しており、河野氏が言うように定型馬鍬が日本列島に渡来した時期に大型家畜は馬しかいなかったために仕方なしに馬に牽引させたという論ははたして成り立つのであろうか。」(79頁)と疑問を呈している。樋上2012.には、出土した農耕具の時代的な変遷を記した一覧図表が掲載されている。馬鍬については、はたしていつが始源であるのか、6世紀後半の福岡県カキ遺跡のものはみな賛同されているが、それ以前のものについては決め手を欠いている。同書では、「弥生時代中期からの流れをみれば、直柄多又鍬→曲柄多又鍬→馬鍬というような代掻きの系譜が復元できる。」(19頁)とある。水田稲作農耕の農法が変わったのではなく、農具が変わったに過ぎないということのようである。
すると、ウマクハ(馬鍬)の前身にマタクハ(又鍬)があったことになる。マタクハのことをマクハと呼ぶことに抵抗は少ない。刃が片方欠けてしまったものをカタクハ(片鍬)、揃っていればマクハ(真鍬)と呼んで楽しめる。技術革新でそれの大型版が登場すれば、それに似た言葉でうまく表したくなる気持ちは理解できよう。ウマクハという言葉以前にマクハという言葉があったのではないかという説である。民俗用語で馬鍬のことをマグワ、マンガと言っている。むろん、誰が作った言葉かわからないのだから確証にはならない。それでも、外来語に由来する言葉ではなさそうであることは、水牛に引かせていた馬鍬の中国での呼び方が、「耙」や「耖」とされているところからもわかる(注7)。
又鍬(逗子市池子遺跡群№1-A地点出土、弥生時代、かながわ考古学財団蔵、レプリカ、柄は復元、横浜歴史博物館展示品)
左:甘粛省嘉峪関二牛牽拉耙田図(史晓雷「画説科技史—开篇語—」http://wap.sciencenet.cn/blog-451927-1100457.html?mobile=1)、右:黒陶水田(広東省連県附城公社龍口大隊一座墓出土、西晋時代、永嘉六年(312)、広東省博物館蔵、才府https://sns.91ddcc.com/t/194061。彭1993.に、「長19厘米 寛16.5厘米 西晋。泥質黒陶。呈長方形、平底、四角有漏斗状装置、中間以田埂分田両塊。一塊一人駕牛犂田、另一塊一人駕牛耙田、相向而行。耙為六歯、与現代的耖耙相似。水田四角設置漏斗状排灌装置、可按需要灌水或排水;水田内施行一牛挽犂和一牛拉耙的整地技術、反映了広東地区西晋時農業生産技術又有了新的発展。模型塑造精緻、形象生動逼真。……」(108頁)と解説されている。)
言葉としてのウマクハに、いったん馬鍬という字が当てられれば、絵を描く際、馬に引かせたくなる傾向はあるであろう。物語絵に見られるように、言葉が先、絵が後であるのがふつうのことである。今日のマンガ(漫画)家のように、絵が先に描かれて絵筆の趣くに任せてストーリーが作られていくという在り方はほとんどない。言葉は人の思考を大きく縛る。馬鍬を牛に引かせてはいけないわけではなく、古くから行われていたことは、河野1994.に記載の連歌「牛に馬鍬(むまくは) かけたるもあやし」源俊頼(1055~1129)にも見えるとおりである。河野1994.のクハ、ウマクハという言葉の成立に対する考え方は科学的であって語学的ではない。
クハと並び称されるスキの場合は、スクという動詞の連用形でもあり古来の日本語であることは明白であるが、クハには活用語の派生語群が存在せず、外来語の音読みと考えるべきであろう。……[尾子音を持たない]一音の鏵(クヮ)が伸びてクハとなったと見るのが自然であろう。古代のハ音は唇を閉じておいてから発するファ音なので、クワは容易にクファ(クハ)に転じうる。……『延喜式』では内膳司の園の耕作用具として「鍬七十四口、鍬柄卌枝、鋤柄卅四枝」が用意されており、……同じ形の鉄製の刃先に異なる木部を取りつけることによって鍬と鋤とに使い分けたことがすでに指摘されている。つまり鍬とは鍬・鋤共通の鉄製刃先を指していたのであり、考古遺物で知られるU字形刃先をクハと呼んでいたのである。中国で鏵とは犂の刃先で、三角形のものもあればV字形のものもあるが要するに鉄製の刃先であり、日本でU字形刃先をクハと称したことと、用途は若干ことなるものの形態上はうまく一致する。クハの語源はやはり钁[(クヮク)]ではなく鏵なのであろう。(35~36頁)
