70年目の節目の時に、呼び戻される記憶・・・
少女は、まだ14歳でした。
生まれ育ったのは日本ですが、その時は、満州の女学校に通っていました。
父親は軍人、将校でした。
終戦の時、父親はソ連兵に連行されて、その後シベリア抑留されました。
ソ連とは、今のロシアのことです。
トラックに乗せられソ連へと連行される兵隊さんの中に、父親の姿がありました。
母親が大きな声で「あなた~!」と叫ぶと、父親が気づきました。
トラックが止まり、兵隊さんと家族達が別れを惜しみます。
夫婦は手を取り合い、少女の父親は「しっかり頼むぞ。」と言うと、
軍服に縫い付けてあったお金を取り、妻に握らせました。
少女は自分の家族や他の日本人と共に、ソ連兵に連れられ収容所へ向かいます。
途中、大勢で雑魚寝している夜中に、出入り口に近いところで寝ていた若い女性が、ソ連兵に連れていかれました。
戻ってくると、シクシクと泣いていました。
翌日の夜から、その場所に寝たのは、別の女性達。
「あたしゃ、商売でやってるから平気だよ。奥さん、奥に寝ていなさい!」
慰安所で働いていた女性達が、一般の奥さん達を奥に寝かせて、自分達がソ連兵の相手をしたのです。
慰安婦は、もちろん日本人です。
その行為は、そ~っと秘密裏に行われたました。
捕虜の婦女子を手にかけるのは、国際法に抵触するからです。
捕虜の女達は、生き延びるので精一杯。
兵士に凌辱されても、文句を言うことなど出来ません。
満州とソ連の国境近くに居た人々も、ひどい目にあったそうです。
少女は、収容所に辿り着いた人の話を聞きました。
ソ連兵に追われて、沼に逃げ込んだ集団の中で、乳飲み子が泣き始めてしまいました。
このままでは、見つかってしまう。
周りの人たちが、乳飲み子を抱いた母親を睨みつけます。
みな、捕まれば殺される、と思っているのですから、仕方ありません。
母親は、涙を流しながら、自分の子供を水に沈めたそうです。
鳴き声を、追っ手に聞かれないように・・・
そんなことをする必要は、無かったのでしょう。
でも、逃げて居る時の恐怖心は、冷静な判断能力を失わせるのです。
その後、満州の中国人の世話になりながら、帰国の時を待っていた少女。
貧しく、物資の無い状況。
極寒の中、知り合いの日本人は次々に凍死して行き、その遺体を爆撃跡の穴に運び入れました。
凍った土が硬くて穴を掘れないからです。
少女も手伝いました。
3才の妹も死にました。その子の遺体も穴に入れましたが、
土が凍っていて、何も上にかけてやることが出来なくて可哀想だった。
終戦から1年後、やっと引き揚げ船が出ると聞き、少女は家族と共に港に向かいます。
満員の列車に乗って、丸二日かけての辛い旅。
今度は7歳の弟が病に倒れます。
何日も乗船の順番待ちをして、弟はどんどん具合が悪くなって行きました。
「母さんはこの子と残るから、あんた達で船に乗って帰りなさい!」
少女は、2歳下のもう一人の弟と二人で船に乗り、母と下の弟を残して帰国する予定でした。
ところが、出航直前に病の弟が亡くなります。
急いで埋葬して、母親も船に乗りました。
船の中でも、死者が出ました。
皆、水葬・・・死体は、海に捨てられました。
やっとの思いで博多港に着いた少女。
そこから、父親の実家がある北海道へと旅を続けます・・・
父親の実家はお百姓。
少女は、学校に復学することを諦めて、畑仕事を手伝いました。
大地に触れ、自然に囲まれ、作物を育てていると、
辛い思い出に傷ついた心も、なんとか癒されて行きました。
父親は、シベリアの過酷な労働に耐え、26年の刑を10年に減免されて、
抑留から10年経って、無事帰国しました。
その時少女は、長男を産んでいて、父親に孫の顔を見せました。
父親は、帰国出来ずに死んでしまった子供達の面影を、孫に見ていたことでしょう。
その子達が眠っている場所は、もう、分からなくなってしまいました。
少女はその後、さらに3人の子供を産み、4人を育て上げたのです。
生きていたなら自分の兄弟姉妹と同じ人数・・・
男の子二人と女の子二人・・・
少女が生き延びてくれたお蔭で、今の私が居ます。
少女は、私の母・・・今年84歳になりました。