8.海上挺進第四戦隊(続き)
8.3.休暇・帰省
海上挺進戦隊が編成されると、2週間豊島・小豆島で訓練が行われた。
8月25日に特幹一期生の卒業式が行われ、翌日から㋹の特別訓練に入ってる者を除いて墓参休暇が与えられ、小豆島から出ていった。
㋹の特別訓練に入ってるものは、それを横目で見ながら訓練に出かけて行った。
こうした状況下、
「㋹隊員は、防諜の必要性から訓練が終わり次第直ちに戦地に派遣されることになっており、彼らには休暇が出ないこととなった」
という話が伝わった。
これを聞いた隊員たちは、これに抗議するため代表を立てて幹部に嘆願に行くという騒ぎが起こった。
だが、それが功を奏したようである。
第一戦隊の㋹の訓練が8月29日に終了した、その夜、急に第一戦隊の隊員に翌日の30日から9月3日までの休暇が出されることとなったのである。
第一戦隊の隊員たちは、突然の知らせに慌てながらも、喜び勇んで殆一睡もせずに帰郷の準備にかかり、翌朝小豆島を発ち故郷に向かった。
以後、㋹隊員たちにも訓練終了後に墓参休暇が与えられることとなった。
第四戦隊の隊員たちは、8月27日から訓練に入り9月9日に訓練が終了した。
翌日の10日から5日間の休暇が与えられ、隊員の多くは帰省した。
8.3.1.第四戦隊員中村の帰省
中村の実家は岐阜県岐阜市である。
宇野駅から、名古屋行の汽車に乗った。
同乗したのは第四戦隊の同期の隊員である、岩本、秋信、加山、藤村らである。
汽車は何故か、かなり遅れていた。
駅でもないところに何度も止まった。
理由は分からない。
時計をみると、二時間は、遅れていた。
この調子では、岐阜駅に着くには24時頃になるのではないかと思ったが、どうしようもない。
藤村の実家は大阪の高槻市にあるため、大阪駅で降りた。
京都を過ぎた頃少し眠くなった。
彦根という声を聞き、ウトウトしていた眠気が覚めた。
窓の外をみると、点々とした灯りがみえた。
恐らく琵琶湖に浮かんでいる漁船なのだろうかと思った。
もうすぐ、岐阜に着くと思うと嬉しさが、湧いてきた。
と、同時に特幹隊を無念にうちに去っていった佐竹のことを思い出した。
佐竹は隊を悔しさで去る時に泣いていた。
その気持ちを思うとやるせなかった。
その一方、佐竹には申し訳ないが、今の自分は幸福であると思った。
24時過ぎに岐阜駅に着いた。
秋信、加山も一緒に降りた。
秋信、加山はこの岐阜駅で早朝の汽車を待つことにした。
岩本はそのまま名古屋まで行った。
中村は岐阜駅で降りたが、もちろん誰も迎えには来ていなかった。
交通機関はもう全部止まっているので、歩いて帰るしかなかった。
2時間はかかるな、と思いながら中村は歩いた。
実家について玄関の戸を開けようとしたが、鍵がかかっていた。
真夜中のことであり、近所のこともあり大声で呼ぶわけにはいかなかった。
そこで、座敷側に廻って母を呼んだ。
中尾は自分の声が震えているのを感じた。
中から直ぐに母の声がした。
母の声も普通ではなかった。
母はよろめきながら出てきて戸を開けた。
母子が会うのは5ヶ月振りだった。
翌日は、名古屋に出かけお世話になった所を訪問し挨拶した。
ここでも軍隊の話に花が咲いた。
自宅では、母も兄も何かと気を使ってくれて、毎晩ご馳走が出た。
休暇も終わり、帰る日が来た。
岐阜駅夜8時出発の汽車に乗って、広島に向かった。
岐阜からは、名古屋から乗った岩井と一緒であった。
中村は、汽車の席に座ると、これから待っている訓練を思い描いた。
そして、家を出る時「必ずお国のためになれ」といわれたことを思い出し、その誓いを固めた。
8.3.2.第四戦隊員田中の帰省
田中は九州出身の同期生、吉本、平田、戸川、益本、高田、河内ら7人で一緒に帰った。
岡山で、列車を待つ間に近くの食堂に入ったが、献立表の料理は少なかった。
”海草めん”という、心太が自由に食える唯一のもので、他は外食券か米の券がなければ一切駄目であった。
田中は、入隊した5ヶ月の間に、兵舎の外では食料事情が悪化していることに驚いた。
外食券
戦中・戦後の食糧不足の時代に、家庭外で食事する者に対して、米穀の配給の代わりとして、政府が発行した券。
一緒に帰省した同期生は一人一人途中下車していき、最後は熊本出身の吉本(益城郡)、益本(天草郡)と三人となった。
玉名を過ぎるころになると、熊本弁があちこちで聞こえるようになり、やっと帰って来た、という気持ちになった。
方言が耳に心地良く響いた。
熊本に着いたのは、翌日の午後だった。
三人は、熊本駅で別れそれぞれ実家に向かった。
田中は家に着き、玄関の戸を開けると開けると大声で「ただいま、戻りました」と大声で言った。
母は、襖を開けて慌てたように、小走りででてきた。
田中は、5ヶ月ぶりの対面であったが、2・3年振りの対面のような気がした。
母は、「大丈夫だった?どこか悪い所はないか?」と矢継ぎ早に質問した。
田中が大丈夫です、元気ですと、何回も言うとようやく落ち着いたようであった。
母は、「この前久川君が休暇で帰ってきた、と挨拶に来た。お前は1週間後に帰って来るだろうと、聞かされていたので、首を長くして待っていた」と言った。
母は「食べたいものはないか」と聞いた。
田中は「何か甘いものが食べたい」と答えた。
母は、蓄えていた配給の酒を黒砂糖と交換してもらい、おはぎを作ってくれた。
軍隊の話が次から次へと出てきた。
田中は、母を心配させないようにと思って、訓練の辛さについては言わなかった。
休暇はあっという間に過ぎていった。
明日は軍隊に帰るという日、田中は、母から次のような歌をもらった。
呼び名さえ異国のままに育ちしも
命捧げん父母の国
風吹かばいさぎよく散れ若桜
母に名残の香りを残して
第十八戦隊の遺書が発見され、その中の久川隊員の遺書について既述した。
その遺書の中に、寄せ書きも残されていた。
久川隊員はその寄せ書きに
呼び名さえ異国のままに育ちしも
命捧げん父母の国
と書いている。
これは、田中の母の句である。
恐らく、この句は田中の母が、戦地に赴く田中と久川に贈った餞の歌であったと思われる。
<船舶特幹一期生会々報 創刊号より>
『(海上挺進第四戦隊)の節終わり』
<続く>