44.日本国憲法
終戦直後、日本政府内においては法制局と外務省が、いち早く憲法問題に気づき、その検討を始めていた。
法制局では、入江俊郎第一部長のグループが非公式に憲法を見直すための事務的な検討を行った。
外務省条約局は、日本みずからの意思で民主主義体制を整備する必要があるとの判断から、独自の検討を進めた。
しかしこれらの動きは、内閣の消極的な姿勢のもとで具体的な成果には結びつかなかった。
憲法改正が本格的に動き出すのは、昭和20年(1945年)10月4日マッカーサーが近衛文麿元首相と会談した時に、憲法改正について示唆を与えてからである。
44.1.日本国憲法施行までの主な経緯
昭和20年(1945年)
10月4日 GHQが「自由の指令」を発令。
マッカーサーが近衛文麿に憲法改正を示唆。
10月9日 東久邇宮稔彦内閣に代わり、幣原喜重郎内閣が成立。
10月11日 マッカーサーが幣原首相に「憲法の自由主義化」を示唆。
10月25日 憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置される。
11月22日 近衛が「帝国憲法改正要綱」を天皇に奉答。
12月26日 憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表。
昭和21年(1946年)
1月1日 昭和天皇が「人間宣言」を行う。
2月1日 毎日新聞が「松本委員会試案」をスクープ。
2月3日 マッカーサーが3原則を提示、民政局にGHQ草案の作成を指示。
2月8日 日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。
2月13日 GHQは要綱を拒否、日本側にGHQ草案を手渡す。
3月6日 日本政府、GHQとの協議に基づいた改正要綱を発表。
4月17日 日本政府がひらがな口語体の「憲法改正草案」を発表。
5月22日 第1次吉田茂内閣が成立。
6月20日 第90回帝国議会に改正案を提出。
11月3日 日本国憲法を公布。
12月1日 「憲法普及会」が組織される。
昭和22年(1947年)
5月3日 日本国憲法を施行。
44.2.憲法改正の動き
44.2.1.二つの調査会
マッカーサーは10月4日、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与えた。
近衛はこれを受けて、佐々木惣一元京大教授とともに内大臣府御用掛として憲法改正の調査に乗りだした。
内大臣府
内大臣府は、明治中頃から戦前昭和にかけて日本に存在した制外官の一つ。
宮中にあって天皇を常侍輔弼、宮廷の文書事務などを所管した内大臣を支える機関として明治18年(1885年)に設立された。
太平洋戦争敗戦後、昭和天皇の意向もあり、宮中側は内大臣と内大臣府は存続させる予定であったが、その時期すでに大日本帝国憲法が改正予定であり、新憲法に沿った皇室・宮中改革を不可避と考えた法制局との協議や、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民政局(GS)との折衝の結果、昭和20年(1945年)11月24日、内大臣および内大臣府は廃止された。
マッカーサーは、また、10月11日、新任の幣原首相との会談において、「憲法の自由主義化」について触れた。
幣原内閣は、前内閣と同様に憲法改正には消極的であったものの、内大臣府が憲法改正問題を扱うことへの反発もあり、政府としてこの問題に対応することとした。
こうして松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)が10月25日に設置され、政府側の調査活動がスタートする。
昭和20年10月25日に憲法問題調査会が設置される。
委員は次の通り
委員長 松本烝治(国務大臣・元東大教授)
顧問 清水澄(枢密院副議長・帝国学士院会員)
美濃部達吉(帝国学士院会員・元東大教授)
野村淳治(元東大教授)
委員 宮沢俊義 (東大教授)
清宮四郎 (東北大教授)
河村又介 (九大教授)
石黒武重 (枢密院書記官長)
楢橋渡 (法制局長官)
入江俊郎 (法制局第1部長)
佐藤達夫 (法制局第2部長)
補助員 刑部荘 (東大教授)
佐藤功 (東大講師)
こうして、憲法改正を目的とした、二つの組織が発足したのである。
また、こうした中、民間有識者のあいだでも憲法改正草案の作成が進行していた。
44.2.2.それぞれの憲法改正案
近衛・佐々木案の奉答
昭和20年(1945年)10月にはじめられた内大臣府による憲法調査は、近衛文麿の戦争責任、内大臣府による調査の憲法上の疑義などから、内外の世論の反発をまねいた。
11月1日に、マッカーサーは近衛の憲法調査には関知しない旨を発表したが、近衛らはそのまま調査を続けた。
11月22日、近衛文麿は内大臣府廃止を前に、共同作業者の佐々木惣一と意見の調整が出来ず、近衛が単独で「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」を天皇に奉答した。
これは条文化せず、要綱という形でまとめられていた。
なを、戦犯逮捕命令が発せられた近衛は、出頭を目前にした12月16日未明に服毒自殺をとげている。
近衛の要綱は、近衛自決後の12月21日に『毎日新聞』で報じられた。
また、同月24日、佐々木惣一も独自に「帝国憲法改正ノ必要」(日付は11月23日)を奉答した。
松本委員会による「憲法改正要綱」の作成
