本稿では、源順の和名抄、羽族部・鳥名の「梟」について考える。
(a)梟 説文云─ 不孝鳥也尒雅注云鴟梟八別大小之名也 鴟
梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ。父母を食ふ不孝の鳥なり。爾雅注に鴟梟は大小を八別する名なりと云ふ〉鴟といふ。
これは、伊勢十巻本、高松宮本、前田本を校訂したものである。ところが、狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄の本文部分にはそうは書かれていない。
(b)梟 說文云梟、辨色立成云、佐計、 食二父母一不孝鳥也、爾雅注云、鴟梟者分二別大小一之名也、
梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ〉は父母を食ふ不孝の鳥なりといふ。爾雅注に云はく、鴟梟は大小を分別する名なりといふ。
爾雅の注釈書の逸文に「鴟梟分別大小之名也」とあるらしく、それを引いたのであろうから、「分別」が正しくて「八別」は誤写したのであろうと考えられている(注1)。しかし、二十巻本刊本の書き入れに「古本」(注2)とある伊勢十巻本、高松宮本、前田本などとでは小字注の範囲が異なり、最後の「鴟」字の有無にも違いがある(注3)。
源順がどのように書いたのか、それはこれら写本から推測するしかないわけであるが、文章を頭から書いてきてどうであったろうかと思うと、(a)に記したものに近かったのではないかと考えられるふしがある。「梟 説文云梟〈古堯反布久呂布弁色立成云……」となっている。梟を説明するのに、当代きっての権威ある辞書、説文を引こうとしている。説文には次のようにある。
梟 不孝鳥也日至捕梟磔之从鳥頭在木上
梟 不孝の鳥なり。日至に梟を捕りて之れを磔す。鳥の頭の木の上に在るに从ふ。
これをそのまま引けばいいところを、先にヤマトでの訓み方を記し入れている。フクロフ、また、サケと言うのだとしている。その訓の限りにおいて、不孝の鳥であると述べている。磔の件は割愛されている。そして、爾雅注を引いて、鴟梟は大小の区別で字を使い分けるものであるという解釈を示している。なぜ混乱するような解釈を入れ込んでいるのだろうか。
ヤマトでの訓み方を示すのに弁色立成を引いている。(a)にある「弁」字は(b)にある「辨」字の略字である。「辨」は、わかつの意である。文中にわかつ意は二箇所にあらわれる。爾雅注に、鴟梟というのはサイズの大小をわかつ名として別してあると言っている。もうひとつ、梟(ふくろふ)のことをサケとも言うのだとしている。サケと聞けば、割(裂)けることを言い表しているような気がする(注4)。二つにわかつことを言っている。単に鴟が大きく、梟は小さいというばかりではない含意が感じられてくる。
源順は、動物学、博物学に関心を持ち、辞書を編むに至ったわけではない。万葉集の訓詁に当たるなど、関心の対象は言葉にあった。鴟と梟と二つの漢字があってヤマトでもトビ、フクロフと別に呼ばれているが、フクロフである梟にサケと訓む例があると記している。そして、両者はサイズの違いで呼び習わされているという認識を明かしている。爾雅注を見るとそう書いてあるからそう考えて整合性を保つように把握しようとし、サイズが違って鴟・梟と書き分けているが、梟は「食二父母一」鳥ということになっている。
サイズの違いを鴟・梟という字に書き表したいだけであれば、大型化している鴟の子どもが小型であることを示す梟の父母を食べるということになってしまう。しかし、不孝なる鳥は梟ばかりであるから、そこのところ、両者はきちんと弁別されねばならない。不孝者であり、説文の後段にあって割愛している磔の件を思い合せれば、裁きが下されていることが思い起こされよう。孝不孝について捌くべき裁きが必要なのである。結果、梟という字は梟首、梟示などとさらし首のことをいうようになっている(注5)。その「捌」は漢数字「八」の大字である。だから、「八別」と書いてある。「分別(ふんべつ)」があることと親を食べないこととは直結しない。分別がなかったら親を食べないかといえば、無分別な出来損ないの子であっても親を食べることはふつうはない。
そう考え進めると、梟がサケと別称されていることにも納得がいく。どうして親を食べるのか。それは、酒に飲まれてしまって中毒となり、つまみに食べるものがないから近くにいる父母をあてにして酒を飲もうとしている。フクロウは夜行性である。酒を夜に飲み、飲めば酔って狩りに飛ぶことはできず、でもまだ酒食を続けたいから、夜陰に乗じて父母を肴にしてしまっているのだと納得できる。すなわち、この項は、舶来の辞書にいろいろ書いてあることと、ヤマトコトバとの間の辻褄を合わせるべく、それなりに深く考え極めた成果なのである。すべての意味を包括させるために観念体系に誤謬が生じないように整理した。その整理が自然科学に、また、後世の人にとって正しいか正しくないかは無関係である。源順の頭の中では(a)のように理解していたということになる。
