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旅日記

望洋−67(カイロ宣言)

40.連合国の統治方針

昭和18年(1943年)11月22日からエジプトのカイロで対日方針を協議する会議が行われ、日本の無条件降伏が宣言(カイロ宣言)された。

その後米国の主導で対日戦後政策が形成されていく。

 

昭和20年(1945年)7月26日に最後通告とも言えるポツダム宣言が発せられ、日本はこれを受諾し、8月14日終戦した。

以後7年間、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じて間接統治を行うことになる。

 

40.1.カイロ宣言

昭和18年(1943年)2月、ガダルカナル島撤退、5月アッツ島全滅し、日本軍の敗色が濃くなっていった。

太平洋の島々は相次いでアメリカ軍の攻勢にあい、玉砕していった。

また東南アジア戦線でも日本軍は大打撃を受けるようになっていった。

そして、連合国軍の沖縄・本土侵攻も予測される状況となっていく。



このような戦況化、連合国は昭和18年(1943年)11月22日からエジプトのカイロで対日方針を協議する会議を開催していた。

 

この会議にはルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席らが出席し協議した。

蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。

この蒋の発言が、後の昭和21年6月に根本博元陸軍中将が、密航までして中共軍と戦う台湾の蒋介石を援助にいった一因でもあった。(「24.根本 博元陸軍中将」に記載)

米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。

カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。

 

カイロ宣言の内幕

チャーチルはカイロ会談への蔣介石の出席に反対していた、という。

一方、ルーズベルトは蔣介石を出席させ、中華民国に過剰な期待をかけていた。

ルーズベルトの狙いは、抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中華民国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の割譲や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせることだったと言われている。

呂秀蓮元副総統も「カイロ会議は当時のルーズベルト大統領が 即ち、中華民国率いる蒋介石が日本と安易に単独講和するのを避けるためだった。

日本帝国陸軍はカイロ宣言の翌年、大陸打通作戦(合国軍の航空基地の占領作戦)に成功し、中華民国軍の対日戦線をほぼ崩壊させた。

そこでアメリカは、中国大陸を反攻拠点とする当初計画を変更し、マリアナ・フィリピン経由で日本を攻略することにした。

これはカイロ宣言は戦術的誤算があったことになる。

蔣介石はカイロ会談後、連合国の重要会議であるテヘラン会談、ヤルタ会談とポツダム会談に招かれなくなった。

一方蔣介石は昭和19年(1944年)には裏で繆斌を通じた対日和平工作を行っている。

中華人民共和国がカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張していることに対して、台湾独立派は、カイロ宣言は有効的な宣言ではなかったと次の3点を挙げていう。

・時間と日付が記されていない

・3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない

・そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない

 

カイロ宣言内容



以下は上記文書の日本語訳の一部(「日本外交年表並主要文書」下巻、外務省編(1966)から転載。)

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣は、各自の軍事及外交顧問と共に北「アフリカ」に於て会議を終了し左の一般的声明を発せられたり。

 

各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり

三大同盟国は海路陸路及空路に依り其の野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意

表明せり右弾圧は既に増大しつつあり

三大同盟国は日本国の侵略を制止し且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず

右同盟国の目的は日本国より千九百十四年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り

日本国は又暴力及貪慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし

前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す

右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し日本国の無条件降伏を齎するに必要なる重大且長期の行動を続行すべし」



40.2.米国務省における対日政策

米国による大東亜戦争後の日本統治の計画は、既に開戦した2年後の昭和18年(1943年)7月に原型が作成されていた。

経緯

戦後政策を検討する特別調査部領土小委員会に昭和17年(1942年)8月に極東班が編成され、主任にクラーク大学教授で日本専門家のジョージ・ブレイクスリーが就任した。

極東班での研究を踏まえ、翌年7月、米国の基本方針をまとめた「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」を起草した。

 

ブレイクスリーは、これをもとに昭和19年(1944年)3月「米国の対日戦後目的」を作成した。

この案は日本に対して寛大なものであったため、国務省最高レベルの委員会である戦後計画委員会で強く批判されたが、同年5月にまとめられた修正版も、依然として対日宥和的な政策を基調としていた。

この案は対日政策を三段階に分け、第一段階では海外領土の剥奪や武装解除などの厳格な占領、第二段階では緊密な監視下での軍国主義の一掃と民主化、そして第三段階では日本の国際社会への復帰が想定されていた。

対日占領政策の「原型」ともいうべきこの文書をもとに、のちの「初期対日方針」が作成された。

この「初期対日方針」は、後で述べる。

 

米国の対日戦後目標

<「戦後の日本に対する米国の目標」修正版(PWC108b, CAC116b)May 4, 1944>



    1. 基本目標

(a) 日本が米国および太平洋地域の他の国々にとって脅威となることを防止しなければならない。

(b) 米国の利益のため、日本に他国の権利と日本の国際的義務を尊重する政府の存在が必要である。

これらの基本目的を達成するには、米国の政策を日本の戦後発展の3つの明確な期間に分けて検討する必要がある。

最初の期間は、日本に対する即時降伏条件が施行され、日本は軍事侵略に対する必然的な報復として占領の厳しい規律を受ける期間である。

2番目の期間は厳重な監視期間であり、日本が他の国々と平和に共存する意志と能力を示すにつれて、制限は徐々に緩和される。

3番目の期間は米国の究極の目標、すなわち平和国家の家族における責任を適切に果たす日本を目指す期間となる。

 

(以下、各期間の具体的な行動が列記 )

第Ⅰ期

カイロ宣言に従い、日本は満州、委任統治領および日本軍占領下のすべての地域から撤退し、朝鮮、台湾、および第一次世界大戦開始以来獲得したすべての島々を奪われる。

日本の陸軍および海軍は武装解除および解散され、その陸軍および海軍施設は破壊され、国は軍の占領および統治下に置かれる。

 第Ⅱ期

(a) 日本の侵略を防ぎ、軍の治安維持を容易にするために必要な国内または国際基地が開発される。

(b) 軍国主義を根絶するための措置には以下が含まれる:

(1) 再軍備を防ぐための軍事査察。

(2) 戦争能力の発展を防ぐための経済統制。

(3) 新聞、ラジオ、映画、学校を通じた民主主義思想の奨励。

(4) 日本国内の穏健派に、軍国主義は日本国民の真の利益にとって破滅的であることを国民に納得させる責任を印象づけること。

(5) 日本国内の自由主義的政治勢力と自由主義的思想を最も効果的に強化し、国民に対して実際に責任のある民政の発展を助けるその他の措置を採用すること。

(6) 超国家主義的社会を根絶すること。

(c) 日本は、国際安全保障に必要な制限の枠内で、賠償問題に十分配慮しながら、合理的な基準で世界経済に参加し始めることが認められる。

第Ⅲ期

第3期に講じられるべき具体的な措置は、政治的であれ経済的であれ、現時点では決定できない。

しかし、従属国を失うことによって日本帝国が崩壊すると、根本的に重要な恒久的な調整が必要になるという事実を念頭に置く必要がある。

 

<続く>

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