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旅日記

望洋−57(終戦)

32.終戦

昭和20年(1945年)7月2日、米軍は沖縄作戦終了を宣告した。

この後米軍の矛先は本土に向けられ始めた。

7月に入ると食糧事情は更に悪化し、先島集団の重点方針は自活に置かれ、軍民あげての食糧増産態勢が進められた。

しかし、この頃からは緊張感がやや弛み始め、食料の争奪をめぐる軍民のトラブル、将兵の士気低下、厭戦気分などが見受けられるようになった。

 

32.1.ポツダム宣言

7月26日ポツダム宣言が発表された。

ポツダム宣言

昭和20年(1945年)7月26日、ドイツのベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(チャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連書記長)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。

<ポツダム会議>

ポツダム宣言は、この会談の期間中、チャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。

事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。

 

日本への伝達

日本への伝達は東京時間7月27日午前5時にOWI(米国戦時情報局)の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。

重要な部分は4時5分から日本語で放送された。

 

27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。

28日、新聞各社は論評を加えて報道した。

讀賣報知(読売新聞)や毎日新聞などでは、このポツダム宣言を嘲笑うかのような見出しをつけて報道した。

<読売新聞:『笑止、對日降伏条件』>

<毎日新聞:『笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂』>

陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」と述べた。

 

米トルーマン大統領は日本がポツダム宣言を受諾しないことを、確信していたと日記に記載していた、と云われている。

こうして、宣言の拒否を、原子爆弾による核攻撃を正当化させたのであった。

そして連合軍(米軍)はついに8月6日に原爆第一号を広島に、次いで8月8日長崎に第二号を投下、未曾有の惨害を与えた。

政府及び軍部は国民一般に及ぼす影響を恐れて新型爆弾出現だけ報じ極力平静を装ったが、内心の動揺は避けられなかった。

8月9日これに追い討ちをかけるようにソ連極東軍は日ソ中立条約の精神をふみにじって満州に侵入、精鋭兵力の大部分を引き抜かれて張り子の虎と化した関東軍を打ち破ってまたたく間に全満を席巻、日本は今や四方八方に敵の攻撃を受け断末魔の関頭に立たされるに至った。

 

32.2.ポツダム宣言受諾

斯くて14日の御前会議で終戦の聖断が下され、15日ポツダム宣言受諾が放送された。

15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され、国民及び陸海軍に「ポツダム宣言の受諾」と「軍の降伏の決定」が伝えられた。

この昭和天皇の朗読ラジオ放送は「youtube」に色々アップロードされている。

次はその一つである玉音放送  現代語訳/ふりがな付

無条件降伏

日本の降伏が「無条件降伏」であるか否かは論争がある。「無条件降伏」についてはいくつかの見解がある。

国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されているからだ。

ただし、軍隊の無条件降伏という点については一致した見解がなされている。

 

大東亞戰爭終結ノ詔書

<1頁目>

朕󠄁深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ玆ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ吿ク

朕󠄁ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通󠄁吿セシメタリ

抑〻(そもそも)帝國臣民ノ康寧(こうねい:安らかな生活)ヲ圖(はか)リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄁ノ拳々(けんけん)措カサル所󠄁曩(さき)ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾󠄁スル(望み願う)ニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固(もと)ヨリ朕󠄁カ志ニアラス然ルニ交󠄁戰已ニ四歲ヲ閱(けみ)(交戦は既に四年を経た)朕󠄁カ陸海將兵ノ勇戰朕󠄁カ百僚有司(官僚)ノ勵精朕󠄁カ一億衆庻ノ奉公󠄁各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ殘虐󠄁ナル爆彈ヲ使󠄁用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害󠄂ノ及フ所󠄁眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尙交󠄁戰ヲ繼續セムカ終󠄁ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延󠄁(ひい)テ人類ノ文󠄁明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕󠄁何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕󠄁カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所󠄁以ナリ

