記紀には、アマテラスがイハヤ(石屋・石窟)に籠る話がある。本稿では、そのイハヤのあり方とその話にまつわるヤマトコトバについて検討する。
スサノヲの心が「善」いものか「邪」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。その結果はスサノヲの身勝手な解釈のもとに、彼は勝った勝ったと言い張ってさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、最後には天の石屋に籠ってしまう。
故、是に、天照大御神、見畏み、天の石屋の戸を開きて、刺しこもり坐しき。……是を以て、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、……。……天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、……。是に、天照大御神、恠しと以為ひ、天の石屋の戸を細く開きて、内より告らししく、……天照大御神、逾よ奇しと思ひて、稍く戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言はく、「此より以内に得還り入りまさじ」といひき。(記)
此に由りて、発慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。……時に、八十万神、天安河辺に会ひて、其の祷るべき方を計ふ。……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、……。……乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて〓(穴冠に視)す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。……則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。(神代紀第七段本文)
天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」とは、あくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠二-立戸掖一」(記)、「立二磐戸之側一」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは、建具の歴史からもあり得ない。
「開二天石屋戸一」くこと
記紀に若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 此三字以音坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸を閉して幽り居しぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「城の外に刺し出しき。(刺二-出城外一。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。また、天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)。
春日大社の例
合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるる鉤、鑰、鎰などと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側の枢、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、鎹を外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞の引戸らしき戸につけられている図も残されている。
左:クルル鉤(但馬国分寺出土、「豊岡市立歴史博物館─但馬国府・国分寺館─ニュース」第61号、2021年7月、https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/news/news61.pdfをトリミング)、右:鍵穴のある落とし桟(慕帰絵々詞模本、鈴木空如模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/27をトリミング)
落とし桟(左:法隆寺金堂、右:平安神宮額殿)
文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志」、「鏁着 戸佐須」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門を関ぐ所なりといふ。」とある。
家にありし 櫃に鏁刺し〔樻尓鏁刺〕 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
群玉の 枢に釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は 揺くなめかも(万4390)
門立てて 戸も閉したるを〔戸毛閇而有乎〕 何処ゆか 妹が入り来て 夢に見えつる(万3117)
門たてて 戸は闔したれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
…… 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鎰さへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)
万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら、下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説が知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に直線的に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことを戸主の転として刀自という。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。
故、教の如くして、旦時に見れば、針に著ける麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯に遺れる麻は三勾のみなり。(崇神記)
故、訶和羅之前に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、訶和羅と鳴りき。故、其地を号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
