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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−187(大内義興と尼子経久)

60.戦国の石見−3(続き)

60.2.大内義興と尼子経久

大永4年(1524年)尼子経久は西伯耆に侵攻し手中に収めた。

一方大内義興は、この隙を狙って安芸に攻め入り攻略する。

安芸の危機を知った尼子経久は、安芸に向かい、一時大内方を圧倒するが、毛利元就の寝返りなどにより、大内方も勢いを取り戻す。

大永6年大内は石見に侵攻し、浜田の天満畷で尼子と合戦が始まる。

 

60.2.1.尼子経久、伯耆に侵入する

大永4年(1524年)5月、尼子経久は山名誠豊の勢力下にある伯耆に侵入した。

山名誠豊
但馬、備後守護、父は​​山城・安芸・但馬・備後の守護であった山名政豊。
祖父は、応仁の乱の西軍の総大将であった山名宗全。

南条宗勝を始めとする伯耆国の国人衆は敗走し、山名澄之が降伏すると西伯耆を完全に掌握し、伯耆一円が尼子領となった。

世にいう「大永の五月崩れ」である。

大永の五月崩れ

山名方の米子城、淀江城、天万城、尾高城、不動ガ嶽城、八橋城は一朝にして攻め落とされ、更に倉吉、岩倉城、堤城、羽衣石城も順次落城し、伯耆一円が尼子領となる。

この合戦により国中で戦死する者が数知れず、死者が町に満ち溢れ、村々の放火の煙が空を覆い、神社仏閣の殆どが兵火に焼かれたという。

 

一方、大内義興は、尼子が伯耆に戦力を向けている間に乗じ、その子義隆とともに安芸への侵入を企てた。

遥かに山陰の山名一党に声援を送り尼子を牽制しようとしたのである。

 

60.2.2.大内義興安芸に入る

大永4年(1524年)5月20日、義興父子は岩国の永興寺に陣を進め、6月に安芸宮島に入り、武田光和(銀山城:広島市安佐南区)・友田興藤(桜尾城:広島県廿日市市)ら尼子の与党を攻めんとし、7月には義興、桜尾城を包囲した。

この時大内陣中に石見の吉見(津和野 三本松城)が参加していた。

一方、大内義隆・陶興房らは、時を同じくして大内義隆・陶興房は銀山城攻略に向った。

大内の安芸侵入に対して、熊谷・香川・山県ら佐東郡(現広島市の一部)の尼子与党は銀山城救援のため、三入(広島市安佐北区)・可部(広島市安佐北区)に集結して銀山城入りを策した。

陰徳太平記には次のように記述されている。

熊谷兵庫助、山中佐渡守、香川美作守、同式部少輔、久村、飯田、山縣、遠藤、福嶋等が詮議しけるは、
「当国の者共一人として武田の幕下ならずと云うことなし。
就いては中に、佐藤郡の者共、先年より彼の手に属し所々に於いて忠勤を抽(ぬき)んで公方の御感に預かりしも、皆是武田の推挙を以ての故なり。
然るに今、大内数万騎を以て銀山を囲み、已に難儀にに及びけるを親りに見ながら、是を見捨ててしまうのは、勇なく義なしと、世人の嘲を招く所なり。」
といって、千百騎が三入、可部に集まった。

大内義隆らはこれを粉砕せんと6月22日夜、根之坂に戦ったが、敗退した。

7月3日、武田光和は、銀山城麓に大内義隆と戦った。

 

