14.3. 萬寿津波と渡村の移動
14.3.1 万寿津波の記載や伝承について調査・報告
1.島根県技術士会の児島秀行氏の2012年度島根大学・山陰防災フォーラムで万寿津波の記載や伝承について調査・報告
その一部を次に載せる
万寿津波
万寿津波の記載や伝承の有無を整理した。下図に伝承・遺物の存在する地点を示す。
(1)山口県側
益田市の西隣りの旧阿武郡田万川町(現萩市)では万寿津波の伝承は確認されていない。
(2)益田市
万寿地震の伝承・遺物は多いが江戸時代に記載・建立されたものが大半である。鴨島は万寿地震の際、水没したとされ 1977 年に鴨島遺跡学術調査で海底潜水調査がおこなわれ1992 年~1993 年の鴨島学術調査においても同じ場所で潜水調査が行われた。しかし、鴨島の跡であることを示す積極的な証拠は確認できていない。また、1992 年~1993 年の陸上調査では、「トレンチ発掘調査により津波堆積物が確認された。」としている。
(3)浜田市・江津市
万寿津波の伝承はあるが江戸時代以降に記載されたものが大半である。
(4)大田市
「津波の後に小鯛がはねていたことから小鯛ヶ迫といわれるようになった」「津波により舟が坂を越え舟超坂と呼ばれる」などの伝承が存在する。
(5)出雲市
多伎町に「津波があった時に鯨が引っ掛かっていたので鯨坂という」いう伝承があるが津波の時代は不明である。
(6)隠岐・韓国沿岸・ロシア日本海沿岸
万寿 3 年の津波に関する記録は見いだせない。
万寿津波の記録は益田市から大田市沿岸の各地で認められるが、平安時代に書かれた書物に記載はなく、益田から約240km 隔てた対岸の韓国(高麗王朝)にも万寿津波・地震の記録はないため、その発生を疑問とする説も存在する。しかし、地名の伝承で小鯛ヶ迫、舟超坂、鯨坂など津波の痕跡と思われる場所があり、年代はともかく、大津波を経験したと思われる。
2.その他各種文献の万寿津波に関する報告
要点を以下に記す。
①万寿3年(1026年) 6月16日に、 島根県沿岸の益田〜江津の60kmの区間で、 大津波に襲われたことが 記録された史料がある。
②家屋の倒壊・ 流出 3,000 余、 死者 1,000 人以上とある.
③益田の河口付近のトレンチ調査で、万寿津波の 堆積層が認められた。
④江津市都野津沿岸では津波で埋没して、砂丘になったと伝えられている。
⑤沿岸で1〜2 mの地盤変動があった。益田:沈降、三隅: 沈降、浜田:隆起、江津: 沈降
⑥ 益田で津波高は6〜10 mと推定され、益田川河口にあった鴨島・鍋島が沈降して、集落が消滅した。
⑦そのほかの津波高については被害状況から浜田で7m、江津で 4.5mと推定される。
(羽島徳太郎 「[報告]山陰沿岸の歴史津波と日本海東縁津波の波高分布」より)
上記の記録や伝承以外に渡村(現在の桜江町川越地区)がこの津波の影響で川を渡ったという伝承が細々と伝わっている。
この伝承を深掘りしてみた。
14.3.2. 萬寿津波伝説
桜江町坂本地域の小冊子「ふるさとの話」より
甘南備寺山は海522mの急峻な山裾の絶壁はそのまま江川の淵頼となっておるので河岸に連なる山々の中で最も高く厳しく雄大な景観をもっている。
しかし今から950年(この文が作成された当時から数えて)余り前までの地形は全く違っていた。即ち現在の川越 (桜江町川越(渡り地区))の道路、町並、田畑になっている土地はすべて江川の川床になっていて水が流れており渡り千軒といわれた多数の人家と耕地は甘南備山の麓に在った。
ところが、萬寿3年(1026年)恐るべき大洪水、大津波の襲来があって、渡りの部落はすっかり洗い流されて、江川は現在の様に甘南備寺山の裾に切り変わり、渡りの部落の人々は川を隔てて山を望む現在の土地に移動したと伝えられている。
語り手「尾崎一雄」
邑智郡誌より
邑智郡誌では、このことを次の様に記述している。
古刹甘南備寺の詠歌には渡り山とあり、山下の渡の市は寺によって生じ、寺と共に賑わったものであるが、洪水で市の地は川となり対岸の地移ったもので住民も之に移り、渡は其の名の如く川を渡ったが、水流はこれがために上に一大渦巻を生じ、渦巻(現在の桜江町坂本地区の上流側の地名)の地名も生ずるに至った。
桜江町誌
桜江町誌には、この渡村の対岸への移動についての詳細な記載はない。
桜江町歴史年表に「万寿3(1026年) 渡り村、甘南備寺山麓より対岸に移動(大津波・洪水)」の記載だけである。
(津波の逆流について)
東北大震災(2011年3月11日)では、津波は河口から49Km上流まで遡上し、その被害は河口から12Km付近まで及んだという記録がある(津波の高さは7〜9m)。
地震の規模や状況は違うけれど、文献によると河口付近の津波の高さは4.5mと推定されており、江の川の河口から坂本までは約25Kmなので、津波が坂本付近まで遡上する可能性はある。
伝承が全くの嘘ではなく、大洪水と地震と津波が何らかの作用をして河道の移動が生じたと思われる。
14.3.3 渡村の対岸へ移動後の話
渡村の対岸へ移動した後の話があるので、その話を次に記す。
「石見角鄣経石見八重葎」の記述
以前述べた「石見角鄣経石見八重葎春律」にも、石田春律は渡村のことを記述している。( )内は注釈
