48.出羽鋼
古くから邑南町一帯はたたら製鉄が盛んに行われ、特に「出羽鋼」と称する鋼は「千種鋼(兵庫県)」や「印賀鋼(鳥取県)」と共に鎌倉・南北朝時代より全国的にも有名な勝れた鋼だったと言われている。
たたら製鉄
たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。
48.1.出羽鋼
名前は「出羽鋼」ではあるが、その主たるものは「矢上鋼」であったと言われ、旧石見町の矢上を中心として作られた鋼を「出羽鋼」として出荷した模様である、と「石見町誌」は述べている。
「石見町誌」より
言い伝えによると矢上鋼は古来刀剣に用いられ、優秀な鋼として各地の刀工に広く利用されたようであるが販売される場合は出羽鋼と荷札に書かれていたと思われる。
鎌倉時代の名刀工五郎正宗は出羽鋼の産地をしらべようと荷を送って来た問屋をたどって次々に調べさせたところ、石州の出羽であることがわかって正宗十哲の一人高弟直鋼を出張させ、出羽鋼の様子をしらべさせた。
「正宗十哲」とは、刀匠「正宗」(まさむね)の高弟と呼ばれた10名の刀工のこと。
その結果出羽鋼は矢上鋼が出羽方面へ集荷されていたことがわかった。
直鋼は尚刀を鍛えるには揚刃水が必要であるが、丁度淀原に温湯という水があることをきき、その水をしらべたところ非常に良質の水なので、直綱は矢上綱とこの良質の水とで刀をうってみようと出羽に落着くことにして、鍛治を起し三代に亙って有名な出羽正宗の名刀を鍛えたといわれている(松川銀次氏史料 江戸中期の矢上村の庄屋)。
たたらは旧瑞穂町も盛んだったが、それ以上に旧石見町の製鉄業は栄え、「矢上禿」と言われるほど山野はかんな流しで削られていった。
ならば、「矢上鋼」の名前で売り出すべきである、と思われる。
しかし、実際に京都・鎌倉方面に鋼を送り出していたのは、二ツ山城(邑智郡邑南町鱒渕)の出羽氏であったことから「出羽鋼」の名を持った、ということらしい。
さて、鎌倉時代の名刀工・正宗は、この「出羽鋼」に目をつけ、正宗十哲の一人である高弟・直綱に石見国まで行かせ調べさせた。
直綱は、その非常に優れた鋼に魅入られ、また瑞穂地区淀原にて揚刃水として使える良質な水を見つけたことで、この地に留まり、その後何代にも渡り刀工を行った。
名前が分かる刀工も約80名にもおよび「出羽鍛冶」刀剣の歴史にも現れ、茎(なかご:柄で被われる部分)に「石州出羽鉄鍛之」と刻まれた刀も伝世しているほど出羽鋼はブランド品であった。
直綱の直系は出羽に居住して刀を制作し、直綱の弟子直貞の系統は長浜(浜田市)に移り、周布氏の庇護のもとに、浜砂鉄をも原料にして刀の制作を行なうようになる。
周布氏は朝鮮や明との貿易に、長浜産の刀剣類を盛んに輸出していた。
「石見刀」で総称される物には普通、出羽刀(島根県邑智郡瑞穂町)と、長浜刀(浜田市長浜町)があり、どちらも、十四世紀初頭から生産を始め江戸末期まで続いている。
<直綱作>
48.2.言い伝え
この出羽鋼に関する次の資料がある。
石見物語(木村晩翠 著 昭和7年10月20日発行)
鎌倉執権北條時頼が、御鳥羽院御番鍛治の制にならひ天下に令して名工を招いた。
此時諸國より名工鎌倉に集り相州鍛治全盛の基礎は此時に成つたのである。
日光より来つた大進坊の弟に行光あり、其子を正宗といつた。
正宗幼より其技に長じ粟田ロ傳を究め備前傳の奥技を盡し、終に発明工夫して相州傳なる一派を開くに至った。
由來刀劍の多くは反深く形細く實戰に際して往々缺損する憂があつた。
正宗之に鑑み廣く反少なく、地鐵は大板目に沸あらく刃文は大亂の剛壯なる匂深きものを作り出し古来の風を一變した。
天下靡然として其風を望み當時一流の名工と稱せらるる刀工海内より共門に集り教を乞ふに至つたのである。
此時石州よりは直綱が上つて大に其技を磨き、遂に正宗門十哲の一人と稱せらるに至つた。
十哲とは正宗の直系たる貞宗(養子) 鎌倉來國次、越中の義弘、則重、大和兼氏、金重、備前兼光、長義、山城國重、石州直綱の十工である。
直綱は刀劔史上有名なる出羽鋼の産地邑智郡出羽の刀工で、同銘数代あるが正宗の門人と
なつたのは初代一人である。
其作は鐺狭く切先はいろいろあり、鍛は板目、刃文は灣亂、五 の目、砂流もあり可也美事な刀として世に珍重せられて居る。
島根評論 (昭和14年 出版)
昔初代の工場に飄然と訪れたものがあった。
手に千本の針を携へて居て、針の先が折れたから直さしてくれと懇願したので、弟子は直綱に内密で工場に案内した。
後刻直綱工場に到り自分に勝る刀匠を工場に入れたるを覺り、直に人を四方に派して其の人を得、辭を低うしてこれを尋ねたるに、其の人帝より楯の製作を命ぜられたるに依つて、吾 が向槌を打つ人を得んと諸國を遍歴せりと告けたが、これこそ名匠五郎正宗其人であつた。
