泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

小僧の神様

2015-02-08 12:13:27 | 読書
 

 何年ぶりの再読でしょうか?
 再読というか、書き写しをしました。
 文章の力を上げるためにはなんでもやる。
 その一つとして模写がありました。
 執筆中の作品は、プロ作家による講評や、友人知人の読みの反応によって、加筆修正中。
 応募まで時間はあり、次作を模索しつつ形にはならず、今というタイミングで、前からやりたかった模写に取りかかった。
 それは『小僧の神様』でしかなかった。どうしてでしょう?
 書いていてわかったことがあった。
 作者の志賀直哉は、単語の一語に至るまで、細かく使い分けをしていた。
 例えば、「思う」と「想う」と「考える」。
 みなさん、どのように使い分けているでしょうか?
 私が感じ取った志賀直哉の使い分けはこう。
・思う:具体的な物事を体全体を使って吟味しているが、映像は伴わない。
・想う:特定の誰かや物と結びついていて、はっきりした映像がある。
・考える:特に物事の良しあしについて頭で判断しようとしている。
 一つの言葉の背景にある質感やイメージをつかむことの大切さを味わった。
 また自分の癖も気づく。
 例えば、「小僧」の「僧」を、なぜか私は「憎」と何度も書いていた。
 勝手な思い込みは怖い。私の心には、「僧」より「憎」が多いのかとおののいた。
 また話の全体として、とても短く、腹を空かせた小僧さんが、見ず知らずの人におごってもらい、その人を神様だと思う話だと思っていた。
 けど、それだけじゃなかった。
 おごった人は国会議員らしく、小僧さんにおごってさぞ満足したかと思いきや、後味の悪さを長く感じていた。
 その後味の悪さが何なのか、結局わからないまま忘れていくのだけど、簡単ではない人がそこにいた。
 小僧さんも、いつか苦しいとき、誰かはまた私の前に現れて助けてくれると信じるようになっていた。
 その希望の生成を作者は描きたかったのだと思った。
 原稿用紙にして18枚。
 勢いに任せるのではなく、細部を具体的客観的に描く。
 その力をもっとつけたいと思い、書かれたがっている物語が、少し近づいてきたように感じます。

 志賀直哉著/新潮文庫/1968

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