一方、幣原内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)においては、当初、調査研究を主眼とし、憲法改正を目的としないとしていたものの、やがて「内外の情勢はまことに切実」との認識から、改正を視野に入れた調査へと転換を余儀なくされ、顧問・各委員が改正私案を作成した。
松本委員長は、1945年12月8日、帝国議会における答弁のかたちで「松本四原則」として知られる憲法改正の基本方針を明らかにした。
1946(昭和21)年に入ると、松本委員長みずからも私案を作成した。
この私案は、松本委員会のメンバーであった 宮沢俊義東大教授が要綱のかたちにまとめ、のちに松本自身の手が入って「憲法改正要綱」(甲案)となった。
また大幅な改正案を用意すべきとの議論から、「憲法改正案」(乙案)もまとめられた。「憲法改正要綱」は、2月8日にGHQに提出された。
(以下略)
この改正要綱によると、憲法改正は大日本帝国憲法を基本とし、その条項の削除や表現変更を行うものであり、建物に例えると、改築ではなく改修のようなものであった。
もちろん、軍の不保持は謳っていない。
また、国民を臣民と記述しており、基本的人権についても触れていない。
帝国憲法の枠内での改訂であることは、否めない。
さまざまな民間草案
政府側が秘密裏に改正草案作りを進めていたころ、民間有識者のあいだでも憲法改正草案の作成が進行し、1945年末から翌春にかけて次々と公表された。
その代表例が、1945年12月26日に発表された 憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。
これは、天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等など、のちの日本国憲法の根幹となる基本原則を先取りするものであった。
その内容には、GHQ内部で憲法改正の予備的研究を進めていたスタッフも強い関心を寄せた。
1946年になると、各政党ともあいついで改正草案を発表した。
自由党案と進歩党案はともに、明治憲法の根本は変えずに多少の変更を加えるものであったのに対して、共産党案は天皇制の廃止と人民主権を主張し、社会党案は国民の生存権を打ちだした点に特徴があった。
極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意された。
その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。
1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認した。
この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。
すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達されたのである。
「日本の統治体制の改革」
「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)はSWNCCの下部組織である、極東小委員会が昭和20年(1945年)10月8日付でまとめた資料である。
これの一部を修正し翌年1月7日付けで日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成された。
極秘コピー No. 66
1946 年 1 月 7 日
国防・陸軍・海軍調整委員会
SWNCC 228 の修正に関する決定
日本の政府制度の改革
長官によるメモ
1. 国防・陸軍・海軍調整委員会は、第 32 回会議で、修正後の SWNCC 228 を承認した。
2. SWNCC 228 の所有者は、3 ページ目を焼却して破棄し、4 ページ目から 13 ページ目を 5 ページ目から 14 ページ目まで読み替え、修正後の 3 ページ目と 4 ページ目を挿入されたし。
アレクサンダー D. リード
B. L. オースティン
レイモンド E. コックス
事務局
憲法問題調査委員会の試案、毎日新聞がスクープ
2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。
憲法改正・調査会の試案、立憲君主主義を確立、国民に勤労の権利義務
松本国務相を委員長とする憲法調査委員会は昨年十一月第一囘会合を行つてから小委員会、委員会、総会を開くこと廿余囘、各委員から甲案、乙案の憲法改正私案を提出、活溌なる論議を展開、昨月廿六日の委員会で漸く草案を脱稿、二日の総会で可決されるが政府は憲法改正原案を近くマッカーサー司令部極東委員会に提出すべくこれが決定を急ぐこととなり、卅日の臨時閣議に緊急附議、松本国務相から逐条説明を行ひ各大臣から活溌なる意見の開陳があり更に卅一日も臨時閣議を開き検討を行つた
しかして松本国務相の起草した憲法改正草案は調査委員会案を骨幹とし、これに修正甲、乙両案を作成したものであるが次の一試案は調査委員会の主流をなすもので試案から政府案の全貌がうかがはれ、特に重大なる意義がある、調査委員会の一試案は松本国務相の議会で闡明した四原則を基礎とし、わが国は君主国であり天皇は統治権を総攬する根本原則には些かの変更もなく立憲君主主義を確立、国民の自由を保障すると共に議会の権限を強化し憲政の発達に一布石を与へんとするものである
(以下略)
このような状況下、 業を煮やしたのかGHQ自ら憲法改正草案作成に乗り出すのである。
<続く>