映画「君たちはどう生きるか」を観たら、この本も読みたくなりました。
再読のはずなのですが、細部を覚えておらず、記録にも残ってないので、20年近く前だったのかもしれません。
こんなに泣ける話だとは思ってなかった。少なくとも3度はグッときました。
この本の素晴らしいところは、コペル君と呼ばれる主人公が中学校生活を送る中で経験する出来事と、コペル君の語りを聴いて受け止めるおじさんの伝えたいことが見事に融合しているところです。そんな本は他にないでしょう。だから超ロングセラーとなって売れ続けています。
基本的には、これからを生きる若い世代に「これだけは」伝えておきたい大切なことが詰まっています。
何が大事なのかは、読むそれぞれの人が感じ取って、大事に育てていくしかありません。
私がここでおせっかいにも「これとこれとこれ」などと指摘するつもりもありません。
ただ、映画を観て、主人公のマヒトがこの本を読んで泣いていた場面はこの箇所かなと思うところがあり、そこはまた私が再読して一番感じ入ったところでもあったので、ここに記しておきます。
それはコペル君(本名は潤一君)のお母さんが編み物の手を止めないまま、熱を出して伏せってしまったコペル君に対して語るところです(247ページ14行〜248ページ9行)。
「潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。
でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは、そう、誰かがきっと知ってくれます。
人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう」
このお母さんの言葉に触れただけで、ああ買って読んでよかったと思えます。
さすがお母さん!と言うべきか、母親ならではの強さというか。おじさんはおじさんで、甥っ子のコペル君に対する愛情も言葉も噛み砕いて伝えてはいるのですが。
そうそう、なんで「コペル君」なのでしょうか?
これはこの本の冒頭に出てきますが、かなり深い意味があります。
コペルニクスは、地動説(地球が太陽の周りを回っている)を唱えた人として知られています。今では小学校で教えられるような「当たり前」の科学的事実ですが、コペルニクスの生きていた時代では天動説(地球が宇宙の中心にある)が「当たり前」の常識でした。
なぜ潤一君がコペル君とおじさんに言われるようになったのか。それはコペル君が、人間を一つの分子として初めてとらえることができたから。その大事な初体験をおじさんが忘れないようにと思ってコペル君と名付けました。
じゃあ、自分もまた人間という分子の一つに過ぎないという発見がなぜ大事なのか?
それは、この本の肝にもなっています。
子どものとき、自分の家族や学校だけが世界の全てだと感じてはいなかったでしょうか?
世界の理解の仕方はどうだったでしょうか?
「私が思っていること」が全てではなかったでしょうか?
いくつかの出来事を通して「私にはこの世界に居場所はない」とその人が思えば、実際にその人の世界はそうなる。
でも、「本当に」そうなのでしょうか?
私もまた地球にさまよう一つの分子にすぎない。と心から思えたとき、その人に何が起きているのでしょうか?
私が、そんな感じになるのはどんなときだろう? と思います。
海を見ているとき、星を眺めているとき、草花を撮っているとき、走っているとき、温泉に入っているとき、音楽に身を任せているとき、また本を読んでいるときもそうかも知れません。
そのとき、「私が思う世界」などなくなり、直に世界と触れている実感がある。そんないわば社会的に無になる体験が、社会的な役割を負っている私を支えている。
人に社会的認識を可能にするためには、まずこの私から離れて、一つの分子になる必要があるということ。
この主観と客観の反転を行き来できること、それが人の成長には欠かせない。
と、おじさんは言っているのかなと私は思いました。
で、実際に、天動説から地動説への移行というのは、「本当に」もうとっくに完了していることなのでしょうか?
教科書にも載っているし当たり前じゃん!と思っている人がほとんどかも知れません。私も再読するまでそう思ってました。
が、違うのです。とっくに移行完了などしていない。いまだに、現在進行形の課題なのでした。
天動説とは、要するに、自分が中心となった世界の理解の仕方です。いわば自分を固定化し、正当化し、その地面が常に動いているなど考えもしなければ、自分より大きな存在があることなど想定もしません。常に自分が王位にあるためにあらゆる出来事を歪曲化して慣らしてしまう暴力性に支えられています。
と言ってみて、ハッとしないでしょうか?