説文に「梟鴟」と続けて書いてあるわけではないが、詩経・大雅・瞻卬に「為梟為鴟」とあり、鄭玄箋に「梟鴟、悪声之鳥。」としている。また、後漢書・朱浮伝に「棄休令之嘉名、造梟鴟之逆謀。」とある。文選・曹植・贈白馬王彪詩には「鴟梟鳴衡軛 豺狼當路衢」とあり、李善注に「鴟梟、豺狼、以喩小人也。」としている。一緒くたの悪者にされている。
源順は、続けている。梟は音に古堯反であり、本邦でいうフクロフのことである。弁色立成ではサケと呼ぶともしている。また、父母を食べる不孝なる鳥で、道徳的に悖るものであるという。爾雅の注釈では、鴟と梟とはサイズの違いである点を分けるための名であるとしているのだけれども、子どもの身体が親を上回って大きくなったときに飲んだくれになってしまい、親不孝の極みのようなことをしかねないのが梟なのだと解説している。
和名抄の「梟」の一つ前の項に「鴟」がある。
(c)鴟 本草云鴟一名鳶 字亦作𪀝度比 尒雅云一名𪀝鵟 狂 喜食鼠而大目者也
鴟 本草に云はく、鴟は一名に鳶〈上の音は祗、下の音は鉛、字は亦、𪀝に作る。度比(とび)〉といふ。爾雅に云はく、一名に𪀝鵟〈音は狂〉は喜びて鼠を食ひ目を大にする者なりといふ。
鴟は狂うと𪀝鵟となる。鼠を捕まえてきて喜んで食べては目をランランと輝かせている。目が飛び出すからトビというのだとの納得を含んだ表記である。この程度の洒落は日常茶飯事で大して受けるものではないから贅言していない。そして、梟とは違って酒飲みではなく、汚らしい鼠を捕ってきて喜んで食べるような輩ではあるが、孝不孝の一線を越えて父母を食べるようなことはしない。他方、梟は獲物を捕まえることまでサボって近くの父母を食べてしまう輩である。鴟と梟は似て非なるものであると言わんとする思い入れが辞書の記述ににじみ出ている。そのとき、「八」字を使っている。説文に、「八 別ける也。分別を象り相背くの形なり。凡そ八の属、皆八に从ふ(八 別也象分別相背之形凡八之属皆从八)」とあり、また、「分 別ける也。八に从ひ刀に从ふ。刀は以て物を分別する也(分 別也从八从刀刀以分別物也)」とある。同じような意味に捉えられるが、厳密に考えると、最初から背を向けて別々であるのを「八」に、一つであったものを刀で切り分けるのを「分」に使うと受けとれる。鴟と梟とは根本的に最初から異なるものだから、「八別」という書き方がより正しいと考えられる。
辞書である倭名抄のなかに道徳が説かれている。同じように残虐なことをするにしても、人間性の欠如した者(注6)とそうでない者との間には「八別」がある。孝不孝の観念がそもそも欠落している梟は、八つ裂きにして磔刑に処すのがふさわしいと考えている。源順の関心は言葉にあり、言葉は観念を形作るものである。
今日、和名抄の研究は進んでいない。十巻本と二十巻本のいずれが先に成ったかは書誌学の域を出るものではない。引書を整理してみても編纂した源順の考え方自体は見えてこない。それぞれの項目ごとに説明を求めることは、碩学の狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄に考証が行われ、その線上に上回ることはほぼ見られない。しかし、翻って源順という人物のことを考えるなら、石山寺縁起には、万葉集原文の用字の訓みにこだわりながら参詣へ赴く途中、馬方がマテなどと声を挙げているさまを目にして、「左右」は「真手」の意から助詞のマデのことだと悟る様子が描かれている(注7)。彼の関心は言葉にある。博物知識を披瀝しようとしているわけではない(注8)。棭齋の学術が無意味というわけではなく、それはそれとして享受すればよいのである。一方で、源順の頭の中はどうであったかということを着眼点に据えなければ、平安時代の一貴族から見てとれる宮廷文化の特徴をはじめ、万葉集の訓詁、上代への関心への視座は得られない。肩肘張らずに頓智とユーモアを汲みとろうとする姿勢が求められよう。
(注)
(注1)狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄が本文を記しつつ注している(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209888/13)。また、林2002.334頁。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574203/30参照。
(注3)「鴟」字は、伊勢十巻本、高松宮本にある。
