古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

神功皇后のアユ釣りについて

2021年11月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 記紀の神功皇后の征韓譚に、アユ釣りの話が載っている。記では征韓からの帰途に筑紫国で御子を生んでからのこと、紀では征韓の途上でいまだ対馬海峡を渡る前に肥前国でウケヒとして行っている。

 かれ、其のまつりごと未だへたまはぬ間に、其の懐妊はらみませるを産れまさむとしき。即ち御腹を鎮めたまはむとして、石を取りて御裳みもの腰にかして、竺紫国つくしのくにに渡りまして、其の御子はあれしぬ。故、其の御子のれまししところなづけて宇美うみと謂ふ。亦、其の御裳に纏きたまひし石は、筑紫国の伊斗村いとのむらに在り。亦、筑紫の末羅県まつらのあがた玉嶋里たましまのさとに到りして、其の河の御食みをしたまふ時は、四月うづき上旬はじめに当りき。爾くして、其の河中のいそに坐して、御裳みもの糸を抜き取り、飯粒いひぼを以てたまひて、其の河の年魚あゆを釣りたまひき。其の河の名は小河をがはと謂ふ。亦、其のいその名は勝門比売かちとひめと謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人をみなの、裳の糸を抜き、いひぼを以て餌と為て年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)
 夏四月うづきの壬寅の朔にして甲辰に、きたのかた火前国ひのみちのくちのくに松浦県まつらのあがたに到りて、玉嶋里たましまのさと小河をがはほとりにて進食みをしたまひき。是に、皇后、針をげてつくり、いひぼを取りてにして、いと抽取きてつりのをにして、河の中の石のうへに登りて、鉤を投げてうけひて曰はく、「われ西にしのかたたからの国を求めむとおもほす。し事を成す有らば、河のいをへ」とのたまふ。因りて竿さをを挙げて、乃ち細鱗魚あゆ。時に皇后きさきの曰はく、「希見めづらしき物なり」とのたまふ。希見、此には梅豆邏志めづらしと云ふ。故、時人ときのひと其処そこなづけて、梅豆邏国めづらのくにふ。今、松浦と謂ふはよこなばれるなり。是を以て、其の国の女人をみな、四月の上旬かみのとをかいたごとに、鉤を河中かはなかに投げて、年魚あゆを捕ること、今に絶へず。唯し男夫をのこのみは釣ると雖も、魚をること能はず。(神功前紀仲哀九年四月)