(渡村は以前は今の坂本にあったが、対岸に渡ったためにその村を渡利村と名付けた)
抑(そもそも)神名美山(現在の甘南備寺山)といふハ日本国中名神御鎮座之所を号と相見へたり。此山ハ日本第一熊野本宮を勧請あれバ神名美山と 申由。 其上往古(大昔)此処神名備前の庄、中古(そこそこ古い昔)佐木の庄拾弐ヶ村之元庄なり。(佐木荘:現在の三原、川本、川下り、因原、鹿賀等)
湯の谷(川本町湯谷)長光寺過去帳の先にも神名美佐木の庄とあり。今の甘南備寺其別当寺と聞伝へた り。
渡利村と申ハ元来川下り村今の坂本に有之よし。往古渡村と申一村なり。然る処文化十四年より萬寿三年まで七百九拾壱年前の大高浪、大洪水いだせし時、此村を突流し、其土砂川向ひ桜井の郷(現在の市山、川戸、長谷、日貫、田津、谷住郷、大貫等)の地へまきあげ小百姓借家のものハ向ひの土砂巻上ル所を平げ無拠住処といたし此村北の地より南の地へ渡りし村故、其時より渡利村とけ玉ふよし。
(大高波、大洪水が起こった証拠として、甘南備寺山登山口にあったとされる鳥居が、後年(江戸時代の文化年間と思われる)それらが発掘された)
証拠右神名備山権現宮へ此処に数代続坂元千之助と申川筋第一 の大福長者あり。此千之助よりみかげ石の弐間余の鳥居寄進奉る所、洪水の時流れて行方しれずなりし由。然ルる其沓石は向ひの渡利村、今松浦屋と申民家の沖の原川上より川下往来の大道より拾弐三間沖に在之よし。
先年川本一蔵と申老人より承り伝へ此村の人々へ堀出し見らるべきよし申せどもほり出す人是なく我等家来を松浦屋権左衛門へ遣候砌、彼方よりも一両人指出し三人にて、右のあたりを尋ね堀す処、大い成る沓石二ツの内、上の分壱つ縦横大方三尺斗りの沓石堀出し、是にて諸人漸々実に心得候。
(昔弓が流れ着いて松の木に架かっていたことがあった。これが、今の因原や鹿賀の命名のきっかけになった)
また往古ハ今の川本村山寄に少々畑あり。此水除土手の古松へ弓川上より流れ来り、此所の古松へ留り、此村の老人孫の遊びものにいたし候所、弓自詫したまひ我是弓矢八幡なり。
不浄の子供の遊びものと也居る。此村より下もの民家富貴繁昌を守らんため流れ寄れり。
此村の上ミの山へ祭るべきよし神勅によって祭 り奉るよし。
是よりして此処より桜井の江へ続くる所を弓の原と申。 後誤りて一円にいん原と申、其間に今鹿賀村と申処の福者より氏神ハ弓矢八幡なれバ弓斗りと承り、依て矢を一手奉る。
御神悦の御神詫ありてより、矢を加へ賀び村と書て矢加賀村と申よし。 是を桜井の郷と申、拾五ヶ村程桜井の郷とも庄とも申伝へり。
(原文の一部)
江津市桜江町坂本に伝わる話(「さくらえの民話」より)
前記の「石見角鄣経石見八重葎」とほぼ同じようなことが地元で伝わっていた。
(渡村が対岸に移ったという伝承)
万寿三年のときにこの江川が切り変わったんですね。
昔は川が甘南備寺山の向こうを流れとったやつが、一晩のうちに大津波で、 このあたりまで海だったそうですな。 それで切り変わってしもうて。 その時にですね、こちらにあった集落がむこうへ渡ったからそいで (それで)渡村だという説がある。
昔は渡千軒と言って千軒も家があって、 千軒なかったでしょうが、 ようけ(沢山)あったということでしょう。
そいでその川が切り変わったときの話がね。坂本千之助と言って江川一の武芸者がおったそうです。この人がほとんどこの土地を持っとったそうですな。川が向こうへ行ったんだけえ(行ったために)一晩のうちに荒れた土地になった。
そいでこっちの百姓連中は、向うへわれもわれもと行って自分の土地をとったそうですな。
(流された甘南備寺の鳥居が発見された)
そのときに、江戸時代になりますが、○○さんの先祖の方が江津からやって来て、このところに(このあたりに)鳥居が流れとる筈だと。
甘南備神社の鳥居が流れとるということでそれ(を)探せ(と)いうことだった。 人夫を両方から出して探しとったら渡の沖のところへむけて鳥居の石が出て来たいうて。まさにやっぱり鳥居があったんだと。
(因原と鹿賀の命名の話)
そのときに、上から弓が流れて来とったんですね。 そいで弓を子供が拾うてわるさしよったんだそうです。 そいでその弓を、こりゃ あ神さんの弓だけえ(であるからと)言うので弓を祀った言うんですね。 それが川本の弓張神社と混同したような話になるんですね。
そいで弓を供えてお宮を作ったと。 ところが弓には矢がつきものだと。その前に弓が流れとった原があった。
そいで弓の原と言っとったのがなまって因原になったというんです。 ところが弓だけで神さんはおかしいと。 矢が必ずつきものだというので、そこに下に集落があった。その集落が一番の武芸者がね、矢をくわえて神様に祀ったと。
そいで矢かが村という。矢をくわえたむらだと。 それがなまってしかが (鹿賀) 村に変わったと言う話なんだ。
あるいは甘南備寺の菩薩が鹿になってその地へおりたから、鹿賀村というような話もあるんです。
語り手「原田静雄」
渡り村八幡宮の建立
万寿津波(1026年)から14年後の長久元年(1040年)に渡り村八幡宮が建立された。
なお、現在の八幡宮は元禄13年(1700年)再建されたものである。
<続く>