光回線
愛知北西部、今日は朝のうちは天候が良かったが、午後から曇り気温も低かった。
頼んであった光回線の工事をする人が朝から3名来た。
工事と言っても大したことはないと思っていたがゴンドラ車が来て電柱から本格的にケーブルを引着込んだ。
屋内にはこれまでの電話回線のパイプを利用して光ファイバーを引き込んだ、今まであったモジュラーのところにうまく引き込む事が出来た、従来のワイヤーも残してあるので必要な時は利用できる。
工事が終わると今度は交換機のセットアップを行う人が来た。契約ではパソコン1台の接続を行ってくれることとなっていた。これまでは無線を使っていた、そのまま無線も利用できるし勿論ケーブルも利用できる。
引き込み工事費用として3000円、セットアップ費用として1000円というものだが、これだけの人が来てこの費用では安いと思うし、その他の特典がいっぱいあってパソコン購入時の値引きがあるが、これらは利用料で十分回収できるのだろう、契約は2年、それより早くキャンセルするとペナルティーをとられる事となっている。
通信速度は速い、今後料金はどの程度になるのだろう?
食と生
地震で避難している時、もうこれで人生お終いなのかと思った。その前夜 Iちゃんと楽しい食事をした、よく最後の晩餐と言うがタイミング良くあれがおいちゃんにとって最後の晩餐会だったのかと思った。人はもう最後かもしれないという時何を考えるか何か食べる事を考えるものか?家族や恋人のことか?
父親は93歳で他界した、もう臨終に近い時、子供の誰かが話かけた、なにかしてほしいことはないか?、父は言った「なにかうまい物を食べさせてくれ」 もう物を飲み込む力もないというのに・・・
戦時中の夢の中をさまよっていたのだろうか?
言うまでもなく食は生に直接結びついている、後々なんであんなことを言うのか考えてみた。
父は戦争を体験した、戦地での飢餓、運よく帰っては来たが手術が必要な胃の大病をしたこの時の食への制限、終戦後の困窮生活 子供5人と両親、そしておいちゃんが中学の時、祖父母が住んでいた別宅が火元で火災を起こした、この時は10所帯位焼けだしてしまった、幸いにも人身はなかった。現在のように火災保険制度も浸透している訳でもなく、家長に対する風当たりは相当なものだったであろう、色んな手を尽くして弁償もしたのであろう。しかし父はへこたれることなくその後も毅然として生きた。
田舎独特のものかもしれないが、親戚の家など遊びに行くとそこのおばあちゃんが、おまえはご飯は食べたか、もっといっぱい食べろといつも言う、これは人をもてなす心と、子供たちに対する愛なのだろうか。
現代の子供はお母さんが食べ物を持っておっかけまわして食べさせている。
おいちゃんのふるさとは四国の山の中である。幼少のころ姉などに聞いた話ではあるが、この山間地では、人が亡くなった時お悔やみの挨拶に、「お米も振ったけど命が尽きたようだが御気の毒だ」というような意味のことばをかけたという。
このお米を振るというのは、竹の筒の中にお米を入れて、病人の耳元でお米の音を聴かせる。それを食べたいために死に近い者が元気が出るのではと言うものだろう。いろんな手を尽くし、さらにまたこのような行為までしても命が持たなかったというもの。
小心者のおいちゃんはこの話は今まで外部の人にしたことはなかった、恥だと思った。
宮本 常一という人が戦中、戦後日本中を歩きまわって色んな土地、人から語り継がれる民話や昔話などを書き留めたいわゆる民族史を最近読んだ、驚いたのは、東北地方だったと思うがこの本の中に全く同じような記述があった。よく考えるとこの話はなにか宗教的な儀式か単なる民話かとも思ったが必ずしもそうでもないと思う、こういった地域の昔は水田は少なく、主食は山地でも収穫できる、稗や粟や蕎麦などであったのだ。米がどれだけ貴重な食料であったかは推測できる。
これは、そんなに昔の話ではない、おじいちゃん、おばあちゃんの時代だ。
今回のように非常事態になった時、特にこれに近い時代に育った母親達は子供の命を守り、女は家族を守る行動をとる、あなたは飢餓を経験したことがあるか?明りのない夜を何日も過ごしたことがあるだろうか?
