ソローは奴隷制度とメキシコ戦争に抗議するため、人頭税の支払いを拒否して投獄されたことがあり、その様子は「市民的不服従」としてマハトマ・ガンディーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動などに思想的影響を与えた。(ウィキペディア)
だそうだ。知らなかった。
僕の子どもの頃に比べ、現在はどれほど便利な〝道具〟に囲まれていることだろうか!今使ってるPCもないし、今聴いてるカリフォルニアのFM局KCSM JAZZ91.1の番組だってインターネットもないから聴けないし、プリンターも食洗機もCDも携帯も...あ-、キリが無い。ソローが生きていた19世紀中ごろと比べると、おそらく想像を超えるほどの便利なものに囲まれて僕は暮らしている。
世の中は日々、効率的になり便利な物、便利なシステムにあふれていく。いろいろなことを工夫し、より良いものを求める、これは生物の中で〝人間〟だけが持ちえることができた、ひとつの特徴といって良いのかもしれない。他の生物は生きていくために本能に従うところにより〝効率的〟な手段をとるけれども、本能を超えてところで創意工夫をし、効率を求めることはしない(のだと思う。)
便利になるということは、本来時間がかかって行ってきたことが、効率的に行うことができるようになり、いろいろなことに使える自由な時間が増えるはずだった。たとえば、読書やコンサートや映画を見たり、絵画を描いたり、楽器を演奏してみたり、友人と語らい、家族との時間が増え、野山に繰り出し自然を愛でるなんてことが、たくさんできるようになるはずだったのに...。
知的な文化や自然とと戯れる時間は、便利になったことで充実するはずだったのに、節約された時間ほどには、増えていない気がする。企業でのたとえをあげるとすると、新しいテクノロジーの導入は、より効率的に仕事を行うために行われるのに、結局は労働時間は短縮されることは無い。むしろそのツールを使いこなすことにより、ますます忙しくなるというパラドキシカルな状態に陥っている(ような気がする。)
便利になるのは当然、いいことなんだけれども問題はどこにあるのだろう?
ヘンリー・デイヴィッド・ソローはこうも言っている。
〝生活のレベルが少し下がっても、心の豊かさがもう一段だけ向上すれば、失うものは何もない。魂が必要としているものを購入するのに、金銭など必要ないのである。〟
魂が必要としているものとは、形の見えないものなのかもしれない。