見出し画像

旅日記

望洋−12(様々な入隊(続き5))

5.様々な入隊(続き5)

5.6.日本本籍以外の人々

船舶特幹隊に入隊した若者は、日本が本籍の者だけではなかった。

台湾、朝鮮、樺太の本籍地を持つ人々も入隊している。

 

5.6.1.台湾からの入隊

台湾から特幹一期生として入隊した隊員は5名いた。

田山寛

田山寛(日本名)(本籍:台湾・台北)は三人の仲間と、台湾から軍用船に乗って、2週間余りの航海を経て香川県豊浜に来た。

田山達が入隊したのは、入隊式より2週間遅れの4月26日のことだった。

田山は海上挺進第十四戦隊に編入されてフィリピンに向かった。

第十四戦隊は104名のうち83名が戦死(戦隊長、中隊長は全員戦死)している。

基地第十四大隊は1030名中、930名が戦死(大隊長生還)した。

田山は昭和21年にフィリピンより復員し、台北に住んでいたが、1991年に米国のロスアンジェルスに移住した。


高山敬三

田山達とは別に入隊した若者がいた。

高山敬三(日本名)(本籍:台湾・台北)である。

高山には、兄とともに東京に住んでいた。

高山の兄は早稲田大学機械工学科を卒業し日本の民間航空会社で設計者として働いていた。

高山は東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)在学中に船舶特幹生に応募した。

だが、その合格通知がなかなか来ないので、軍人を断念し、学業に専念しようとしていた。

ところが、合格通知が突然届き、直ぐに四国に向かい船舶特幹生一期生として入隊した。

合格通知が遅れたのは、本籍が台湾であったため担当者が躊躇したのではないかと思う。

この高山は入隊後、台湾から4人が入隊したことを知り、ある夜田山の寝室に訪ねて来た、と田山が戦後に言っている。

高山も海上挺進第十戦隊に編入されてフィリピンに向かった。

第十戦隊は104名のうち95名が戦死(戦隊長生還、中隊長は3名戦死)している。

基地第十大隊は1036名中、978名が戦死(大隊長生還)した。

 

その他の台湾出身者

他の三名も台湾台南、台湾塀東、台湾宜蘭の出身で、それぞれ十一、十三、十七戦隊に編入されたがフィリピン島で戦死した。


5.6.2.朝鮮・樺太から

朝鮮・樺太から入隊した隊員については、戦死者名簿しか手元に資料がないので詳しく述べることが出来ない。

戦死者は次のとおりである。

朝鮮本籍者 7名 6名がフィリピン島、1名が済州島沖で航行中輸送船が撃沈され戦死

樺太本籍者 1名

 

5.7.将校たちの例

海上挺進隊の戦隊長には陸士51期〜54期までの少佐、大尉を当て、中隊長には陸士55期〜57期までの中・少尉を当てた。

昭和19年(1944年)7月、久留米第一陸軍予備士官学校に勤めていた秋川は学校長に呼ばれた。

秋川は当時23歳の若い陸士54期出身の大尉だった。

樋口校長は秋川に言った。

「決死攻撃部隊長要員として本校在職中の陸士51期から54期生中で、責任感の強い適任者を一名推薦するようになったので、貴官に白羽の矢を立てたがどうだろうか?生還を期せられない特殊任務だからよく考えて後で返事をしてくれ」

秋川は、この時生還できないというだけは理解したが、 どこでどんなことをするのか全くわからなかった。

しかし、血気盛んな若い大尉だったので、当然のように即座に引き受けた。 

だが、秋川はその夜は週番士官室の寝台にもぐり込んでも興奮して熟睡できなかった。

その夜を境にして秋川は悟りを開いたような気持ちになり、冷静に自分を見つめるようになった。 

久一士校(久留米第一陸軍予備士官学校)からは、海上挺進第八戦隊要員として、戦隊長秋川大尉(陸士54期)、第一中隊長金村中尉、第二中隊長山岡中尉(いずれも陸士56期)及び群長要員として幹候10期の見習士官10名が選出された。

