短いけれど体に残る小説。
13歳の時の事件をきっかけに、クヌルプは生涯旅の人となった。人を心から信頼することができず、誰よりも頭がよく、快活で、上手に踊ることもできるのに、定職を待たず、妻子を持たなかった。旅の行く先々に彼の友人はいて、彼を喜んで迎える。しかし、「お前は誰よりも優れた人間だった。ひとかどの人間になれただろうに。定職と妻子さえ持てば。かわいそうに」と言われてしまう。彼は笑ってやり過ごすけれど、本当にこれでいいのか、なんで俺はこんなにバカだったのかと人知れず自虐もする。娘さんも大好きで、すぐに持ち前の社交術、口笛、歌で仲良くなるけど、彼は旅に出る。それ以上はだめだと、彼の掟が彼を縛る。「フーテンの寅さん」に似ているかもしれない。
実はクヌルプにも妻子がいた。しかし妻リーザベトは病死した。男の子は、他の家族に育ててもらっていて、会うことができない。
クヌルプは自分が肺病にかかり、死期の近づいているのを感じ、もう一度故郷に帰りたいと望む。途中、同級生と再会する。その人は今では医者になっていた。泊めてもらい、入院の手続きも手配してもらい、夜、思わずあの13歳の出来事を友に語る。13歳のクヌルプはフランチスカという名の年上の女性に一目ぼれする。一心に付き合いたい。彼女に申し出ると、「学生なんてだめ、一人前の大人の職人じゃなきゃ」と言う。クヌルプは真に受けて学校を辞め、職人の道に入る。約束を守った彼はフランチスカに会いに行く。と、彼女はベンチに職人の男に手を回されてべったりと寄り添って座っていたのだった。クヌルプは、あらゆるものを放棄した。何も信じられなくなった。当てのない放浪生活が始まった。処世術だけは身についた。それなりに楽しくもあった。しかし40歳を迎え、病も得た彼は、ただ一人、孤独だった。
故郷の病院に入院するはずだったクヌルプは、病院には行かない。しんしんと雪の降る森にさまよう。新雪の上に血を垂らしながら、彼は神さまと対話する。そこがラストシーンなのですが、何とも言えないくらいに美しい。悲しい。温かい。ちょっとだけ、引用してみます。
「私はなんと悪いやつだったことでしょう!」と彼はまた嘆きはじめた。「ほんとに、リーザベトが死んでから、私も生きていてはならなかったのでしょう」
しかし神さまは彼が話しつづけるのを許さなかった。明るい目で見ぬくようにクヌルプを見つめて、ことばをつづけた。「おやめ。クヌルプ! おまえはリーザベトをたいそう悲しませた。それに相違ない。だが、おまえもよく知っているとおり、あの子はおまえから悪いことより、やさしいこと美しいことをよけい受け取った。それで片ときでもおまえを恨んだことはない。子どもみたいなやつだな、おまえは今でもまだ、そういうすべてのことの意味が何であったか、わからないのかい? おまえはいたるところに子どもの愚かさと子どもの笑いを少しばかり持ち込んでゆくことができるためにこそ、のんき者に浮浪者にならねばならなかったことが、わからないのかい? いたるところで人々が少しばかりおまえを愛し、からかい、少しばかりおまえに感謝せずにはいられないようにと、そのためだったことがわからないのかい?」
「せんじ詰めるとその通りです」とクヌルプはしばらく黙っていてから小さい声で認めた。
「しかし、それもみな昔のことでした。あのころは私もまだ若かったのです! なぜ私はあんなにたくさんのことから何ひとつ学ばなかったのでしょう? まともな人間にならなかったのでしょう! まだその時間はあったのに」
雪がちょっとやんだ。クヌルプはまたちょっと休んで、帽子と服から厚い雪を払い落そうとした。しかし、それができなかった。心がうつろになって疲れていた。今は神さまが彼のすぐ前に立っていた。その明るい目が大きく開かれて、太陽のようにかがやいた。
「さあ、もう満足するがいい」と神さまはさとした。「嘆いたとて何の役にたとう? 何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとにわからないのかい? ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊でも読む身になりたいのかい? そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」(110-111ページ)
ぼくの大好きなヘッセの文学のテーマとは、「おまえ自身のあるところのものになれ」ということでした。