(注4)谷川士清・倭訓栞に、「さけぶの義なるべし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562792/16)という説が見える。フクロウの鳴き声にホーホーという声を馴染みとするが、オオカミのホーホーという遠吠えもある。書記に同じく写し取られるが、オオカミのそれは吠えるもの、フクロウのそれは吹くものとして感じられている。鳴き真似をした時、口をすぼめて息を吹いている。語源ということではないが、フクロウと呼んで違和感がない。
(注5)説文でも、「梟」字は鳥部にあるのではなく、木部にある。
(注6)現代に良心の欠落した人物について議論され耳目を集めているが、王朝は栄枯盛衰して小国が乱立しつつ夷狄に囲まれていたところに生まれた古代の儒教思想においては、道徳は作るものであると理解されていた。
(注7)石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)詞書に、「康保の比、廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源順、勅をうけたまはりて、万葉集をやはらげて點じ侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、当寺にいのり申さむとてまいりにけり。左右といふもじのよみをさとらずして下向の道すがら、あむじもてゆく程に、大津の浦にて物おほせたる馬に行あひたりけるが、口付のおきな、左右の手にておほせたる物をおしなほすとて、をのがどちまて(真手)よりといふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍けるとぞ。」(句読点、濁点を付した)とある。
(注8)拙稿「和名抄の「田」について」参照。
(引用・参考文献)
館蔵史料編集会『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学編 第22巻〈辞書〉』臨川書店、1999年。国立国語研究所・日本語史研究用テキストデータ集「二十巻本和名類聚抄〈古活字版〉」https://textdb01.ninjal.ac.jp/dataset/kwrs/
小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年。
馬渕和夫編『古写本和名類聚抄集成 第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、平成20年。
林2002. 林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』勉誠出版、平成14年。
(a)梟 説文云─ 不孝鳥也尒雅注云鴟梟八別大小之名也 鴟
梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ。父母を食ふ不孝の鳥なり。爾雅注に鴟梟は大小を八別する名なりと云ふ〉鴟といふ。
これは、伊勢十巻本、高松宮本、前田本を校訂したものである。ところが、狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄の本文部分にはそうは書かれていない。
(b)梟 說文云梟、辨色立成云、佐計、 食二父母一不孝鳥也、爾雅注云、鴟梟者分二別大小一之名也、
梟 説文に云はく、梟〈古堯反、布久呂布(ふくろふ)、弁色立成に佐計(さけ)と云ふ〉は父母を食ふ不孝の鳥なりといふ。爾雅注に云はく、鴟梟は大小を分別する名なりといふ。
爾雅の注釈書の逸文に「鴟梟分別大小之名也」とあるらしく、それを引いたのであろうから、「分別」が正しくて「八別」は誤写したのであろうと考えられている(注1)。しかし、二十巻本刊本の書き入れに「古本」(注2)とある伊勢十巻本、高松宮本、前田本などとでは小字注の範囲が異なり、最後の「鴟」字の有無にも違いがある(注3)。
源順がどのように書いたのか、それはこれら写本から推測するしかないわけであるが、文章を頭から書いてきてどうであったろうかと思うと、(a)に記したものに近かったのではないかと考えられるふしがある。「梟 説文云梟〈古堯反布久呂布弁色立成云……」となっている。梟を説明するのに、当代きっての権威ある辞書、説文を引こうとしている。説文には次のようにある。
梟 不孝鳥也日至捕梟磔之从鳥頭在木上
梟 不孝の鳥なり。日至に梟を捕りて之れを磔す。鳥の頭の木の上に在るに从ふ。
これをそのまま引けばいいところを、先にヤマトでの訓み方を記し入れている。フクロフ、また、サケと言うのだとしている。その訓の限りにおいて、不孝の鳥であると述べている。磔の件は割愛されている。そして、爾雅注を引いて、鴟梟は大小の区別で字を使い分けるものであるという解釈を示している。なぜ混乱するような解釈を入れ込んでいるのだろうか。
