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旅日記

望洋−17(海上挺進第四戦隊)

8.海上挺進第四戦隊

 

海上挺進第四戦隊は、陸士51期の金山少佐が戦隊長となり、通称は暁第16780部隊と呼ばれた。

次に中隊長が決まった。

<第四戦隊、隊長、中隊長 組織図>

 

8.1.戦隊編成

8.1.1.群長

戦隊の中隊は3つのグループから構成され、そのグループを群と呼び、その群を率いる者を群長と呼んだ。

8月に入ってしばらくすると、豊浜から10期の船舶兵甲種幹部候補生(幹候)達が、40〜50人きて、各隊に配属され、群長に任命された。

また、予備士官学校からも数十人が群長として赴任した。

こうして、隊の形は逐次固まっていった。

編成後に隊員たちは、任務の大まかな内容を知らされた。

そして、日本がかなりの窮地に立たされている、ことが何気なく伝わってきた。

音に聞く日本の連合艦隊は、アメリカ軍に制空権、制海権を奪われ、米軍の侵攻を止めることが出来ない状態になっているらしい。

そのため、我々船舶兵が海軍に代わって、敵の上陸を防ぐため、水上での第一線部隊として戦闘を行うことになったということであった。

これは、命がけの任務であることが、薄々解ってきた。

これを知って、多くの若者は意気込んだ。

 

編成後しばらくは、特に目立った訓練はなかった。

駆け足訓練や水泳・潜水訓練などが行われ、また机上で特攻艇の知識を授けられた。

水泳訓練は時折土庄小学校のプールを借りて行った。

これら授業を受けながら、中村は特攻艇員に選ばれたことに優越感を感じていた。

西方の豊島へ資材輸送と機動演習があった。

輸送の帰路に、土庄港の運河に入る手前の海面にて大発を停止し、全員が海中に入り、大発をもやい綱で引いたり、舷にとりついて押したりする演習をさせられた。

これは大発が故障で停止した場合を予想してのことだという。

水に浮かんでいるといっても意外に重く、さほど簡単に動かない。

もし波の高い外洋だったら、この作業はとても困難ではないかと隊員たちは思った。


8.1.2.原山の入隊

豊橋陸軍予備士官学校から来た原山ら8人は、8月14日に小豆島に着いた。

ここで、原山たちは、特別任務の部隊とは特殊艇の特攻隊で、メンバーは若者だけということを知らされた。

指導教官は原山達に言った。

「お前たちは、これから海上攻撃艇部隊に属することになる。

この部隊の正式名は陸軍海上挺進部隊と称する。

この部隊は爆雷を積み込んだ攻撃艇を以て敵の輸送船団を攻撃するものである。

その攻撃方法は、一人乗りの舟艇で肉弾攻撃をするもので、目標の敵船に向かってばく進し敵艦船に接近し敵船に触れる前に爆雷を投下し、その爆雷の爆発を以て敵船を破壊するものである。

この爆雷は、投下後数秒で爆発する仕組みであり、正確かつ素早い操作が必要である。

お前たちは、この戦隊の群長として部の隊員を率いることになる。

この部隊員は全て、この特攻を志願してきた若者たちであり、彼らは既に5月から猛訓練を行っている。

お前たちも早く追いつくよう、各自気合を入れ訓練するようにしろ」

 

早速、訓練が始まった。

日課は

①5:30起床・点呼、②6:00朝会・朝食、③8:00~11:00課業、④12:00中食・休憩、⑤13:00~17:00課業、⑥18:00夕食・休憩、⑦19:00~19:50自習(第一段)、⑧20:10~21:00自習(第二段)、⑨21:00~21:20反省、⑩21:30日夕点呼、⑪22:00消燈
だった。

課業は軍人勅諭を主とした精神講話に多くの時間が割り当てられたが、学科としては陸軍刑法、陸軍礼式令等の講義、また内燃機関、電磁気学に重点をおいていた。

実技面では水泳訓練、手旗訓練、大発(大日本帝国陸軍の上陸用舟艇である大発動艇の略称)の操作やディーゼル・ガソリン機関の操作などが重点に置かれた。

 

戦隊が編成されると、8月中旬から小豆島の西方にある豊島に設定された特別訓練基地で㋹の操縦から激突攻撃に至る訓練が、戦隊毎に順番に行われた。

この訓練の殆どは夜間訓練であった。

 