非常事態にスーパーの米やパンや電池を一生懸命買い集める行為を誰が非難できようか、これは暖かく電気のつた部屋で理性をもって考える事ではなく、このような経験を持つ人達の脳の中にしっかりと書き込まれた細胞がそうさせる。理屈ではないのである。
Iちゃんは、さわやかでとても元気な人である。務めた会社が倒産し失業しても、地震がきて影響を受けようとも、男と別れようとも元気に前向きに生きている、また上京したら是非食事にでも行こう。食は元気の元である。
愛知北西部、今日は朝のうちは天候が良かったが、午後から曇り気温も低かった。
頼んであった光回線の工事をする人が朝から3名来た。
工事と言っても大したことはないと思っていたがゴンドラ車が来て電柱から本格的にケーブルを引着込んだ。
屋内にはこれまでの電話回線のパイプを利用して光ファイバーを引き込んだ、今まであったモジュラーのところにうまく引き込む事が出来た、従来のワイヤーも残してあるので必要な時は利用できる。
工事が終わると今度は交換機のセットアップを行う人が来た。契約ではパソコン1台の接続を行ってくれることとなっていた。これまでは無線を使っていた、そのまま無線も利用できるし勿論ケーブルも利用できる。
引き込み工事費用として3000円、セットアップ費用として1000円というものだが、これだけの人が来てこの費用では安いと思うし、その他の特典がいっぱいあってパソコン購入時の値引きがあるが、これらは利用料で十分回収できるのだろう、契約は2年、それより早くキャンセルするとペナルティーをとられる事となっている。
通信速度は速い、今後料金はどの程度になるのだろう?
食と生
地震で避難している時、もうこれで人生お終いなのかと思った。その前夜 Iちゃんと楽しい食事をした、よく最後の晩餐と言うがタイミング良くあれがおいちゃんにとって最後の晩餐会だったのかと思った。人はもう最後かもしれないという時何を考えるか何か食べる事を考えるものか?家族や恋人のことか?
父親は93歳で他界した、もう臨終に近い時、子供の誰かが話かけた、なにかしてほしいことはないか?、父は言った「なにかうまい物を食べさせてくれ」 もう物を飲み込む力もないというのに・・・
戦時中の夢の中をさまよっていたのだろうか?
言うまでもなく食は生に直接結びついている、後々なんであんなことを言うのか考えてみた。
父は戦争を体験した、戦地での飢餓、運よく帰っては来たが手術が必要な胃の大病をしたこの時の食への制限、終戦後の困窮生活 子供5人と両親、そしておいちゃんが中学の時、祖父母が住んでいた別宅が火元で火災を起こした、この時は10所帯位焼けだしてしまった、幸いにも人身はなかった。現在のように火災保険制度も浸透している訳でもなく、家長に対する風当たりは相当なものだったであろう、色んな手を尽くして弁償もしたのであろう。しかし父はへこたれることなくその後も毅然として生きた。
田舎独特のものかもしれないが、親戚の家など遊びに行くとそこのおばあちゃんが、おまえはご飯は食べたか、もっといっぱい食べろといつも言う、これは人をもてなす心と、子供たちに対する愛なのだろうか。
現代の子供はお母さんが食べ物を持っておっかけまわして食べさせている。
おいちゃんのふるさとは四国の山の中である。幼少のころ姉などに聞いた話ではあるが、この山間地では、人が亡くなった時お悔やみの挨拶に、「お米も振ったけど命が尽きたようだが御気の毒だ」というような意味のことばをかけたという。
このお米を振るというのは、竹の筒の中にお米を入れて、病人の耳元でお米の音を聴かせる。それを食べたいために死に近い者が元気が出るのではと言うものだろう。いろんな手を尽くし、さらにまたこのような行為までしても命が持たなかったというもの。
小心者のおいちゃんはこの話は今まで外部の人にしたことはなかった、恥だと思った。
宮本 常一という人が戦中、戦後日本中を歩きまわって色んな土地、人から語り継がれる民話や昔話などを書き留めたいわゆる民族史を最近読んだ、驚いたのは、東北地方だったと思うがこの本の中に全く同じような記述があった。よく考えるとこの話はなにか宗教的な儀式か単なる民話かとも思ったが必ずしもそうでもないと思う、こういった地域の昔は水田は少なく、主食は山地でも収穫できる、稗や粟や蕎麦などであったのだ。米がどれだけ貴重な食料であったかは推測できる。
これは、そんなに昔の話ではない、おじいちゃん、おばあちゃんの時代だ。
今回のように非常事態になった時、特にこれに近い時代に育った母親達は子供の命を守り、女は家族を守る行動をとる、あなたは飢餓を経験したことがあるか?明りのない夜を何日も過ごしたことがあるだろうか?
非常事態にスーパーの米やパンや電池を一生懸命買い集める行為を誰が非難できようか、これは暖かく電気のつた部屋で理性をもって考える事ではなく、このような経験を持つ人達の脳の中にしっかりと書き込まれた細胞がそうさせる。理屈ではないのである。
Iちゃんは、さわやかでとても元気な人である。務めた会社が倒産し失業しても、地震がきて影響を受けようとも、男と別れようとも元気に前向きに生きている、また上京したら是非食事にでも行こう。食は元気の元である。
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