今だって、天動説に住む人たちはいる。
おじさんが「コペル君」と呼びかける中には、人はいつだって地動説から天動説に戻ってしまうことすらあるんだよ、と言っているように聞こえます。
だからこそ、「今」だったんだな、と思います。
今、再読できてよかった。
自室の本棚にこの本を置き、もう忘れまい、と思う。
でも、人は忘れる。だから、本棚に本は必要なのですね。
吉野源三郎 著/岩波文庫/1982
再読のはずなのですが、細部を覚えておらず、記録にも残ってないので、20年近く前だったのかもしれません。
こんなに泣ける話だとは思ってなかった。少なくとも3度はグッときました。
この本の素晴らしいところは、コペル君と呼ばれる主人公が中学校生活を送る中で経験する出来事と、コペル君の語りを聴いて受け止めるおじさんの伝えたいことが見事に融合しているところです。そんな本は他にないでしょう。だから超ロングセラーとなって売れ続けています。
基本的には、これからを生きる若い世代に「これだけは」伝えておきたい大切なことが詰まっています。
何が大事なのかは、読むそれぞれの人が感じ取って、大事に育てていくしかありません。
私がここでおせっかいにも「これとこれとこれ」などと指摘するつもりもありません。
ただ、映画を観て、主人公のマヒトがこの本を読んで泣いていた場面はこの箇所かなと思うところがあり、そこはまた私が再読して一番感じ入ったところでもあったので、ここに記しておきます。
それはコペル君(本名は潤一君)のお母さんが編み物の手を止めないまま、熱を出して伏せってしまったコペル君に対して語るところです(247ページ14行〜248ページ9行)。
「潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。
でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは、そう、誰かがきっと知ってくれます。
人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう」
このお母さんの言葉に触れただけで、ああ買って読んでよかったと思えます。
さすがお母さん!と言うべきか、母親ならではの強さというか。おじさんはおじさんで、甥っ子のコペル君に対する愛情も言葉も噛み砕いて伝えてはいるのですが。
そうそう、なんで「コペル君」なのでしょうか?
これはこの本の冒頭に出てきますが、かなり深い意味があります。
コペルニクスは、地動説(地球が太陽の周りを回っている)を唱えた人として知られています。今では小学校で教えられるような「当たり前」の科学的事実ですが、コペルニクスの生きていた時代では天動説(地球が宇宙の中心にある)が「当たり前」の常識でした。
なぜ潤一君がコペル君とおじさんに言われるようになったのか。それはコペル君が、人間を一つの分子として初めてとらえることができたから。その大事な初体験をおじさんが忘れないようにと思ってコペル君と名付けました。
じゃあ、自分もまた人間という分子の一つに過ぎないという発見がなぜ大事なのか?
それは、この本の肝にもなっています。
子どものとき、自分の家族や学校だけが世界の全てだと感じてはいなかったでしょうか?
世界の理解の仕方はどうだったでしょうか?
「私が思っていること」が全てではなかったでしょうか?
いくつかの出来事を通して「私にはこの世界に居場所はない」とその人が思えば、実際にその人の世界はそうなる。
でも、「本当に」そうなのでしょうか?
私もまた地球にさまよう一つの分子にすぎない。と心から思えたとき、その人に何が起きているのでしょうか?
私が、そんな感じになるのはどんなときだろう? と思います。
海を見ているとき、星を眺めているとき、草花を撮っているとき、走っているとき、温泉に入っているとき、音楽に身を任せているとき、また本を読んでいるときもそうかも知れません。
そのとき、「私が思う世界」などなくなり、直に世界と触れている実感がある。そんないわば社会的に無になる体験が、社会的な役割を負っている私を支えている。
人に社会的認識を可能にするためには、まずこの私から離れて、一つの分子になる必要があるということ。
この主観と客観の反転を行き来できること、それが人の成長には欠かせない。
と、おじさんは言っているのかなと私は思いました。
で、実際に、天動説から地動説への移行というのは、「本当に」もうとっくに完了していることなのでしょうか?
教科書にも載っているし当たり前じゃん!と思っている人がほとんどかも知れません。私も再読するまでそう思ってました。
が、違うのです。とっくに移行完了などしていない。いまだに、現在進行形の課題なのでした。
天動説とは、要するに、自分が中心となった世界の理解の仕方です。いわば自分を固定化し、正当化し、その地面が常に動いているなど考えもしなければ、自分より大きな存在があることなど想定もしません。常に自分が王位にあるためにあらゆる出来事を歪曲化して慣らしてしまう暴力性に支えられています。
と言ってみて、ハッとしないでしょうか?
今だって、天動説に住む人たちはいる。
おじさんが「コペル君」と呼びかける中には、人はいつだって地動説から天動説に戻ってしまうことすらあるんだよ、と言っているように聞こえます。
だからこそ、「今」だったんだな、と思います。
今、再読できてよかった。
自室の本棚にこの本を置き、もう忘れまい、と思う。
でも、人は忘れる。だから、本棚に本は必要なのですね。
吉野源三郎 著/岩波文庫/1982
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