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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−199(毛利の石見進出)

62.戦国の石見−5

弘治元年(1555年)、陶晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内家は急速に衰退していった。

弘治3年(1557年)3月、毛利元就は山口へ侵攻する。

義長は寡兵をもってよく防戦したが、4月3日に陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した。

享年26、辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

安芸、備後を掌握し、さらに防長二州を手に入れた毛利元就は、石見の攻略を狙う。

中でも、莫大な戦費を生み出す石見銀山の手中は最大の目標であった。

もはや大内氏を気にせず、石見銀山を奪取することができるのである。

 

こうして尼子・大内の戦いは、尼子・毛利との戦いに変わっていく。

 

62.1.毛利の石見進出

62.1.1.毛利の石見銀山奪取

毛利元就は防長攻略と併行して石見の尼子・大内両勢力を一挙に撃砕しようとしていた。

そこで、石見の諸豪族と多くの親戚関係を結び古来「石見の吉川」と称せられている吉川家の当主となった、二男の元春を送りこみ、その懐柔征服に当らせようとした。 

元春自身としては、父元就に従って防長戦線で働きたいと希望していたが、父の命に従い弘治2年(1556年)2月18日、宍戸隆家・口羽道良らを伴い、岩国を出発して石見に入り邑智郡阿須那に屯営した。 

石見征服のための当面の目標は、石見銀山を奪還して尼子勢力の石見進入を阻止することにあった。

石見における、尼子方の最大勢力は邑智郡川本の温湯城に拠る小笠原長雄である。

毛利は、すでに備後の山内隆通、 邑智郡田所の出羽元祐・沢谷の佐波興連・隆秀父子、那賀郡跡市の福屋隆兼らとの連携を固めており、さらに安芸新庄との連絡をとるため田所大草に鳥屋が尾と高原安田に黒岩山の二カ所に築城して、小笠原包囲の態勢を整えていた。

大森銀山奪還作戦中における尼子・小笠原の挟撃を警戒して、小笠原氏を封じこめておこうとしたのである。

(余話)

山内隆通

山内氏は尼子氏に代々忠節を尽しており、尼子氏とは遠縁にあたる豪勇な武将であった。

策略家の毛利元就はこの山内氏を抱き込むことを考えた。

そこで、元就は邑智郡琵琶甲城(矢羽城とも)城主の口羽下野守通良を使いとして、山内隆通のもとに送り、毛利氏へつくことを説得させた。

口羽隆道は礼を厚くし、交わりを深め山内氏に近づき、、毛利氏へつくことを説得した。 

隆通は隆道の説得に迷っていたが、元就と晴久の人柄をくらべ、元就が文武に勝ると判断して、毛利氏に従うことを約束したという。

 

口羽通良

口羽氏は毛利氏の有力庶子家である坂氏の一族志道元良の次男通良が、石見国邑智郡口羽村を領して、口羽氏を称したことに始まる。

享禄4年(1531年)頃に口羽通良は琵琶甲城を築き拠点とした。

なお、「通良」の名乗りは山内隆通を毛利方に勧誘するため交渉にあたっていたとき、山内隆通から一字を送られたものである、といわれている。

通良、広道、通平、元通と続き、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に萩に移住し、江戸時代は萩藩士として存続した。

萩の住居は現在も残っており、その「口羽家住宅」は現在国の重要文化財に指定されている。

また、口羽通良の墓は邑智郡邑南町下口羽の宗林寺境内にある。

<口羽氏系図 石見誌より>

<萩 重要文化財 口羽家住宅>

 

山吹城奪取

既述したように、小笠原長雄は吉川元春勢の大森銀山攻撃の意図を察知して銀山救援の部隊を送りこもうとし、これを阻止しようとする佐波興連勢との衝突が起こった。

これが3月の吾郷の竹、 川下多田の飯山の合戦である。

<弘治2年3月10日晴久より小笠原弾正少弼へ> 
先日竹表に於いて御動きの時、御親類大蔵亟殿首一つ討捕られ候、毎事各心懸けの段快然候、能々賀与せらるべく候、此方もその段申候、仍って三百疋大蔵亟に対し遣はし候、猶各申すべく候、恐々謹言、

<弘治2年3月10日長雄より大蔵亟へ>
去る一日竹に至り動きの時首一つ打取り候、高名の至りに候、毎事心懸けの段比類無く候、弥扶持を加えらるべく候、猶以って 忠儀肝要に候也

