高知龍馬マラソンからもう2ヶ月が経ちました。そのときの写真をあげておきます。
フルマラソンの後は、当然のことながら疲れが出ます。回復するまで約1ヶ月はかかるのではないでしょうか。
私の感覚ですが。働きながらでもあるので、個人差はもちろんあるでしょう。
その間、書店では棚卸しがあり、そのための整理があり、春休みになって接客に追われつつ、年度末で納品も増え、さらには杉花粉で自由を奪われ。
結構大変でした。それらを無事乗り越えて、春。
最近の新緑の美しさには、改めて目を奪われます。
杉花粉もおさまって、穏やかな天候の下で、痛みもなく思い切り走って、おいしい空気を胸いっぱい吸えるのは、本当に心地よく、生き返る思いです。
その中で出会った花々の写真は、後でまとめてあげます。
で、次の大会が1週間後に迫ってきました。
初めて参加します。
岩手の花巻も初めて。
私が何より惹かれたのは、宮沢賢治の故郷だということです。
私はいろんな作家の影響を受けてきましたが、なかでも宮沢賢治は重要な人の一人です。
どこまで賢治の世界を自分のものにできるかわかりません。
ただ、行きたい。走りたい。
そう強く感じたので参加してきます。
賢治も過ごした花巻を歩くだけでもいい。
記念館などたくさんゆかりの場所はありますので、今から楽しみです。
「銀河鉄道の夜」は3回は読んだでしょうか。
特にうつ病でどうしようもなかったとき、言ってみれば自分が生まれ直し始めた一番初めに読んだのが宮沢賢治であり、「銀河鉄道の夜」でした。
私はジョバンニをからかい、川に溺れたザネリだった。川に飛び込んだカンパネルラはザネリを救出し、自分は帰ってこれなかった。ジョバンニは、カンパネルラを一生の友と信じていたけれど、途中で別れざるを得なかった。
読むたびに救われる。掬われる。
震災や人災の絶えない現代。賢治の祈りは、もはやみんなの祈りになっている。
自分に何が吸収できるのか。自分に何が創作できるのか。現代、そして未来に必要なものとして。
行ってみなければわかりません。
行ってきます。
フルマラソンの後は、当然のことながら疲れが出ます。回復するまで約1ヶ月はかかるのではないでしょうか。
私の感覚ですが。働きながらでもあるので、個人差はもちろんあるでしょう。
その間、書店では棚卸しがあり、そのための整理があり、春休みになって接客に追われつつ、年度末で納品も増え、さらには杉花粉で自由を奪われ。
結構大変でした。それらを無事乗り越えて、春。
最近の新緑の美しさには、改めて目を奪われます。
杉花粉もおさまって、穏やかな天候の下で、痛みもなく思い切り走って、おいしい空気を胸いっぱい吸えるのは、本当に心地よく、生き返る思いです。
その中で出会った花々の写真は、後でまとめてあげます。
で、次の大会が1週間後に迫ってきました。
初めて参加します。
岩手の花巻も初めて。
私が何より惹かれたのは、宮沢賢治の故郷だということです。
私はいろんな作家の影響を受けてきましたが、なかでも宮沢賢治は重要な人の一人です。
どこまで賢治の世界を自分のものにできるかわかりません。
ただ、行きたい。走りたい。
そう強く感じたので参加してきます。
賢治も過ごした花巻を歩くだけでもいい。
記念館などたくさんゆかりの場所はありますので、今から楽しみです。
「銀河鉄道の夜」は3回は読んだでしょうか。
特にうつ病でどうしようもなかったとき、言ってみれば自分が生まれ直し始めた一番初めに読んだのが宮沢賢治であり、「銀河鉄道の夜」でした。
私はジョバンニをからかい、川に溺れたザネリだった。川に飛び込んだカンパネルラはザネリを救出し、自分は帰ってこれなかった。ジョバンニは、カンパネルラを一生の友と信じていたけれど、途中で別れざるを得なかった。
読むたびに救われる。掬われる。
震災や人災の絶えない現代。賢治の祈りは、もはやみんなの祈りになっている。
自分に何が吸収できるのか。自分に何が創作できるのか。現代、そして未来に必要なものとして。
行ってみなければわかりません。
行ってきます。
こちらも柳瀬川沿いの桜並木。
右手前にお花見の席取りのシートが置いてあります。
小道の奥には小さくなってしまいましたが、人が写っています。
カメラを向ける奥様と、その旦那様でしょうか。
東京都写真美術館で木村伊兵衛の没後50年を記念した写真展を開催中(5月12日まで)です。
観てきたのですが、実に人々の表情が生き生きとしています。
さりげなくて、誰もポーズをしていなくて。
それで思ったのです。ああ、人を写すのもいいなあと。
なのでこれからの写真には人が入ってくるかもしれません。
さりげなく。
右手前にお花見の席取りのシートが置いてあります。
小道の奥には小さくなってしまいましたが、人が写っています。
カメラを向ける奥様と、その旦那様でしょうか。
東京都写真美術館で木村伊兵衛の没後50年を記念した写真展を開催中(5月12日まで)です。
観てきたのですが、実に人々の表情が生き生きとしています。
さりげなくて、誰もポーズをしていなくて。
それで思ったのです。ああ、人を写すのもいいなあと。
なのでこれからの写真には人が入ってくるかもしれません。
さりげなく。
こちらは、お隣の清瀬市にある柳瀬川沿いの桜並木。この季節、ここを走るのは格別です。
この土日で春休み終わりという方々も多いのではないでしょうか。
いくつになっても気が引き締まる思いです。
やるべきことは明確になっています。
とにかく、小説を仕上げる!
今年度中に、必ず。
次の作品の準備もしていたい。
来年の今頃どうしているか、胸に思い描いて走り抜けました。
この土日で春休み終わりという方々も多いのではないでしょうか。
いくつになっても気が引き締まる思いです。
やるべきことは明確になっています。
とにかく、小説を仕上げる!