間違いだらけのぼくは、だからこそヘッセを読んできた。20代前半、そして再び30代前半で。
ヘッセに遅れて、ぼくは17歳で初恋に破れた。人間不信に陥り、ただ故郷から出たくて仙台に旅たった。入学した理学部がどうしても合わず、文学への思いが高まるばかりで、強引に文学部に転学もした。もう一歩で退学するところだった。ヘッセは神学校を退学した。職人見習いになった。おそらく、多くの人々の憐みの眼差しの下で。古書店で働き、新刊書店でも働いた。27歳で『郷愁』が売れて作家になった。ヘッセに続いてかろうじて大学を卒業したぼくは書店で働き始めた。カウンセリングに通いつつ、詩、小説を書いた。書店の正社員になることを拒み続けている。書いて読む時間を確保したいがために。そしてぼくは、まだ作家以前だ。
ただ大学卒業からこの春で丸10年になる。10年経って、やっと大学時代のことがまともに書けるようになった。なんという時間差。
仕事においても恋愛においても、一つ集大成を、と思う。
それは一つの時代の終わりであって、次の時代の始まり。
ぼくもまたアウトサイダー。どの職場にいったって、結局ははぐれてしまうだろう。読み書きの時間が、最も幸せなのだから、どうしようもない。
嘆いたところで何にもならない。「おまえ自身のあるところのもの」にしかなれない。そしてそのことにこそ固有の価値があり、生まれてきた意味がある。
カウンセリングに通って学んだこともまた、結局は「おまえ自身のあるところのもの」になることが最も幸せであるということ。そう生まれ持ち、成長していくようにできているということ。
しかし、なんて「おまえ自身のあるところのもの」になっていくことが苦しいことか、迷うことか。
この道に、似た人はいても、先人は一人もいない。
異動の季節になるといつも不安が増幅する。自殺は3月が最も多いというのも肯ける。
クヌルプは、命をもって大切なものを示してくれた。ヘッセやクヌルプから見れば、今生きているもの、ぼくは未来だ。読むことが欠かせない。この本を手放すことができない。
ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳/新潮文庫/1970
13歳の時の事件をきっかけに、クヌルプは生涯旅の人となった。人を心から信頼することができず、誰よりも頭がよく、快活で、上手に踊ることもできるのに、定職を待たず、妻子を持たなかった。旅の行く先々に彼の友人はいて、彼を喜んで迎える。しかし、「お前は誰よりも優れた人間だった。ひとかどの人間になれただろうに。定職と妻子さえ持てば。かわいそうに」と言われてしまう。彼は笑ってやり過ごすけれど、本当にこれでいいのか、なんで俺はこんなにバカだったのかと人知れず自虐もする。娘さんも大好きで、すぐに持ち前の社交術、口笛、歌で仲良くなるけど、彼は旅に出る。それ以上はだめだと、彼の掟が彼を縛る。「フーテンの寅さん」に似ているかもしれない。
実はクヌルプにも妻子がいた。しかし妻リーザベトは病死した。男の子は、他の家族に育ててもらっていて、会うことができない。
クヌルプは自分が肺病にかかり、死期の近づいているのを感じ、もう一度故郷に帰りたいと望む。途中、同級生と再会する。その人は今では医者になっていた。泊めてもらい、入院の手続きも手配してもらい、夜、思わずあの13歳の出来事を友に語る。13歳のクヌルプはフランチスカという名の年上の女性に一目ぼれする。一心に付き合いたい。彼女に申し出ると、「学生なんてだめ、一人前の大人の職人じゃなきゃ」と言う。クヌルプは真に受けて学校を辞め、職人の道に入る。約束を守った彼はフランチスカに会いに行く。と、彼女はベンチに職人の男に手を回されてべったりと寄り添って座っていたのだった。クヌルプは、あらゆるものを放棄した。何も信じられなくなった。当てのない放浪生活が始まった。処世術だけは身についた。それなりに楽しくもあった。しかし40歳を迎え、病も得た彼は、ただ一人、孤独だった。
故郷の病院に入院するはずだったクヌルプは、病院には行かない。しんしんと雪の降る森にさまよう。新雪の上に血を垂らしながら、彼は神さまと対話する。そこがラストシーンなのですが、何とも言えないくらいに美しい。悲しい。温かい。ちょっとだけ、引用してみます。
「私はなんと悪いやつだったことでしょう!」と彼はまた嘆きはじめた。「ほんとに、リーザベトが死んでから、私も生きていてはならなかったのでしょう」
