「大丈夫?濡れていない?」
「うん。大丈夫だよ。あなたは?」
「うん。大丈夫だよ」
「良かった。雨に濡れるからもっとこっちに寄ってね!」
「うん」
雨の雫よりも愛情の強さのほうが勝っていたようです。
「大丈夫?濡れていない?」
「うん。大丈夫だよ。あなたは?」
「うん。大丈夫だよ」
「良かった。雨に濡れるからもっとこっちに寄ってね!」
「うん」
雨の雫よりも愛情の強さのほうが勝っていたようです。
私は個人的に金子 みすずの詩は好きである。彼女の視点はか弱き物にあてられているような気
がする。
それは小さな花だったり、魚だったり、雪であったり、土であったりするのである。
我々が普段、意識しないようなか弱きものを見ている。だから詩がやさしいのであろう。
金子 みすずの生涯
山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭格の男性・宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。
「お魚」
- 海の魚はかわいそう。
- お米は人につくられる、
牛は牧場でかわれてる、
鯉もお池で麩(フ)を貰う。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
「大漁」
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の大漁だ。
濱は祭りのようだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらい
するだろう。
- 「お花だったら」
もしも私がお花なら、
とてもいい子になれるだろ。
ものが言えなきゃ、あるけなきゃ、
なんでおいたをするものか。
だけど、誰かがやって来て、
いやな花だといったなら、
すぐに怒ってしぼむだろ。
もしもお花になったって、
やっばしいい子にゃなれまいな、
お花のようにはなれまいな。