今年度中に、必ず。
次の作品の準備もしていたい。
来年の今頃どうしているか、胸に思い描いて走り抜けました。
石牟礼道子さんの詩集。
タイトルは、「おやさまのくさのむら」と読みます。
祖さまというのは、連綿と続いてきた命そのもののことかもしれません。
生き物のそれぞれが音を持っている。
耳を傾けることのできる人は、自然の交響曲を楽しむことができる。
この辺りの描写は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出しました。
マイスター・ホラに連れられて、モモは「時間の花」を見ます。そこでは豊かな音楽が流れていました。
人々は、自然の中で生きていました。
そこに「会社(チッソ)」がやってきた。
護岸工事をし、渚をコンクリートで固めてしまった。
渚は、海と陸とが呼吸をするところ。
小さな貝たちや、タコの赤ちゃんたちがたくさんいた。
近代化の名の下に、壁を作っていったのは人間。
電気に化学肥料にビニール。どれも欠かせなくなった。
一方で、不要となった毒が撒き散らされた。
自然が壊されていく。小さな生き物たちが死んでいき、その音がかき消されていった。
石牟礼さんは聴いている。書かずにはいられない。
「のさられ」て。
「のさる」というのは、私の理解ですが、自分とは違う魂を引き受けること。
無くなっていった生き物たち・人々の怨霊とも言える。
そんな声なき声を拾い、代弁する。
昨年の今頃からか、私は耳栓を使うようになりました。
通勤のとき、休憩のとき、家にいるときもうるさければ。
「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだのがきっかけだったような気がします。
耳栓をして、静寂がこんなにもありがたかったのかと、驚いた。
それまで、騒音で随分とストレスを感じていたことを実感したものです。
カウンセラー・詩人・小説家にも、共通しているのは「耳の良さ」でした。
耳を守る必要性もあると自覚し、今では耳栓を携帯しています。
そんな私が最も共感した詩を一つ、紹介します。
本書の58ページから63ページです。
ちなみに作品中に出てくる「おどま」とは、熊本の方言で「私たち」という意味です。
蟇(がま)の蟇左ェ門(二)
肥薩ざかいの山麓は
ついこの間まで
紫尾(しび)のおん山々と尊称されていた
天気の良い日に渚を歩くと
不知火海の雄大な満ち潮に映し出されて
その霧の中に 美しい形の野ぶどうが
映り出て 遠く
近くに彼岸花も草いちごのたぐいも沈んで見え
そのまんま秋になってゆく
渚の鼻からゆるゆると見わたす
ご先祖たちが掘りあげた由緒ある
蟇左ェ門の穴蔵に サイレンがひっかかった
三百万年くらい前に出来た穴蔵である
歴史の変り目ごとに会社のサイレンと
ガシャリとぶつかるのだ
うをおーん うをおーん と聞こえるのは
穴蔵で昼寝をしていた蟇蛙の声かと思われたら大まちがいだ
蟇の長者が出てきて言うには
「ここを何と心得る 豊葦原の瑞穂の国なるぞ われらがしゅり神山 ご先祖たちが 掘って掘って掘りあげ
百万遍も唱えごとをしたご神殿である」
うをおーん うをおーん
鳴いているのは 大地の魂の声であるぞ
新しくきた会社のサイレンが毎日夕方になると
ひゅをおーん ひゅをおーん
と うなるが ばかを言うにもほどがある
おどま会社のサイレンぞ
おどま今までこの世になかったサイレンちゅうもんぞ
首の後ろを電気のこが行き来するような
無情な音だった
その音は 諸々のものたちの魂をぶった切るので蟇左ェ門は
治療してまわるのだ
花の蕾も 夜鳴く虫たちも 大昔からあの声に育てられたのだ
うをおーん うをおーん
と啼かれるとそのたんびに頭をたれる
ひょっとすると私のひいひいおじいさんかもしれないのだ
ゆっくり屋が急げば ろくなことはない
魂の病人たちばかりだから つける薬はない
それ あれでゆけ
うをおーん うをおーん
あの声が躰中に五十ぺんばかりしみわたるとなると
カクメイという発作が起こるかもしれない
豊葦原の瑞穂の国とは 不知火海の渚から陸上を見わたして
その内陸の先を見はるかしながら 四方の山々に陽が射すと 丘がいっせいにせり上がり
稲の花が咲いているにちがいない
なんとゆかしい香りであろうか
近頃やって来た会社のサイレンが しゅり神山一帯のふうわりとした稜線を
なんともヒステリックな音を出してぶちこわす
ゆかしい香りをたてていた瑞穂の原は たちまちげんなりとして ただ首をたれているだけになってしまった
九州山地の稲田に立てば 細長い列島の全容が見える
稲束をかついだ人々は それ自身が香り立っている初々しい
聴覚だった
豊葦原とは なんと瑞々しい名前ではないか
石牟礼道子 著/思潮社/2014
タイトルは、「おやさまのくさのむら」と読みます。
祖さまというのは、連綿と続いてきた命そのもののことかもしれません。
生き物のそれぞれが音を持っている。
耳を傾けることのできる人は、自然の交響曲を楽しむことができる。
この辺りの描写は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出しました。
マイスター・ホラに連れられて、モモは「時間の花」を見ます。そこでは豊かな音楽が流れていました。
人々は、自然の中で生きていました。
そこに「会社(チッソ)」がやってきた。
護岸工事をし、渚をコンクリートで固めてしまった。
渚は、海と陸とが呼吸をするところ。
小さな貝たちや、タコの赤ちゃんたちがたくさんいた。
近代化の名の下に、壁を作っていったのは人間。
電気に化学肥料にビニール。どれも欠かせなくなった。
一方で、不要となった毒が撒き散らされた。
自然が壊されていく。小さな生き物たちが死んでいき、その音がかき消されていった。
石牟礼さんは聴いている。書かずにはいられない。
「のさられ」て。
「のさる」というのは、私の理解ですが、自分とは違う魂を引き受けること。
無くなっていった生き物たち・人々の怨霊とも言える。
そんな声なき声を拾い、代弁する。
昨年の今頃からか、私は耳栓を使うようになりました。
通勤のとき、休憩のとき、家にいるときもうるさければ。
「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだのがきっかけだったような気がします。
耳栓をして、静寂がこんなにもありがたかったのかと、驚いた。
それまで、騒音で随分とストレスを感じていたことを実感したものです。
カウンセラー・詩人・小説家にも、共通しているのは「耳の良さ」でした。
耳を守る必要性もあると自覚し、今では耳栓を携帯しています。
そんな私が最も共感した詩を一つ、紹介します。
本書の58ページから63ページです。
ちなみに作品中に出てくる「おどま」とは、熊本の方言で「私たち」という意味です。
蟇(がま)の蟇左ェ門(二)
肥薩ざかいの山麓は
ついこの間まで
紫尾(しび)のおん山々と尊称されていた
天気の良い日に渚を歩くと
不知火海の雄大な満ち潮に映し出されて
その霧の中に 美しい形の野ぶどうが
映り出て 遠く
近くに彼岸花も草いちごのたぐいも沈んで見え
そのまんま秋になってゆく
渚の鼻からゆるゆると見わたす
ご先祖たちが掘りあげた由緒ある
蟇左ェ門の穴蔵に サイレンがひっかかった
三百万年くらい前に出来た穴蔵である
歴史の変り目ごとに会社のサイレンと
ガシャリとぶつかるのだ
うをおーん うをおーん と聞こえるのは
穴蔵で昼寝をしていた蟇蛙の声かと思われたら大まちがいだ
蟇の長者が出てきて言うには
「ここを何と心得る 豊葦原の瑞穂の国なるぞ われらがしゅり神山 ご先祖たちが 掘って掘って掘りあげ
百万遍も唱えごとをしたご神殿である」
うをおーん うをおーん
鳴いているのは 大地の魂の声であるぞ
新しくきた会社のサイレンが毎日夕方になると
ひゅをおーん ひゅをおーん
と うなるが ばかを言うにもほどがある
おどま会社のサイレンぞ
おどま今までこの世になかったサイレンちゅうもんぞ
首の後ろを電気のこが行き来するような
無情な音だった
その音は 諸々のものたちの魂をぶった切るので蟇左ェ門は
治療してまわるのだ
花の蕾も 夜鳴く虫たちも 大昔からあの声に育てられたのだ
うをおーん うをおーん
と啼かれるとそのたんびに頭をたれる
ひょっとすると私のひいひいおじいさんかもしれないのだ
ゆっくり屋が急げば ろくなことはない
魂の病人たちばかりだから つける薬はない
それ あれでゆけ
うをおーん うをおーん
あの声が躰中に五十ぺんばかりしみわたるとなると
カクメイという発作が起こるかもしれない
豊葦原の瑞穂の国とは 不知火海の渚から陸上を見わたして
その内陸の先を見はるかしながら 四方の山々に陽が射すと 丘がいっせいにせり上がり
稲の花が咲いているにちがいない
なんとゆかしい香りであろうか
近頃やって来た会社のサイレンが しゅり神山一帯のふうわりとした稜線を
なんともヒステリックな音を出してぶちこわす
ゆかしい香りをたてていた瑞穂の原は たちまちげんなりとして ただ首をたれているだけになってしまった
九州山地の稲田に立てば 細長い列島の全容が見える
稲束をかついだ人々は それ自身が香り立っている初々しい
聴覚だった
豊葦原とは なんと瑞々しい名前ではないか
石牟礼道子 著/思潮社/2014
作家の石牟礼道子さんと写真家の藤原新也さんの対談。
対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
私もまた1年寝かせていました。
再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
まずは「電気」だったそうです。
それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
現実は、とても複雑です。
石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
電気のない今これからは考えられない。
一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
対等な人同士として対話する。
どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
水俣と福島は未来だと思います。
人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
対話しかない。と私は思っています。
複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
白か黒かじゃない。
複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。
「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)
「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。
石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
私もまた1年寝かせていました。
再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
まずは「電気」だったそうです。
それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
現実は、とても複雑です。
石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
電気のない今これからは考えられない。
一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
対等な人同士として対話する。
どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
水俣と福島は未来だと思います。
人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
対話しかない。と私は思っています。
複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
白か黒かじゃない。
複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。
「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)
「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。
石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
この写真は、2022年11月7日、宮城県気仙沼市の大島にある亀山山頂から撮ったものです。
今年も3.11が来ました。もう13年になりますが、あの日は昨日のことのようです。
その日を意識し始めると、変に肩に力が入って、鼓動も早くなる。落ち着かなくなって、書きたくなります。
様々なことを思い出します。
現地に行って撮った写真も見返していました。
この写真の左手前の砂浜は田中浜、その上は小田の浜、田中浜の右側にある湾が浦の浜です。
田中浜から上陸した津波は、坂を乗り越え、浦の浜からの津波と合流したそうです。
浦の浜近くで料理屋を営んでいた私のおじさんは、間一髪で津波から逃げることができました。
お店の片付けをしていたと言います。
山に逃げていた人に声をかけられて、助かりました。
しかし、災難はそれだけに止まりませんでした。
気仙沼湾が燃え、亀山にも火がついてしまいました。
写真で言うと、手前から奥へ、火は移動していきました。
田中浜と浦の浜をつなぐ道、ここを越えさせてはならんと、住民は総出で火消しに追われました。
協力のかいあって、火は消し止められました。
多くの木々(特に松)は、無惨にも燃えてしまいましたが。
写真を撮った時点で、それから11年経っていますので、火事の傷跡はだいぶ目立たなくなってはいます。
13年前、私はまだ走っていませんでした。
あの大震災が、私に「走るスイッチ」を押したとしか思えません。
あるいは、走り始めたのはその年のお盆すぎからなので、走りたくても走れなかった誰かが、私に入ったのかも、と、半ば本気で思ったりもしています。
走ることによって、東北の各地だけでなく、熊本や高知にも行けた。
私と共にしている誰かと、見たかった景色を見に行くようになった。
そして書くことで、語ることで、まだ見ぬ誰かにも伝えていくことができます。
大袈裟ではなくて、3.11によって、私は生まれ変わりました。
だから私にとって、3.11は特別な日であり続けます。
心理的誕生日と言えばいいでしょうか。ランナーとしての誕生日でもあります。もしかしたら小説家としての誕生日かもしれません。
でも、めでたくはない。22,222人、亡くなっているのですから。
福島では、ふるさとを奪われたままの人たちも数多くいらっしゃいます。
この現実があまりにも重くて、私は進化せざるを得なかった、と言うのが正直なところかもしれません。
走ること、書くことで、やっとその重さに耐えられるようになった、と。
2011.3.11が、私にとって特別であり続けるように、他の人にとっては3.11だけじゃなく、他の日が特別な日であり続けます。
能登地震、熊本地震、阪神淡路大震災。自然災害だけではありません、大空襲、軍事侵攻、交通事故、テロ。戦地では今でもミサイルによって人々は爆死させられています。その家族、親友たちの気持ち。その日はずっと悪夢になるでしょう。
動物と人とで、何が違うのでしょうか?
想像力なのではないでしょうか。
人の痛みを人は我が事として感じることができます。その力が強ければ強いほど、人は人を殺せなくなるのではないでしょうか。
私だったらどうなのか?
想像力があるからこそ、人は人を思うことができ、お互いが生きやすいように協力して交渉して妥協することもできます。
失われているものがあるとすれば想像力だけなのではないでしょうか。
この碑は、亀山山頂に行く山道の脇にあります。
水上不二は、1904年、大島に生まれました。詩人で童話作家でした。
小学校の先生を務めていました。東京の小金井市で暮らしており、1965年に亡くなっています。
その12年後、1977年に、私は小金井市で生まれました。両親は気仙沼出身で、父は大島出身です。
たまたまですが、自然が豊かなところを両親と水上さんも選んだのかもしれません。
小金井市は緑が多く、特に小金井公園は、今でも私のお気に入りです。
水上さんは気仙沼と小金井でいくつか校歌を作詞しています。
詩人のまど・みちおさんと友達だったそうです。
たまにこの写真も見返すのです。私の机の前の壁に貼ってあります。
「海はいのちのみなもと 波はいのちのかがやき 大島よ 永遠(とこしえ)に緑の真珠であれ」
海という「いのち」との付き合い方も、人は忘れてしまっていたのでしょうか。
いや、忘れていたというより、知らなかった。
人は、人を愛することさえも、学ばなければできない生き物ですから。
だから伝え続けていくことが大事なのでしょう。
謙虚に学ぶ気持ちも忘れないで。
これは大島の南端にある龍舞崎で撮ったもの。
冒頭の写真で言うと、左上の一番奥にあります。
険しい崖で、打ち寄せる波が砕け、龍が舞うように見えることから。
龍舞崎には灯台もあります。
父の父は船頭でした。
船頭は船乗りで、船長で、漁師でもあり、乗組員の世話係でもあり、魚を売る商人でもあり、気象予報士的な知識も必要とされました。
この龍舞崎を見るたびに、ほっとしたのかな、何度見たのかなと想像します。
その祖父は、戦地に船で荷物を運ばされました。民間の補給船をやらされた。寄港中、戦闘機に撃たれ、海に沈みました。
骨は帰ってきていません。薄っぺらな紙だけが、お骨を納める箱に入っています。父の兄に見せてもらったことがあります。
どんなに無念だったか。
陸に上がっていた乗組員が帰国して、祖父の最期を伝えてくれたそうです。
今、生きている私たちにできることは何でしょう?
ここから、もう一年、始まります。
一年終われば、もう一年。
そしてまたもう一年。
一年一年、振り返って、また始める。
一年一年を積み重ねていく。
私の暮らす東京や埼玉では、ずいぶん3.11への関心は薄れてきていると感じます。
今、大地震が東京に起きたらどうなるだろう?
私が、今まさに津波に飲まれそうになっていたら、何を思うだろう?
「津波だって来たくなかった」
そうつぶやいた友人の息子さんの言葉を思い出します。
地面が大規模に陥没し、海は仕方なく凹み、そして盛り上がって津波となり、陸に上がった。
自分たちが陸に上がれば、多くの人たちを飲み込んでしまう。それは私たちも本望ではない。
そんな津波の気持ちになった子供の想像。全く私にはなかった視点でした。
海が悪いわけではありません。
海は、多くの恵みを人々にもたらしてきました。
海もいのちですから、人のいのちを奪うことには抵抗があったのでしょう。
悪は、人間にしかありません。
その悪と闘えるのも人間しかいません。
私が今、津波に飲まれそうだったら何を思うか?
大切な人たちに、何を願うか?
ずっとやりたかったことを、やって、やって、やり遂げて!