ヤマトでの訓み方を示すのに弁色立成を引いている。(a)にある「弁」字は(b)にある「辨」字の略字である。「辨」は、わかつの意である。文中にわかつ意は二箇所にあらわれる。爾雅注に、鴟梟というのはサイズの大小をわかつ名として別してあると言っている。もうひとつ、梟(ふくろふ)のことをサケとも言うのだとしている。サケと聞けば、割(裂)けることを言い表しているような気がする(注4)。二つにわかつことを言っている。単に鴟が大きく、梟は小さいというばかりではない含意が感じられてくる。
源順は、動物学、博物学に関心を持ち、辞書を編むに至ったわけではない。万葉集の訓詁に当たるなど、関心の対象は言葉にあった。鴟と梟と二つの漢字があってヤマトでもトビ、フクロフと別に呼ばれているが、フクロフである梟にサケと訓む例があると記している。そして、両者はサイズの違いで呼び習わされているという認識を明かしている。爾雅注を見るとそう書いてあるからそう考えて整合性を保つように把握しようとし、サイズが違って鴟・梟と書き分けているが、梟は「食二父母一」鳥ということになっている。
サイズの違いを鴟・梟という字に書き表したいだけであれば、大型化している鴟の子どもが小型であることを示す梟の父母を食べるということになってしまう。しかし、不孝なる鳥は梟ばかりであるから、そこのところ、両者はきちんと弁別されねばならない。不孝者であり、説文の後段にあって割愛している磔の件を思い合せれば、裁きが下されていることが思い起こされよう。孝不孝について捌くべき裁きが必要なのである。結果、梟という字は梟首、梟示などとさらし首のことをいうようになっている(注5)。その「捌」は漢数字「八」の大字である。だから、「八別」と書いてある。「分別(ふんべつ)」があることと親を食べないこととは直結しない。分別がなかったら親を食べないかといえば、無分別な出来損ないの子であっても親を食べることはふつうはない。
そう考え進めると、梟がサケと別称されていることにも納得がいく。どうして親を食べるのか。それは、酒に飲まれてしまって中毒となり、つまみに食べるものがないから近くにいる父母をあてにして酒を飲もうとしている。フクロウは夜行性である。酒を夜に飲み、飲めば酔って狩りに飛ぶことはできず、でもまだ酒食を続けたいから、夜陰に乗じて父母を肴にしてしまっているのだと納得できる。すなわち、この項は、舶来の辞書にいろいろ書いてあることと、ヤマトコトバとの間の辻褄を合わせるべく、それなりに深く考え極めた成果なのである。すべての意味を包括させるために観念体系に誤謬が生じないように整理した。その整理が自然科学に、また、後世の人にとって正しいか正しくないかは無関係である。源順の頭の中では(a)のように理解していたということになる。
説文に「梟鴟」と続けて書いてあるわけではないが、詩経・大雅・瞻卬に「為梟為鴟」とあり、鄭玄箋に「梟鴟、悪声之鳥。」としている。また、後漢書・朱浮伝に「棄休令之嘉名、造梟鴟之逆謀。」とある。文選・曹植・贈白馬王彪詩には「鴟梟鳴衡軛 豺狼當路衢」とあり、李善注に「鴟梟、豺狼、以喩小人也。」としている。一緒くたの悪者にされている。
源順は、続けている。梟は音に古堯反であり、本邦でいうフクロフのことである。弁色立成ではサケと呼ぶともしている。また、父母を食べる不孝なる鳥で、道徳的に悖るものであるという。爾雅の注釈では、鴟と梟とはサイズの違いである点を分けるための名であるとしているのだけれども、子どもの身体が親を上回って大きくなったときに飲んだくれになってしまい、親不孝の極みのようなことをしかねないのが梟なのだと解説している。
和名抄の「梟」の一つ前の項に「鴟」がある。
(c)鴟 本草云鴟一名鳶 字亦作𪀝度比 尒雅云一名𪀝鵟 狂 喜食鼠而大目者也
鴟 本草に云はく、鴟は一名に鳶〈上の音は祗、下の音は鉛、字は亦、𪀝に作る。度比(とび)〉といふ。爾雅に云はく、一名に𪀝鵟〈音は狂〉は喜びて鼠を食ひ目を大にする者なりといふ。
鴟は狂うと𪀝鵟となる。鼠を捕まえてきて喜んで食べては目をランランと輝かせている。目が飛び出すからトビというのだとの納得を含んだ表記である。この程度の洒落は日常茶飯事で大して受けるものではないから贅言していない。そして、梟とは違って酒飲みではなく、汚らしい鼠を捕ってきて喜んで食べるような輩ではあるが、孝不孝の一線を越えて父母を食べるようなことはしない。他方、梟は獲物を捕まえることまでサボって近くの父母を食べてしまう輩である。鴟と梟は似て非なるものであると言わんとする思い入れが辞書の記述ににじみ出ている。そのとき、「八」字を使っている。説文に、「八 別ける也。分別を象り相背くの形なり。凡そ八の属、皆八に从ふ(八 別也象分別相背之形凡八之属皆从八)」とあり、また、「分 別ける也。八に从ひ刀に从ふ。刀は以て物を分別する也(分 別也从八从刀刀以分別物也)」とある。同じような意味に捉えられるが、厳密に考えると、最初から背を向けて別々であるのを「八」に、一つであったものを刀で切り分けるのを「分」に使うと受けとれる。鴟と梟とは根本的に最初から異なるものだから、「八別」という書き方がより正しいと考えられる。