一方尼子経久は、伯耆の戦勝の余威を駆って、銀山城を救援せんものと、まず亀井秀綱・牛尾信通らを先発させ経久自身も飯石郡赤名まで進出する。 

毛利元就・吉川・宍戸・平賀・宮・三吉・小早川・熊谷・香川らの芸備の与党も亀井らに合流して、7月8日、銀山周辺に出張る(戦場に出て陣を張る、こと)。

10日の合戦は尼子側の不利となり、その後暫く戦線動かなかった。 

8月5日、毛利元就・吉川国経らは、大内勢を夜襲して戦果を挙げた。

16日、陶興房、大内義隆らは二十日市に退き桜尾包囲中の大内義興に合流した。

尼子軍はこれを追って桜尾城救援に向かった。

しかしながら、10月、友田興藤は吉見頼興を通じて投降を申し出たので、桜尾城は再び大内の手に戻った。 

その後、義興は宮島で越年し滞在した。

大永5年(1525年)3月、大野の門山(広島県廿日市市)に移陣した。

大永3、4年は芸備石において尼子経久の勢力の伸びた最初の一時期であって、安芸に進攻した義興も全く大野門山の線に抑えられて、わずかにその足掛りを保ったに過ぎなかった。

しかし、義興はこの情勢に拱手傍観していたのではなく、その懐柔策はいろいろに講じられていたのである。

 

60.2.3.浜田天満畷の合戦

陰徳太平記によれば、 大永5年3月、義興は九州筑前に渡り、筑後境に於いて4月から10月まで対陣、度々の合戦に勝利をおさめ、やがて少式資元と和解、大永6年(1526年)2月、山口に帰ったという。

この間、義興は筑前一国すらその平定に手を焼き、芸石に於いてもわずかに防長領域に接する狭小の土地を確保するに過ぎず、義興一代の苦しい時期であったし、尼子経久もまた但馬守護山名誠豊を後ろ支えとする伯耆諸族の執拗な抵抗に手を焼いていたので、芸石両国は暫く小康を保ちえていた。 

なお、当時の石見は江川を境に西部は大内、東部は尼子の勢力圏に属し、それぞれの与党の立場から、大小さまざまの紛争が断続していた。

大内義興の石見発向

大永6年3月、義興は石見守護の面目にかけて石見に発向する。 

尼子与党の三隅国兼を攻めてその六城をくだし、本城に迫り7月から12月まで包囲を続けたが容易に落城しなかった。

大内軍の石見進攻の報に接した経久は、まず伯者に対する防備態勢を整え、転じて石見へ発向した。

経久が三隅国兼の降服を知ったのは、飯石郡赤名に着陣した時であった。 

三隅落城は12月5日という。

三隅落城後、大内勢は浜田まで進出、尼子勢と相対することとなる。

浜田天満畷の合戦である。

大内勢は坂井山に本陣を構え神並山に見張りを置き、西は大陣平・妙が迫・笠松山から、東は三重山・竹迫山に至 るまで、前後左右山々谷々に軍兵を配して尼子勢の出陣を待つ。

尼子勢は瀬戸細腰に本陣を構え高田山に見張りを置き、東は琵琶首山・鴨山・岩崎山・岩鳴山に至るまで配陣し、戦機の熟するのを待つ。

岩鳴山に大山の下山稲荷社を勧請したのは、この時経久の心願によるという。 

戦いは尼子側からしかけ天満畷に於いて激戦、互いに勝敗決せず、五十余日の対戦のうちに大永6年は暮れた。

 

大永7年(1527年)正月、但馬の山名誠豊は伯耆の南条・小鴨・行松らと共謀し、尼子経久の浜田陣における膠着の隙をねらって、兵を起こした。

瞬く間に因幡・伯耆の尼子与党の諸城を攻略し、まさに出雲に迫らんと言う状況となった。

この火急の知らせが、富田城から浜田に滞在する尼子経久に届いた。

ここにおいて経久にとっては本国出雲の危急を防ぐことが先決の問題となり、軍勢を撤して急ぎ出雲に帰ったのである。

かくて石見の大半は大内の命令に服し、義興の失地回復の作戦は、ほぼその目的を達したのである。

 