私の中に浮かんだ言葉はそれでした。
「ずっとやりたかったことをやれる」ということは「自分が自分を生きる」と言い換えることもできます。
じゃあ、自分とは何か? 私とは何か?
この問いへの答えが分厚いほど、その人は「その人度」が高いと言えます。
「その人度」が高いほど、「幸福度」も比例して高くなるのではないでしょうか。
私が私になっていくこと。
それは当たり前で、とても簡単なことに思えますが、私にはとっても難しかった。
この道に完成はありません。
ただ行こうと思います。
このいのち尽きるまで。
今年も3.11が来ました。もう13年になりますが、あの日は昨日のことのようです。
その日を意識し始めると、変に肩に力が入って、鼓動も早くなる。落ち着かなくなって、書きたくなります。
様々なことを思い出します。
現地に行って撮った写真も見返していました。
この写真の左手前の砂浜は田中浜、その上は小田の浜、田中浜の右側にある湾が浦の浜です。
田中浜から上陸した津波は、坂を乗り越え、浦の浜からの津波と合流したそうです。
浦の浜近くで料理屋を営んでいた私のおじさんは、間一髪で津波から逃げることができました。
お店の片付けをしていたと言います。
山に逃げていた人に声をかけられて、助かりました。
しかし、災難はそれだけに止まりませんでした。
気仙沼湾が燃え、亀山にも火がついてしまいました。
写真で言うと、手前から奥へ、火は移動していきました。
田中浜と浦の浜をつなぐ道、ここを越えさせてはならんと、住民は総出で火消しに追われました。
協力のかいあって、火は消し止められました。
多くの木々(特に松)は、無惨にも燃えてしまいましたが。
写真を撮った時点で、それから11年経っていますので、火事の傷跡はだいぶ目立たなくなってはいます。
13年前、私はまだ走っていませんでした。
あの大震災が、私に「走るスイッチ」を押したとしか思えません。
あるいは、走り始めたのはその年のお盆すぎからなので、走りたくても走れなかった誰かが、私に入ったのかも、と、半ば本気で思ったりもしています。
走ることによって、東北の各地だけでなく、熊本や高知にも行けた。
私と共にしている誰かと、見たかった景色を見に行くようになった。
そして書くことで、語ることで、まだ見ぬ誰かにも伝えていくことができます。
大袈裟ではなくて、3.11によって、私は生まれ変わりました。
だから私にとって、3.11は特別な日であり続けます。
心理的誕生日と言えばいいでしょうか。ランナーとしての誕生日でもあります。もしかしたら小説家としての誕生日かもしれません。
でも、めでたくはない。22,222人、亡くなっているのですから。
福島では、ふるさとを奪われたままの人たちも数多くいらっしゃいます。
この現実があまりにも重くて、私は進化せざるを得なかった、と言うのが正直なところかもしれません。
走ること、書くことで、やっとその重さに耐えられるようになった、と。
2011.3.11が、私にとって特別であり続けるように、他の人にとっては3.11だけじゃなく、他の日が特別な日であり続けます。
能登地震、熊本地震、阪神淡路大震災。自然災害だけではありません、大空襲、軍事侵攻、交通事故、テロ。戦地では今でもミサイルによって人々は爆死させられています。その家族、親友たちの気持ち。その日はずっと悪夢になるでしょう。
動物と人とで、何が違うのでしょうか?
想像力なのではないでしょうか。
人の痛みを人は我が事として感じることができます。その力が強ければ強いほど、人は人を殺せなくなるのではないでしょうか。
私だったらどうなのか?
想像力があるからこそ、人は人を思うことができ、お互いが生きやすいように協力して交渉して妥協することもできます。
失われているものがあるとすれば想像力だけなのではないでしょうか。
この碑は、亀山山頂に行く山道の脇にあります。
水上不二は、1904年、大島に生まれました。詩人で童話作家でした。
小学校の先生を務めていました。東京の小金井市で暮らしており、1965年に亡くなっています。
その12年後、1977年に、私は小金井市で生まれました。両親は気仙沼出身で、父は大島出身です。
たまたまですが、自然が豊かなところを両親と水上さんも選んだのかもしれません。
小金井市は緑が多く、特に小金井公園は、今でも私のお気に入りです。
水上さんは気仙沼と小金井でいくつか校歌を作詞しています。
詩人のまど・みちおさんと友達だったそうです。
たまにこの写真も見返すのです。私の机の前の壁に貼ってあります。
「海はいのちのみなもと 波はいのちのかがやき 大島よ 永遠(とこしえ)に緑の真珠であれ」
海という「いのち」との付き合い方も、人は忘れてしまっていたのでしょうか。
いや、忘れていたというより、知らなかった。
人は、人を愛することさえも、学ばなければできない生き物ですから。
だから伝え続けていくことが大事なのでしょう。
謙虚に学ぶ気持ちも忘れないで。
これは大島の南端にある龍舞崎で撮ったもの。
冒頭の写真で言うと、左上の一番奥にあります。
険しい崖で、打ち寄せる波が砕け、龍が舞うように見えることから。
龍舞崎には灯台もあります。
父の父は船頭でした。
船頭は船乗りで、船長で、漁師でもあり、乗組員の世話係でもあり、魚を売る商人でもあり、気象予報士的な知識も必要とされました。
この龍舞崎を見るたびに、ほっとしたのかな、何度見たのかなと想像します。
その祖父は、戦地に船で荷物を運ばされました。民間の補給船をやらされた。寄港中、戦闘機に撃たれ、海に沈みました。
骨は帰ってきていません。薄っぺらな紙だけが、お骨を納める箱に入っています。父の兄に見せてもらったことがあります。
どんなに無念だったか。
陸に上がっていた乗組員が帰国して、祖父の最期を伝えてくれたそうです。
今、生きている私たちにできることは何でしょう?
ここから、もう一年、始まります。
一年終われば、もう一年。
そしてまたもう一年。
一年一年、振り返って、また始める。
一年一年を積み重ねていく。
私の暮らす東京や埼玉では、ずいぶん3.11への関心は薄れてきていると感じます。
今、大地震が東京に起きたらどうなるだろう?
私が、今まさに津波に飲まれそうになっていたら、何を思うだろう?
「津波だって来たくなかった」
そうつぶやいた友人の息子さんの言葉を思い出します。
地面が大規模に陥没し、海は仕方なく凹み、そして盛り上がって津波となり、陸に上がった。
自分たちが陸に上がれば、多くの人たちを飲み込んでしまう。それは私たちも本望ではない。
そんな津波の気持ちになった子供の想像。全く私にはなかった視点でした。
海が悪いわけではありません。
海は、多くの恵みを人々にもたらしてきました。
海もいのちですから、人のいのちを奪うことには抵抗があったのでしょう。
悪は、人間にしかありません。
その悪と闘えるのも人間しかいません。
私が今、津波に飲まれそうだったら何を思うか?
大切な人たちに、何を願うか?
ずっとやりたかったことを、やって、やって、やり遂げて!
私の中に浮かんだ言葉はそれでした。
「ずっとやりたかったことをやれる」ということは「自分が自分を生きる」と言い換えることもできます。
じゃあ、自分とは何か? 私とは何か?