朕󠄁ハ帝國ト共ニ終󠄁始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺󠄁憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺󠄁族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕󠄁ノ深ク軫念(しんねん)スル所󠄁ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋󠄁常ニアラス爾(なんじ)臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨(おもむ)ク所󠄁堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス

朕󠄁ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情󠄁ノ激スル所󠄁濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道󠄁ヲ誤󠄁リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕󠄁最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道󠄁遠󠄁キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建󠄁設ニ傾ケ道󠄁義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意ヲ體セヨ

(御名御璽)

昭和二十年八月十四日

內閣總理大臣 男爵󠄂 鈴木貫太郞
海 軍 大 臣  米內光政
司 法 大 臣  松阪廣政
陸 軍 大 臣  阿南惟幾󠄁
軍 需 大 臣  豐田貞次郞
厚 生 大 臣  岡田忠彥
國 務 大 臣  櫻井兵五郞
國 務 大 臣  左近司政三
國 務 大 臣  下村宏
大 藏 大 臣  廣瀨豐作
文󠄁 部 大 臣  太田耕造󠄁
農 商 大 臣  石黑忠篤
內 務 大 臣  安倍源基
外務大臣兼󠄁
大東亞大臣  東鄕茂德
國 務 大 臣  安井藤治
運 輸 大 臣  小日山直登

<1945年8月14日、ホワイトハウスにて日本のポツダム宣言受諾を発表するハリー・S・トルーマン米国大統領>


国民にはこの間の経過が秘密にされていたため、当初日本の無条件降伏は一般に理解されなかった。

先島集団では国民の動揺を避けるため、また日本が負けたという印象を与えるのを避けるため、 上級司令部から何らかの指示がある迄は現態勢のままで進むことを決め、有事即応の配備をくずさなかった。

15日以降は敵機の来襲は殆んど見られず 、ときたま偵察飛行が行われる程度で戦争は終ったという解放感が平民の間に流れ始めた。

一面連合軍の支配化に入った場合、どういう扱いを受けるか、復員はどうなるか、台湾へ疎開した人々は無事に帰されるだろうか、など不安と焦燥感が入り乱れ、一種の虚脱状態が生じた。

集団では光輝ある国軍の有終の美を全うするため、軍紀風紀を厳ならしむるよう各部隊に命じ、一条乱れぬ統制と団結を命じた。

17、18日頃から少数の米軍機が飛来、投降勧告ビラを撒布したが、十方面から別命ある迄現体制を解かないよう指示を受けていたので 、何の対応もしなかった。 

 

32.3.先島集団長納見中将の終戦訓示

昭和20年8月18日先島集団長の納見中将は終戦にあたり、訓示を麾下全将兵に出した。

集団將兵ニ告グ

我等嚢(さき)ニ大命ヲ奉ジ宮古島二進駐シテヨリ正二一周年鉄壁ノ堅陣島ヲ蔽ヒ必勝ノ成算滿身ニ溢レ烈々タル闘魂天ヲ衝ク 敢テ米敵ヲシテ本島ヲ窺(きゆ)セシメズ以テ昨日ニ及ベリ。
我等ノ期待セシモノハ水際二覆滅スル敵ノ舟艇 山野ヲ埋メル敵ノ死屍ナリキ。

(はか)ラザリキ今日、日本史上未曽有ニシテ悲痛ナル戦闘終結ノ大命ヲ拜セントハ、過ギシヲ顧ミ將来ヲ思ヒ萬感痛恨極リナシ 然リト雖モ聖詔既ニ柄乎トシテ我等臣民ノ進ムベキ途ヲ示シ給と剰へ我等軍人ノ忠勇ヲ嘉セラレ衷情ヲ掬シテ懇ニ諭シ給フ。
大臣又軍人ノ守ルベキ進止ノ要綱ヲ訓諭セラル。 
我等ハ只管聖諭ヲ奉ジ大臣ノ訓示ヲ体シ悲噴ヲ抑へ慷慨ヲ制シ愈々一糸乱レサル森嚴(秩序正しくおごそかなさま)ナル軍紀ヲ維持シ鞏固(強固)ナル団結ヲ保チ倍々軍人精神ヲ砥石シ忍ど難キヲ忍ビ千辛萬苦二堪へ縦ヒ剣ヲ捨テ銃ヲ失フ日アルトモ心中ノ剣ヲ愈々磨キ冷静其ノヲ守リ困苦艱難ニ奉ズルノ覚悟ナカルベカラズ

