40.連合国の統治方針(続き−3)
日本は、このポツダム宣言を、8月14日に受諾するが、連合国側は日本がこんなに早く降伏するとは考えていなかったようである。
米国は、ポツダム宣言に従わない時を考えて、日本本土上陸作戦を計画していたが、これは未遂に終わった。
40.7.米軍の日本上陸作戦
8月14日、日本は降伏したが、日本が降伏しなかった場合、米軍は日本本土に上陸して地上戦を開始することを計画していた。
日本本土侵攻作戦というのは、1945年4月8日に統合参謀本部で決まっていた。
それは、ダウンフォール作戦と呼ばれ、内容は「南九州の宮崎海岸、鹿児島の志布志湾および吹上浜の3地点から上陸して上陸し航空機の基地を確保する作戦」と、「九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)より関東平野に上陸して首都・東京の制圧を目指す作戦」であった。
そして夫々、九州に上陸する作戦はオリンピック作戦、関東に侵攻する作戦はコロネット作戦と名付けられた。
この作戦はドイツ降伏(1945年5月)後の1カ月後にトルーマン大統領は西の九州から上陸する作戦であるオリンピック作戦を承認した。
この上陸作戦は11月には、ほぼ終了させるというものであった。
続いて、もう一つのコロネット作戦を翌年(1946年)3月ぐらいから開始する計画であった。
サイパンや沖縄戦で頑強に抵抗した日本は本土ではさらに激しく抵抗することを予測しており、日本の降伏は1946年(昭和21年)の秋ぐらいと想定していた。
40.7.1.ダウンフォール作戦
1945年5月末、アメリカ統合参謀本部は「ダウンフォール作戦計画」を正式に認可した。
まず、「オリンピック作戦司令」が発令され、最高指揮官にはマッカーサー陸軍大将が選ばれた。
「破滅」を意味するダウンフォール(DOWNFALLoperation)という暗号名で呼ばれたこの作戦は大きく二つの作戦に分けられていた。
一つは、オリンピック作戦(OLYMPICoperation)で、二つ目はコロネット作戦(CORONEToperation)であった。
ダウンフォール作戦は、すでに1944年にはアメリカを中心に原型ができあがっていた。
そして、1945年になると、作戦の見直し、装備や食料の備蓄が進んでいった。
40.7.1.1.オリンピック作戦
オリンピック作戦は、昭和20年(1945年11月1日)に宮崎海岸(宮崎)、志布志湾および吹上浜(鹿児島)の3地点から上陸して南九州に航空機の基地を確保する作戦だった。
オリンピック作戦においては、主力である陸軍の第6軍57万人(戦闘要員34万人と支援要員23万人)が、上陸部隊として投入される計画だった。
侵攻前から、第3艦隊、第5艦隊、極東航空軍、第8航空軍および第20航空軍による、絶え間ない艦砲射撃や空襲といった緊密な上陸支援が予定されていた。
上陸後の各部隊は、海と空からの支援を受けながら北上して南九州を制圧する。
そこにB29などの航空機基地や海上封鎖のための海軍基地を設営して、コロネット作戦に備える予定だった。
40.7.1.2.コロネット作戦
昭和21年3月1日に九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)より関東平野に上陸して首都・東京の制圧を目指す作戦であった。
陸軍の計画によると、第1軍と第8軍が空海の支援の下で、九十九里浜と相模湾から上陸して、東と西からの挟み撃ちで東京を占領する予定だった。
一部は北上して南北のルートを断ち、日本の増援部隊を阻止する。
上陸開始日の兵力は52万人(戦闘要員36万人と支援要員16万人)、その後のヨーロッパ戦線
からの再配備を含めた総兵力は100万人以上ともいわれている。
侵攻前の180日間、東京湾一帯の防御陣地を艦砲射撃と空襲で壊滅させる計画もあった。
40.7.2.オリンピック作戦の準備
沖縄戦末期の6月18日、トルーマン大統領が主宰した戦略会議において、オリンピック作戦は最終的に承認された。
「沖縄では将兵に35%の死傷者が出た」という報告を受けたトルーマンの懸念は、アメリカ軍の被害予測であった。
しかし、議論の末に「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部の計画にゴーサインを出したのだった。
一方のコロネット作戦は保留状態にされた。
死傷者数はオリンピック作戦のみで13万人、コロネット作戦を合わせると19万人、事故や病気による死傷者まで入れると25万人を超えるという想定もあったからである。
7月に入ると、オリンピック作戦の準備行動が開始された。
第3艦隊は7月10日の東京を皮切りに8月15日まで艦載機空襲と艦砲射撃を行った。
7月30日には浜松や蒲原が、31日には清水が攻撃を受ける。
沖縄に前進基地を確保した極東航空軍は、7月29日の枕崎から8月12日の宮崎までの短期間で南九州の主要な都市を焼き払った。
日本軍の飛行場を無力化し、輸送網と都市を破壊しておくためである。
7月から8月にかけて、陸海軍の各指揮官と部隊、艦隊、航空機、そして物資が続々と沖縄に到着しつつあった。
7月16日、最高の国家機密として進められていた原子爆弾が完成した。
ポツダム会談に出席していたトルーマンは、本土侵攻作戦によって失われる多くの若いアメリカ人の命を救い、ソ連も牽制できる手段として、原子爆弾の使用を決断する。
26日、日本に降伏を求めるポツダム宣言が出された。
