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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−200(温湯城攻防戦)

62.戦国の石見−5(続き)

62.2.温湯城攻防戦

温湯(ぬくゆ)城(邑智郡川本町)は矢谷川と支流の会下川が合流する三角地帯の標高219mの山頂に石見小笠原氏によって築かれた。

正慶3年/延元元年(1336年)に小笠原長氏が築城を始め、観応元年/正平3年(1350年)に完成したとされている。

文和3年/正平9年(1354年)に足利直(足利尊氏の庶子)に攻められ一時、かつての居住地村之郷まで退いている。

温湯城城郭図(『石見の城館跡』より引用)>

 

62.1.1.吉川元春、井原に侵入

弘治3年(1557年)4月2日、長門且山城(勝山城)が落城し、大内義長の自殺によって、 元就の防長攻略は一段落した。

これにより、吉川元春が待望していた小笠原氏征服に毛利方の勢力を集注することができるようになった。

4月4日、元就は児玉若狭守を通じて元春へ手紙を送って、且山の落城を伝え、井原攻めを許可した。

この手紙には、「必要な軍勢は福屋・益田支配の三隅・周布・出羽・宍戸らが連合すれば十分であろう。 それでも不足していると思われ、予備隊がほしいなら、益田・吉見へ出陣を命じてもよいから、心にゆとりもってやれ」と、戦勝者の喜びと愛情をこめて、書いている。

<卯月四日、 元就より児玉若狭守へ>

急ぎ申遣はしたく候、長州且山の落去候ひて、内藤弾正忠(大内義長)の頸夜前到来候、屋形の儀も今明日中に到来あるべく候、

かくの如く成立ち候こと、さてさて不思議のことにこそ候へ、

井原表動きのこと、この間元春より申し越され候、長州の儀相支え候はば、ここもと気遣ひたるべく存じおさえ候ひつるに、今は長州の儀かくの如く調ひ候条、井原表一城のこと近比然るべしと存じ吉日をえらび候ひて一日も早く取付けられ候て然るべく候、

勢衆の事は、福屋・三隅・周布・出羽・刑部大輔以下申し談じ候ひずる間、定めて人数も大概あるべく候、 

なほもって人数も入り申し、また覚えにもさせらるべく候はば、益田よりも 勢衆呼び出され候ひても苦しからず候、

吉見方も当座弓箭の武略にて候へば、何となりとも申され候ひてくつろぎ候へ、 

後日の儀は最前約束のことに候間、ひとへに頼み申すことに候、勢衆要らば引出さるべく候、要り候はずばその限りに及ぶべからず候、

そこで元春はさっそく出羽元実・福屋隆兼らの軍勢を従えて邑智郡井原に発向、東明寺山に向い城を構え、小笠原長雄次男長秀の拠る雲井城を攻めた。 

小笠原軍は井原片田の平城、同宮の原稲積城を結ぶ丘陵に防備線を構成していたと思われるが、5月上旬には雲井城は陥ち、長秀は川本へ遁れた。 

元春は引続き邑智郡中野方面から寺本伊賀守・同玄蕃允の拠る邑智郡日和に進攻したがこれは成功しなかった。

他方江川沿岸では井原合戦に呼応して、福屋・周布・佐波らの諸軍が温湯城周辺で小規模な戦いを続けていたし、布施・村の郷へは口羽・阿須那方面から攻撃を加えつつあった。 

元春は5月中旬、 雲井城に守兵を置いて一旦新庄へ帰った。

 

62.2.2.出羽の戦い

翌弘治4年、改元して永禄元年(1558年)2月上旬、 元春は小笠原討伐のため上出羽二つ山に着陣した。 

安芸の熊谷信直 ・天野元定、備後の杉原盛重、石見の出羽元実・福屋隆兼・益田藤兼・佐波秀連らの軍勢が参加した。

この時、出雲須佐の高矢倉城主本城経光は小笠原長雄支援のため、尼子晴久の部将宇山久信・温泉惟宗・牛尾幸清らとともに下出羽別当城を前線基地として高見・八色石・布施・村之郷方面に布陣している。 

