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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−111(南北朝動乱・石見編−2 石見小笠原氏)

36. 南北朝動乱・石見編

36.1. 石見国の武将(続き)

36.1.4.石見小笠原氏について

益田氏と小笠原氏の関係は古い。

史料によると、益田氏の第3代益田兼時は阿波守護小笠原長経の娘を妻としている。

また、兼時の娘は、初代石見小笠原氏の小笠原長親(小笠原長経の孫)の妻となっている。

さらに、小笠原長経から4代後の小笠原長氏(石見小笠原氏4代目の長氏とは別人)の二人の子が益田氏の養子となり、名前を「丸毛兼頼」、「津毛経氏」とし、それぞれ美濃郡の「丸毛別府」、「津毛別府」を治めている。

益田氏と小笠原氏の密接な関係が伺える。

<石見小笠原氏系図(一部)>

 

 

36.1.4.1.小笠原長親

小笠原長親は石見小笠原氏の初代であると云われている。

生誕は不明であるが、長江寺(邑智郡川本町湯谷)過去帳によると、正和2年(1313年)に死去している。

長親は弘安4年の元寇の役(1281年)に石見の沿岸防備のため阿波国から益田氏領内に進駐してきた。

それが縁となり益田兼時の娘美夜を妻にした。

その引出物として川本周辺を領有したと思われる。

その後元寇従軍の恩賞として村之郷(邑智郡美里町)を知行地として与えられた。

この地は水害もなく有数の米の生産地であった。

ただし、長親はどうもこの村の郷に定住していないようである。

「石見小笠原氏史と伝承」(川本町歴史研究会発行)によると、

「長親の孫長胤が石見の国の宮方を頼って、村之郷に移った」とある。

 

このときに村之郷に山南城を築いたようである。

長胤は、この後武家方となって、小笠原氏は宮方と戦闘を繰り広げる。

 

36.1.4.2.邑智郡布施村 蟠龍峡鏡ヶ淵の傳説

石見小笠原氏の初代の長親に関する伝説が、邑智郡邑南町布施にある。

「邑智郡誌」の第11章伝説の布施村の項に「蟠龍峡鏡ヶ淵の傳説」として載っている。

 

<邑智郡誌>

「邑智郡誌」より

鳴美の堤から瀑聲をたどって圓筒の様に屹立した岩上に到ると、真新しい小祠が建てられて居る。

即ち龍の明神にして祠所前岩角に立つ松樹を髪かけの松といふ。

此の明神と松、そこに優婉にして悲戀な物語が潜められて居る。

弘安正應のころ四國阿波麻生庄の領主小笠原長親は、邊海防備の功により村之郷を加増移封されて渡海した。

これが後年川本溫湯城、三原丸山城を中心とした十五代凡そ三百年の尼子、 毛利の間に介在して覇を振うた石見小笠原の祖である。 

長親村之郷に移封せらるや南山城を築いて石見制覇の根據地に備へた。

當時重臣に何々太夫宗利といふ武士がゐた。 年未だ若冠ではあったが、すでに大器あり、長親これを軍師して寵用した。 

時に足利の勢威が加はり、口羽阿須那におよび遂に長親の所領にまでおよんだ。

長親勤王の志あつく賊軍を志方ヶ原に導き戰ひ、木床、提灯横手等に轉戰しに殆ん で殲滅させた。

そのとき賊軍の一隊が川を逆流して、魚切り (蟠龍峡)に押寄せるや、味方の軍勢天鹸によつてよくこれを防ぎ、敵は天瞼に阻まれて進み得ず、遂に意を断ち引返したといふことろから、後に魚断り改書された。

この戦争で軍師宗利最も戦功あり、宗利未だ妻なきを見て長親の女を恩賞として與へようとしたが、女に近づかないといふ信條を守 つてゐた宗利は容易にこれを聞うこせず、といつてまた長親の恩賞もだし難く、遂に主命従ひその女を娶つたが、数年の後厄病にかかり、生れもつかぬ醜女と化した。 

當時小間使に美女あり、何時となく宗利これに心動き、本妻を疎んする様 になったので、本妻はこれを恨み、一日宗利を誘ひ小間使を伴れて魚断りの奇勝を探った。 

峡中の絶景、明鏡台の岩頭に至り少憩中 小間使は懐中より小鏡を取出して髪のほつれを何心なく掻上げてゐると、背後から忍びよった本妻は突如小間を岩頭から突落した。 

このとき早く小間使は小鏡に映る本妻の醜面にそれを察したので、瞬間に本妻の袖を確と捕へたため、あなやといふ間に二人の女性は相重なって転落した。

これを見た宗利打驚いて岩頭に駆け寄れば、足下數十丈の岩壁を悲鳴を挙げて落せる女性の恐ろしや頭髪、何れも龍と化して空中相もつれ争ひつ、落下してゐる。

もつれ合った二人の毛髪は途中の松が枝に懸けて抜け留まり、二人の女性はそのま遙か底の深さも知らぬ圓潭に呑まれて姿を没してしまった。

宗利事の意外に痛く驚き恐れ、悲の涙にくれつつ蟇田まで帰り、遂に自刃して果てたといふ。

今その邊一帯を宗利原と稱し、蟇田の片邊りに玄太夫の墓もあり、年々あやめの花が美しく咲くので「あやめ塚」と稱し方形の墓石は幾度建て直しても常に魚断の方向に傾くといはれてゐる。

