(第5章 第四戦隊の漂流)
21.宮古島に向かう
話を挺進第四戦隊に戻す。
昭和19年11月16日第四戦隊の第一中隊と第二中隊が先発隊として、㋹艇の70隻を日昌丸に積み込み、夜9時に宇品から九州門司に向けて出航した。
山口県の彦島で後続隊を待ち、11月29日に配當船大譲丸で門司港を出発した。
12月1日に鹿児島港に入港し、12月9日に鹿児島港を出港した。
12月12日、沖縄に到着したが、突如軍命令により、座間味島にて下船し、次の船を待って宮古島に行くことになった。
ここで、下船の命令が出たのは、第32軍の指揮下にあった第九師団を、この大譲丸で台湾に急いで送るためであった。
挺進第四戦隊は、およそ1ヵ月間座間味島に滞在した。
年が明けた昭和20年1月、いよいよ宮古島へ向かって出航することになった。
フィリピン戦線
一方、この頃フィリピンでは、レイテ沖海戦・レイテ島の戦いに勝利してフィリピン東部の制空権・制海権を握った、連合国軍が、フィリピン奪回を目指して、ルソン島に戦力を結集し、決戦を伺っていた。
1月6日に、アメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍の海岸陣地の大半を破壊した。
1月9日の朝、米軍はルソン島上陸を開始した。
日本軍
第14方面軍(司令官:山下奉文大将、参謀長:武藤章中将)
戦力:250,000人
連合国軍(米国、米領フィリピン、豪州、メキシコ)
連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将
戦力:175,000人
このルソン島の戦いは終戦まで続き、日本軍の戦死・戦病死者は217,000人を超えた。
連合国軍の戦死者は8,310人、戦傷者は29,560人だった。
21.1.悲惨な航行
座間味島阿佐海岸に宮古島に向かうための機帆船が入港してきた。
しかし、この船は何と瀬戸内海を走る100トン前後の木造帆船であり、海の荒れる日が数多く発生する冬季に大海を航行するには、真に頼りなく、不安を覚えるものであった。
機帆船とは推進用の動力として熱機関を併用した帆船である。
この不安は現実のものとなるのである。
宮古島へは二個悌隊で分進することになった。
(梯隊とは縦に長く配列された隊のことである)
輸送する機帆船が全部揃わなかったが、先を急ぐため先発と後発に分けて二個梯隊としたのである。
第一悌隊は戦隊本部隊、及び第2、3中隊であり、1月8日に宮古島へ出航した。
第二悌隊の第1中隊は、10日後の1月18日に出航した。
宮古島までの航行は第一、第二悌隊とも苦しさと困難の連続であった。
いや命がけの航行だったのである。
第一悌隊は悪天候を避けるため一時久米島で待機し、1月11日に久米島を出発した。
だが、避けたはずの時化に遭い、散り散りばらばらになって、久米島を出発したその夜に、池内群長が指揮する1隻が久米島西南35海里の海上で火災・爆発し沈没し、戦隊員6名が亡くなった。
またこれらの機帆船で直接宮古島に辿りついたものはなかった。
いずれの船も、多良間島、石垣島、西表島、与那国島、台湾などに漂着した。
多良間島、石垣島に漂着した機帆船は、そこから宮古島に向かい、辿り着くことができた。
また、西表島、与那国島に漂着した船は、石垣島に立ち寄り船の修理などを行い、ここから宮古島に向かった。
ところが、この内の1隻(八田群長指揮)が、1月22日石垣島を出港後に米軍機による襲撃を受け、新城島南方6海里海上で船は沈没し、戦隊員8名がなくなった。
台湾に漂着した者は、戦況の悪化により、台湾の部隊に所属変更となり、終戦まで台湾で過ごすことになった。
一方、第二悌隊は、1月18日の夜6隻で出発した。
第二梯隊も、久米島に一時寄港し、19日の夜久米島を出発した。
しかし、第一梯隊と同様に時化のため散り散りばらばらになった。
