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旅日記

望洋−66(戦隊員の復員)

39.第四戦隊員の復員


復員

復員とは軍隊の体制を「戦時」から「平時」に戻し、兵を動員状態から服務待機に戻すこと。

また、軍務を解かれた兵が帰郷することである。 

 

39.1.隊員たちの帰還

9月28日に、浦賀、横浜、仙崎、呉、舞鶴、門司、下関、博多、佐世保、鹿児島各港が引揚港に指定され、受け入れ事務所が設置されることになり、復員が本格的に開始されたのは10月に入ってからだった。

宮古島駐屯の戦隊も11月末ごろから、傷病者を優先的に復員させ、戦争調査のために残された将校等の一部を除いて12月末に殆ど復員した。

宮古島に駐留していた第四隊員達も、昭和20年(1945年)12月にそれぞれの故郷に向けて帰還した。

既述したように、唯一人第四戦隊第一中隊長が沖縄の捕虜収容所に収容され取り調べを受け、昭和21年3月に帰還した。

また、宮古島に向かう途中に時化に遭い、台湾に漂着した21名は昭和21年3月〜4月にかけて帰還した。

結局、海上挺進第四戦隊104名中23名が戦死し、生存者は81名だった。

機帆船で宮古島へ向かう海上で機帆船の爆発で6名が戦死、米軍機の空襲で15名が戦死した。

また宮古島に駐留時に空襲で2名が戦死し20名が負傷した。

宮古島は、台湾と同様に連合軍が素通りしたため、第四戦隊は23名の戦死者、20名の負傷者を出したが、他の戦隊と比べ損害の少なかった戦隊であった。

因みに、フィリピン戦線に赴いた戦隊は13戦隊あり、その総員は1356名で戦死者は1077名で戦死率は79.4%であった。

また、沖縄で戦闘した3戦隊の総員は312名で戦死者132名、戦死率42.3%だった。

部隊の3割を喪失したら「全滅」といわれ、5割で壊滅、10割で殲滅という。

第四戦隊は全滅寸前、沖縄方面の挺進隊は壊滅寸前、フィリピン方面の挺進隊は殲滅寸前の被害をそれぞれ被ったのであった。

 

39.2.中村隊員

戦隊員は皆戦って死ぬ覚悟で一日一日を生きて来たが、停戦命令を受け、敗戦を知らされた。

若き隊員たちは、何と云う情無い事を誰が決めたのかと怒っていたが、隊長等は我々だけで戦うことも出来ない、早まった行動はしないよう指示に従ってくれと慰め、その憤懣を癒やした。

暫くすると、命が長らえたことを実感するようになり、将来の事を考えるようになった。

それと、同時に戦死した戦友のことを思い出し、今の自分が生きているのも彼らの楯と神仏のお陰であると思い、この命を戦友に恥ずかしくないよう、郷里や日本の復興に捧げなくてはならない、と思うようになった。

そして、帰郷する日を楽しみに待つようになっていた。


10月、11月と戦隊員は宮古島の施設等の復興・環境整備などの作業に従事し、復員命令を待っていた。

それでもまだ食料は自給自足故、さつま芋を作り帰る日まで一生懸命働いた。

彼らは野球やラグビーなどのスポーツも楽しむことができた。

多くの戦隊員は、まだ20歳前の生命力溢れ、未来に臨む若者であった。

そして集まると、いつ帰れるか?日本はどうなっているのか?が話題となったが、誰もはっきりと言えるものはいなかった。

色々な情報が入ってくるが、それは新聞の見出しのようなもので、なにが起こったのか知るだけで、何時、何処で、どうなって、これからどうなるのかを、知る由がなく、後は想像するだけであった。