この問いへの答えが分厚いほど、その人は「その人度」が高いと言えます。
「その人度」が高いほど、「幸福度」も比例して高くなるのではないでしょうか。
私が私になっていくこと。
それは当たり前で、とても簡単なことに思えますが、私にはとっても難しかった。
この道に完成はありません。
ただ行こうと思います。
このいのち尽きるまで。
この本が読みたくなったのは、毎日新聞の連載「没後120年・八雲を探して」を読んで。
有名な「雪女」は、今の東京・青梅市の百姓が八雲に語った話で、意外と近いじゃんと思ったり、島根県・松江の海沿いにある自然洞窟に亡くなった子たちが集まっているという話が今でも伝わっていたり。
その連載でも紹介されていましたが、八雲の夫人・節の話にも興味が湧きました。
私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。 229ページ15行-230ページ3行
八雲は、聞いた話をただそのまま書き写していたのではありませんでした。
換骨奪胎というのでしょうか。どこにでもあるようなちょっと不思議な言い伝えが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を経由することで、類まれな文学作品に仕上がり、今でも本屋で買うことのできる本として生きているわけですから。
じゃあ、何が「そこら辺に転がっている話」とは違うのでしょうか?
私が一番に感じたのは「人間臭さ」です。
例えば「雪女」では、吹雪にさらされた少年が小屋を見つけて一命を取り留めますが、そのとき扉を開けて入ってきたのが「雪女」でした。彼女は言います。「お前はまだ若いから生かしてやろう。そのかわり、私のことを喋ったら、その命はいただくから覚えておけ!」と。どこかヤンキー的な勢いで。
少年は青年になり、肌が雪のように白い女と出会い、結ばれ、子宝に恵まれます。幸せで、口が緩んでしまったのでしょうか。奥さんに向かって言ってしまいます。
「昔、お前のように肌の白い女と会ったことがあってね。あれは本当に酷い吹雪の夜だったよ」
ついうっかり、わかります。心を許している人だから言えたのだということも。死ぬか生きるかのときでしたから、彼にとっても忘れられない思い出です。
「お前、しゃべっちまったね。それは私のことだよ!」
「ひー」(この辺は、私の換骨奪胎です。原文のままではありませんのでご承知ください)
でも、雪女も長年の共同生活で情が移ったのでしょうか。まだ小さな子達を見て、こう言います。
「でもまあ子供もいることだし、命を奪うのは勘弁してやろう」
そう言い残して、雪女は雪が溶けるように消えてしまいました。
大事な約束を忘れるんじゃねえぞ! という強いメッセージを雪女から受け取ります。
それは大きな地震がきたら海から離れるんだ、というような自然災害への警告とも受け取れます。
「耳なし芳一のはなし」も有名ですね。
この話の「ミソ」はどこにあるのでしょうか?
芳一は目が見えません。
だから滅亡した平家の亡霊たちが語りかけたとしても、目の前にいるのは人魂だけだとはわからない。
人魂に導かれ、墓地へ赴き、得意の平家物語を琵琶をかき鳴らしながら熱演。亡霊たちを泣かせまくります。
芳一は、亡霊たちの引っ張り凧になってしまいました。
それに気づいた師匠である坊さんが、芳一の全身にお経を書き、亡霊の誘いをとにかく無視するように諭します。そうしなければ、芳一もまた亡き者にされてしまうから。
ここでもまたうっかりミス。坊さんとその弟子たちは、芳一の耳にだけお経を書き忘れていたことを見逃してしまいました。
その夜、またやってきた亡霊。彼には、芳一の耳しか見えませんでした。仕方ないから、耳を引きちぎって持っていった。
芳一は、ちぎられた耳から血を流し、痛みに耐え、坊さんたちが帰ってくるまで一言も喋らないで待っていた。
発見された芳一は助かりました。その後、亡霊たちからのお誘いもありませんでした。
「耳なし芳一」は、口コミによって全国区となり、引きも切らない人気者となりました。
目が見えないから亡霊だとわからない。その芳一を助けようとして見える人たちがバリアを張ったのに、見落としがあった。
目で見えることだけが全てではなく、耳で聞こえることだけが全てでもない。
平家たちだけではありません。いなくなったはずなのに現れる者たちは、他にも普通に描かれています。
共通しているのは、強い思い。信念。執念。その人をその人たらしめている魂。存在の根源のようなもの。
それがこの世で果たされていないと、次に行けないようです。
逆に、切願を叶えるために、命を差し出す人も描かれています。
生きていたときの我利私欲の妄念によって、死ねずに食人鬼と化した者もいる。
妻が、実は柳の精だったという話もあります。木と、いかに親しんできたかが伝わってきます。
「人間臭さ」とは、「人間性の回復」でもあるのかもしれません。
経済最優先で、効率第一だと、切り落とされるのは人間性。
人間は、本来はもっと豊かだったんだと、豊かな物語に触れるたびに思い出します。
心は、自然の一部だったんだよな。自然は全部つながっていて、割り切れるものではないんだよな、と。
ラフカディオ・ハーン作 平井呈一訳/岩波文庫/1940
有名な「雪女」は、今の東京・青梅市の百姓が八雲に語った話で、意外と近いじゃんと思ったり、島根県・松江の海沿いにある自然洞窟に亡くなった子たちが集まっているという話が今でも伝わっていたり。
その連載でも紹介されていましたが、八雲の夫人・節の話にも興味が湧きました。
私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。 229ページ15行-230ページ3行
八雲は、聞いた話をただそのまま書き写していたのではありませんでした。
換骨奪胎というのでしょうか。どこにでもあるようなちょっと不思議な言い伝えが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を経由することで、類まれな文学作品に仕上がり、今でも本屋で買うことのできる本として生きているわけですから。
じゃあ、何が「そこら辺に転がっている話」とは違うのでしょうか?
私が一番に感じたのは「人間臭さ」です。
例えば「雪女」では、吹雪にさらされた少年が小屋を見つけて一命を取り留めますが、そのとき扉を開けて入ってきたのが「雪女」でした。彼女は言います。「お前はまだ若いから生かしてやろう。そのかわり、私のことを喋ったら、その命はいただくから覚えておけ!」と。どこかヤンキー的な勢いで。
少年は青年になり、肌が雪のように白い女と出会い、結ばれ、子宝に恵まれます。幸せで、口が緩んでしまったのでしょうか。奥さんに向かって言ってしまいます。
「昔、お前のように肌の白い女と会ったことがあってね。あれは本当に酷い吹雪の夜だったよ」
ついうっかり、わかります。心を許している人だから言えたのだということも。死ぬか生きるかのときでしたから、彼にとっても忘れられない思い出です。
「お前、しゃべっちまったね。それは私のことだよ!」
「ひー」(この辺は、私の換骨奪胎です。原文のままではありませんのでご承知ください)
でも、雪女も長年の共同生活で情が移ったのでしょうか。まだ小さな子達を見て、こう言います。
「でもまあ子供もいることだし、命を奪うのは勘弁してやろう」
そう言い残して、雪女は雪が溶けるように消えてしまいました。
大事な約束を忘れるんじゃねえぞ! という強いメッセージを雪女から受け取ります。
それは大きな地震がきたら海から離れるんだ、というような自然災害への警告とも受け取れます。
「耳なし芳一のはなし」も有名ですね。
この話の「ミソ」はどこにあるのでしょうか?
