泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

べてるの家の恋愛大研究

2011-06-04 13:51:08 | 読書
 みなさん、「べてるの家」はご存知でしょうか?
 北海道は浦河市にある、ある会社です。
 会社でありながら作業所でもあり共同生活所でもある。様々な障害を持った人たちが寄り集まり、三度の飯よりミーティングを行い、順調に苦労を重ねながら生きる力を高め合っている。
 当事者研究という営みも行っている。「恋愛」に的を絞ったのがこの本です。
 銘々が自ら自分に病名をつけている。医者や世間から名付けられるのではなく。
 ぼくがこの本を読もうと思ったのも、自分の恋愛を研究しようと思ったから。
 そこで、自分に病名をつけてみます。
 「想像先走り型隠れ欲求不満言語過剰病」
 いかがでしょうか?
 想像が先走るのは不安だからです。依存が強いとも言える。この人と見定めると、その人の現実を尊重することなく、自分の都合のいいような言語化が始まる。美化されていく。そしてそのことによって、当初は親しかったかもしれないその人との距離が広がっていく。相手を見失っているから、その差を自分はとらえることができず、最悪の場合、相手をののしるように至る。あるいは不発に終わった関係、自分の行いに嫌悪を抱き、未熟な自分を責める。意識過剰になり、自己否定も始まり、最悪の場合、うつ病を発症し、さらに最悪の場合、自己否定の究極の形として自死に至る。まさに「死に至る病」。だから恋愛を恐れるようになった。それでも定まった異性との交流がないと、自ずと性的欲求不満がたまる。1人で快楽を得るのはかんたんです。インターネットもそのためなのではないかと思うくらいに充実している。もっと金を払えば風俗店もある。しかし、そこでの射精には避妊(否認。コンドーム(今度産む))がつきもの。子どもをつくるという意識(希望や愛)がない。ただ性欲を発散させるだけ。その営みを、当初は恥ずべきものと思い、隠した。しかし精子は、いまでも着実に生産されている。それは三日でいっぱいになる。何もしなくとも、朝方、肉感的夢を見て勃起している。自分で出さなければ夢精に至る。それがとても不快。パンツはどろどろ、かぴかぴになり(男用ナプキンなどない)、もうはく気がしない。必要で十分な睡眠も妨げられる。だから三日に一回をめどに自分で精子を出す。そんなひそかな、生理的な処理を20年続けてきた。エロ本がなくなることはないし、アダルトビデオがなくなることもないし、ネットでは瞬時にどぎつい性交シーンが観られるし、性器のアップには感謝したくなるくらい。こんなにもかわいいアイドルが、脱ぐ脱ぐ。性欲は隠すことができない。根源的に命をつなぐ活動。女性器は命のつぼ。脳みそよりも強力な原始細胞の要求。抗うことなんてできない。過剰に抗おうとするからおかしくなる。ぼくは1人で何でもできた。テストの点もよかった。だからこそ、甘えるのが下手になってしまった。人を頼ることに抵抗があった。ぼくにできるのは、そして努め続けなければならないのは、女性との対話。絶えざる円滑なコミュニケーション。適切な距離感。情報交換、意思疎通、連絡の往復。その質の向上。生の、ぼくと同様に揺れ動く彼女を知ろうとすること。自分を伝えようとすること。自分と相手、ともに大切なかけがえのない存在。ともに成長し合える関係を築いていくことができれば言うことはない。またそうした異性との持続発展的な関係がどうしても必要。そのための研究です。
 恋愛をすることが悪いのではない。まして自分や相手が悪いのではない。問題が悪いのでもない。悪いことがあるとするなら、問題を抱えたまま孤立すること。その痛切な反省は、ぼくの中で生き続けている。
 本の中で、小林絵理子さん(アルコールと評価依存・誤作動起こしっぱなし涙腺崩壊タイプ)がときめきの研究をしています。定常的な彼がいながら、彼女はかっこいい男性と出会うとときめいてしまい、付き合おうと接近することを止めることができない。なぜなのか? 経験を見直し、仲間と問題を共有するなかで分かったのは、「ときめき」には未来への希望や前向きな気持ちになれることや、そのことでわくわくしたり前向きになれていたという事実。ときめきの末に、その男性との交際に発展することはなかった。そのことでまた失望し、自信を失い、自暴自棄になり、彼の元に戻り、そしてまた、という循環。彼女はこれからも順調にときめくだろうとあきらめる。ただ研究の結果、ときめきに自分が対応できるように、彼にその事実を伝えるように意識する。「ときめき」の中身である希望ややる気は彼女の生にとって必要なこと。だからときめきを否定しない。ただうまく活用できるように自分がなるだけ。
 恋愛はいいものです。すばらしいものです。必死になって受け入れてもらおうとするから、自己研鑚は深まり、相手を知ろうとするから想像力もたくましくなる。しくじったらしくじったで自分をより遠くまで見ることができるようになる。要するに、人間として成長する機会となる。
 成長と恋愛は切り離すことができないのかもしれません。恋愛の結果として子孫が生まれるのであり、子どもを育てることが二人に課せられるのだから。まずは互いを成長し合えるような、肯定的で前向きな手の差し伸べあいが大切なのかもしれない。愛情欲求もまた止めることやなくすことなどできない。自分にできるのは、その感情をよりよく働くように届けることだけ。彼女の中心に、自分の体の隅々に。その日々の営み中で言葉も磨かれる。健康な体への意識も高まる。
 ぼくは数え切れないほどの恋をしてきた。それは自分の生命力が強いから。誰かを大事に思う想像力が豊かだから。
 ただ、その届け方を知らなかった。まったく小説を書くのと同様に。
 読書し、カウンセリングにも通い、朗読や執筆を通じて、その方法を学んできた。今だって学びと実践の最中、これでいいという定まった状態は存在しない。
 ただ、少しずつかもしれないけど、届き始めた。その証拠の一つが、このブログへの訪問者の数であり、尊いコメントの数々です。また最近、まだ残っている『絶望を抱いて眠れ』を大安売りして職場の同僚に配ったこともある。みながそれぞれに受け止めてくれた。作品に対して様々な疑問、批判は当然にあるけれども、ぼくの試みに対してはみな肯定的だった。
 ありがとう。
 だいぶ長くなってしまいましたが、最後に最近よく思い浮かぶ塔和子さんの詩があるので記しておきます。


胸の泉に

かかわらなけらば
  この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった
  この大らかな依存の安らいは得られなかった
  この甘い思いや
  さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
  子は親とかかわり
  親は子とかかわることによって
  恋も友情も
  かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
  私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない

『希望よあなたに 塔和子詩選集』編集工房ノア/2008/90-91ページより

 ぼくと関わった人、すべてに感謝。
 そしてこれからも、迷惑かけてありがとう。
 よろしくお願いします。

 ぼくはプロテニスプレイヤーの伊達公子さんが好きなのですが、彼女の旦那はこう言うそうです。「キミコのすることならなんでもオーケー」と。
 その気持ち、やっとわかってきました。

浦河べてるの家著/大月書店/2010

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