The Notebook Of Things I Don’t Know About

日々遭遇した出来事について、あれこれ考え、想像してみる。
ユーモアを添えて...。

人生とは自転車のようなものだ...

2010年08月26日 08時07分38秒 | 人々
福岡先生もアインシュタインと同様に

 『生命は、必死に自転車をこいでいる。』

と表現した。先生がアインシュタインを意識して、そう表現したのかどうかはわからない。主語が『生命』と『人生』の違いがあるが、英語ではどちらも『LIFE』というのもおもしろい。

人それぞれペダルをこぐスピードは違うだろう。乗る自転車のタイプも、24段変速仕様のギア装備のロードレーサータイプ、およそどんな悪路でも走破できるMTBタイプ、街乗りシティーサイクルやママチャリタイプもあるだろう。

もちろん目的地も違えば、経由地も、休憩場所も。何人かと一緒に走るのか、それとも一人で走るのか、いろいろだ。

いろいろなパターンはあれど、立ち止ってしまっては自転車は転倒するだけ。ふらふらとよろめきながらでも、右左に行こうが、走っていた道を逆走することになろうが、立ち止まることは、立ち止まることだけは、なんとしても避けないとね。それが生命の本質であり、立ち止まらないのが生物の生物たる所以。僕らを形作る細胞の一つ一つは決して止まることは無い。常に外界から何かを得て、外界へと何かを廃棄する。自らを立ち止まらないようにするために、あるときは自らを自滅させ、そして新たに再生する。

でも人間は頭でっかちだから、僕らの行為を自らによって、止めてしまうこともある。それは動物としては〝死〟を意味する行為なのかもしれない。なんとしてで立ち止まらないように、動き続ける、これが僕らの動物であるための礼儀作法なんだと思う。

最近大学の友達に自作のコンピレーションCDをつくってあげた。その時ジャクソン・ブラウンの曲を入れた。『doctor my eyes』にするか『Running On Empty(孤独のランナー)』にするのか迷ったけれど、結局はdoctorのほうにした。ノリが多少明るいからね。

ジャクソン・ブラウンは1977年29歳の時に『Running On Empty(孤独のランナー)』で、人生を道にたとえ、アインシュタインや福岡先生の〝自転車〟ではなく〝自動車(アメリカらしいね)〟で人生を走ることで歌を表現した。その歌の中では、何のために走っているのかわからない焦燥感や、誰かに遅れをとっているという焦りというものが感じられる。

僕にとっては29歳はもうずっと過去のこと。今、現在この歌に表現されるほどの、痛いほどの焦燥感は僕には無いにしても、このときのジャクソン・ブラウンのように(目的がわからなくとも)ただ、ひたすら走り続けていたいと思う。まだ41歳だしね。

 


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