昭和19年8月18日の第八戦隊の仮編成に間に合うようこれら13名は学校の名誉を一身に担い、樋口学校長以下在校全職員、全校生徒の見送りを受けて懐かしい校門を後にした。

香川県小豆島にある船舶兵特別幹部候補生隊で、第三中隊長中岡少尉(陸士57期)と隊員の特別幹部候補生第一期の90名を加えた合計104名で9月18日に正式に挺進第八戦隊の編成を完了した。

ちなみに第七戦隊は前橋、第九戦隊は熊本の各予備士官学校から幹部要員を充当している。

第八戦隊

第八戦隊の任務地はフィリピン島。

第八戦隊は9月22日に宇品港を出航し、 門司で舟艇を受領した後、部隊本部と第一・第三中隊の主力は山萩丸に、第二中隊は神悦丸に乗船した。

この船団は10月初旬に台湾高雄港に着き、戦隊員は高雄に一旦上陸し、次の出航を待っていた。

ちょうどこの時に、台湾沖で米軍との航空戦となり、山萩丸は高雄港内で、米軍機の空襲を 受けて撃沈され、 積載中の舟艇全部を失った。

このため本隊は、 高雄市内の旭国民学校に駐屯し、ここで内地からの舟艇補給を待っていたが、情況は逐次悪化し、遂に比島向けの出航は不能となった。

そこで、第五戦隊、第二十戦隊と同様に台湾軍に編入された。

第五戦隊も同様に高雄港内で米軍機の空襲を受けフィリピンへの航行が不能となっていた。

また、第二十戦隊は東シナ海の済州島沖で米軍潜水艦の電撃を受け、輸送船の秋津丸が沈没し、48名の隊員が戦死した。

漂流中の隊員の一部は佐世保の駆船艇に救助され、またその他の生存者は海防艦に救助され台湾高雄に着いた。

第五戦隊と台湾に着いた第二十戦隊の隊員は台湾軍に編入された。

一方、第二中隊の山田中尉他30名が乗船していた神悦丸は、 本隊の輸送船が高雄港で空襲を受けた際は、馬公港に退避しており、ここも空襲は受けたが同船は沈没を免れたため、先発として 11月2日高雄を出航し7日にマニラに着き、12月の2日に任務地である東部タヤパス州マウバン地区に展開し、 本隊の到着を待っていた。

しかし 本隊の到着が極めて困難視されるようになったため、同じ地区に展開していた第七戦隊に編入されることとなり、第七戦隊の第四中隊と呼ばれた。

第八戦隊の戦死者は隊員104名中30名(戦隊長生還、中隊長1名戦死)

 

第八基地大隊

基地大隊は、戦隊の舟艇秘匿陣地の設営 (秘匿壕の作成、宿営設備の建設等)及び舟艇の整備、並びに舟艇の出撃に際しての泛水作業を主とするのであるが、それらの任務遂行後は陸上守備隊としての戦闘任務も併せもっていた。

このための地上戦闘用の兵器として、重機関銃四、軽機関銃十二、重擲弾筒十六程度をもち、各下士官兵は原則として三八式・九九式 の小銃と銃剣をもっていた。

また一部には大隊砲を配置されたものもあった。

この基地隊の要員は、昭和19年8月に発令された動員召集により、宇品を主とするほか、東京・甲府・仙台・会津若松・新発田・前橋・水 戸・金沢・秋田・盛岡・名古屋・高槻・京都・姫路・岡山・善通 寺・久留米等の全国各地に集められた補充兵役及び予備役の者で充当した。

これらの隊の指揮者である将校も、主として召集または幹部候補生出身の予備役将校が多かった。

これらから、基地大隊の隊員は兵士としての必要な訓練を十分に受けていなかった、と思わざるを得ないが、確証はない。

 

第八基地隊はフィリピン島への米軍の上陸の予想が深まるに伴い、各基地大隊は何れも防備兵力として活用されることとなった。

第八基地隊は戦況に応じて各地に転戦した。

そして昭和20年3月1日から5月20日までの間、マニラ市東方で米軍との戦闘に入り、この間逐次多くの戦死者を出した。

このような相次ぐ転戦により、同大隊の戦死者は増えていった。

総数891名中生還した者は、僅かに13名しかいなかった。

第八基地大隊は隊員891名中878名が戦死(大隊長生還)