1月22日の宮古島周辺の空襲により、基地隊の菊本中尉指揮する1隻が多良間島東方6海里海上で炎上沈没し、戦隊員1名は救助されたが、5名が亡くなった。
残りの5隻のうち4隻は21日に宮古島に到着した。
しかし、1隻は石垣島に辿り着き、ここで数日修理・待機し、31日に宮古島に向かい、夜間に辿り着いた。
21.2.第一梯隊
先発の第一悌隊は、第四戦隊の本部、第二・第三中隊による12隻の編成であった。
原山は第二中隊第三群の6名と一緒に乗り込んだ。
船には他に船長、機関長らを含め8名が船員として乗船していた。
船底に貨物(タバコ、日用品、爆雷など)を積み、上部には舟艇6隻を積み込み1月8日に座間味を出航した。
田中は第二中隊第三群の隊員であったが、乗った機帆船は第二中隊第二群のメンバーと一緒だった。
一旦、出航したが悪天候を避けるため途中、久米島に寄港することにした。
同日に久米島に到着し、ここで二日間整備休養をおこなった。
久米島は食物が豊富な所だった。
ここで、落花生、黒砂糖、団子等も売っていたので、色々買い込んだ。
1月11日に久米島を出発して、宮古島へ向かった。
久米島を出発したその夜、暴風に襲われ、梯隊は散り散りになった。
その中で第三中隊第一群長池内らが乗る船が爆発事故による火災を起こし船は沈没し、6名が戦没した。
船長を含む船員たちも多く死亡し救出されたのは、朝鮮半島出身の船員二名だけだった。
幾人かの戦隊員が、この池内群長の乗っていた船の事故時の状況を述べている。
21.2.1.僚船の爆発その1
第三中隊浜田中隊長は、この池内群長の乗っていた機帆船の後方を航行していた。
<浜田中隊長の話>
浜田達は1月11日悪天候をついて久米島を出航した。
出航後昼間はある程度僚船は見えたが、夜間に入るや全然僚船を確認することも出来無かった。
そのうち、嵐は増々はげしくなり、船長室で寝ていても右上三十度位の所で白い波頭が船におそいかかる様に見えた。
全員船酔いはその極に達し寝たきりの状態だった。
こんな状況下なので、一緒に出港した各船との連絡もとる術もなかった。
夜8時30分頃船長より、ブリッジに来てくれと言われ、這う様にしてブリッジにいき、窓枠にしがみついて前方を見た。
そうすると、大きな波間に小さな火が見え隠れしていた。
船長に何かの信号ですかと聞かれた。
「そうではない、何かの異変が起きたのではないかと思う」と浜田は答えた。
すると、火がだんだん大きくなり横に吹き出している様にも見えだした。
何か大事が起きたのではないかと浜田は胸騒ぎがした。
浜田は直ちに船長に、あの火の方向に向かって進むよう命じた。
ひょっとしたら、米軍の潜水艦に雷撃されたのか?と思ったが、深く考える暇はなかった。
とにかく異常事態だ、仲間の救出をしなくては、と思った。
だが、波が高く前に進んでいるのか、波間にもまれているのか全くわからない。
時折スクリューの空転する音のみはげしく聞こえてくる。
しばらくすると、僚船の火災が急に激しくなり、舟艇の燃料タンクの爆発とも思われる物凄い火柱がニ、三度高く上がった。
浜田達の船は遅々として進まず気持ちのみ焦るばかりだ。
そうこうするうち一大音響と共に大火柱が上がり、その後一瞬にして真っ暗闇となった。
海は何事もなかった様に真っ暗闇のなか、ごうごうと嵐の音のみ残った。
これらは約1時間弱くらいの間に起こった出来事であった。
誰が乗船していた船か何も分からず、ただどうか近くの僚船に全員救助されることを願うのみであった。
浜田達は12日の夜が明けるのを待って捜索した。
船長がこの付近ではないかというので、辺りを探したが、何しろ波高が10m位で、その谷間に入るたびに視界は全く零に等しい状態で、誰一人、木片一つだに発見することは出来なかった。
心を後に残しながら宮古島方面に航行を開始した。
翌日13日午後3時頃、 エンジンの異変を感じ気になっていた。
そのうちエンジンが停止した。
