20.宮古島
昭和19年(1944年)末には、3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた。
急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られていた。
飛行場は「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と、3カ所の飛行場が建設された。
宮古島には昭和9年(1934年)ころから既に飛行場が設定されていた。
海軍では昭和18年11月ころから、この島に飛行場を建設中であった。
第32軍は十号作戦準備要綱に基づき、宮古島に三個の飛行場を計画し、第205飛行場大隊にその設定を担任させた。
同大隊は5月8日宮古島に上陸し、直ちに宮古西飛行場の設定に着手した。5月20日、軍命令により先島守備隊長の指揮下に入り、依然西飛行場の作業を続行、6月10日に至り宮古中飛行場の設定に着手した。
その後、作業は概ね順調に進捗し、7月14日には西飛行場の一部が完成、中飛行場も7月25日概成した。
またこの間、第129野戦飛行場設定隊が6月26日に大隊の指揮下に入れられた
土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。
飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。
20.1.宮古島の守備体制
宮古島・石垣方面を防衛担当は第28師団であった。
昭和19年(1944年)7月から第28師団は宮古島に乗り込み、12月にはほぼ展開が終了した。
陸軍2,800人、海軍2,000人、計3万人余りの勢力であった。
第28師団
満州にあった第28師団を沖縄転用することが昭和19年(1944年)6月30日に決まった。
そして、7月3日に第32軍に編入され、宮古島・石垣島方面防衛を担当することになった。
7月20日に宮古島に到着し、戦闘司令所を開設した。
師団長は櫛淵鍹一中将で、翌年1月12日に納見敏郎中将に替わった。
なお、納見中将は戦後の昭和20年12月13日、野原越司令部の宿舎で毒を仰ぎ51年の生涯を閉じている。
7月7日、日本政府の緊急閣議で南西諸島から老幼婦女子を疎開させることを決定した。
この決定に基づいて沖縄から台湾に疎開した人は約1万人で、宮古からの疎開者が最も多く、全体のおよそ半数を占めた。
戦争が終わって、宮古関係の帰還がほぼ完了したのは昭和21年年5月だとされる。
先島群島(宮古列島・八重山列島の総称)の防衛方針の大綱が昭和19年秋に決まった。
それは、
(1)宮古島に於いては持久を主とするも、状況によっては攻勢に出る。
(2)石垣島に於いては極力持久を旨とする。
この方針に基づいて兵力の運用配備が進められた。
<昭和20年 軍の体制図>
第32軍
奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えるため、昭和19年(1944年)3月22日に第32軍が創設された。
その司令部は沖縄の首里に置かれ、首里城の地下に大規模な地下壕が掘られた。
渡辺正夫中将で8月8日に牛島満中将に替わった。
その後、9月22日に編成された第十方面軍の隷下となる。
第十方面軍
台湾方面の戦力増強のため昭和19年(1944年)9月22日に新編され、連合国軍の台湾上陸に備え台北に在った。
第10方面軍司令官は、台湾軍司令官が兼任した。
司令官は安藤利吉大将である。
大本営
大本営は、大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍を支配下に置く、戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月22日に公布された戦時大本営条例によって法制化された。
昭和期の大本営会議は天皇臨席のもと、陸海軍の統帥部長(参謀総長・軍令部総長)、次長(参謀次長・軍令部次長)、それに第一部長(作戦部長)と作戦課長によって構成された。統帥権の独立により、内閣総理大臣や外務大臣ら、政府側の文官は含まれない。
また軍人ながら閣僚でもある陸軍大臣・海軍大臣は、軍政との関連で列席できたが、発言権はなかった。
<沖縄防衛守備軍主要部隊の編成 (大田昌秀編著の「これが沖縄戦だ」より)>
<部隊編成の用語(宮古島市 neo 歴史文化ロード 綾道~ 戦争遺跡編)に注釈を付記>
<宮古島の防御配置図>
20.2.宮古島の戦況
20.2.1.概況
昭和19年(1944年)10月10日(火)のいわゆる「10・10空襲」が、宮古島における初空襲である。
10月10日午前7時30分、宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。
間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。
飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく本物の空襲であることを知った。
45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された。
続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の貨物船広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。
この空襲で、軍要員10人の死傷、民間人平良町3人、下地村1人の死者、住家の全半焼13件の被害があった。
その後の空襲は、10月13日にあり、その後年内はほぼ小康を保ったが、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり、3月以降7月までは連日のように繰り返された。
4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。
平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。
5月4日午前11時すぎ、下地村宮国(現在上野村)沖合に集結したイギリス極東軍隊の艦砲射撃が始まった。
およそ30分間で385発の砲弾が撃ち込まれたと言われている。
宮古・八重山への空襲は、沖縄洋上に展開する米英の空母を発進した艦載機がおこなったが、地上部隊が沖縄各地の飛行場を制圧し、使用可能なように修復すると、沖縄島から発進した航空部隊が宮古・八重山を空襲することになった。
沖縄島から発進した航空部隊が宮古・八重山を空襲したのは5月18日が最初であり、5月末から6月初頭にかけて一時期衰えるが、第32軍が壊滅した6月24日以降再び活発化する。
23日は米軍海兵第312戦隊と同第322戦隊の24機のコルセアが、アベンジャー17機と護衛の同第323戦隊のコルセア12機とともに石垣島を襲った。
そして、この日、米陸軍航空軍の第318群団の第548夜間戦闘機戦隊のP61一機が宮古島の飛行場に1000ポンド爆弾二発を投下した。
また夜明けとともに第441戦隊と第224戦隊のコルセア39機が飛行場を襲った。
宮古に来襲した米英機は5月中で延べ2000機あまり、6月中も延べ2000機あまり、7月に入って散発的とはなるが、8月15日のポツダム宣言受託発表まで空襲や偵察のための航空部隊の襲来は絶え間なくつづいた。
<攻撃される平良港>
20.2.2.犠牲者
「平和の礎」には、宮古地区で3,311人の戦没者名が刻まれている。
軍関係の戦病死者1,500人が判明しているが、民間犠牲者の正確な人数は不明となっている。
空襲時の機銃弾・爆弾の直接被弾死、爆風・家屋倒壊による圧死、疎開船の海上遭難等を含めると、その人数は統計よりはるかに多いと言われている。
県外への疎開は、昭和19年(1944年)8月から10月にかけて行われ、疎開者はおよそ1万人。
ほとんどが台湾への疎開であった。
児童だけのいわゆる学童疎開は、平良第1国民学校13人、平良第2国民学校21人、下地国民学校46人、あわせて80人で、3校とも教師1人ずつつき、宮崎県小林町(市)へ疎開した。
20.2.3.食糧不足
昭和19年の「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。
当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。
いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となっていた。
戦況が悪化するにつれ、宮古島では食糧不足が深刻化し、慢性の栄養失調は郡民の体力衰弱となり、マラリアの蔓延を来す。
物資不足の中で衣類は米穀用麻袋がその材料となる。
予告なき襲撃の前に脱衣して水浴することも人々の生活から失われ、空襲におびえるなかでシラミとの闘いも始まる。
昼間の作業は死につながるようになり、月明かりなどで植え付けていた甘藷も照明弾投下の夜間空襲が始まるなかで食糧自給の道も閉ざされてくる。
備蓄した非常食が底をつき、掘り残されて土中で芽を出した"草のいも"を掘り、処理を誤ると中毒死につながる蘇鉄採りが始まる。
<軍民共同イモ作り>
<続く>