石見銀山の本格的な開発が始まる

この戦で尼子は石見から後退し、石見への大内は石見の支配権を強め、石見銀山を支配下にいれた。

大内義興は神谷寿貞(筑前国博多の商人、鉱業家)に銀山開発と経営を依頼して、本格的な銀山開発が始まった。

大内義興は、銀山経営の拠点として、現在の温泉津町の山中に矢滝城を築いた。

しかし、石見銀山の支配は、この3年後には山内から小笠原の支配下となる。

だが、この後石見銀山の支配者は、尼子、毛利、再び尼子、さらに毛利へと、幾度も変遷していくのである。

 

大内義興の死去

大内義興は翌年の享禄元年(1528年)7月、安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還直後の12月20日に死去した。享年52。

跡を嫡男の義隆が継いだ。

 

60.2.4.陰徳太平記(大内義興石州発向) 

この戦の様子を「陰徳太平記」で以下の通り記述している。 

<陰徳太平記 巻第六  大内義興石州発向 付大内尼子合戦之事 >

大永6年3月、大内義興、石州へ打越え、尼子方の城6箇所攻め落とし、三隅兼隆入道が城を7月初旬より、同12月迄攻られたり。

茲に因って石州の味方より、三隅が城没落仕るに於いては国中悉く、大内家に随ひ候なんず(してしまうだろう)。

急ぎ後詰有るべしと、敷並(しきり)に注進す。

尼子経久はさらば出馬すべしとて、雲伯備美の勢を催し(かき集め)、已に富田の城を打出られける所に、同12月5日三隅入道堪えかねて降人に出ければ、義興彼城を請取って、頓(やが)て国中を打随え浜田郷に陣を張りて、尼子の出張(でばり)をぞ待たれりける。

尼子経久は赤穴(飯石郡赤名)に着陣したとき、ここで(三隅兼隆が)三隅城を出て降参すと聞いて然らば石州へ打ち入、大内と一戦すべしとて、浜田表へ打出、その間50余町を隔てて陣を据えられけれども、初めは互いに彼此の勢いを計りて、暫くは合戦もなかりけり。

或時、尼子方より牛尾遠江守馬田與三左衛門、湯信濃守等四頭合せて三千余騎濱田郷中の民屋に放火して足軽を出し、敵かかれと待ちかけたり。

二陣には、松林伯耆守一千五百余りにて続きたるが、味方深入りして働きける間、必定押立てられんと覚えければ、七八町計り隔てて備えたり。

案の如く陶入道道麒(​​大内義興家臣陶興房)青景越後守仁保右衛門太夫等五千余騎にて打って出で、足軽をかけて取り結び暫し矢軍しけるが、頓(やが)て入り乱れて、おいつまくりつ攻め戦うところに、陶が後ろに扣(ひか)えたる。同名安房守五百騎にて横槍を入れける間、牛尾等忽ち突きたてられ、散々になって引き退く。

若林が郎党共、敵勝つに乗って追いかけ、味方既に危なく見えて候。

懸(かか)りて助けさせ給へと云ひければ、若林、いやとよ、我小勢を以て懸り一戦せば、共に利を失いてん、暫く扣えて敵の馬の足を疲かして、後に懸かるものならば、我が勢寡(すくな)しと雖も敵の衆なるに勝つべきなりとて、五百余騎を先に立て、我が身は一千余騎、備えを堅固にして、待ちいたり。

かくて尼子勢三百余騎討たれて引きければ、この由経久の本陣へ注進して急ぎ援軍を出され候へと告げるに、経久些とも騒がず、我が勢を出すに及ばず。

若林伯耆守は陣に在れば、よも大崩れにはならじ。

二ノ合戦は味方の勝ちたるべきぞとて、さらぬ体にて居られければ、傍には如何に若林有効の兵也とても総軍乱れて引き退かば、縦(たと)ひ一身阿修羅が威を振ふとも争(いか)でか勝利を得べきと囁く者も有りしかとや。


