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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−87(後醍醐天皇−15 長門探題討伐)

30.3.元弘の乱

 

30.3.13. 長門探題討伐

 

長門探題北条時直

正慶2年/元弘3年(1333年)正月、長門探題北条時直は護良親王・楠木正成を誅伐すべきと関東御教書を受けた。

二月に時直は防長両国の兵を率いて東上の途についたが、備後の海上で村上義弘にさえぎられ、転じて伊予(愛媛)に侵入する。

当時伊予国は京都・鎌倉二派に分かれ、河野通盛は東上して北条氏を援け、 その庶族土居・得能・忽那氏らは京都方の旗を挙げていた。

閏二月、越智郡石井浜に上陸した時直は、自軍内部の不統一によって敗戦退却、ついで三 月、水居津(三井浜周辺)の平井城戦に大敗して、長門へ逃れ還った。


後醍醐帝からの「長門探題討伐の綸旨」

正慶2年/元弘3年(1333年)3月24日、船上山から津和野の吉見頼行に向けて急使を持って、中国探題討伐の綸旨が下る。

「萩藩閥閲録」「吉見家譜」によれば、3月24日、吉見頼行は後醍醐帝から次のような綸旨を賜ったと言う。

今度朝敵高時ヵ一類、北条上野前司直元近日伯州エ発向之由依之使頼行、為被等討手之大将、唯今所被差向也、早引防長芸石之軍士、可致直元征伐之策者也、綸旨如此、仍執達如件

 元弘三年三月廿四日   左少将奉之
  吉見三河守殿

左少将とは、後醍醐帝側臣の公卿将軍千種忠顕の官位名であり、千種忠顕は、後醍醐帝の隠岐の島配流に随従した公卿である。

綸旨の信憑性

綸旨を賜ったのが吉見頼行であるとされているが、吉見頼行の菩提寺である頼行山興源寺の吉見頼行の位牌に「延慶二年(1309年)四月廿八日五十九歳」とある。

また、吉見一族の「岡隆信覚書」にも
「頼行は、延慶2年巳酉4月28日、59歳で死去、墓は源流寺にある」と書かれてある。

頼行は、最初木部木曽野に源流寺を建立したが、 元応2年(1302)津和野に移る折、お寺を中の原に移し、時の住職投舟和尚が、興源寺と改めた。

恐らくこの綸旨は後世につくられた偽物か、あるいは三河守が頼行を指していなかったのであろう。

だが、吉見氏が大将として長門探題北条時直を討伐したのは史実である。

その様子を見ていく。

 

島根懸史によると

後醍醐帝からの綸旨を受けたとき、頼行は老齢(79歳といわれている)でもあり病床にいた。

勅命を拝し、頼行は直ちに自分の子らを枕元に集めて軍議を開いた。

『その方たち力を合せて部署を定め、石見源氏の名に恥じないように、それぞれ綸旨に答えよ』

と、頼行は子供たちに次のように部署を定めさせた。

①四男の四郎頼重入道宗寂(志目河城主)を陸軍の大将とし、五男の七郎を副将にした。

②六男の高津道性長幸(美濃郡高津の小山城主)を水軍の大将に、七男吉見八郎を副将にした。

陸軍は、津和野から長門へ向う。

水軍は高津の浦より兵船数十艘を率い日本海を長門へと向って西進した。

水陸相合して、中国探題を腹背から攻撃する計画を立てた。

「正慶乱離志」

この中国探題討伐を記述した古書に「正慶乱離志」がある。

「正慶乱離志」は京都東福寺の良覚が記した正慶2年/元弘3年(1333年)の見聞記である。


「三月二十四日に、長門の三隅(正明市の東辺)にまで進出した・・・」と、吉見軍の中国探題攻めの記述が始まる。

綸旨の日付が3月24日となっており、どうにも整合性がとれないが、ここはやはり、受け取ったとされる綸旨を疑うしかないようである。

それはさておき、物語を進める。

津和野三本松城を出発した陸軍は長門の三隅に着く。

ここから、南下し大ケ峠を越え、於福に向かった。

これを相討つため、長門探題北条時直は周防、長門の豪族に出兵させた。

厚東と豊田のニ軍が北上する。

3月29日、頼重軍は於福から大嶺に入り、探題軍に遭遇し、合戦が始まった。

頼重軍は探題軍を打ち破り四郎ヶ原に陣した。

時をほぼ同じくして、水軍長幸軍は、現下関吉見湾に入り、副将の吉見八郎が水軍の一部を率いて上陸した。

 

さらに長幸軍は、赤間関(関門海峡)を過ぎ、長府の対岸の刈屋から上陸する。

上陸した長幸軍は、厚東武実の根拠地たる厚東(宇部の西北)を衝いた。

長幸は武実に会い、綸旨を見せて味方になるように勧めた。

武実は、忠誠を誓い、近隣の国々へ呼びかけ、大嶺の由利氏、伊佐の伊佐氏らの二将を味方に引き入れた。


四月一日、頼重軍、長幸軍は長府の探題館に進撃した。 

探題館は用心堅固であり、3日間相持することになった。

九州探題からの応援もあって探題軍も態勢をもりかえすかに見えた。

ところが、 豊田氏が離反し、美祢・厚狭両郡の大半が攻撃軍に加わったので、北条時直はついに探題館を捨て、六波羅に合流しようと、海路をとった。

だが、その途中六波羅の滅亡を聞き、 ひきかえして九州探題に合流しようとする。

しかし、赤間関(下関)で、九州探題英時も自殺したと聞き、ついに五月、 少弐・島津の二氏を頼んで降服した。

 

この功績により建武元年(1334年)2月、高津長幸は従五位播磨権守に叙せられ、頼行は北条時直の旧領長門国阿武郡および周防国佐波郡・山城国久世郡・大和国宇多郡を賜った。

石見高津城

高津長幸は、この後現在の益田市高津に高津城を築いている。

この高津城は建武3年・延元元年(1336年)益田兼弘・吉川経明の連合軍によって落城する。

長幸は後に城を回復したが暦応3年・興国元年(1340年)石見守護上野頼兼が率いる北朝方に攻められ再び落城した。

さらに、戦国時代の文明3年(1471年)に益田貞兼に攻略されたといわれている。

現在、この城跡地に高津柿本神社が建っている。

高津柿本神社は、高津松崎に建っていたが、破損がひどくなっていたため、天和元年(1681年)津和野藩主亀井茲親によって、現在の場所に移築された。

 

後醍醐帝の帰京

六波羅滅亡の報せが、船上山の後醍醐帝に届くと、5月23日後醍醐天皇は船上山を下って帰京の途についた。

隠岐の配所を脱出して 以来三ヶ月、天皇の一身を守りぬいた名和長年とその一族が護衛に任じられた。

 

<続く>

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