直綱請ふて其の向槌を取り協力して千本の槍を作り、更に共の穂尖を取りて一本の槍を作りて帝に献上し、兄弟の契を結んだといふ事である。
島根懸口碑傳説集 (昭和54年2月28日発行)
1)手ぼう 正宗
邑智郡阿須那村元大字宇都井居龍山八幡宮の西麓に、居龍鍛冶屋と云ふものがあつた。
昔五郎正宗が諸國を行脚して、暫らく此處に留まり、刀脇差の製作を爲したと云ふ。
現今も宮の後ろの畑中に、用水池の跡がある。
それは正宗が刀剣を錬へる爲めに、用ゐたものと傳へられて居る。
此居龍鍛冶屋に數人の弟子があつた。
其高弟某は頗るその道に熱心で、技倆も殆んど師を凌ぐに至つた。
然れども肝腎な湯加減を教へられなかった。
度々懇請するけれども五郎は教へなかった。
彼れは如何にもして之を知らんと欲し、或時師の正宗が刀を練へて仕上げの際、突如として湯の中へ手を投じた。
五郎は清浄なる湯を汚したとて、殊の外立腹し、直ちに赤熟せる火箸を以て其手を挟みたれば、何かは以てたまるべき、手は焼落ちた。
然れども彼れはこれによつて湯加減を知り有名な刀鍛冶となり、手ぼう正宗と仇名せられた。
刀劔に関しては、此地方は発達して居たと見える。
都賀村にも研屋の屋號を有する家があり、古刀を所蔵して居る人もある。
都賀西の代古屋には管領口羽春良の刀を傳へ持ち居りて、此名劔は夜中鞘鳴りを爲し「カチカチ」と云ふ音は家人を眠らしめず、然るに或夜親右衛門といふ人の肩先き斬った後は、斯かることは止んだと。
(工田都賀小學校長報)
2)出羽正宗のこと
建武の刀匠にして、世に出羽正宗と稱せられた、初代直綱が工場と稱せらるゝもの、邑智郡出羽村大字淀原と、大字山田の兩所に、各一個所づゝ残って居る。
されど兩所共、遺跡として徹すべきものは残って居 ない。
古老の言に依れば、淀原は直綱の居住せる所で、山田は貞綱、兼綱の居住地であると。
元来出羽地方は、砂鐡を採ることが盛んであった。
出羽正宗も亦、此鐡を鍛へあげて作ったものであるとのことである(或は出羽鋼は出羽地方にあらずして、矢上地方であると)。
出羽より大字岩屋に越す所に、切石と云ふのがある。
何時の頃であつたか、一人の武士が此場所を通行する時に、腰に帯びた出正宗の切味を試み んとして、其所に横はつた大石を切つけた。
石は恰も瓜を割ったやうに、眞二つになったと云ふことである。
(出羽小学校報)
48.3.日本刀の玉鋼(たまはがね)
玉鋼とは、砂鉄を用いて生産される鋼のことである。
日本刀の作刀に必要不可欠な素材であり、「たたら製鉄」における精錬法「銑押し法」(くずおしほう)によって作られている鉄素材である。
品質の高い日本刀を作刀するために、非常に純度の高い玉鋼が用いられ、その炭素量は約0.3~1.5%となっている。
玉鋼は日本古来の「たたら製鉄」の技術でのみ製造できるものである。
この技術は、古墳時代以降、1000年以の年月をかけて研究され江戸時代に「近世たたら」として完成されたと言われている。
明治期以降、近代工業化が進む中で大量生産の技術に押され、大正期にあえなく途絶えた。
その後、戦時中に軍刀を造るために復活するが、終戦時には完全に廃業となり、蓄えていた玉鋼も底をついてしまった。
新しい科学技術で代替原料を作ろうと、当時の通産省や大手企業が取り組むが、同等の品質をもつ原料は生み出せなかった。
そこで立ち上がったのが、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 である 。
日立金属株式会社の技術協力を得て、戦時中に操業した「靖国たたら」の地下構造を利用して、昭和47年(1972年)、島根県奥出雲町大呂 (おおろ) で「日刀保たたら」の名でたたら操業を復活させる取り組みが始まった。
ここで大きな役割を担ったのが、松江藩の鉄師を勤めた卜蔵家で働き、戦時中は靖国たたらで技師長である「村下 (むらげ) 」を勤めた名匠、故・安部由蔵 (あべ・よしぞう) と、故・久村歓治 (くむら・かんじ) である。
それまでは一子相伝で伝えられてきた村下の秘技を、日刀保たたら復活のために惜しみなく提供した。
そして昭和52年(1977年)、遂に日刀保たたらでの操業を成功させ、玉鋼を生み出すことに成功した。
復活と同時に、文化財保護法の選定保存技術にも選定された。
・令和4年(2022年)9月3日に放送されたNHKスペシャル「 奇跡の鉄・玉鋼の作り方! 玉鋼に挑む 日本刀を生み出す奇跡の鉄 」のダイジェスト版が次の動画である。
奇跡の鉄・玉鋼の作り方!| 玉鋼に挑む 日本刀を生み出す奇跡の鉄 |
<続く>