辞書である倭名抄のなかに道徳が説かれている。同じように残虐なことをするにしても、人間性の欠如した者(注6)とそうでない者との間には「八別」がある。孝不孝の観念がそもそも欠落している梟は、八つ裂きにして磔刑に処すのがふさわしいと考えている。源順の関心は言葉にあり、言葉は観念を形作るものである。
今日、和名抄の研究は進んでいない。十巻本と二十巻本のいずれが先に成ったかは書誌学の域を出るものではない。引書を整理してみても編纂した源順の考え方自体は見えてこない。それぞれの項目ごとに説明を求めることは、碩学の狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄に考証が行われ、その線上に上回ることはほぼ見られない。しかし、翻って源順という人物のことを考えるなら、石山寺縁起には、万葉集原文の用字の訓みにこだわりながら参詣へ赴く途中、馬方がマテなどと声を挙げているさまを目にして、「左右」は「真手」の意から助詞のマデのことだと悟る様子が描かれている(注7)。彼の関心は言葉にある。博物知識を披瀝しようとしているわけではない(注8)。棭齋の学術が無意味というわけではなく、それはそれとして享受すればよいのである。一方で、源順の頭の中はどうであったかということを着眼点に据えなければ、平安時代の一貴族から見てとれる宮廷文化の特徴をはじめ、万葉集の訓詁、上代への関心への視座は得られない。肩肘張らずに頓智とユーモアを汲みとろうとする姿勢が求められよう。
(注)
(注1)狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄が本文を記しつつ注している(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209888/13)。また、林2002.334頁。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574203/30参照。
(注3)「鴟」字は、伊勢十巻本、高松宮本にある。
(注4)谷川士清・倭訓栞に、「さけぶの義なるべし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562792/16)という説が見える。フクロウの鳴き声にホーホーという声を馴染みとするが、オオカミのホーホーという遠吠えもある。書記に同じく写し取られるが、オオカミのそれは吠えるもの、フクロウのそれは吹くものとして感じられている。鳴き真似をした時、口をすぼめて息を吹いている。語源ということではないが、フクロウと呼んで違和感がない。
(注5)説文でも、「梟」字は鳥部にあるのではなく、木部にある。
(注6)現代に良心の欠落した人物について議論され耳目を集めているが、王朝は栄枯盛衰して小国が乱立しつつ夷狄に囲まれていたところに生まれた古代の儒教思想においては、道徳は作るものであると理解されていた。
(注7)石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)詞書に、「康保の比、廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源順、勅をうけたまはりて、万葉集をやはらげて點じ侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、当寺にいのり申さむとてまいりにけり。左右といふもじのよみをさとらずして下向の道すがら、あむじもてゆく程に、大津の浦にて物おほせたる馬に行あひたりけるが、口付のおきな、左右の手にておほせたる物をおしなほすとて、をのがどちまて(真手)よりといふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍けるとぞ。」(句読点、濁点を付した)とある。
(注8)拙稿「和名抄の「田」について」参照。
(引用・参考文献)
館蔵史料編集会『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学編 第22巻〈辞書〉』臨川書店、1999年。国立国語研究所・日本語史研究用テキストデータ集「二十巻本和名類聚抄〈古活字版〉」https://textdb01.ninjal.ac.jp/dataset/kwrs/
小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年。
馬渕和夫編『古写本和名類聚抄集成 第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、平成20年。
林2002. 林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』勉誠出版、平成14年。