芳一は目が見えません。
だから滅亡した平家の亡霊たちが語りかけたとしても、目の前にいるのは人魂だけだとはわからない。
人魂に導かれ、墓地へ赴き、得意の平家物語を琵琶をかき鳴らしながら熱演。亡霊たちを泣かせまくります。
芳一は、亡霊たちの引っ張り凧になってしまいました。
それに気づいた師匠である坊さんが、芳一の全身にお経を書き、亡霊の誘いをとにかく無視するように諭します。そうしなければ、芳一もまた亡き者にされてしまうから。
ここでもまたうっかりミス。坊さんとその弟子たちは、芳一の耳にだけお経を書き忘れていたことを見逃してしまいました。
その夜、またやってきた亡霊。彼には、芳一の耳しか見えませんでした。仕方ないから、耳を引きちぎって持っていった。
芳一は、ちぎられた耳から血を流し、痛みに耐え、坊さんたちが帰ってくるまで一言も喋らないで待っていた。
発見された芳一は助かりました。その後、亡霊たちからのお誘いもありませんでした。
「耳なし芳一」は、口コミによって全国区となり、引きも切らない人気者となりました。
目が見えないから亡霊だとわからない。その芳一を助けようとして見える人たちがバリアを張ったのに、見落としがあった。
目で見えることだけが全てではなく、耳で聞こえることだけが全てでもない。
平家たちだけではありません。いなくなったはずなのに現れる者たちは、他にも普通に描かれています。
共通しているのは、強い思い。信念。執念。その人をその人たらしめている魂。存在の根源のようなもの。
それがこの世で果たされていないと、次に行けないようです。
逆に、切願を叶えるために、命を差し出す人も描かれています。
生きていたときの我利私欲の妄念によって、死ねずに食人鬼と化した者もいる。
妻が、実は柳の精だったという話もあります。木と、いかに親しんできたかが伝わってきます。
「人間臭さ」とは、「人間性の回復」でもあるのかもしれません。
経済最優先で、効率第一だと、切り落とされるのは人間性。
人間は、本来はもっと豊かだったんだと、豊かな物語に触れるたびに思い出します。
心は、自然の一部だったんだよな。自然は全部つながっていて、割り切れるものではないんだよな、と。
ラフカディオ・ハーン作 平井呈一訳/岩波文庫/1940
高知3日目は、牧野植物園へ。
その日は朝から細かい雨が降ったり止んだり。高知は多雨の街でもあります。
バスで行くのですが、これも予想を超える激坂。五台山にあるのですが、完全に山道です。
一方通行で、バスだと道幅もぎりぎり。
運転手さんたちの仕事があってこその旅だと、改めて感じました。
門を入ると、もう植物を紹介する案内板が所狭しと立てられています。
一つ一つ、丁寧に。全部読んでいったら、とても時間が足りません。
その中でも目についたのがこちらです。
バイカオウレン。
牧野さんの生家の裏庭に生えていたそうで、ふるさとを思い出させる特別な植物であり続けたそうです。
順番に植物たちを眺めながら、チケットを買って、いよいよ植物園の中へ。
まず「こんこん山広場」という頂上付近に上がって眺望を楽しみます。
次に降りて少し行くと「土佐寒蘭センター」がありました。
中にあったのがこちらです。
寒蘭(カンラン)も初めて見ました。
「一条の司」と名付けられていました。園芸品種がたくさんあります。
南天の鉢植えもたくさんありました。どれも見たことないものばかりです。
次は、温室へ。
ものすごい数のランたちが待っていました。
温室なので東南アジア原産のものが多かった。
黒かったり、変な形だったり、捻じ曲がっていたり。
たくさん写真を撮りましたが、撮りきれるものでもありません。
で、唯一残したのはこちら。
金銀草(キンギンソウ)と言います。
花が最初は白く、やがて黄色になることから命名されました。
これもランなのですね。一口にランと言っても、さまざまな種類がありました。
温室を出て、その下の庭をぶらぶら。
そこで見かけたのがこちらです。
節分草。
これも初めて見ました。画像としては見たことありましたが。
想像より小さい花でした。
数を減らしているというのもわかります。
「人間嫌い」という花言葉を持っているくらいですから。
出会えて良かった。
もう一つ、目についたのがこちら。
万両と、左側に見える赤い葉っぱはオタフクナンテン(お多福南天)。
十両、百両、千両、とありますが、さすがの万両という感じ。
お多福南天は、南天の改良版で、花実はほとんどつけず、葉の美しさが特徴。
縁起のいい組み合わせですね。
他にもたくさん見て回りました。一日いられますね。
資料館では、牧野さんの足跡をおさらい。
今のお金で7000万ほどの借金があったときもありました。が、援助者が現れて危機を乗り越えています。
やっぱり、人柄なのでしょうか。好きなものに打ち込む人に、人は応援したくなるのかもしれません。
牧野さんの写真は笑顔が多いです。
植物と接する幸せを、多くの人たちに伝えたかったと、本人の言葉も残っています。
そうじゃなきゃあの笑顔にはなれない。
好きこそ物の上手なれ。
幸せこそが生きる原動力。
牧野植物園に行って、理屈じゃなくて、そうなんだと納得できました。
その日は朝から細かい雨が降ったり止んだり。高知は多雨の街でもあります。
バスで行くのですが、これも予想を超える激坂。五台山にあるのですが、完全に山道です。
一方通行で、バスだと道幅もぎりぎり。
運転手さんたちの仕事があってこその旅だと、改めて感じました。
門を入ると、もう植物を紹介する案内板が所狭しと立てられています。
一つ一つ、丁寧に。全部読んでいったら、とても時間が足りません。
その中でも目についたのがこちらです。
バイカオウレン。
牧野さんの生家の裏庭に生えていたそうで、ふるさとを思い出させる特別な植物であり続けたそうです。
順番に植物たちを眺めながら、チケットを買って、いよいよ植物園の中へ。
まず「こんこん山広場」という頂上付近に上がって眺望を楽しみます。
次に降りて少し行くと「土佐寒蘭センター」がありました。
中にあったのがこちらです。
寒蘭(カンラン)も初めて見ました。
「一条の司」と名付けられていました。園芸品種がたくさんあります。
南天の鉢植えもたくさんありました。どれも見たことないものばかりです。
次は、温室へ。
ものすごい数のランたちが待っていました。
温室なので東南アジア原産のものが多かった。
黒かったり、変な形だったり、捻じ曲がっていたり。
たくさん写真を撮りましたが、撮りきれるものでもありません。
で、唯一残したのはこちら。
金銀草(キンギンソウ)と言います。
花が最初は白く、やがて黄色になることから命名されました。
これもランなのですね。一口にランと言っても、さまざまな種類がありました。
温室を出て、その下の庭をぶらぶら。
そこで見かけたのがこちらです。
節分草。
これも初めて見ました。画像としては見たことありましたが。
想像より小さい花でした。
数を減らしているというのもわかります。
「人間嫌い」という花言葉を持っているくらいですから。
出会えて良かった。
もう一つ、目についたのがこちら。
万両と、左側に見える赤い葉っぱはオタフクナンテン(お多福南天)。
十両、百両、千両、とありますが、さすがの万両という感じ。
お多福南天は、南天の改良版で、花実はほとんどつけず、葉の美しさが特徴。
縁起のいい組み合わせですね。
他にもたくさん見て回りました。一日いられますね。
資料館では、牧野さんの足跡をおさらい。
今のお金で7000万ほどの借金があったときもありました。が、援助者が現れて危機を乗り越えています。
やっぱり、人柄なのでしょうか。好きなものに打ち込む人に、人は応援したくなるのかもしれません。
牧野さんの写真は笑顔が多いです。
植物と接する幸せを、多くの人たちに伝えたかったと、本人の言葉も残っています。