稲作以前の原始農耕時代から、クハと呼ばれる農具があったと考える白川1995.の議論と噛み合わない。上代特殊仮名遣いについての、コクハ(「許久波」)が小鍬(こくは、コは甲類)か木鍬(こくは、コは乙類)かという有名な話がある(岩波古語辞典9頁)。相当に古い時代から鍬の形の木製農具が出土している。縄文時代にさえ遡りかねない木鍬らしい道具がありながら、外来語を採り入れたとは考えにくい。ヤマトコトバとして定着していた。また、クヮ→クハへと転じたとする説は、クヮ→クワへとなぜ進まなかったかという理由を説明できず、音韻においてもあり得ない。平安時代のことではない。
大陸で水牛に引かせていたのが元祖となれば、馬鍬という漢語を受け取ったのではなく、ウマクハと造語して字を当てたにすぎない。ヤマトコトバのウマクハの成り立ちには、うまく作られた鍬という考え方も可能であろう。白川1995.に、「「くはしめ」に対しては「うましを」という。」(161頁)とあるように、美女美男を言っている。精巧に作られている鍬のことを、クハクハというか、ウマクハというか、言った者勝ちの様相がある。鍬が人から見て手前に動かすものであるのに対して、馬鍬は人から見て向こう側へとやるものである。男女比的に考えれば、ウマクハと言いたくなる。「良人(うまひと)」(万853)、「熟寝(うまい)」(紀96)といった例もある。そういった仮定が成り立つとすれば、農耕具のウマクハが、当初、馬にのみ引かせていたものかどうか定かといえない。筆者は、動力源として大型家畜にウマとウシのいずれかがいれば、新技術の代掻き道具を目にすれば、そのいずれであっても引かせるように工夫したに違いないと考える。隣の村には馬がいて馬に引かせていても、自分の村には牛しかいなければ、牛に引かせたであろう。出土する代掻き具のウマクハの形態に多様性が感じられるのは、それぞれに工夫したからであろう。それこそ言葉的にウマクハが“導入”されている。そのとき、雄略紀に記述されるような逸話が作られるほどにウマという動物のことを深く観察していたとすれば、しかも引かせる大型獣は馬の方が多かったと想定されているのだから、うまくできたクハであってウマに牽引させるのだからウマクハと名付けて然りという気になったということではないか。以上が語学的考察である。
鍬のもとの形態の木鍬については、とても土を掘り起こせる代物ではなく、土を盛ったり塗ったりする鏝のようなものとする見解もある。伏見2011.に、「地力の高い表土には雑木草が繁茂して、これらの根が互いにからみあっており、これを剥がす作業は困難をともなう。生い茂った草木は燃やして処理できるが、根の処理に多くの労力を費やす。小規模開墾では、大鎌や斧で小区画に縦横に切り込みを入れて横方向に張った根を切り、根層の下部に掘棒を入れて梃子の原理で引き剥がす。」(289頁)とし、木鍬や刃先に鉄をつけただけの鍬の出番はないように記されている。しかし、弥生時代以来、多くがそうであった泥田の場合、木鍬を使うことが不可能であるとは認めがたい。伏見2011.が参照する樋上2000.には、木製農耕具について、曲柄平鍬・曲柄二又鍬・一木平鋤・組み合わせ平鋤は、環濠・溝・方形周溝墓・井戸から出土することが多く、「土木具指向」がより強く、直柄小型鍬・直柄又鍬・組み合わせ又鋤は、自然流路・谷から出土することが多く、「農耕具指向」が強い器種であると把握され、直柄平鍬はどちらからも出土していて、「万能機種」であるとされている。大規模工事には作業をスムーズに遂行させるために大量の「土木具」を作り、工事中に壊れたら水田の大アゼ(畦畔)や堰の構造材などに転用されたか、放置されたから出土例が多く、ふだん使いの「農耕具」は数自体、作業に当たる家族人数分以上は不要で、毎日使っては家の中に大事にしまわれて使い続けられたから出土例が少ないのではないかと仮説を立てられている。
