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2012-06-24 06:03:17 | 日記
情熱の歌人、与謝野晶子 没後70年(産経新聞) - goo ニュース

情熱の歌人、与謝野晶子 没後70年
産経新聞2012年6月23日(土)15:05

 ■共感呼ぶ ひたむきな生き方

 情熱的な作風で知られ、明治から昭和初期にかけて活躍した女流歌人、与謝野晶子。愛や人生を自由に力強く歌い上げ、浪漫主義を代表する歌人として活躍した。また、11人の子供を育てながら、晩年まで精力的に創作活動を続けた。今年で没後70年。その生き方に魅了される人も多く、出身地の堺市でも顕彰の機運が高まっている。(中井美樹)

 晶子は、堺県堺区甲斐町の菓子商「駿河屋」の三女として生まれた。趣味人だった父の蔵書を読みふけり、「源氏物語」などの古典に親しんだ。

 堺女学校を卒業後は、店を切り盛りしながら歌を作り、18歳ごろから雑誌で発表するようになる。文学青年のグループに参加し、この活動の中で夫となる与謝野鉄幹と出会う。鉄幹には妻子があったが、晶子は明治34年、東京の鉄幹のもとへ走り、同年、歌集「みだれ髪」を発表した。

 「やわ肌のあつき血汐(ちしお)にふれも見で…」「…ちからある乳を手にさぐらせぬ」など、恋愛を官能的に表現した歌を収めた「みだれ髪」は、一躍注目を集めた。研究者やファンで作る与謝野晶子倶楽部運営委の佐藤多賀子さん(75)は「自由に恋することもできない時代。女性の思いを率直に表現することで、恋愛においても、男女は同じということを示したかったのではないか」と話す。

 37年には、日露戦争に出征した弟への歌「君死にたまふことなかれ」を発表する。批判もあったが、晶子は「歌人としてまことの心を歌った」と反論した。

 鉄幹との結婚で非難を浴びた晶子だが、11人の子供を産み、夫に尽くした。生活費もままならない中、雑誌への執筆依頼や添削、講演なども精力的にこなして家計を支えた。

 晩年まで創作活動を続け、生涯で残した歌は3万首を超える。堺市文化課の学芸員、岡崎智美さん(26)は「晶子の考え方はとにかく前向き。どんな苦境であっても、強い意志で前に進んでいる」と話す。大正12年の関東大震災の翌年、晶子はこんな詩を発表している。

 「新しく生きる者に、日は常に元日、時は常に初春。百の禍も何ぞ、千の戦で勝とう」(「大震後第一春の歌」の一部)

 震災で晶子は完成間近だった源氏物語現代語訳の原稿数千枚を焼失した。だが、これにくじけることなく15年後、新たに「新新訳源氏物語」を書き上げた。

 岡崎さんは「晶子の言葉や生き方は、東日本大震災からの復興に力を尽くす私たちを勇気づけるメッセージのように感じる」。堺市では晶子の顕彰施設建設計画が進んでいる。佐藤さんは「晶子の活動は幅広く、知るほどに興味深い。ひたむきな生き方はこれからの時代、なお注目されると思う」と話していた。

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