門毎に水を盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に備へ、恒に力人をして兵を持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)
一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理 此三字以音坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは、天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
記の、話の進め方は巧みである。記に「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。
天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 倭嶋見ゆ(万255)
逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学などから読み解いていくことであり、それこそが、総体としての古代研究の醍醐味である。
イハヤに籠ることと救世観音
「天之石屋(天石窟)」のイハは、堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「天之石位(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「天磐樟櫲船」、「天津磐境」、「天之石靫」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことは、ムロ(窟、室)ともいう。
是の日に、御窟殿の前に御して、倡優等に禄賜ふこと差有り。亦歌人等に袍袴を賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
丙寅に、浄行者七十人を選びて、出家せしむ。乃ち宮中の御窟院に設斎す。(天武紀朱鳥元年七月)
室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路<rtむろ>〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路〉と云ふ。(和名抄)
僧坊、庵室のことも「房」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は、“神話”とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮と断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎」と言っていた。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「安」は八洲で、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは喧嘩することがない。
籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
救世観音の救世とは、世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには、夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。
玉久世の 清き川原に 身祓して 斎ふ命は 妹が為こそ(万2403)
「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背の社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背の若子」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「𤅩灘 同、正、呼早[旱?]反、菸るる㒵也。水に儒れ乾く也。又暵く為に竭るる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良、久世、又和太利世、又加太」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘を曰ふ。加波良、久世、又和太世、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳に申に当たる。詩経・王風・中谷有蓷に、「中谷に<ruby蓷>
スサノヲの心が「善」いものか「邪」きものか判断するのに、天の安の河をはさんでウケヒ(誓約)合戦をしている。その結果はスサノヲの身勝手な解釈のもとに、彼は勝った勝ったと言い張ってさまざまないたずらを働く。アマテラスははじめのうちは咎めないで勘違いがあるのだろうと好意的な解釈をしていたが、最後には天の石屋に籠ってしまう。
故、是に、天照大御神、見畏み、天の石屋の戸を開きて、刺しこもり坐しき。……是を以て、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、……。……天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、……。是に、天照大御神、恠しと以為ひ、天の石屋の戸を細く開きて、内より告らししく、……天照大御神、逾よ奇しと思ひて、稍く戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、……尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言はく、「此より以内に得還り入りまさじ」といひき。(記)
此に由りて、発慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。……時に、八十万神、天安河辺に会ひて、其の祷るべき方を計ふ。……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、……。……乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて〓(穴冠に視)す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。……則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。(神代紀第七段本文)