古代の水田は、今のように秋に水を落として冬場は乾いていたのではなく、常時湛水田、つまりは泥田であったとされる。二毛作をする「麦田」ではなく、冬の間も水を湛えた「春田」とも言われるものを掘り起こす際、木製農耕具でも役に立ったであろう。蓮根を育てているような深田も戦前には多く見られ、田下駄がなければ対処できない湿田も多かった。そんなところには牛馬は入れられず、そもそも耕したり均したりすることもない。馬鍬が入れられる程度のところが「狭長田」に当たるのであろう。乾田を耕起するやり方は、日本の稲作の始まりの時期には見られなかった。河野2015.には、「朝鮮半島は雨期が日本より遅れるので田植え法の普及は遅く、畑状態で耕して籾を播き、後から灌水して水田とする方法が広くおこなわれていた。」(351頁)とある。馬鍬の江南伝来説(導入説)の証拠の一つとされている。道具名とヤマトコトバにおける呼び方とは、一致しなくても構わない。ヤマトの人が納得できることが言葉としては大切なのである。コミュニケーションするのはヤマトの人の間であって、中国南朝の人とは通訳を介して交流している。
牛馬耕の始まりに関して、ウシやウマが日本列島へ渡ってきた時期を考えあわせることも当然必要となる。いなければできない。ではあるが、いたからと言って直ちに使役したとも言い切れない。松井2005.に、「古代遺跡ではウマに比べるとウシの出土例ははるかに少ない。埴輪についても、ウマに比べるとウシのそれは圧倒的に少ない。それはウシがウマほどの軍事的価値を持たず、威信材としての価値が低かったからだと考えられる。」(195頁)とある。また、列島に渡ってきた時期について、ウシが先かウマが先か論じられている。考古学では、本格的なウマの渡来時期は古墳時代中期以降とされ、それ以前には単発的に搬入された可能性が、ウシ、ウマともに4世紀以前からもないわけではないようである(注8)。大陸、わけても朝鮮半島に、ウマしかいなかった、ウシしかいなかったという時期に列島に連れて来られたというのならどちらかが先であるかという議論は質問として的を射ていようが、両方いたのに渡来人が片方だけしか連れて来なかったと考えるのはなかなか容認できない。応神紀に、「百済の王(こきし)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して良馬(よきうま)二匹(ふたつぎ)を貢る」(応神紀十五年八月)、安閑紀に、「牛を難破(なには)の大隅嶋と媛嶋松原とに放て」(安閑紀二年九月)とある。鳥獣人物戯画に野生の牛が描かれており、半野生状態の時期はあったかもしれない。応神紀の記事から、ヤマト朝廷の側からの要請があり、騎乗用に馬が選択的に多く連れて来られたと考えることができる。求める人は朝廷の人であり、農家ではない。「貢レ牛」という記事は見られない。つまり、馬は“導入”されて多く、それに比して牛は少なくなる。
そこで耙・耖のような便利なものが知られた時、ヤマトの人はいろいろ工夫してウマクハを使うようになった。その際、相対的にウマが多かったことと、川の両側のカハノヘ(川上・河上)のつらつらな馬面地形を田にするのに使われたから、馬鍬と言われてなるほどと納得に至ったのではないか、というのが筆者の第一の推測である。語源の探究ではなく、飛鳥時代にどのような語感で捉えられていたかについて論考している。当時の人がいかに認識していたであろうかという点において、すなわち、言葉の音に語義をいかに感じていたかが問題である。タクハタ(𣑥幡)=タ(田)+クハ(鍬)+タ(田)という駄洒落的な考えがあって、クハ(鍬)という言葉がタ(田)という言葉に挟まれ、銜えられており、クハ(鍬)がクハ(銜)えられているとして面白がったと考えるのである。自己説明によって循環論法になる上代語の特徴をよく表しており、絶妙な言語遊戯となっている。
