36.南北朝動乱・石見編
36.4.戦線の拡大
36.4.8. 稲積城の戦い
豊田城の戦いに敗れた高津長幸は自分の城高津城に戻り、日野邦光は稲積城(益田市水分町)を築き立て籠った。
この稲積城は、日野邦光が応急的に構築したものとされている。
豊田城の内田致景を援護するための拠点としたものと思われる。
稲積山は益田兼高(御神本氏第4代、益田氏の祖)が、稲積神社を修造するため山頂を平らにしたものである。
日野邦光は益田兼見の虚に乗じてこの山を占拠し、応急的に城を構築したのである。
同城は吉田・益田の両堺にそばだつ一つの丘陵で、吉田原の平野を一望の下に見下す形勝の地位を占めている。
西の高津城と隔たること4km、益田七尾城とはわずかに1㎞を隔てた急峻な山城で、山上には約1000㎡の平地がある。
<石見の城館跡より>
上野頼兼は10月23日高津川をへだてて須子山に陣して、高津城と相対し高津城攻撃の体制を整えるとともに、稲積城との分断を図った。
侍所松田左近将監以下土屋定盛・益田兼見・平子親重・同重嗣・同時重・領家公恒・虫追政国・ 乙吉十郎の諸兵は須子原に陣し、日野邦光のよる稲積城と、高津長幸の本城である高津城との連絡を絶ち、一挙に両城を陥れようとする計を立てた。
稲積山の要害の地に城を構えた邦光は、石見南朝軍の連絡統一に意を注ぎ、更に石見の兵を率いて上洛し、一挙に都を回復しようとする遠大な計画を持っていた。
しかし、高津城との連絡を絶ち切られてからは、全く孤立無援の状態におちいり、その上に糧食にも窮してきたので、三隅兼連に兵糧の援助を依頼した。
それを受けた兼連は、暦応4年/興国2年(1341年)正月18日夜、益田軍の目をぬすんで秘かに稲積城へ兵糧の輸送を企てたが、益田三宅袴田の地において益田軍の眼にふれ遭遇戦となる。
悪戦苦闘の結果、辛うじて稲積山へ兵糧の差し入れに成功した。
稲積城の落城
袴田の合戦後、邦光はなおも屈せず、一ヵ月にわたって稲積に籠城し苦闘を重ねる。
しかし、2月18日夜、ついに落城した。
稲積落城と同日に、高津城も陥落し、城主長幸は城を脱出して一時行方をくらました。
(長門益田家文書)
石見國御神本孫次郎藤原兼躬(兼見)申軍忠事
右、去年八月十九日、大將軍上野左馬助殿、打向高津稻積兩城、被召須古山御陣之、兼躬令御共、日々夜々馳向高津餘次長幸之城、毎度抽(ぬきんずる)軍忠畢、仍(よって)今年二月十八日夜詰落彼城畢、此段松田左近将監令見知畢、加之自去年八月十九日、迄于今年二月十八日、致警固御陣、抽無貳之忠節之段、且御存知之上者、預御一見状、爲備後證、粗言上如件、
暦応四年二月二日
承了 花押 (上野頼兼)
石見國御神本孫次郎藤原兼躬中軍忠事
右當國凶徒日野左兵衛権佐邦光以下輩、楯龍稲積城之間、依爲近所、兼躬□□致御陣警固、馳向彼城度々合戰袖軍忠畢、次凶徒三隅次郎入道信性、去正月十八日夜、稲積城被入兵米之間馳向袴田狭所到散々合戦、打留兵粮米、御敵信性家◻◻藤三打取、卽侍所松田左近将監被
見知畢、去年八月十九日取巻彼城毎日毎夜致軍忠、今年二月十八日夜詰落畢、 此段御存知之上者、爲預御證判、粗言上如件、
暦応四年三月 日
承了 (花押) (上野頼兼)
暦応三年/興国元年(1340 年)8月19日、兼見と戦を交えてから六ヵ月にわたる、辛苦をなめつくした籠城であった。
重囲を脱した邦光は、三隅城に逃れ、さらに他日の再起を計ろうとした。
日野邦光石見を去る
稲積落城後の邦光は、石見の南党軍を率いて上洛し、都を取り返そうと主張する。
これに対し、石見在地の武士は、四面敵軍の雑居する中から兵を引連れて上洛することは、 至難であると賛同しなかった
邦光の持説は賛同が得られず、端なくも国司と三隅氏との間に隙を生じるようになったという。
日野邦光は石西の敗北に希望を失い、 空しく吉野に帰っていった。
石見を立ち去った日野邦光は吉野に帰ったが、観応元年/正平5年(1350年)肥後国に赴いている。
その後、康安元年/正平16年(1361年)に京都に乱入するなど、北朝と争っている。
高津長幸のその後の動向
長幸は那賀郡や邑智郡を転戦して、活躍する。
足利直冬が石見に入ると、その勢力に加担した。
数年後、北九州に走り、阿蘇・菊池両氏らと結託して、少弐頼尚の軍と戦っていることが、「二階堂文書」によって知られている。
その後の消息は不明である。
観応3年/正平7年(1352年)12月27日少弐頼尚は、高津播磨権守長幸の代官が二階堂行雄の所領である筑前国佐与村に狼藉に及んだということで、筑前守護代に、これを停めさせている。
隠岐三郎左衛門入道行存(二階堂行雄)申、筑前國佐與村事
高津播磨守代官及押妨狼藉云々、所詮退押妨人可被沙汰付、下他於行存代之状如件
観應二年十二月廿七日
(少弐)頼尚(花押)
守護代
日野邦光、高津道性の不在は北朝軍に勢いを与えることになった。
石見の北朝軍は安芸国からの援軍を得て石見を一気に平定しようと考えた。
<続く>