奈良博三昧 「重文 文殊菩薩像」
1幅
絹本 著色 金泥 掛幅
縦90.8 横41.6
絵画
南北朝時代 14世紀
建武元年 1334
絹本 著色 金泥 掛幅
縦90.8 横41.6
絵画
南北朝時代 14世紀
建武元年 1334
銘 文
文観賛「文殊法常爾/法王唯一法/一切無爲人/一道出生死」、文殊種字「マン」、図左辺紀年銘「建武元六月九日相當悲母聖靈第三七日奉圖之〈文観花押・梵字〉」 |
奈良博収蔵品データーベースから「文殊菩薩は、普賢(ふげん)菩薩と共に釈迦如来(しゃかにょらい)の脇侍(きょうじ)とされるほか、単独にも広く信仰されている。この図では、文殊の乗物である獅子(しし)の背上の蓮華座(れんげざ)に坐り、右手に剣、左手に経典を載せた蓮華を執り、頭には五つの髻(もとどり)を結んでいる。密教における文殊の髻の数が一・五・六・七の四通りあるうちの一つで、最も普通に行われた形である。本来は数によって祈りの目的が異なり、五髻像は息災を祈るものであるが、この図は特殊な意味を持っている。図中に墨書があり、上部のは文殊を表す梵字と文殊を讃える語であるが、左下には「建武元年六月九日相当悲母聖霊第三七日奉図之」とあり、その右の二字は、後醍醐天皇の信任を得たことで知られる文観房弘真(もんかんぼうこうしん)(一二七八~一三五七)を示す。すなわち、建武元年に弘真が亡母の三七日(みなぬか)にあたり冥福を祈って作った図であるとわかる。弘真は若年時から文殊と観音への信仰が篤く、文観という房号はそこから来ているが、特に文殊については、日課として像を墨描きしたものも遺っている。そのようなわけでここでも文殊に祈っているのであり、このほかに五七日の際の八髻文殊像も他所に伝わっている。忌日毎に丁重に祈りが捧げられたのであろう。高名な僧の、母への私的な思いが籠められた画像として、味わい深い作品である。
(中島博)
平成十二年度国立博物館・美術館巡回展 信仰と美術, 2000, p.14 」
(中島博)
平成十二年度国立博物館・美術館巡回展 信仰と美術, 2000, p.14 」