 近世から現代の人にとって、この話は荒唐無稽にして腑に落ちる話ではなかった(注1)
 記紀で話の設定が違っているが、上代の人にとってその点は問題ではなかったであろう。笑い話的小咄として成立していればよく、どのように話を創るか、その創り方の違いにすぎないからである。
 話に出てくる題材は、裳の糸、餌の飯粒、アユ、四月上旬、釣り針(注2)である。
 記に、「抜-取御裳之糸」、紀に、「抽-取裳縷緡」とある。古代の「」は、今でいう巻きスカートである(注3)。これまで、どうやって糸を抜いたか、どこの糸を抜いたかなど、ほとんど考えられて来なかった。裳の布地から、例えばほつれているところから抜いたとされているようである。緯糸であれ経糸であれ、少し違うのではないかと感じられる。彼女は皇后であり、ボロを纏っているはずはない。裳の裾のところに袴同様の括り、指貫に当たるものをつけていて、それを抜いて釣糸にしたということではないか。
 記に見える形では、神功皇后が身籠っているにもかかわらず征韓に赴くにあたり、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしていた。そして、戦勝後に九州まで帰還してから産んだという話に、アユ釣りの話は続いている。石をあてがうことで子が産まれないようにするためにはお腹全体を覆うように石を廻らせていたとするのが妥当であろう(注4)。「取石以纏御裳之腰」というのは、裳を履いていて、その上から石を裳と同様に腰に纏くということである。すると、石を纏くために何か別の帯のようなものが必要かと感じられるが、そのような記述はない。記述がないのであればそのような付属品はなく、石だけですっぽりと裳を着けた腰を覆うように被さり、それを裳の腰紐の残りを使って纏いてずれることがなかったということであろう。実際にそうであったということではなく、話として考えられるということである。筆者は、それを、須恵器製の甑のようなものと見立てていると考える。甑は数多く出土しており、それにより米は蒸され、食されたり酒造の用にかなったと考えられている(注5)。灰色に焼けた須恵器の甑は質感として石であり、足が入るかと思われる蒸気孔が開いていて、なかには足を入れるのに都合よく二つ孔のものも見られる。そして、後の時代には生誕を慶ぶ儀式として甑落しの行事が行われている(注6)。状況証拠としてではあるが、話の世界に遊んだ古代の人の観念において整合性が確かめられる。むろん、実際に行ったわけではなくて、排泄のことなどを含めた議論をしているのではない。
蒸気孔が2つの甑(大阪府難波宮下層第97次調査Bー1出土、杉井健「甑形土器の基礎的研究」『待兼山論叢 史学篇』第28号、1994年、37頁図3をトリミング。大阪大学学術情報子http://hdl.handle.net/11094/48033)
 裳のほうにも鎮懐石の甑を履きやすくする仕掛けがあったと考えられる。ひらひらした裳が偏っては、甑がうまく嵌らず産気を鎮めることはできない。くり返すが、実際にあったということではなく、想像力のなかにあったということである。それで思い浮かぶのが指貫とも称される括り緒のことである。指貫の場合、引き結ぶことで knickerbockers 風にズボンの裾を締めるスタイルになる。同じように裳に括り糸をつけてすぼめれば、裳裾の広がりがきれいに収まって鎮懐石の甑も履きやすくなる。女子生徒が運動する際に、制服のスカートを内側に均等に巻きあげるのと同じ効果である。すなわち、出産するときには、鎮懐石の甑も裳の括り糸も外すことになる。本来ならついていないはずの括り糸を裳に引っつけていたというわけである(注7)。必要がなくなったから括り糸を抜いて釣り糸にした。
 餌に「飯粒いひぼ」を使っているのは、第一に、今日でもアユの餌釣りには飯粒大に切ったカマボコなどが使われていること、第二に、それまで甑をあてがっていたわけだからちょうどよく御飯が蒸しあがっていると思えるからである。釜に沸いたお湯は捨てずに産湯に使われたというように、出産シーンについての連想がめぐる。
装束図式(左:裳、右:奴袴、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020368/viewer/22・76)