戦いは2月27日から始まったが、一進一退のうちに毛利軍による阿須那方面から布施への攻撃によって、尼子陣営は分断の危機に陥り総退却を余儀なくされた。 

これによって小笠原氏の食糧補給基地であった村之郷周辺は元春軍に占領されたのである。

ここにおいて、元春は尼子軍の撤退を急追して一挙に川本温湯城を攻略しようとしたが、意見はまとまらず、元就の裁断を仰ぐことにした。  

元就は慎重だった。

温湯城包囲中に強大な戦力をもつ日和の寺本伊賀守が上出羽への補給路を断ちに出る心配があるとして、まず日和を叩いてから温湯城を攻めるべきである。

それには事前に友軍の意見を調整して一致協力の態勢を作ることが大切だ。

と答えた。

小笠原方日和城陥落

そこで、吉川元春は、3月上旬、杉原盛重・福屋隆兼らの軍勢をもって日和を攻めさせた。 

日和城の寺本伊賀守・同玄蕃允・河辺讃岐守らがよく戦ったが、ついに衆寡敵せず元春の軍門に降った。

かくて日和攻略が完了し、小笠原の温湯城を攻める態勢は整ったが、元就はさらに万全を期した。

3月25日、益田貴兼・周布元兼らへも応援を求め、諸般の準備を整えた。

いよいよ、温湯城の攻撃が始まる。

 

62.2.3.温湯城攻め

温湯近辺の民家焼き討ち

温湯城周辺では、引続き小競り合いが繰り返されており、民家は戦火に晒されていた。

永禄元年(1558年)4月下旬元春は三千五百騎余りで温湯城攻撃に移った。

小笠原氏の館や家臣の屋敷を焼き討ちし、一挙に攻め取ろうという作戦で、温湯付近の民家に火を放った。

その時、東南の方向からつむじ風がおこり、3Kmばかり離れた小笠原館に飛び火した。

その火勢に驚いた長雄たちは「ここで戦っては不利だ」と考え、急いで温湯城に逃げ込んだ。

城の周囲の家屋敷をことごとく焼いた元春の軍はそのまま退いた。

 

陰徳太平記第三十二巻「小笠原館放火付温湯城取巻事」

(永禄元年(1558年))四月下旬元春、小笠原が館を焼くべしとて、益田越中守藤包、佐波常陸介秀運、杉原播磨守盛重、福屋式部少輔隆兼以下三千五百餘騎にて温湯に発向し給う。 

同二十八日、長雄二千余を二手に分けて夜合戦をせんと評定したが、異議區々(まちまち)にて其夜は徒に過ぎた。

同晦日、元春は福屋、佐波を先に立て温湯の在家共焼き払う。

折節東南の角から飈風(つむじかぜ)吹来て余炎所々に拡散され、三十町計離れていた長雄の館へ飛び火してすぐに勢いよく燃え尽きた。

長雄は軍兵共を皆館に集置き館の近辺にて無二の合戦をするか、左なくば敵日暮に及んで引かんとする所を打出て追立べしと企けるに、案の外に遠火の回風に乗じて吾館に焼来り、敵是に力を得て間近く寄せて来たから、雑兵殊に何心なき女童共は敵の乱入りて火付たる様に慌て騒いで上を下へともて返し、火を消さんとするに障りとなる上に、猛風烈しく吹いて四面一度に燃上る間、長雄今はすべき様なし。

館を捨て打って出で一合戰すべしと云つたけれども、かかる時節であるから士卒浮立ちている故、せん方なく惘(あきし)て立たる所へ、元春敵の館に火の付たるこそ天の興ふる所なれ、爰を揉めやと眞先に進み給へば、総軍我先にと押寄ける間、長雄は一戦に及ばず城中に逃入りけり。

かかれば寄手心易く温湯の在所一宇も残さず焼払ひ雜兵数多打捨にして帰った。 

・・・・

<続く>

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