8.1.3.第四戦隊の編成

海上挺進第四戦隊が編成され、原山、中村、岩本、田中らは第四戦隊に編入された。

第四戦隊の編成式が8月20日に挙行された。

隊長は金山少佐である。

原山は第ニ中隊に編入され第三群長となった

中村は第一中隊(中隊長は高山中尉)の第ニ群(柄本群長)に編入された。

岩本は第一中隊(中隊長は高山中尉)の第三群(朝井群長)に編入された。

田中は第ニ中隊(中隊長は赤塚少尉)の第三群(原山群長)に編入された。

編成式が終わると、全員で富丘八幡宮に参拝した。

本殿へ向かう坂道の途中に鳥居があった。

第一中隊長の高山中尉は、この鳥居を見上げ、上を指さしていった。

「鳥居の上に載っている石を見よ。我々がこれから成す任務は、あの鳥居の上に石を載せるよりも、まだ難し」

隊員には緊張感が走った。

高山中尉は、その様子をみて満足そうに頷いた。

 

8月24日

朝から連絡艇の演習の見学に行った。

SS艇(機動艇)に乗って小豆島の西側にある豊島(てしま)西南方の海岸に行き、艇の上から見学した。

この日は、海軍の魚雷艇も交じって演習しており、実に物々しかった。

 

8月25日

特幹一期生の卒業式が行われ、本日付けで全員が上等兵に進級した。

その夜は、舎内で各中隊(特幹隊の中隊)毎に会食会が行われた。

翌日から、一部の隊には5日間の休暇が与えられ、その隊員達は帰省した。

しかし、第四戦隊は翌々日から、豊島での㋹の訓練に入ることとなった。

 

8.2.戦隊の訓練

㋹の研究要員も特幹隊長(於保佐吉中佐)の指揮下に入れることの方が適切であるとされた。

そしてその研究、訓練場を小豆島の西側にある豊島(てしま)西南方の海岸に指定し、斎藤義雄少佐が訓練主任となり、秘かに研究と隊員に対する教育訓練を実施することになった。

訓練は、仮編成の二乃至三コ戦隊ずつ、三・四日間海岸の幕舎で露営しながらの訓練であった。

第四戦隊は8月27日から、小豆島の西方豊島でテントを張って、3日間夜昼を問わない訓練に入った。

ここには綺麗な砂浜が広がっていた。

テントは、砂浜に面している松林の中に張った。

満潮の差が大きく、満潮時には腰まで浸かって㋹の操作を行い、干潮時には㋹が座礁するなどの苦労も絶えなかった。

秘密保持のため、憲兵が見張っていた。

挺進戦隊の任務は、耐水ベニヤ板でできた舟艇の両脇に120キロずつ爆雷を取りつけ、敵船に最接近して投下し、急速にUターンして離れるというものだった。

演習はこれを想定して行われた。

長さ5メートル余、幅2メートルほどの小型舟艇にまともな攻撃兵器はない。

敵の砲火の中に突っ込む、事実上の体当たり攻撃だった。

だが、訓練中は「よし、やったるぞ」と奮い立っていた。

日中は、舟艇のエンジン調整と、テントで昼寝をした。

日が沈むと、訓練を開始した。1隻に3,4人ずつ乗ってこの島の周りを交代で夜明けまで回った。

夜だけの行動というのは、この艇の攻撃方法が夜間に敵船団を狙うことと、往来の多い民間船に対する秘密保持のためであった。

舟艇が急ごしらえのせいか、機関の故障が相次ぎ、一日に十数回発生した。

猛訓練であった。

殆ど飲まず食わずの訓練であった。

基地に帰ると、数食分が用意してあったが、一度に食えるものではなかった。

食べると、直ぐに死んだように眠りについた。

先発で訓練に入った、第一、第二戦隊は訓練以外にも相当苦労したという、証言がある。

急設されたこの基地には、風呂やトイレもなかった。

飲水だけは、小豆島から桶で運ばれたが、飯盒を洗う水もなく、浜の海水を使った。

しかし、この海水もガソリンや油で汚染されており、下痢・皮膚病などを起こす隊員もでた。

 

最後の夜間演習では豊島付近を一周した。

豊島での訓練の後は、小豆島で約1週間の訓練をした。

その訓練が終わると、9月10日から5日間の休暇を与えられ多くの者は帰省した。

これで小豆島での訓練は終わり、休暇明けからは、広島の江田島の幸の浦で訓練が始まるのである。

 

<続く>

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