しかし神さまは彼が話しつづけるのを許さなかった。明るい目で見ぬくようにクヌルプを見つめて、ことばをつづけた。「おやめ。クヌルプ! おまえはリーザベトをたいそう悲しませた。それに相違ない。だが、おまえもよく知っているとおり、あの子はおまえから悪いことより、やさしいこと美しいことをよけい受け取った。それで片ときでもおまえを恨んだことはない。子どもみたいなやつだな、おまえは今でもまだ、そういうすべてのことの意味が何であったか、わからないのかい? おまえはいたるところに子どもの愚かさと子どもの笑いを少しばかり持ち込んでゆくことができるためにこそ、のんき者に浮浪者にならねばならなかったことが、わからないのかい? いたるところで人々が少しばかりおまえを愛し、からかい、少しばかりおまえに感謝せずにはいられないようにと、そのためだったことがわからないのかい?」
「せんじ詰めるとその通りです」とクヌルプはしばらく黙っていてから小さい声で認めた。
「しかし、それもみな昔のことでした。あのころは私もまだ若かったのです! なぜ私はあんなにたくさんのことから何ひとつ学ばなかったのでしょう? まともな人間にならなかったのでしょう! まだその時間はあったのに」
雪がちょっとやんだ。クヌルプはまたちょっと休んで、帽子と服から厚い雪を払い落そうとした。しかし、それができなかった。心がうつろになって疲れていた。今は神さまが彼のすぐ前に立っていた。その明るい目が大きく開かれて、太陽のようにかがやいた。
「さあ、もう満足するがいい」と神さまはさとした。「嘆いたとて何の役にたとう? 何ごとも良く正しく運ばれたことが、何ごとも別なようであってはならなかったことが、ほんとにわからないのかい? ほんとにおまえはいまさら紳士や職人の親方になり、妻子を持ち、夕方には週刊でも読む身になりたいのかい? そんな身になったって、おまえはすぐまた逃げ出して、森の中でキツネのそばに眠ったり、鳥のわなをかけたり、トカゲをならしたりするのじゃないだろうか」(110-111ページ)
ぼくの大好きなヘッセの文学のテーマとは、「おまえ自身のあるところのものになれ」ということでした。
間違いだらけのぼくは、だからこそヘッセを読んできた。20代前半、そして再び30代前半で。
ヘッセに遅れて、ぼくは17歳で初恋に破れた。人間不信に陥り、ただ故郷から出たくて仙台に旅たった。入学した理学部がどうしても合わず、文学への思いが高まるばかりで、強引に文学部に転学もした。もう一歩で退学するところだった。ヘッセは神学校を退学した。職人見習いになった。おそらく、多くの人々の憐みの眼差しの下で。古書店で働き、新刊書店でも働いた。27歳で『郷愁』が売れて作家になった。ヘッセに続いてかろうじて大学を卒業したぼくは書店で働き始めた。カウンセリングに通いつつ、詩、小説を書いた。書店の正社員になることを拒み続けている。書いて読む時間を確保したいがために。そしてぼくは、まだ作家以前だ。
ただ大学卒業からこの春で丸10年になる。10年経って、やっと大学時代のことがまともに書けるようになった。なんという時間差。
仕事においても恋愛においても、一つ集大成を、と思う。
それは一つの時代の終わりであって、次の時代の始まり。
ぼくもまたアウトサイダー。どの職場にいったって、結局ははぐれてしまうだろう。読み書きの時間が、最も幸せなのだから、どうしようもない。
嘆いたところで何にもならない。「おまえ自身のあるところのもの」にしかなれない。そしてそのことにこそ固有の価値があり、生まれてきた意味がある。
カウンセリングに通って学んだこともまた、結局は「おまえ自身のあるところのもの」になることが最も幸せであるということ。そう生まれ持ち、成長していくようにできているということ。
しかし、なんて「おまえ自身のあるところのもの」になっていくことが苦しいことか、迷うことか。
この道に、似た人はいても、先人は一人もいない。
異動の季節になるといつも不安が増幅する。自殺は3月が最も多いというのも肯ける。
クヌルプは、命をもって大切なものを示してくれた。ヘッセやクヌルプから見れば、今生きているもの、ぼくは未来だ。読むことが欠かせない。この本を手放すことができない。
ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳/新潮文庫/1970
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