天石屋(天石窟)に籠っている。「天石屋戸」、「磐戸」とは、あくまでも「戸」である。日本の玄関によく知られる外開きドアであろう。タヂカラヲはいかに力持ちでも、戸に取っ掛かり(ノブ)がないから開くことはできない。アマテラスは、外がにぎやかで気になって戸の隙間から窺ってみたが、全体の様子を見渡すことはできなかった。タヂカラヲは「隠二-立戸掖一」(記)、「立二磐戸之側一」(紀)っているから、アマテラスの視界には戸が遮りになって容易に隠れられていた。次いで、アマテラスはさらにドアを押し開いたので、その手を取って引きずり出した。その戸が引き戸であることは、建具の歴史からもあり得ない。
「開二天石屋戸一」くこと
記紀に若干の違いがある。記の原文に「開天石屋戸而刺許母理 此三字以音坐也」とある点を検討する。「天石屋戸を開きて、刺しこもり坐しき。」と訓める。西郷2005.に、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸を閉して幽り居しぬ」(本文ならびに一書)とあるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかしだからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねない。」(129~130頁)とある。そして、本居宣長・古事記伝にならって「開」は、「閇」、「閉」の誤字としている(注1)。西宮1975.はこの説を批判し、元来閉じられていた戸を開いて内に入り、お籠りになったという意であると解している。その場合、「刺し」は下接する自動詞の意を強める接頭語で、自発的に籠ったことを表し、天石屋戸は閉じているのが常態だからわかり切ったことは書かないのであるという。この考えを踏襲して、新編全集本古事記も、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである。」(63頁)とする。筆者はこれらの議論に飽き足らない。天石屋戸は自動ドアなのであろうか。
サシについて、(a)接頭語、(b)鍵をかける、の二義が考えられる。接頭語であったとしても元来の動詞の「さす(刺・指・挿)」に由来しており、原義を留めていることがある(注2)。垂仁記に、「城の外に刺し出しき。(刺二-出城外一。)」の例があり、勢いよく出たことを表すとされ、自動詞的接頭語に自動詞が下接し、強意の接頭語であると類型化されている。しかし、稲の俵を積み上げた防御壁から外へ出たのだから、突き抜け出たという方向性を保っている。さしあがる、さしのぼる、さし曇る、さし並ぶ、さし向かふ、さし寄る、など、軽い接頭語とされるが、方向としてまっすぐであることをニュアンスに持っている。アマテラスの「刺しこもり」のサシを接頭語とすると、石屋(石窟)の内でのお籠りの、動きのない状態とはそぐわないことになる。また、天石屋戸は、アマテラスが難なく開けることができたのに、力の強いタヂカラヲは開けることはできなかった。すなわち、サシは動詞である。「さす(閉・鏁)」は鍵をかけること、「戸さす」の鎖すに当たり、戸に刺して鍵をしめる意である。鍵を「しめる」は、扉の把手を紐で結わえて締めることに由来する語であろう(注3)。
春日大社の例
合田1998.は、古代日本における施錠具には、いわゆる海老錠と呼ばれるものと、くるる鉤、鑰、鎰などと称されるものの二つに大別している(注4)。前者は錠前と鍵のセットで機能するもの、後者はL字状に大きく折り曲げた細長い鉄棒に木の柄をつけた鉤である。海老錠は、いわゆる観音扉につけられていたり、櫃の箱と蓋をさすのに用いられていた。廉価な神棚でも、飾り具として形だけ海老錠をつけているものが多い。一方、鉤は、戸に開いた鍵穴からしのばせて、内側の枢、すなわち、落とし桟や、かんのき(閂、貫木、関木)(かんぬき)、または、鎹を外側から操作するものであった。鍵穴の例としては、九世紀後半と目される埼玉県池守・池上遺跡の井戸枠転用の観音開き扉の片方の出土物があり、慕帰絵詞の引戸らしき戸につけられている図も残されている。
左:クルル鉤(但馬国分寺出土、「豊岡市立歴史博物館─但馬国府・国分寺館─ニュース」第61号、2021年7月、https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/news/news61.pdfをトリミング)、右:鍵穴のある落とし桟(慕帰絵々詞模本、鈴木空如模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/27をトリミング)
落とし桟(左:法隆寺金堂、右:平安神宮額殿)
文献に見られる「鏁子」は錠前で、「鑰」、「鎰」はくるる鉤であるとされる。新撰字鏡に、「鑰 以灼反、開鑰、止佐志」、「鏁着 戸佐須」とある。和名抄には、「扃 野王案に扃〈音は経、度佐之〉は戸扇の鉄鈕、内に用ゐ以て門を関ぐ所なりといふ。」とある。
家にありし 櫃に鏁刺し〔樻尓鏁刺〕 蔵めてし 恋の奴の つかみかかりて(万3816)
群玉の 枢に釘刺し〔久留尓久枳作之〕 固めとし 妹が心は 揺くなめかも(万4390)
門立てて 戸も閉したるを〔戸毛閇而有乎〕 何処ゆか 妹が入り来て 夢に見えつる(万3117)
門たてて 戸は闔したれど〔戸者雖闔〕 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
…… 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鎰さへ奉る〔鎰左倍奉〕 ……(万1738)
万葉集の一例目は海老錠に鍵をかけること、二例目は枢に釘を刺して戸を開かなくした意、三例目は内側から戸をしめている。四例目も同様ながら、下の句に「穴」とあり、鍵穴からの連想とも感じられる。盗人は地面に穴を掘って鍵を無効にしたとも考えられるが、鍵穴から侵入した話としては崇神記の三輪山伝説が知られる。ここに、サスとあるのは、細いものを穴に直線的に差し込むことで、三・四例目の戸の鍵も枢である可能性が高い(注5)。五例目は、鍵を持つことが主婦の象徴とされたことを示すもので、戸を支配する者から主婦のことを戸主の転として刀自という。記紀に見える「鉤」の例には次のようなものがある。
故、教の如くして、旦時に見れば、針に著ける麻は、戸の鉤穴より控き通りて出で、唯に遺れる麻は三勾のみなり。(崇神記)
故、訶和羅之前に到りて沈み入りき。故、鉤を以て其の沈みし処を探れば、其の衣の中の甲に繋りて、訶和羅と鳴りき。故、其地を号けて訶和羅之前と謂ふ。(応神記)
門毎に水を盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に備へ、恒に力人をして兵を持ちて[蘇我の]家を守らしむ。(皇極紀三年十一月)