又二人の女性を呑んだ圓潭を鏡ヶ淵と稱し、以来二人の女性は龍と化して永遠に相対したと傳へられてゐる。 

夜更山腹の道路から遙か瀑聲のまにまに女の悲鳴を聞いたと もいはれてゐるが、古くから三人を神に祀ってあつたのを、昭和九年瀧の明神勧請に際してこれを合祀した。

 

ここら一帯は蟠龍峡公園となっており、「​​蟠龍峡伝説」の説明板もある。

「元和(1350年)の頃、この村之郷には小笠原長親という領主がいた。

その家臣に玄太夫宗利という武士がいた。

年若くして大器の才があり、長親は軍師として重用していた。

足利勢との戦いで、最も功績のあった宗利に長親は、恩賞として側室を与え、宗利はその女性を本妻とした。

ところが数年後、本妻は疫病にかかり、生まれもつかないほどの醜い顔になってしまった。

その頃、宗利の小間使いに美しい女性がいた。宗利はその美しい小間使いに心が動き、次第に本妻を疎んじるようになった。

本妻はこのことを嘆き、哀しみはしだいに恨みと化し、機を見てこの小間使いを亡き者にせんと思うようになった。

ある日、本妻は宗利と小間使いを誘い、蟠龍峡へ散策に出かけた。三人は「明鏡台」の岩頭で一休みすることにした。

小間使いが懐から手鏡を取り出して髪のほつれを掻き上げていると、背後から本妻がしのびより小間使いを岩から突き落とした。

小間使いは、鏡に映る本妻のただならぬ気配を察し、落ちる瞬間に本妻の着物の袖をつかんだので、あっという間に二人は滝壺に呑まれてしまった。

驚いた宗利が駆け寄ると、二人の女性は龍と化し、悲鳴をあげ、もつれあい争いながら落ちてゆく姿が見えた。

二人の姿が消えたあとには、二人の抜け留まった髪の毛だけが松の枝に残されていた。

宗利はこのことを深く嘆き悲しんだ。

蟇田という所まで帰った宗利は、己の罪の深さに堪えきれず、ついに自刃して果てた。

この蟇田には宗利の墓があり、その一帯にあやめの花が多いことから「あやめ塚」と呼ばれ、初夏には美しい花を咲かせている。

不思議なことに、宗利の墓は、いくら立て直しても蟠龍峡の方へ傾くという。

平成二十年五月 比之宮連合自治会」

 

36.1.4.3.都神楽団

この伝説は地元(邑智郡美郷町)の神楽団「都神楽団」のオリジナル演目「髪掛の松」として舞われている。

<「都神楽団」オフィシャルサイトから>

髪掛の松
※神楽団オリジナル

この物語は美郷町村之郷、蟠龍狭に伝わる伝説を、邑智郡誌・大和村誌に基づいて創作、神楽化したものです。

内容・人名等、若干事実とは異なるところがあります。 

時期は鎌倉時代末期(永仁三年頃、西暦千二百九十五年頃)、村之郷に築かれた山南城(南山城)の城主、石見初代小笠原四郎三河の守長親と足利の軍勢との合戦に始まります。

長親はその合戦に於いて功績のあった重臣、玄太夫宗利に恩賞として妻を娶らせますが、かねてより宗利に好意を抱いていた小間使の水無月はある日、宗利の妻、明日香姫が病に冒された事を機に、御薬と偽って毒を盛り、遂に明日香姫は醜女と化し、宗利は次第に妻を疎むようになり、水無月に心惹かれていきます。

明日香姫はそんな水無月の態度に気づき、水無月の美しさを妬み、胸中は次第に恨みへと変わっていきます。

明日香姫はその恨みを晴らすべく、水無月を蟠龍狭へ奇勝散策と偽って誘い出し、そこで水無月を亡き者にしようと企てるも見破られてしまい、お互いは激しく戦いますが、差し違えたまま深淵に呑まれ果てていきます。

二人を追って来た宗利は、自らの振る舞いを悔い、自害します。

その時、深淵に果てた明日香姫の怨霊が現れ、宗利を伴って昇天し、他界へと導いて行きます。

長親・その妻・美夜姫はそれぞれの御魂を滝の明神として合祀するという悲恋の物語です。

 

 

<続く>

<前の話>   <次の話>

 

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