そうじゃなきゃあの笑顔にはなれない。
好きこそ物の上手なれ。
幸せこそが生きる原動力。
牧野植物園に行って、理屈じゃなくて、そうなんだと納得できました。
11回目のフルマラソンは高知龍馬マラソン。
スタート時は曇りでしたが、後半ほど晴れ渡り、予想通り気温が上がりました。
海に出るまでは順調でした。でも、走って3キロほどでもう汗が出ていたので、水分補給はしっかりと意識して。
海に出るまで4つくらいでしょうか、トンネルを潜りました。トンネルの中はひんやりとしていて快適でした。
20キロ付近、1番目の難関が現れました。浦戸大橋です。
警戒はしていましたが、想像を超えていました。
まだ上がるんかい! 今まで経験したことのない角度と距離。約50メートル、急な上りが続きます。
歩いていたランナーもちらほら。しかし、私は根性で走り切りました。私は粘り強いタイプ(良くも悪くも)ですから。
頂上では太平洋が一望できます。下りると、海岸沿いの道を西へ。
海岸沿いにも応援の方達が切れ目なくいてくれました。
直線に飽きてくると海を眺めて、キツくなってきても「ああ最高だ」と思う。こんな体験は二度とないから。
長い海岸をさらに進むと、仁淀川に出ます。仁淀ブルーとして有名できれいな川です。
「ああきれいだ」と思いつつ、その辺りから細かなアップダウンに苦しめられ始めます。
30キロ付近、日差しも強くなってきて、正念場です。
堤防下の日陰を使ったり、給水を首筋にかけたり。
応援を身に浴びて、見られていることを力に変えて。
手を差し出している方達もいましたが、ハイタッチする余裕すらありませんでした。なんというか、余計な動きは極力避けたい、という気持ち。それだけ暑かったし、過酷でした。
ペースを落としながらもなんとかうねうねを乗り越え、海から離れるように左折すると、数少ない田んぼの中の平な一本道。40キロ付近でしょうか。ここで少しリズムを整えることができました。
が、ラストの競技場に入る前、またしても忽然と上り坂が現れます。
ここも警戒していたポイントです。が、ここも想像を超えていました。
まだ上がるんかい!(2回目)
もう体力も限界で、首筋や耳や、頬は容赦なく焼かれるし(日焼け対策はしていませんでした)、ここは本当にやばかった。
でも、走り切りました。私は、あれなので(2回目)。
ゴール後の競技場です。
トラックの中の人工芝で、完走賞のタオルを顔にかけ、しばし倒れていました。走り抜けば、気持ちのいい青空です。
落ち着いてきて、生まれたてのひよこのようによろよろと歩き始めます。
前のテントでは、中学生たちでしょうか、完走証を発行してくれました。私は卒業証書を受け取るように、両手でありがたく拝受。完走メダルも首にかけてもらいました。
競技場から出ると、手厚いおもてなしゾーンが待っていました。
自分の完走タイムを表示してくれるのです。こんなサービスは初めてでした。
酪農家の方達が牛乳を、地元の高校生が土佐文旦とスイカを、さらにはカツオのたたき、つみれ汁までランナーに提供してくれました。
たくさん屋台も出ており、いくつか買い食いすれば昼食は十分。
手荷物を受け取り、送迎バスへ。スタート地点からゴールは離れています。なのでバスで送っていただきました。
1年前の熊本城マラソンより4分遅いです。
でも、肉離れの影響はなく、痛みなく完走できたのは本当に良かった。
暑くなかったら、とも思いますが、天気も含めてのマラソンなので仕方ありません。
当分は3時間40分を切るのが目標です。
そのためには1キロ5分10秒ペースが必要です。今回の平均は1キロ5分19秒でした。
あと少しなのですが、サブフォー(4時間切ってゴールすること)達成にもかなり時間がかかりました。
マラソンは、やればやるほど上達しますが、それなりに時間もかかります。
そのマイペースでできる感じが、文学にも似て、私の性に合っているのでしょう。
ベストタイムは2019年の東京マラソンで出した3時間38分30秒。そのときは冷たい雨で、雨対策ゼロで、冷えで太ももがつりましたが、それでもベストタイム。
いかに東京が走りやすいか、ということですね。だって下り坂しかありませんから。
東京は、私が走り始めてから(2011年)毎年応募していますが、今までその1回しか抽選に当たったことがありません。これからも毎年応募はします。
が、地方大会の楽しさにも目覚めてしまいました。
次はどこにしようかな。
実は決まっています。
岩手県の花巻。4月28日、イーハトーブ花巻ハーフマラソン大会にエントリー済みです。
そのあとは11月の神戸、来年2月はいわきサンシャイン。そこまで考えています。
日本から飛び出したいとも思い始めました。
海外レース。想像しただけでわくわくします。
楽なだけのマラソン大会なんて一つもないのに。
それでもまた出たくなるのは、やっぱり、楽しいからです。
行ったことのない土地を走り、風に吹かれ、空気を胸いっぱいに吸い、初めての人々と触れ、現地のおいしいものをいただき、地下から湧き出る温泉に浸かり、うちから遠く離れた場所で眠る。
旅ランと言いますが、私にとってこれ以上刺激的で面白い遊びはない、と言ってもいいかもしれません。
それは読書とも似ていますね。
まあ読書で筋肉痛になったり、日焼けしたりはしないですけれども。
スタート時は曇りでしたが、後半ほど晴れ渡り、予想通り気温が上がりました。
海に出るまでは順調でした。でも、走って3キロほどでもう汗が出ていたので、水分補給はしっかりと意識して。
海に出るまで4つくらいでしょうか、トンネルを潜りました。トンネルの中はひんやりとしていて快適でした。
20キロ付近、1番目の難関が現れました。浦戸大橋です。
警戒はしていましたが、想像を超えていました。
まだ上がるんかい! 今まで経験したことのない角度と距離。約50メートル、急な上りが続きます。
歩いていたランナーもちらほら。しかし、私は根性で走り切りました。私は粘り強いタイプ(良くも悪くも)ですから。
頂上では太平洋が一望できます。下りると、海岸沿いの道を西へ。
海岸沿いにも応援の方達が切れ目なくいてくれました。
直線に飽きてくると海を眺めて、キツくなってきても「ああ最高だ」と思う。こんな体験は二度とないから。
長い海岸をさらに進むと、仁淀川に出ます。仁淀ブルーとして有名できれいな川です。
「ああきれいだ」と思いつつ、その辺りから細かなアップダウンに苦しめられ始めます。
30キロ付近、日差しも強くなってきて、正念場です。
堤防下の日陰を使ったり、給水を首筋にかけたり。
応援を身に浴びて、見られていることを力に変えて。
手を差し出している方達もいましたが、ハイタッチする余裕すらありませんでした。なんというか、余計な動きは極力避けたい、という気持ち。それだけ暑かったし、過酷でした。
ペースを落としながらもなんとかうねうねを乗り越え、海から離れるように左折すると、数少ない田んぼの中の平な一本道。40キロ付近でしょうか。ここで少しリズムを整えることができました。
が、ラストの競技場に入る前、またしても忽然と上り坂が現れます。
ここも警戒していたポイントです。が、ここも想像を超えていました。
まだ上がるんかい!(2回目)
もう体力も限界で、首筋や耳や、頬は容赦なく焼かれるし(日焼け対策はしていませんでした)、ここは本当にやばかった。
でも、走り切りました。私は、あれなので(2回目)。
ゴール後の競技場です。
トラックの中の人工芝で、完走賞のタオルを顔にかけ、しばし倒れていました。走り抜けば、気持ちのいい青空です。
落ち着いてきて、生まれたてのひよこのようによろよろと歩き始めます。
前のテントでは、中学生たちでしょうか、完走証を発行してくれました。私は卒業証書を受け取るように、両手でありがたく拝受。完走メダルも首にかけてもらいました。