一例目は「鉤穴」とあり、鉤の存在が確認される。鉤がくるる鉤であるところから、曲っていることを示し、麻が勾(輪)に残っているように記している。二例目、三例目はL字状の道具のことで、どこか特定の鍵として用いられているものではない(注6)。先の曲った金属の棒の転用可能性を示している。
以上のことを踏まえれば、記に「開天石屋戸而刺許母理 此三字以音坐也」とあったのは、アマテラスが天石屋戸の鉤を持っていて、それを使ってロックを外して戸を開け、中に入ってから再びロックしたと考えることができる(注7)。神社の本殿の鍵を預かる人のことを鍵取り、鍵主、鍵預かりといい、創始に深くかかわった家の人が世襲することがあった。刀自が家の鍵を預かるのに似ている。すなわち、アマテラスは、天石屋の戸主、ないし、創始者ということであろう。
記の、話の進め方は巧みである。記に「天石屋戸」、つまり、石屋の戸と考えているものが、紀の場合、「磐戸」、つまり、戸が磐のように堅固なものと形容している。この形容は、ひとつには、戸自体は壊すことができない堅牢な鎧戸のようになっていることを表すものであろう。むろん、戸(トは甲類)は、あくまでも出入口である。和名抄に、「戸 野王案に、城郭に在るを門と曰ひ、屋堂に在るを戸と曰ふとす。」とある。地勢的に出入口のようになっているところもトという。
天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 倭嶋見ゆ(万255)
逆に言うと、出入りができなくなれば、それは戸ではなくなる。「磐戸」は、一見、形容矛盾であるが、堅牢で鎖す機能に優れて動かないけれど、出入りするときには動かすことができることを言っている。それこそが鍵の機能である。正倉院文書に、「不動鎰」、「常鎰」、「挙鍵」、「久留理鍵」、「折鍵」などとあり、その実態は特定できないものの表現したかったイメージは伝わってくる。
天石屋戸(磐戸)にどのような鍵の機能があるか考究することは、いつ頃の人がその伝承を創作したかを知るヒントになる。今日、記紀のなかの「神話」(注8)と称されるものを、歴史学、考古学、文化史学などから読み解いていくことであり、それこそが、総体としての古代研究の醍醐味である。
イハヤに籠ることと救世観音
「天之石屋(天石窟)」のイハは、堅牢なさまを表す。天孫降臨条に「天之石位(天磐座)」とあって、堅くて確かな神の御座所のことを表している。イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背と呼ばれるところに当たる。また、「天磐樟櫲船」、「天津磐境」、「天之石靫」なども同様である。したがって、イハヤとは、堅固な家屋か岩窟のようなところである。岩窟のことは、ムロ(窟、室)ともいう。
是の日に、御窟殿の前に御して、倡優等に禄賜ふこと差有り。亦歌人等に袍袴を賜ふ。(天武紀朱鳥元年正月)
丙寅に、浄行者七十人を選びて、出家せしむ。乃ち宮中の御窟院に設斎す。(天武紀朱鳥元年七月)
室〈無戸室附〉 白虎通に云はく、黄帝、室〈音は七、无路<rtむろ>〉を作り、以て寒暑を避くといふ。日本紀私記に無戸室〈宇都无路〉と云ふ。(和名抄)
僧坊、庵室のことも「房」(孝徳紀白雉四年五月)という。天武紀の記事は、“神話”とされる天石窟のやりとりを再現したものといえよう。そして、イハヤ、ムロと仏教との関わりもにおわせる。石屋(石窟)が堅固な家屋とするなら、屋根が石材系の瓦葺きであることに対応している。瓦葺きの屋根は当時珍しく、天皇の宮殿でさえ飛鳥板蓋宮と断っている。寺院建築に先行しており、斎宮忌詞では寺院を「瓦舎」と言っていた。すると、天の石屋条の話は、アマテラスが瓦葺きの寺に籠ってしまったので、アニミズムの神々が集まって安の河原で引き戻そうと談じたものであるとの解釈も成り立つ(注9)。「安」は八洲で、たくさんの洲のある河原のこと、水を間にしているので神さまたちは喧嘩することがない。
籠って何かをしようとした著名人は聖徳太子である。法隆寺東院の八角円堂を、いま、夢殿と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、良い知恵が浮かぶのを待っていた。瓦を載せたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、僧坊的、石屋的な印象がある。彼の名はイハヤトに似たウマヤト(厩戸皇子)である。夢殿に安置されている仏像は救世観音である。フェノロサが開くまで長く秘仏とされてきた。扶桑略記に、「百済国の客日羅来朝す。身に光明有り。状火焔の如し。廐戸王子相会ひて清談す。日羅合掌して言へらく、「敬礼救世観世音、伝燈東方粟散国」といへり。」(敏達天皇十二年)、日本往生極楽記に、「母妃皇女夢むらく、金色の僧あり謂ひて曰く、吾に救世の願あり、願はくば后の腹に宿らむ。妃問ふ、誰とか為す。僧曰く、吾は救世菩薩なり。家は西方に在り。」、法隆寺東院縁起に、「則ち八角円堂に太子在世に造り給ふ御影、救世観音の像を安置す。」などとある。太子は救世観音であり、救世観音像は太子の等身大像と言われている。
救世観音の救世とは、世の衆生を救うことで、特に観音のことをいう。いわゆる観音経に、「観音妙智力、能救世間苦。」とあることに由来する。法隆寺ではクセ、四天王寺ではクゼと呼び慣わされている。そもそも観音は、「若し無量百千万億の衆生有りて、諸の苦悩を受けん。是の観世音菩薩を聞きて一心に名を称せば、観世音菩薩は即座に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん。(若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。)」(妙法蓮華経・観世音菩薩普門品)とあるによるとされる。観ることに主眼を置いた仏さまである。実際には見えないこと、未然のことまで観るためには、夢に見るのが一法である。だから、お籠りをして眠るのである。
クセには曲瀬、すなわち、川の浅瀬の砂や石が多く集まったところの意味がある。
玉久世の 清き川原に 身祓して 斎ふ命は 妹が為こそ(万2403)
「玉久世」は地名とされる。「山城の 来背の社」(万1286)、「山城の 久世の鷺坂」(万1707)、「山城の 来背の若子」(万2362)などともある。今の木津川、もとは泉川と呼ばれた川に面した地である。新撰字鏡に、「𤅩灘 同、正、呼早[旱?]反、菸るる㒵也。水に儒れ乾く也。又暵く為に竭るる也。涒に同じ。歳申に在る也。加波良、久世、又和太利世、又加太」(天治本)、「灘 佗単反、平、又勅丹・恥叚二反。砂聚まる也。浅き水顕るるを曰ふ也。一に曰はく、大歳申に在り。涒灘を曰ふ。加波良、久世、又和太世、又加太」(享和抄本)とある。涒灘は太歳に申に当たる。詩経・王風・中谷有蓷に、「中谷に<ruby蓷>