その証拠に、馬の轡とは、馬の歯槽間縁に食ませるものである。そこだけ歯がないから、いくら噛んでも噛むことはできない。轡(くつわ、クチ(口)+ワ(輪)の意か)の口中部分は銜(はみ)とも言い、必ず「銜(くは)」えることになっている。そして、ウマクハは馬の口同様にすきっ歯である。これをスキ(ウマスキ)と呼ばなかったことは、それでは洒落にならないからである。つまり、馬鍬という新技術製品に、クハ(鍬)の新形式を悟ったのである。馬に引かせたから馬鍬であるというのは、実際上も馬に引かせるのが多く、言葉の上からも歯槽間縁がコントローラーになって起動しており、耕具もそれに適合した形をしていて確かめられる。人間が使うウマという“仕組み”を熟知して、はじめてウマグハという言葉も生きて来て、それはほとんど悦に入る程であると言うことができる。もしウマが「牛」のように鼻輪によって動かされているとしたら、耙や耖をウマクワと呼び、「馬鍬」という字で記されるようになったと考えるには心もとないというのが筆者の第二の語学的推測である。
左:馬の骨(蔀屋北遺跡馬埋葬土坑出土、「遥馬」号、近つ飛鳥博物館展示品)、右:歯槽間縁をチェック(JRA育成馬日誌「騎乗馴致の前には、歯の検査(日高)」http://blog.jra.jp/ikusei/2008/10/post-d57f.html)
以上、「五十鈴川上」はイスズノカハカミと訓み、代掻き具をウマグハと呼んだ経緯について検討した。
(注)
(注1)「狭長田」は、大系本日本書紀に、「サナダと訓むのであろう。……長をナと訓む例は、渟長田をヌナタとするのがある。」((一)135頁)とし、「サナダも神稲の田の意。」(同頁)とある。訓注もないなか、「長」をナと訓まなければならない理由は不明である。筆者はとらない。
(注2)万22番歌の定訓に、筆者は納得していない。稿を改めて論ずることとする。
(注3)趙孟頫のそれは白鼻という特徴を描いている。騧(鹿毛)については、宗如筆(元禄9年(1696))の驥毛図解にも描かれている。
(注4)クハという言葉について、外来語由来、擬声語由来とするほかに、クフ(食)から派生するクハフ(クフ(食)+アフ(合)の約)という語との関係も見出されないだろうか。鳥が餌を食うのはがつがつと食べることであるが、クハフ(銜・咥)のは、嘴に挟んで巣に帰って雛に与える行為である。犬が仔犬を銜えて運ぶこともある。決して噛みついているのではない。鍬はもともと木製であった。土に張っている根を噛み切ったり、かちんかちんに乾いた土を食いちぎることはできない。できるのは、軟らかい土や泥を銜えて、塊ごと余所へ移動させることである。栄養豊富な表土をとっておき、耕盤を整えてからもとへ戻すことに使われたとするなら、クハという語は鍬という道具に正しく当てはまる言葉であると考えるがどうであろうか。
(注5)同造作具に、「鑱 唐韻に云はく、鑱〈音は讒、一音に暫、漢語抄に加奈布久之(かなふくし)と云ふ〉は犂の鉄、又、土の具也といふ。」ともある。
(注6)HiROsimicom 様「【乾田馬耕】60年ぶりに馬で代掻き」(https://www.youtube.com/watch?v=K09jgATnfVg、初めの19秒までが馬鍬)参照。
(注7)水牛耕の実例は、top NEWS台數科「雲林新聞網-人工智慧牛犁田 地更平稻更滿」(https://www.youtube.com/watch?v=5oMhk210jwc)などに見ることができる。
(注8)久保・松井1999.に、「ウマもウシも少産で、ふつう1回の妊娠で1頭しか産まず、短期間のうちに繁殖させ飼育頭数を増やすためには、牧を設け牧子をつけるといった、広い土地と専従する技術者集団を抱えるなど、大きな権力を必要とする。そのため、牛馬の普及の背景には、古墳時代中期の広い範囲にわたる巨大な権力の出現と密接な関係があるのであろう。」(171頁)とある。
(引用・参考文献)
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松井2005. 松井章「狩猟と家畜」『列島の古代史2─暮らしと生業─』岩波書店、2005年。
松井2004. 松井和幸「馬鍬の起源と変遷」『考古学研究』第51巻第1号(通巻201号)、2004年6月。
※本稿は、2016年10~11月稿を改稿した2017年5月稿を2020年10月にさらに改稿したものである。