競技場から出ると、手厚いおもてなしゾーンが待っていました。
自分の完走タイムを表示してくれるのです。こんなサービスは初めてでした。
酪農家の方達が牛乳を、地元の高校生が土佐文旦とスイカを、さらにはカツオのたたき、つみれ汁までランナーに提供してくれました。
たくさん屋台も出ており、いくつか買い食いすれば昼食は十分。
手荷物を受け取り、送迎バスへ。スタート地点からゴールは離れています。なのでバスで送っていただきました。
1年前の熊本城マラソンより4分遅いです。
でも、肉離れの影響はなく、痛みなく完走できたのは本当に良かった。
暑くなかったら、とも思いますが、天気も含めてのマラソンなので仕方ありません。
当分は3時間40分を切るのが目標です。
そのためには1キロ5分10秒ペースが必要です。今回の平均は1キロ5分19秒でした。
あと少しなのですが、サブフォー(4時間切ってゴールすること)達成にもかなり時間がかかりました。
マラソンは、やればやるほど上達しますが、それなりに時間もかかります。
そのマイペースでできる感じが、文学にも似て、私の性に合っているのでしょう。
ベストタイムは2019年の東京マラソンで出した3時間38分30秒。そのときは冷たい雨で、雨対策ゼロで、冷えで太ももがつりましたが、それでもベストタイム。
いかに東京が走りやすいか、ということですね。だって下り坂しかありませんから。
東京は、私が走り始めてから(2011年)毎年応募していますが、今までその1回しか抽選に当たったことがありません。これからも毎年応募はします。
が、地方大会の楽しさにも目覚めてしまいました。
次はどこにしようかな。
実は決まっています。
岩手県の花巻。4月28日、イーハトーブ花巻ハーフマラソン大会にエントリー済みです。
そのあとは11月の神戸、来年2月はいわきサンシャイン。そこまで考えています。
日本から飛び出したいとも思い始めました。
海外レース。想像しただけでわくわくします。
楽なだけのマラソン大会なんて一つもないのに。
それでもまた出たくなるのは、やっぱり、楽しいからです。
行ったことのない土地を走り、風に吹かれ、空気を胸いっぱいに吸い、初めての人々と触れ、現地のおいしいものをいただき、地下から湧き出る温泉に浸かり、うちから遠く離れた場所で眠る。
旅ランと言いますが、私にとってこれ以上刺激的で面白い遊びはない、と言ってもいいかもしれません。
それは読書とも似ていますね。
まあ読書で筋肉痛になったり、日焼けしたりはしないですけれども。
高知に行ってきました。
写真は高知城です。
初めての四国でもありました。
行きは新幹線とバスで。
岡山から「龍馬エクスプレス」という高速バスに乗り換えます。
今かな今かなと地図を見ながら、お目当ての一つであるものがついに現れました。
瀬戸大橋です。
写真は瀬戸大橋から見た瀬戸内海。
不思議ですよね。
山なのです。なのに海。
後日少し調べました。
今から約1400万年前、「瀬戸内火山活動」と呼ばれる短期間の激しい火山活動がありました。そのとき噴火したものが山となって残っている。
さらに約300万年前、四国を南北に分ける中央構造線が横に動いたため、横ずれの「しわ」として隆起したところが後で島になった。
今の瀬戸内海となったのは約1万年前と言われています。
瀬戸大橋を渡っていよいよ四国の香川県へ。
山々を縫うように西へ。
愛媛県に入って、大きく左折。それが高知自動車道です。
その道も、よくぞ拓いた、というような山道の連続。四国の山々は険しいのです。
これも後日調べました。
南東からフィリピン海プレートが、ユーラシアプレートの下に沈み込んでいるのですね。そのための隆起と言われています。
南海トラフ地震が懸念されている所以です。
険しい山々を越えると、ぱっと開けます。
山が山だけに、開放感も大きい。そこが高知でした。
高知駅から路面電車に乗ってはりまや橋へ。そこから歩いてすぐ中央公園があり、「高知龍馬マラソン」の受付をし、ホテルも近くにあったのでチェックイン。
路面電車だけでなく街のあちこちにアンパンマンがいました。
作者のやなせたかしさんのご両親が高知県の香美市出身ということで香美市立アンパンマンミュージアムがあります。
来年春のNHK連続テレビ小説「あんぱん」も決まっています。バイキンマンとドキンちゃんの銅像もありました。
で、商店街を少し歩けばもう高知城。
こちらは天守閣から見た高知駅方面です。
遠くには山。
川が3本流れて浦戸湾で合流しています。そして海に流れる。
太平洋に広く面して、そのへそに当たる場所が高知市。
古くからカツオとクジラの漁が盛んでした。それに材木。
海と山に恵まれていたから。行ってみて納得です。
その日は「ひろめ市場」という屋台村で夕食。
カツオのたたき丼は外せません。ニンニクはおろさず、スライスしたものをつけるのが高知流でした。それとネギとミョウガ。薬味との相性が抜群でおいしかった。
あとはクジラハム、ウツボのたたきもいただきました。そんなにうまい! というものでもありませんでしたが、話のネタに。
翌日はフルマラソンです。温泉に入ってから早めに就寝。
フルマラソンの話は、また後日。
写真は高知城です。
初めての四国でもありました。
行きは新幹線とバスで。
岡山から「龍馬エクスプレス」という高速バスに乗り換えます。
今かな今かなと地図を見ながら、お目当ての一つであるものがついに現れました。
瀬戸大橋です。
写真は瀬戸大橋から見た瀬戸内海。
不思議ですよね。
山なのです。なのに海。
後日少し調べました。
今から約1400万年前、「瀬戸内火山活動」と呼ばれる短期間の激しい火山活動がありました。そのとき噴火したものが山となって残っている。
さらに約300万年前、四国を南北に分ける中央構造線が横に動いたため、横ずれの「しわ」として隆起したところが後で島になった。
今の瀬戸内海となったのは約1万年前と言われています。
瀬戸大橋を渡っていよいよ四国の香川県へ。
山々を縫うように西へ。
愛媛県に入って、大きく左折。それが高知自動車道です。
その道も、よくぞ拓いた、というような山道の連続。四国の山々は険しいのです。
これも後日調べました。
南東からフィリピン海プレートが、ユーラシアプレートの下に沈み込んでいるのですね。そのための隆起と言われています。
南海トラフ地震が懸念されている所以です。
険しい山々を越えると、ぱっと開けます。
山が山だけに、開放感も大きい。そこが高知でした。
高知駅から路面電車に乗ってはりまや橋へ。そこから歩いてすぐ中央公園があり、「高知龍馬マラソン」の受付をし、ホテルも近くにあったのでチェックイン。
路面電車だけでなく街のあちこちにアンパンマンがいました。
作者のやなせたかしさんのご両親が高知県の香美市出身ということで香美市立アンパンマンミュージアムがあります。
来年春のNHK連続テレビ小説「あんぱん」も決まっています。バイキンマンとドキンちゃんの銅像もありました。
で、商店街を少し歩けばもう高知城。
こちらは天守閣から見た高知駅方面です。
遠くには山。
川が3本流れて浦戸湾で合流しています。そして海に流れる。
太平洋に広く面して、そのへそに当たる場所が高知市。
古くからカツオとクジラの漁が盛んでした。それに材木。
海と山に恵まれていたから。行ってみて納得です。
その日は「ひろめ市場」という屋台村で夕食。
カツオのたたき丼は外せません。ニンニクはおろさず、スライスしたものをつけるのが高知流でした。それとネギとミョウガ。薬味との相性が抜群でおいしかった。
あとはクジラハム、ウツボのたたきもいただきました。そんなにうまい! というものでもありませんでしたが、話のネタに。
翌日はフルマラソンです。温泉に入ってから早めに就寝。
フルマラソンの話は、また後日。