8月6日と9日に2発の原子爆弾が投下されて間もなく、日本は降伏する。
その一方で、原爆の投下後も、空襲を含むオリンピック作戦の準備行動は、15日に戦闘中止命令が出る直前まで断続的に続けられていた。
40.7.3.ブラックリスト作戦 ―降伏後の青写真―
ダウンフォール作戦と並行して、日本の早期降伏や突然の崩壊の可能性を想定した作戦もアメリカ軍は計画していた。
ブラックリスト作戦(BLACKLISToperation)という暗号名のこの作戦は、1945年4月頃から計画され、7月にはマッカーサーによる原案が完成していた。
そこには、本土上陸前に日本が降伏した場合に、東京などの重点地域から順に3段階に分けて占領を進めること、アメリカ軍の単独占領であること、間接統治の方法を採ることなど、本土や朝鮮半島の統治に関する基本的な考え方や手順が示されている。
占領軍の総兵力は日本本土が72万人、朝鮮が11万とされた。
糸魚川(新潟)と小田原(神奈川)を結ぶ線より東を第8軍が、静岡を含む西は第6軍が占領する計画だった。
日本の降伏によってダウンフォール作戦が実施されることはなかった。
ブラックリスト作戦に基づいてアメリカ軍は日本本土に無血上陸したのである。
その後もブラックリスト作戦は、戦闘終了後のさまざまな条件の中で見直され、修正を加えながら実施されていった。
想定より1年半も早く日本が降伏したため、連合軍司令部は準備不足のままで日本にやってくることになったのである。
一方、日本は開戦前から、米英とそれなりに戦えるのは、開戦後1年から1年半の間である、と考えていた節がある。
40.7.4.陸軍秋丸機関
昭和16年12月8日、日本は対米・英・蘭に対し開戦布告したが、開戦布告の約半年前、経済力の面から戦力調査を行っていた。
この調査は「経済謀略機関」としてひそかに設立され研究された。
この責任者は、関東軍参謀部付として旧満州国で産業振興にあたっていた秋山次郎であった。
秋山は東京に呼び戻され、研究機関を創設したため、この機関は「陸軍秋丸機関」と呼ばれた。
「陸軍秋丸機関」は、調査研究の結果、英米戦の勝算について「勝ち目なし」とする内容の報告書をまとめた。
この報告書は、陸軍上層部に握りつぶされ、廃棄を命じられたとされていたが、そうではないことが分かった。
この報告書を、秋丸機関のメンバーだった有沢広己(元東京帝国大学経済学部助教授)が保有していた。
有沢が1988年に死去した後、有沢の保有していた書物や資料の大部分が東大経済学部に寄贈された。
その後、整理の際に、秋丸機関の報告書『英米合作経済抗戦力調査(其一)』 および『英米合作経済抗戦力調査(其二)』が発見されたのである。
その報告書に結論として書かれていた要点は次のとおりである。
要点
①英国は大戦を遂行するには供給不足があるが、米国は余裕がある。
両国が手を組めば十分な経済抗戦力があり、第三国にも軍需物資を供給する余力がある。
②ただ、米国が最大の供給力を発揮するには、開戦から一年から一年半かかる。
英国は海上輸送力に弱点があり、月に50万総トン以上の船を繋沈できれば、米国からの援助物資が届かなくなり、英国の抗戦力は急激に低下する。
③ゆえに英国に対しては海上遮断を強化し、植民地に戦線を拡大するのが効果的だ。
対米戦略は対独戦に追い込んで国力を消耗させ、国内に反戦気運を高めて英国、ソ連と離反させるのがよい。
すなわち、開戦から1年半経つと、米国に圧倒されるようになるというのである。
現実はその予測のようになった。現実はその予測のようになった。
開戦から半年後の昭和17年6月4日〜7日に行われた、ミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻、航空機約300機等を失うという大きな損害を受け、以後の作戦の主導権をアメリカ軍に譲り渡すことになった。
続いてガダルカナル島に7月に飛行場を設営してオーストラリアへの前線基地としたが、8月米軍に上陸され占拠された。
奪還を目指したが、米軍に圧倒され翌年2月にガダルカナル島から撤退することになった。
さらに、昭和49年絶対国防圏の太平洋基地であった、サイパン島が陥落した。
このサイパン島の戦いで日本軍は約4万1000人、アメリカ軍は3126人が戦死した。
また、数百人の日本の婦女子を含む民間人が北側の断崖から飛降り自殺したとされている。
恐らく、軍上層部の一部は昭和18年(1943年)の後半は終戦に持って行きたいと考えていたのではないかと思う。
だが、取り巻く環境はそんな雰囲気ではなかったと思われる。
取り巻く環境とは、強硬派の軍部、マスメディア、強気の国民である。
さらに戦況が悪化すると「一撃講和論」なるものが出てきた。
一撃講和論とは、難しい局面にあることは承知しながらも、どこかで相手国に「強力な一撃」を加える。
その上で、少しでも有利な条件を認めさせつつ、講和を結ぶというものである。
しかし、米軍の物凄い攻勢により、戦力は消耗するばかりで、それを補給できる国力はなかった。
一撃を加えるには、特攻しかなかった。
ところが最初は驚愕したこの特攻も、米軍は恐怖を感じながらも用意周到に対応し、思うような被害を与えることができなくなっていった。
いわゆる無駄死にである。
だが、この常識外れの特攻は米軍に恐れを与えた。
この理解不能な日本が本土決戦をそう簡単に諦めるとは思えなかったのである。
だから、7月26日にポツダム宣言が発せられてから、約2週間後の8月14日に日本が「ポツダム宣言」を承諾した事は、米軍にとって意外だったのであろう。
<続く>