去る程に牛尾、馬田等、馬の頭立て直し引き返さんとしたりけれども、大勢紛紜(ふんうん)として崩れける間力無くして七八町許(ばかり)ぞ引きたりける。

大内勢も逃げるを追ふ事頻りに、已に若林が手へ行きかかる。

陶入道長追いするな下知しけんども、早り雄の若者共吾先にと進む間、陶我が身は八百計りにて後陣に扣え、唯今味方押立られて逃げ来るべし物にも心得ぬ。

青景仁保が振る舞い哉とて歯噛みしていたりける所に、若林が先陣大内勢に渡し合せ散々に射たりけれども、勇かかったる敵勢なれば、忽ち突き立てられて颯とひく。

若林が旗本は小高き尾崎にありて下げ矢に射たりける間、敵かけ破ることを得ず。

その上、遠く追いかけたりしかば、歩行立ちの足軽は皆遅れて、弓持ちたる者は稀なりける。

故に、唯的に立って射すくめられ、仁保左太夫、大野源八等討ち死にして、残る兵共進むことを得ざる所を、若林伯耆守三間柄の槍穂の長さ三尺余りなるに、しほ頸に手引付けたるを軽々と提げ、一千余騎まっしぐらに衝いてかかる間、真っ先に進みたる青景衝きたてられて引きのけば、後に続きたる仁保心得たりと、受け止め暫しが間、戦うと見えしが今朝より数箇度の合戦に心身疲労せしかば、是も叶わず引きにけり。

これを見て、陶が先陣、江良、宮川等逃げる者共を扣き立てて懸り、これを先途と戦いけれども、さしも名高き若林、余所に聞くさえ恐ろしきに況や面前に於いておや。

一合せもすべき様無かりしか、宮川、江良もさる勇士なれば、曳曳(えいえい)声を力として射れども臆せず切れども怯まず半時計り戦う所に、若林が先陣、初度に押し立てられ弓手(左手)の方へ引きたりし者共、取って返し横合いにかかりける間、江良、宮川衝き立てられ、六七町引きたりけりを、若林二三町計り追いかけ頓て引き返し、又元の如く備えたり。

大内勢散々になって引くを見て、陶入道さればこそ味方押立てられたるなれ。

敵一定長さ追いして、我旗本へ懸り来るべしと、射手を進めて待ちけれども、若林軽く勢いを入れける間、その日の合戦は止みにけり。

尼子方にも牛尾藤三郎敵三人突き伏せ、四箇度目に頬先を射られて死す。

馬田小十郎、矢野五郎兵衛、卯山権助、小山又七等を始め雑兵かけて三百七八十人打れにけり、かくて若林、頸三十余提げさせ経久の実検に納(い)れたりければ、経久伯耆守かかる振る舞い珍しからずと雖も今日味方大崩れすべかりし所に、稀代の勇哉とぞ感ぜられける。

さてこそ経久先刻の一言、符節を合わせたりと、人皆感じあへりけれ。

さてその後大内義興、尼子経久は如何様にも有無の一戦を遂げばやとて、進まれけれども、何れも知勇相兼ねたる大将なれば、計を先にし時節を窺い徒に五十余日を経ける所に、山名政豊、伯州へ出張すると告げ来りぬ。

経久はこは由々しき大事なり、南条、小鴨、行松等この潰えに乗りて本国へ入りなば、また切り返さん事難かるべし。

急ぎ退治せざるべからずとて、頓て義興へ軍使を遣わし御辺我等対陣の事、天下に隠し有るまじく候間、諸人の耳目を驚かす一戦を遂げんと存じ候ひしか共、互いに所存協和仕り候はぬ乎。

徒に月日を費やし候ひつ然所に某事は山名等伯州へ出張するの申告げ来り候ふに因って、伯州口より、因幡・但馬へ発向仕るべしと存じ、今日当陣を引き払ひ候ふ事、誠に残念にこそ候へ云い送り、頓て開陣せられけり。

かかりしかば、石州は強半大内の命令に俯仰せり。

 

<続く>

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