この様に基地大隊は防備兵力として活用され、戦隊以上の戦死者を出した。

 

5.8.フィリピン方面の戦隊、基地隊の戦死者数

話は逸れるが、

フィリピンに赴いた戦隊・基地隊の戦死者は次のとおりである。

なお、フィリピン島には
第五~二十戦隊が赴いている(但し五、二十、及び八戦隊の一部は台湾止まりとなっている)

第五戦隊の戦死者は隊員104名中3名(戦隊長、中隊長全員生還)
第五基地大隊は930名中702名が戦死(大隊長戦死)

第六戦隊の戦死者は隊員103名中86名(戦隊長生還、中隊長全員戦死)
第六基地大隊は881名中754名が戦死(大隊長戦死)

第七戦隊の戦死者は隊員104名中96名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第七基地大隊は948名中891名が戦死(大隊長生還)

第八戦隊の戦死者は隊員104名中30名(戦隊長生還、中隊長1名戦死)
第八基地大隊は隊員891名中878名が戦死(大隊長生還)

第九戦隊の戦死者は隊員103名中74名(戦隊長、中隊長1名戦死)
第九基地大隊は902名中807名が戦死(大隊長戦死)

第十戦隊の戦死者は隊員104名中95名(戦隊長生還、中隊全員戦死)
第十基地大隊は1036名中978名が戦死(大隊長生還)

第十一戦隊の戦死者は隊員104名中93名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十一基地大隊は908名中797名が戦死(大隊長生還)

第十二戦隊の戦死者は隊員105名中96名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十二基地大隊は905名中841名が戦死(大隊長戦死)

第十三戦隊の戦死者は隊員104名中86名(戦隊長、中隊長2名戦死)
第十三基地大隊は896名中762名が戦死(大隊長戦死)

第十四戦隊の戦死者は隊員104名中83名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十四基地大隊は1030名中930名が戦死(大隊長生還)

第十五戦隊の戦死者は隊員105名中93名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十五基地大隊は903名中848名が戦死(大隊長戦死)

第十六戦隊の戦死者は隊員104名中88名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十六基地大隊は873名中565名が戦死(大隊長戦死)

第十七戦隊の戦死者は隊員104名中94名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十七基地大隊は890名中866名が戦死(大隊長戦死)

第十八戦隊の戦死者は隊員106名中87名(戦隊長、中隊長2名戦死)
第十八基地大隊は928名中902名が戦死(大隊長戦死)

第十九戦隊の戦死者は隊員106名中99名(戦隊長、中隊長全員戦死)
第十九基地大隊は932名中754名が戦死(大隊長生還)

第二十戦隊の戦死者は隊員104名中49名(戦隊長生還、中隊長1名戦死)
第二十基地大隊は897名中876名が戦死(大隊長戦死)

 

これらのうち、フィリピンの赴いた隊員たちの合計は次のとおりである

戦隊   総員  1609名  戦死者 1200名 戦死率 74.6%
     
基地隊  総員  14750名      戦死者  13151名    戦死率 89.2%

つまり、フィリピン島に渡った戦隊、基地大隊は米軍の圧倒的な兵力に壊滅・殲滅させられたのである。

しかしこれは、陸軍の挺進隊に関する戦死者だけである。

日本軍全体のフィリピンでの戦死者は50万人といわれている。

 

<フィリピン ルソン島の主な戦地>

 

イントラムロス(マニラにある城郭都市)内の軍事遺跡

<​​サンチャゴ要塞跡>
もともとは海賊を防ぐために建てられたものだが、スペイン統治時代に城壁化され、アメリカや日本軍も占拠していたことがある。

<​​​​バルアルテ・デ・サンディエゴ要塞>

​​

周りの庭園に、盆栽らしき鉢が並べてあった。

<旧日本軍大砲>

<サン ガブリエル堡塁>

 

『(様々な入隊)の節終わり』

 

<続く>

<前の話>   <次の話>  

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「物語(望洋)」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事