<弘治2年3月10日興連より尾原弥兵衛へ>
去る四日、同七日竹表にて能き矢射候由に候、神妙の至りに候・・・(後略)

<弘治2年4月11日興連より尾原弥兵衛へ>
去月二十七日、飯山に至り相働きし時・・・(後略)


 <弘治2年4月4日、長雄より仙岩寺宗泉蔵司へ>
今度飯山に於いて佐波勢取懸かり、そのうへ寺領まで討下りし処、即時切崩し追払ひ、小勢として多勢引請け数人討捕り疵を被むられ候段偏へに将軍地蔵の御情の力浅からず存じ奉り候、比類無き高名、誠に面目感入の至りに候、殊に先年温井籠城中連日御祈禱精魂を抽んでられ候、仍って五拾貫文の地付これを進め候、諸役免許自今以後御知行あるべきものなり、弥御祈禱肝要たるべく、仍って証状件の如し 

注)飯山は仙岩寺裏山一帯を指す。また先年(温井籠城)は永禄元年のこと。

 

 

4月、福屋隆兼の一族は、小笠原の温湯城を攻めようとして、川越田津に進出、小笠原勢と遭遇し戦う。

<弘治2年4月27日 長勝より坂根筑前守へ>
今度福屋上総介川本温井山へ思ひを懸け候処、 田津の郷畑谷にて出合ひ合戦を遂げ、上総介討取り並びに森脇三郎左衛門、渡辺太郎左衛門討取り首を捧げ侯段、比類なき手柄神妙に候、褒美として南の郷百貫の所末代まで宛行ひ候、弥以て聞を立つること専要に侯也 

 


こうして、佐波・福屋両氏が小笠原を牽制している間に、吉川元春軍は石見銀山に進攻し、銀山に迫り遠巻きに山吹山を囲んだ。

周囲を完全に包囲し、元春は軍使を遣わした。

「毛利に味方をすれば諸領地の安堵を保障する。 石見国の武将として重く用いよう」

と説いて誘い、山吹城の守将刺鹿長信に投降をすすめた。

当時銀山山吹城を守備していた刺賀長信・高畑遠言らは、5月、戦わずして降服した。 

5月尼子氏は銀山回復のため軍を送ったが、 主力部隊が銀山と温泉津(大田市)を結ぶ降路坂の中腹で、挟み撃ちをされ、狭い山道を総崩れとなって退却した。

その後、元春軍は佐波一族の協力により、邇摩郡(現:大田市)の三久須・矢滝・三つ子の諸城を陥れ、 安濃郡(現:大田市)の池田を収めて大田に迫る形勢を示してきた。

尼子晴久はこの情勢を重大視し、毛利と銀山との連絡を絶つために赤名方面からの攻撃を意図して軍勢を集結しつつあった。

8月、元就は特に佐波興連父子に邑智郡都賀を与えて要路城の防備を厳重にし、他方石見西武における益田氏の動静を牽制するため、元春の別動隊に併せて周布元兼の協力を求めることにつとめていた。

<弘治2年8月26日 元就より佐波興連・隆秀父子へ>
都賀半分の事、弓新の儀に進め置き候、御知行なされ用路御在城肝要に候、猶両人申すべく候、恐々謹言

<8月30日、元春より周布下総守・吉地右衛門尉へ>
態々の御状拝見候 仍って福光の儀に就いて仰せを蒙り候通り承知せしめ候、彼の五十貫分のこと、 此節一通の儀、 元就へ申聞 ゆべきの由、示に預り候、余儀なく存候間、則ち申遺し候、進め置くべく存候、我等に於いて疏意あるべからず候、随って表の趣き珍らしくなき儀に候、雲州衆今中途に相控へ候て種々武略仕り候、然りといへども此方油断なく候間珍らしくなき儀に候、なお御使者へ申入れ候間擱筆候、 恐々謹言


9月1日、尼子軍はついに赤名より佐波領に迫ったが佐波の防戦に侵入は困難で、爾後断続的に戦いが繰り返されていた。 

元春は周布元兼に再び手紙を送りその情況を報じ、あわせて益田藤兼支配の三隅における合戦にいっそうの協力を依頼する。 

11月、佐波隆秀は安芸吉田に至り元就に謁して現況を報告、忠誠を誓ったので、元就は喜んで親交の神文を与え、なおこの方面の防備を強化するため岡光良を邑智郡都賀行の城番として派遣し、佐波氏の後方を守備させている。

 

 

<続く>

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