 狩衣などの装束姿の括り緒が引き合いに出されて裾を括るための糸のことが考えられている。紀には「唯男夫雖釣、以不魚。」と追記されている。女性が出産を我慢するという特殊な状況を、裳裾に糸をつけた特殊な衣装を身にまとっていたことで物語っている。釣った魚はアユである。アユム(歩)ことができるように下半身が解放された。袴とは異なり、裳の裾を括ってしまうと一括りにされて足の自由は利かないことも想定される。一気に解放されることは、夏に解禁されるアユ漁を思い浮かべているのであろうから、「四月之上旬」(記)、「四月上旬」(紀)としている。
 記にあるウヅキノハジメとは、ウヅ(渦)+キ(乙類)(柵)+ノ(助詞)+ハ(端)+ジメ(標)、すなわち、澪標みをつくしのことを言っている。和名抄に、「競馬〈標附〉 本朝式に云はく、五月五日の競馬〈久良閉無麻くらべむま〉に標〈標は師米しめと読む〉を立つといふ。」とある。競馬のゴール地点に立てて勝敗を決める印にした。馬はそこまで疾走して来て、以降は速度を落して止めるようにする。整備された馬場の範囲内で競うのである。そこまでは走れるという印がしめである。同じ乗り物として馬の代わりに船を考えれば、澪標がそれに当たる。水脈みをのあるところを示すために水中に立てられる標柱で、水深の変わり目に立てられている。そこまでは航行できるが、それより先は一気に浅くなっていて座礁してしまう。つまり、水が渦巻く範囲の端を示す標識が、ウヅキノハジメなのである。水にククル(潜・泳)ことができる場所を示している。だから、同音のククル(括)ための糸のことが話題になっている。一定の深さがあるところでアユの餌釣りは行われる。ほかによく知られるのはアユの友釣りである。また、ドブ釣りという深みにいるアユを狙う毛バリ釣りも行われている。アユは水中の苔、藻の類を食べている。だから、と同音のの話になっていて対応がうまくいっている(注8)
 どうしてこのような釣りの逸話が創作されているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子、後の応神天皇のことをナと呼んでいたからであろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。和名抄に、「鮎 本草に鮧魚〈上の音は夷〉と云ふ。蘇敬に曰はく、一名に鮎魚〈上は奴兼反、阿由あゆ、漢語抄に銀口魚と云ひ、又、細鱗魚と云ふ〉といふ。崔禹食経に云はく、貌は鱒に似て小さく、白き皮有りて鱗無く、春に生れ夏に長り秋に衰へ冬に死ぬ、故に年魚と名づくなりといふ。」とある。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉(音)である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)(注9)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后おほきさきををしきよそひしたまひてほむたきたまへるにえたまへり。」と、「肖ゆ」という言葉を使って述べている。ほむたは別にトモとも呼ばれている。「上古いにしへの時のひとともひて褒武多ほむたと謂ふ。」(応神前紀)とある。アユの友釣りのことと通じている。互いに補完し合う形で言葉群が文字どおり写像のように構成されている。そして、なぜかアユ sweetfish のことを本邦に「鮎」という字を用いている。魚で占うことを表して、紀でウケヒをするのにかなっている。
 記では、河の名を「小河をがは」、磯の名を「勝門比売かちとひめ」としている(注10)。ヲガハからは、ヲ(緒)+ガ(助詞)+ハ(端)であったとイメージが浮かぶ。裳の端に緒があったことを謂わんとしているのであろう。助詞のガは所有の意を含んでいる。すなわち、裳はスカートだからその裾は廻っていて糸口などつかめないと思うかもしれないが、実は巻きスカートだからたぐり寄せれば端は必ず存在して抜くことができ、難産の袋小路から解放されることを言っている。また、カチトヒメからは、カチ(徒歩)+トヒ(問、ト・ヒは甲類)+メ(女)、つまり、歩いて訪問する女性の意であろう。それまでは裳の括り糸が締められ、甑様の鎮懐石を着していて歩行がままならなかったことを示している。むろん、現実に、指貫の袴のように、指貫の裳なるものが通用していたということではなく、話の世界に遊んでいるばかりである。
 かくて、古代の人の想像力は、ヤマトコトバのうちに構築されていたとわかる。言語事実の後に一般的観念について語ることは、牛の後ろに犂をつけていて正しいものである(注11)