この想像は良い方向に広がったり、悪い方向に広がったりして、それを楽しんだり、悲観したりした。

そして、故郷の思い出を語り合った。

12月に入ると復員・帰還の準備に追われた。

帰郷

12月10日に待ちに待った帰還の乗船命令が降りた。

乗船日は明日の11日であると知らされ、声を挙げて喜び周りのものと抱き合って喜んだ。

多くの隊員は、その夜嬉しさで語らい合い朝方まで眠れなかった。

乗船は午後から始まった。

出港は翌12日の朝だった。

途中沖縄に寄港し、ここで新たな帰還兵が沢山乗船したきた。

船内は足の踏み場もないくらい混雑した。

しかも12月だというのに大変暑かった。

帰還船は途中で鹿児島に寄港した。

船は12月16日20時に漸く浦賀港に到着した。

<浦賀港>

すぐに下船出来ると思ったが、手続きなどで時間がかかり、そうもいかなかった。

中村は、最初は苛々しながら待っていたが、いくら待っても下船指示がでないので、諦めて気長に待つことにした。

上陸は翌17日の19時頃となった。

上陸した後は旧日本軍の兵舎に入り宿泊した。

沖縄から乗船してきた隊員と知り合いとなり、戦中の話に花が咲いた。

12月18日に復員の手続きが始まり、被服などを返納し、新しい被服を受領した。

19日の夜に部隊の会食会があり酒が賄われた。

20日、中村は10時にトラックで横須賀駅に向かい、ここから、横須賀線、東海道線で岐阜を目指した。

<横須賀駅>

横須賀で電報を打って、帰郷する事を知らせた。

中村は、母はどんな顔をしてこの電報を見るだろうか、と思い少し笑顔になっていた。

郷里の岐阜駅に着いたのは24時ごろであった。

駅から実家まで歩いて帰った。

およそ7Kmの道のりである。

道路の周りは雪が積もっていた。

歩いていると雪が降ってきた。

歩きながら、幼い頃雪道を歩いて学校に行ったことを思い出し、妙に懐かしい気持ちになった。

長良川を越え、もうあと半分である、と思うと足も軽くなった。

約2時間かかって自宅に着いた。

家の中は電灯が点いており、誰か忙しそうに歩き回っていた。

きっと母だろう、と中村は思った。

 

39.3.原山隊員

終戦を迎えたとき、原山は終戦の詔書を、野戦病院で聞いた。

その時、原山の時間が止まった、時間が動き出したのは、半日経ってからであった。

夢想だにしなかった敗戦であった。

戦局は悪いと思っていたが、必ず勝つと信じていた。

国家のため、郷里のため、祖先や家族のためと、戦ってきたのだ。

弾丸が雨あられと飛んできても怖くはなかった、ただ無駄死にはしたくなかった。

命を惜しまずに無我の境地になり戦って来たのだった。

しかし、これらは陽炎のように消えた、と思った。

原山は悔しかった。

理由もなく、ただ悔しさのみが沸き上がって来るのだった。

帰郷

宮古島陸軍野戦病院で治療をうけていたが、医薬品もない状態だったので病状は回復しなかった。

そのため、11月10日の第一次復員船で福岡陸軍病院に転属となった。

この後、小串、浜田の各病院に転送された。

浜田では食事を割と充分採ることが出来たため原山の体調は段々回復して行った。

昭和20年12月10日に召集解除の通達を受け、退院許可もでて、12月12日に退院することにした。

召集解除の通達を受け原山は復員したのである。

<召集解除>
原山は宮古島に向かう途中の座間味島にいた昭和20年1月10日に陸軍の現役満期を迎えていたが、引き続き昭和20年1月11日付けで予備役として臨時召集されていたのである。
この臨時招集を解除する通知を受けたということである。

原山は実家の父親宛に電報を打った。

「12ツキ12ヒ 13ジ50フンカワゴエチャクデモドル シズユキ」

原山は12月12日に、浜田の陸軍病院を出発した。

一見して直ぐに病み上がりの人に見えたが、足取りはしっかりしていた。

浜田駅12時30分発浜原行の列車に乗った。

列車は江津駅から三江北線に入った。

ここから、江の川を左に見ながら浜原まで進んでいく。

列車から見る江の川は6年前と変わっていない。悠々と流れている。

列車の中で聞こえる方言が耳に心地よかった。

 

原山は父親の事を思った。

きっと音信不通に怒っているだろう、と思った。

なんと、言い訳しようかと考えたが、良い案も浮かばない。

やはり小言は黙って聞くしかないだろうと、思った。

そのうち、母親が「もう、許しちゃりんさい」と言ってくれるだろう。

それより、兄や弟はどうなったのだろうか?

