9.望洋
9.1.江田島、幸の浦
<海上挺進戦隊慰霊碑 幸の浦>
挺進隊の配備
昭和19年8月9日付けの軍令甲第107号の作戦命令により挺進戦隊の編成は決定されたが、配備先が決まったのは10日後のことである。
挺進戦隊の訓練が行なわれつつある間に、 8月19日に行なわれた最高戦争指導者会議の決定に基づき、軍令という形で、前記のように正式に海上挺進隊の編成命令が下され、更に大陸命第1106号として、取り急ぎまず沖縄方面に四コ戦隊と基地大隊を配備することとされた。
その後9月22日に大陸命第1138号によって第五戦隊・基地大隊以下第三〇戦隊基地大隊の配備が決定されている。
海上挺進戦隊について、前にも述べたが少し付け加えておきたい。
海上挺進戦隊について
既述と重複するところもあるが少し付け加える。
海上挺進戦隊は第1戦隊から第53戦隊まで編成(仮編成を含む)された。
任務地は、沖縄、台湾、フィリピンだった。
昭和19年(1944年)8月に小豆島船舶幹部候補生隊で海上挺進第1-10戦隊が仮編成され、同年9月1日以降に広島県の江田島幸の浦で編成完結した。
翌10月には第11-30戦隊が続いた(第一戦隊から第三十戦隊の隊員は、舶幹部候補第一期生で編成された)。
第1戦隊から第30戦隊の派遣地域は、沖縄、フィリピン、台湾であった。
但し一部の戦隊は目的地まで到着していない。
1~4戦隊 沖縄地域(慶良島、宮古島)
5~20戦隊 フィリピン(ルソン島)(5、20、及び8戦隊の一部は台湾止まり)
21~25戦隊 台湾
26~30戦隊 沖縄地域(本島、宮古島)(29の一部は奄美止まり、30は宇品止まり)
大戦中の第一戦隊から第三十戦隊の戦隊隊員数と戦死者数(海没、戦病死者を含む)は次のとおりである。
1. 隊員数:3,125名、戦死者:1,793名
(戦地に赴く途中に敵の潜水艦による魚雷攻撃で輸送船が沈没し、海没した死者を含む)
2.海上挺進戦隊が挙行した、大きな突撃作戦は、昭和20(1945)年1月にフィリピンのリンガエン湾で米軍の艦船に突撃する作戦と、4月の沖縄戦突撃作戦であった。
この2つの作戦には2,810人が参加し、1,578人が戦死している。
海上挺進戦隊は、この後も本土決戦用に戦隊の増設が続き、第31-40戦隊が編成さた。
なお、第41-53戦隊も編成が進められたが、第51戦隊と第52戦隊が完結したのを除き、仮編成されての訓練途上で終戦を迎えている。
第十教育隊
広島県江田島の幸ノ浦に、㋹の訓練及び集結地として第十教育隊基地が作られた。
ここで、出航の態勢が整うまで待機し訓練が行われた。
教育隊長は松田中佐である。
第四戦隊の編成
9月13日に宇品で第四戦隊が正式に編成された。
任務地は宮古島であるが、この時は未だ明らかにされていなかった。
9月15日13時に第四戦隊の隊員達は「船舶練習部」に全員集合した。
15時に夕食を取り、桟橋から大発で、兵舎のある江田島の幸ノ浦の海岸に向かった。
1時間弱で幸ノ浦に着いた。
海には数珠つなぎになっている、青く塗られた小さなボートが波に揺られていた。
㋹艇であった。
改めて遠くから眺めると、青蛙のように見えた。
この艇で俺たちは、命を掛けて戦うのかと思うと、頼りない感じがした。
さほど広くない海浜の中央あたりに、 わずかに突き出た木製のそれも最近作ったと思われる桟橋があって、そこに船は接岸した。
この桟橋の上で、目を赤くして炯々たる眼光で、迎えにきた少佐がいた。
教育主任の佐藤少佐であった。
陸に上がってみると、右を見ても左を見ても将校だらけだった。
営内には、倉庫を改造した建物が十数棟建っていた。