(注)
(注1)近年の研究に、加村2018.がある。「『古事記』 の 「裳」 の持ち主が援助の役割を果たし、神功皇后もこの条件に当てはまること、そして直前に語られた出産の物語との関連のなかで読むべきものであり、出産の穢れを清める禊に等しい行為として釣りをしたと物語っている可能性を示した。」(11頁)と述べている。読み方に可能性は無限にあるが、この議論の妥当性は低い。具体的な話の内容に近づくものとなっておらず、出産の穢れについての根拠の考究も乏しい。
(注2)「於是、皇后勾針為鉤、」(紀)とある部分について、岩田2017.は疑問を呈している。釣り針(鉤)は製品化が進んでいた道具だから、「針」を勾げた「鉤」は形態上の類似性はあっても勝れた道具とは言えないとしている(184頁)。形態上の類似性は、古語に、「ゆ」という言葉で表現される。アユ(肖)をかなえることが、言葉的にアユ(鮎)を釣るのにふさわしいということこそ、頓智に長けた人には受け容れられることである。なにしろ、これは話(咄・噺・譚)だからである。そしてまた、アユは川に遡上して苔などを食べるようになっている。餌にがぶっと噛みつく性質はなく、あぐ逆刺かえし)をつけた釣り針にかかりにくいため鐖のないものを使う地域が多い。釣り方としてアユ釣りにはさまざまな方法がとられるが、餌釣り、引っ掛け釣りとも、現在市販されている釣り針を見ても鐖のないものは多く認められ、太さ、大きさ、湾曲の仕方などはさまざまである。現地の状況に相性のいいものが求められる。釣り人のなかには、釣り針の曲り具合などを改良したり、また自作したりする人がいる。考古学的に釣り針が「製品化」されていったと技術史を直線的に捉えることは、現代人がしばしば陥る誤りである。骨角器から鉄器への移行は画期となっていても、だからといって実用の場面のひとつひとつの釣り針に対し、近代的な物差しである「製品」として一元的に考えては現実から乖離する。アユの餌釣りについては、農商務省水産局編・日本水産捕採誌、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076822/320~321参照。各種の方法の、また地域別の釣り針の違いも図示されている。小鮎餌釣には、鐖のない針を使ってカツオの一本釣りのように、「釣り揚げたる魚は自から鉤を離るべきを以て左手にフゴを持ち之を受くるを要す」手法がうまいやり方であった。
(注3)和名抄に、「衣服類四十五〈野王案に、上に在るを衣と曰ひ、下に在るを裳と曰ひ、すべて之れを服と謂ふなりとす〉」、「裙裳〈裙帯附〉 釈名に云はく、上は裙〈唐韻に音は群と同じ、字は亦、裠に作ると云ふ〉と曰ひ、下は裳〈音は常、〉と曰ふといふ。白氏文集に云はく、青羅の裙帯〈裙帯は此の間に字の如しと云ふ〉といふ。」とある。
(注4)倉塚1986.は、「これ[石]をどうやって腰につけたかはおくとしても、」(110頁)と棚に上げておきながら自論を進めている。「これで出産をのばしたというのは、説話的に神功に結びつけるためのこじつけに違いない。……鎮懐石や年魚釣りの話は、おそらくこの地方の民間信仰あるいは習俗をとり込んでできた話であろう。」(111頁)とある。身も蓋もない説明になっている。
(注5)佐原1996.参照。神功皇后の時代と甑の存在、またそれが須恵器製であるかといった種々の矛盾について、ここでは等閑視している。
(注6)甑落しについては、徒然草に、「御産の時、甑落す事は、定まれることにはあらず。御胞衣滯る時の呪なり。滯らせ給はねば、この事なし。下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑をめすなり。ふるき寳藏の繪に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり。」(第61段)などと見える。
(注7)近世以降、有職故実に行われている裳には、ウエストベルト部分に多色の組紐を括り緒のように総に施したものが見られる。裳自体、十二単などの後ろに引くものとなり、スカートとしての機能から外れている。ウエスト部分に絞るためにあったとは考えにくく、当初からデザインとしての飾りだったのであろう。とはいえ、「服飾の常として、最初は何か実用的な目的があったものが、後にそれが装飾となるのである。」(岩崎2009.102頁)から、その源はどこにあるか考慮する必要がある。袴の類でも腰の紐に同様の例がある。指貫袴の裾や狩衣などの袖を括るためにつけられた緒が、腰紐部分においても同じく括りとめるものであるという連想が働き、装飾美に援用されたのではないか。プリーツとなる襞をまとめるために大腰に刺縫するに当たり、色糸を使ってかえって目立たせて装飾したことと釣り合うように、引腰にも紐の長さだけ上刺を入れるようにしたということではないか。
 いま課題とされるべき古代の裳の腰部分は、埴輪などから推測するしかないのであるが、高松塚古墳の壁画では上着に隠れてわからない。それでもぐるりと一周するスカートであったことは確かである。そのときベルト通しに括り緒が通っていた可能性を否定することはできないが、平安以降に「退化してアクセサリになった」(村上1955.184頁)裳からのその原形を復元させることは難しい。いずれにせよ年魚釣りの話にある釣り糸を、このウエストにあったかもしれない総から抜いたと考えるのは話の展開として成り立たない。釣りをするのに裳を脱ぐことはつながらない。
左:裳(時代祭装束、和宮用裳、三重菱紋桐竹鳳凰摺柄)、右:高松塚古墳壁画西壁女子群像(ウィキペディア、Mehdan様https://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)
(注8)「細鱗魚」(紀)とある。アユの鱗は細かい。うろこのことは、別にコケラ(杮)とも言い、コケ(苔)に音が通じている。すなわち、甑落しと杮落しとが、古代に対比されておもしろがられていたということである。
(注9)拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注10)紀の記述に、征韓前の記事になり、ウケヒの話に仕立てられているため、新羅に勝ったことにかかる命名かとする説が行われているが、それは誤りであろう。紀には磯の名について記載はなく、また、記では河の名を「小河をがは」などと単純な名にしている。新羅云々に対するに「小河」というのは理屈に合わない。
(注11)ソシュールの譬え、「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」のことを言っている。一般に「鋤」と訳されているが、フランス語の諺に重量有輪犂を指すため筆者は「犂」とした。

(引用・参考文献)
岩崎2009. 岩崎雅美「古代女性の袴と裳」舘野和己・岩崎雅美編『古代服飾の諸相』東方出版、2009年。
岩田2017. 岩田芳子『古代における表現の方法』塙書房、2017年。
加村2018. 加村さとる「『古事記』研究 ─神功皇后の年魚釣りについて─」『あいち国文』第12号、2018年9月。愛知県立大学学術リポジトリhttp://doi.org/10.15088/00003729
倉塚1986. 倉塚曄子『古代の女─神話と権力の淵から─』平凡社、1986年。
佐原1996. 佐原真『食の考古学』東京大学出版会、1996年。
村上1955. 村上信彦『服装の歴史 第1(キモノが生まれるまで)』理論社、1955年。

※本稿は、2021年11月稿を2023年6月にルビ化したものである。

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