目を閉じると、二人の顔が浮かんだ。

二人とも、兵役に対して意気軒昂であった。

しかし、今は敗戦でさぞ落ち込んでいるのだろう。

色々な思いが湧いてきた。

これからどうしようか?落ち着いたら東京に出て働くか。

しかし、今は東京も大阪も広島も焼野原らしいので、当分は渦巻で百姓して過ごす方が良いかもしれない、等の思いが次々と浮かんできた。

気が付くと、川戸駅を発車していた。

愈々次は川越駅に着く。原山は深呼吸をした。

<石見川越駅(現在は廃線・廃駅) 昭和初期>

<石見川越駅 昭和末期>

 

父親の出迎え

石見川越駅に着き、列車から降りると、父親がいた。

父はホームまで迎えに出ていたのである。

原山はビックリしたが、「ただいま戻りました」と直立不動で敬礼した。

父助は驚いたように原山の顔をまじまじと見ていた。

原山の声は元気であったが顔は痩せ衰えてまるで、老人の様相であった。

原山が着てる服も、どこかだぶついていた。

父はよろめく様に、原山に近づき原山の手を握って「よぉ帰った、体はしゃーないか?」と尋ねた。

目には涙が溢れていた。

その涙が零れ落ちた。握った手に落ちた。

原山は驚いた、原山も父の衰えを感じていたからである。

父は慌てて手で涙を拭った。

あの気丈であった父が気弱になっている事を感じた。

「大丈夫だけー、心配しんさんな」と励ますように原山は答えた。

帰り道、二人は並んで歩いたが、初めのうちは話しは途切れ途切れで、お互いに遠慮勝ちであった。

お互いに聞きたいこと、言いたい事は山ほどあったが、どう聞いて、どう話すか整理がつかなかったからである。

渡部落を過ぎた頃になって、ようやく他人行儀も薄れてきた。

江の川を渡るために渡の耕作地を横切って行く。

原山は耕作地を見て驚いた、耕作地の半分以上が砂礫と化していたからである。

原山は父に尋ねた「畑が滅茶苦茶になっとるが、どがぁしたんかな?」

父は悔しそうに言った「三年続けて江川が大水になって、やれんことになってしもうた。渦巻は、まだましの方だがのぉ」

江の川を渡ると、渦巻までは後1Kmの距離である。

もうすぐ、渦巻に着く頃に、父は歩きながら震える声で言った「実は、敏夫が戦死したという通知が届いた。

何でも、潜水艦でドイツに行く途中に沈没させられたということらしい。

沈没させられたのは去年の8月2日らしい」

原山は「えーっ!」と言ったが続く言葉が見つからなかった。

「英利(弟)は無事だった。お前も生きて帰ったので、敏夫(兄)が戦死したのは辛いが、耐えんと仕方ない」と父は呟くように言った後、「西上屋は、お前に継いで貰わなにゃあ、やれん」と続けて言った。

原山は父の言葉を聞きながら、運命を感じた。

決死の覚悟で宮古島の戦場に向かったが、米軍が上陸して来なかったため戦死を免れた。

いや、宮古島に向かう海上で遭難にあったり、敵機の攻撃を何度か受けたが、辛うじて生き延びた。

まるで、奇跡のように生き延びたのだった。

これも、生家である西上屋を継ぐ為だったのか、俺の運命だったのかと神妙になっていた。

 

 

<続く>

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