昭和二十年八月十八日

集団長 納見敏郎

 

数日後方面軍より米軍の指示に従い、停戦交渉のための軍使を沖縄に派遣するよう指示が届いた。

集団は米軍の指示に従って停戦についての下交渉のため、軍使として独立混成第五十九旅団長多賀少将、集団参謀長一瀬大佐、同杉本参謀、海軍警備隊司令村尾大佐を第十方面軍差し回しの旅行機で沖縄に派遣した。

軍使一行は嘉手納の米軍司令部で停戦協定についての大綱を相談して帰還、8月23日集団長納見中将、一瀬参謀長、杉本参謀の一行が米軍機で沖縄に飛び、正式に停戦協定に調印した。

8月25日先島方面の日本陸海軍部隊に対し戦闘行為停止命令が下令され、完全な停戦が実現した。

翌26日米海兵阪准将の指揮する海兵隊およそ二千名が進駐し、測候所下の広場にキャンプを張って日本軍の武装解除にあたった。

集団では兵器奉還と称してあくまで自主的に武装を解除する形式をとった。

接収兵器は将校の私物である日本刀(軍刀)ピストル、双眼鏡に迄及んだため、武装解除後は丸腰となった。

然し階級章などは復員するまで着用することを許されたので、一応軍隊としての秩序、規律は保たれた。

終戦時における先島集団兵員数は次のとおりであった。

海軍を除く先島集団合計(大東地区を含む)は将校1,503名、准士官、下士官5,414名、 兵226,888名、軍属1,023名、総計34,828名。

軍旗奉焼

終戦後集団が一番頭を悩ました問題は軍旗の処理であった。

万一米軍の手に入るようなことがあれば国軍全体の恥辱であり、建軍史上又とない汚名を遺すことになる。

然し幸いにして米軍は軍旗の取り扱いについては何らの指示、容喙もしなかったので、大本営の指示に従って奉焼処分に決し、8月31日(一資料によれば9月15日)野原岳洞窟司令部の中で納見集団長、集団幹部、各連隊長、旗手などが立ち会いの下に焼却した。

この日奉焼したのは歩兵第三連隊、同三十連隊、騎兵第二十八連隊旗の三流で、これにより歩兵第三連隊は創設以来72年、歩兵三十連隊は49年、騎兵第二十八連隊は五年の歴史を閉じた。

8月30日、幕僚、部長が集合され、参謀長から「今夜零時師団長室を出て、戦斗司令所の洞窟にて、軍旗の奉焼処分を行うので時間厳守で極秘に軍旗を奉持して行く」と下令があった。

正零時、師団長室を出発、暗夜無燈火、静々と進む。洞窟の戦斗司令所入り口から約4、50m入った通路の右側一室に勅諭、勅語、その上に軍旗を右から左に交叉しておかれた。

「点火せよ!」との声でガソリンを注ぎ、マッチで点火した。

軍旗は薄い煙と炎に変わっていった。

軍旗は永い歴史の間、数々の武勲を飾り、連隊の表徴として将兵と運命を供にした。

その軍旗は、それを語り訴えながら、今の無念さを表すように、焼け縮、悶えながら灰に変っている、と参列者たちは涙を滲ませて感じていた。

<歩兵第三十連隊 軍旗>

 

 

<続く>

<前の話>   <次の話>

 

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