兵舎である。
9名ずつ各兵舎に配置された。
この兵舎は掘っ立て小屋みたいなもので、 床はなく土間の中央を通路 に、両側に板で床を上げ、それが寝台であった。
群長室は入り口近くに八畳くらいの部屋で、その左右に小部屋があり、戦隊長と中隊長の部屋になっていたが、茣蓙(ござ)が敷いてある粗末な部屋であった。
この兵舎の入り口の戸は、まことに粗末な引き戸で、切り込みのない打ちつけだけの造作で開けるとき重く鈍かった。
隊員たちは早速この戸を「天の岩戸」と名付けた。
その後、隊員たちは、兵器、被服、陣営具などを受け取った。
今まで使っていた銃剣を返し、代わりに四〇年式軍刀と二六年式六連発拳銃が渡された。
また、命令があるまで着けてはならない、という注意付きで陸軍曹長の階級章が渡された。
もう隊員たちは戦場に着いた気分になっていた。
いよいよ、明日から最終訓練が始まる。
このころ、次のような噂が流れた。
㋹とは連絡艇の意味だが、 本当は特攻艇のことであり、秘密のことでる。
この特攻艇作戦を天皇に言上した時、「命は助かるか?」とたずねられたので、「爆雷投下し50メートル遠のけば大丈夫です」と答えて、 許可されたという。
9.2.望洋
第四戦隊は、昭和19年9月13日に編成されたが、一向に出航の命令が無く、幸ノ浦 基地で訓練に明け暮れた。
句集「望洋」
第四戦隊戦隊長金山少佐は、全隊員の句を集め「望洋」という句集を編集した。
<金山少佐の巻頭語>
君の為 花は蕾に散りつるも
譽れは菊の花と薫らん
いざさらば 永遠る榮は美し國
白き夷の手にふ委せそ
國思ふ 血潮に燃えて打集ふ
結びは堅し益荒男のとも
細矛千足の 國の彌榮を
祈りて今日の舟出ぞする
魂魄は 永遠に皇國を護らなん
黒き潮の流れとともに
秋風颯々として濤聲を交え明月皓々として孤島に清き處、江田島の一角に在りて悠久三千年の国体を思ひ、日夜出陣を待つ若武者の感慨幾何ならんか。
皇国正に荒廃の秋、噫今にして立たずんば何時の日をか期せん吾人の屍を以て、皇国の垣とし吾人の魂魄を以て皇国の空を擁護するは今にあらずや。
それ目を開きて静観せよ、眼前に廣がる祖国の山野を見よ、彼の果てしなき海原、耳に響く松藾の響一として皇国の姿たらざるはなし。
国破山河在、城春草木青
皇国破れ去りて山河の存するを得んや、皇城亡び行きて草木の萌え出づるなし、想起せよ無窮の国体と悠久の歴史を。
而して再顧せよ、彼の山河を
今此処に歌集を偏して望洋と名付く、渺洋たる大海の轟を聞け、濤聲の砕くる中に無限の悦びあり、且怒りのほとばしるあり、海に生き海に死するますらを
往け往け顧はせず水漬く屍となりて皇基を護らん哉
中隊長以下の隊員達の句や随筆が続く。
その一部を載せる
詩句(一部>
随筆(一部>
防人の歌
第四戦隊出陣式 幸ノ浦
第四戦隊の任務地への出航はかなり遅れ、結局幸ノ浦で9月中旬から、11月初旬まで訓練や船艇の整備などですごすことになる。
一方第四基地大隊は9月5日に博多港を出発して7日には宮古島に着き同地で基地設営と陸上戦闘の準備に当たっていた。
第四戦隊の出航が遅れた理由は定かでない。
考えられるのは、㋹船艇の製作が間に合わなかったためかと。
つまり、第四戦隊の後から編成した戦隊(第五〜第二十)の行き先が、急を要するフィリピン だったから、これに優先して㋹船艇を宛てがった結果ではないか、ということである。
第五〜第二十戦隊は、早いもので編成日の翌日に出航しているが、これが段々遅くなり(つまり、㋹艇が間に合わなくなてきたのか)、第二十戦隊の出航は、編成して3週間後に出航している。
<続く>