点検した者は、エンジンの揺れが激しいのは、オイルの循環が悪く、それはホワイトメタルが溶けたためだと言った。
メタルの予備はあるので一日半もあれば応急修理可能だと言う。
直ちに機関員二人で修理 を開始した。
翌日夕方頃なんとか修理しエンジンは無事始動し、微速で航行を開始した。
航行している間、船長の島が見えたと言う声で、急いで何度もブリッジに行き、確かめたが、それは曇を見間違えたものであった。
14日午後3時頃、今度は島に間違いないと言うので出てみると、島であることを確認した。
島のすぐ近くまで船は近づいていった。
全員甲板に集合を命じた。
今まで飲まず食わずで死んだよう に横たわっていた隊員が青白い顔で甲板に出て来た。
その喜びはかくしようもなく一度に全員元気になった。
着くことは着いたが、島は宮古島でなく石垣島の東南端だった。
隊員を直ちに上陸させ石垣港に入港しドック修理の準備をするよう命じた。
21.2.2.僚船の爆発その2
1月11日に原山たち第二中隊第三群の6名は他の僚船と共に朝、座間味島を出航した。
<原山群長の話>
座間味島を出港したときは、波も静かであり、途中鰹釣りを楽しんだ。
沖縄の海は青かった。
太陽の光を反射してキラキラと輝く青い海が眩しかった。
遠くで泳いでいたイルカが近くに寄ってきて船と並んで泳ぎだした。
青く透き通った海は海中で泳ぐイルカの姿が良く見えた。
しかし、途中で天候が悪化し、久米島に寄港することになった。
ここで、3日間待機し、1月11日に宮古島に向かって出港した。
久米島から宮古島までは南西方向に直線距離で約220Kmである。
機帆船の速度はあまり早くない。せいぜい10Km/hぐらいであった。
順調にいけば、明日の午前中には宮古島に到着する。
ところが、夜半頃から荒天となり大波が甲板を洗い、百トン足らずの機帆船は波に翻弄され大揺れに揺れた。
船主の小部屋で原山たち隊員は転げまわり嘔吐と船酔いで精気を失っていた。
そんな状況の時に、突然大音響と衝撃で船は一段と大きく揺れた。
状況を確かめるべく船室を這い出してみると、真っ暗闇の遥か彼方に赤く燃えている炎が見えた。
船長は「機帆船が爆破したらしい」と原山に言った。
原山は、さては米軍の潜水艦に雷撃されたか、との考えが頭のなかを過った。
そして、次はこの船が狙われるか、と思った。
だが、どうすることもできないと思うと、不思議なくらいに落ち着いて、ままよと思いだした。
原山は無駄とはわかっていたが「どの船かわかりますか?」と聞いた。
船長は「こんな闇の中では何も分からん」と大声で答えた。
原山は「仲間の救助に行かなければ」と船長に言った。
しかし船長は「この船の機関も故障して動かなくなってしまった」と怒ったように言い放った。
「どうする! 何かできる事がありますか?」と原山は船長に言った。
「今は、どうもならん! なる様にしかならん」
船長はまだ怒っているようであった。
船長の怒りは、今のどうしようもない状況に対する怨嗟の表現だった。
暫く間をおいて「夜が明けて時化が治まったら、点検してみるが、修理出来る見込みは薄い」と、船長は言い放ったが、その声には力がなかった。
原山達は、爆発した船の近くにいた僚船が戦友を救助してくれることを祈った。
爆発した機帆船は第三中隊の第一群長池内少尉が乗っていた機帆船だった。
海に落ちた3人を助け出したが、6人が亡くなった。
出火・爆発の原因は当初敵の潜水艦の攻撃によるものと思われていた。
しかし、救助された者の話によると機関室でランタンが倒れそれが床の油に燃え移り、最後にはその火が積み荷の爆雷に引火して大爆発を起こしたものだった。
我々は、特攻隊員で死ぬ運命だが、しかし事故で死ぬのはさぞかし心残りだったろうなぁ、と原山は感傷的な気持ちになり、成仏を祈った。
池内群長の乗っていた船の割合近くを航行していた船があった。
それらの船に乗っていた隊員たちの体験談を次回記述する。
<続く>