31.戦下の宮古島
昭和19年(1944年)10月10日(火)のいわゆる「10・10空襲」が、宮古島における初空襲である。
その後の空襲は、年内は細切れに行われたが、ほぼ小康を保った。
昭和20年(1945年)正月早々から宮古島への空襲が再び始まった。
3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良の街はあらかた焼失した。
平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。
5月4日午前11時すぎ、下地村宮国(現在上野村)沖合に集結したイギリス極東軍隊の艦砲射撃が始まった。およそ30分間で385発の砲弾が撃ち込まれたと言われている。
31.1.国民学校長の証言と記録
戦時下に宮古島の来間国民学校、砂川国民学校、城辺国民学校に勤務した下地馨氏の証言と同氏が書き留めていた日誌が公表されている。
その一部について、述べる。
31.1.2.宮古島 下地馨氏の証言
昭和18年(1943年)に宮古島に初めて軍隊がやって来た時から話は始まっている。
当初は、宮古島に関する知識など、軍兵は殆どなかった。
下地氏は、彼らに宮古島の風土や歴史などを説明し親しくなったという。
宮古島への空襲は昭和18年の年末頃から次第に激しくなっていく。
食糧不足とマラリアに苦しむ中、終戦となった。
下地氏は、終戦間際に栄養失調とマラリアになり倒れたが、回復する。
「沖縄を軍に理解 させる」
平良町東仲 下地馨 (四二歲(当時))
兵隊相手に郷土史を講演
私は昭和十八年の四月に来間国民学校から砂川国民学校に転勤しました 。
二〜三か月後の六〜七月ごろはじめて軍隊が宮古に来たと思います。
初めのうちはあちこちに防空壕を造ったりしていたが、城辺村では砂川の南と新里の境界附近やザラツキ嶺の下、西城国民学校の後ろあたりに掘っていました。
その後軍は何回かに分かれて何千、何万と入って来たと思うが、初めて城辺村にきた兵隊たちはまるで外国にでも来たかのように「沖縄人は普通語がわかるか」「沖縄人は何人種か 、支那人の子孫か」などと変なことばかり言っていました。
部隊長はじめ将校がそんなことを言っていたのです。
そこで私の家で酒やサカナを出して歓迎会をひらき誤解を解くことにしました。
部隊長の梶少佐(※1)はじめ将校が十名くらいきました。
そこで私はかねて研究していた沖縄県の言語や民俗、本土と沖縄県の歴史的な関係等について説明しました。
そうすると梶少佐がびっくりしたような顔をして、城辺村役場に准士官以上を全員集めるからそこで改めてあんたの研究したものを話してくれ、講習をしてくれと言われた。
城辺村役場には三十名余りの将校連が集ったが、本土と沖縄が同一民族であることを「古事記」の記述や万葉語等を引用して話しました。
「言海 」の「大八州の神つままぎかねてさらにタイコウとなりて美人をまぎとる」などを引用、宮古方言と結びつけてしゃべりました。
なかにはいま考えたら眉つばともいえる滝沢馬琴の為朝渡来(※2)等についてもとりあげたが、当時はウソも方便どころか本気でそう考えたし、いかに沖縄県を正しく知ってもらうか一生懸命でした。
(注釈)
(※1)砲兵隊山砲兵第28連隊長(後に大佐)
(※2)沖縄の為朝伝説の概略は次のとおり
保元の乱で敗れた源為朝は伊豆大島に流された。伊豆大島を抜け出そうとした、為朝は嵐に遭い流されて沖縄にたどり着いた。
源為朝はこの地で大里按司の妹をめとり一子をもうけた。この子が、尊敦(後の琉球王国の祖、舜天王)で。その後、妻子を連れて帰ろうとしたが、波風に妨げられて、妻子を牧港に残しひとり帰国した。
妻子は為朝の帰りを待ちわびたので「まちみなと」=牧港といわれるようになった。子供の尊敦はやがて浦添按司になりやがて王位に就き、舜天王となり琉球王国を治めたという。
源為朝公上陸之趾。沖縄県今帰仁村運天港の近くにある。
原紙を切ってプリントにして配りもしました。それからは軍の宮古に対する態度はいくらか変ってきたように思います。
また歓迎の意味をこめて学芸会も催したが、軍と学校の合同演芸会の形式でやったように思います。
運動場に舞台を装置して児童も出れば兵隊も出るというふうにしてやりました。
このときは山砲隊の兵隊は全員来て、職員にもいろいろおごってくれたように覚えています。
こういうふうにして兵隊とも非常に親しくなりました。
私は昭和十九年十一月に城辺国民学校の垣花校長が視学になって宮古支庁に転勤したので後任として城辺校に移ったが、そのとき兵隊たちが転勤を非常に惜しがってくれました。
大空襲にあう
転勤の辞令が出たことを聞いたのは十一月の二十日過ぎでした。
家財道具を馬車に積んで砂川を出発したのは十二月上旬の未明。
夜明けとともに敵機の大空襲が始まり途中何回か石垣のかげに隠れたり木の下に身をひそめたりして、ようやく城辺校の校長住宅に辿りついたのは夜の十時ごろでした。
引越しの日が敵の大空襲にあたってしまい、ほんとうに生命からがら逃げたものです。
一里半そこらの道のりなのに十数時間以上もかかりま した。
砂川校はその年の四月に科学教育研究校の指定をうけて飛行機の模型や望遠鏡とか戦時関係のいろいろな教材教具を購入して研究をつづけ、研究発表会の準備をしていました。
それらの科学教材はすべて校長住宅の二番座においてあったが、城辺校に転勤して三日めに空襲があって爆弾が落ち、残っていた家財とともに全部やられてしまいました。
校内に立っていた歩哨も戦死するなど大変なことになってしまいました。
もしも引越しが少しでも遅れていたらと思うと何が幸せか解らぬものだと思いました 。
おかげで僕はタカンヌファク(神の子)と言われたりしたものです。
城辺校に移ってからは空襲つづきで授業もろくろくできない。
またこのころ学校は職員室だけを除いてすべて軍にとられ陸軍病院に用されていました。
このため授業は各部落の青年会場に散在して進めました。
職員室といっても学校の南側の青年会場のようなところで、職員は一応はみんなここに集まり、空襲がないときはそこから各分教場に出かけていきます。
十何か所かに分かれていたと思います。
しかし空襲が多くほとんど授業はできませんでした。
村役場の裏に石粉をとった跡があってそこに防空壕をつくり、たいていの人はそこで難をさけていました。
ぼくは家族六人で校長住宅にいたが、空襲がくると一日中、あるいは夜通し役場裏の防空壕ですごしました。
住宅で寝ているとき未明に空襲でもあると相当こたえました。
子どもは六年生をかしらに女の子ばかり四人、小さい子どもらをたたき起こして防空壕までかけ込むのは大変です。
空襲を知らせるサイレンは学校にいる軍隊が鳴らしていたが、一か所だけでなくあっちこっちでも鳴っていました。
建物がめだつのか学校にはよく爆弾が落ちました。
しかしどういうものか校舎には命中せず、たいてい学校周辺で爆発していました。
学校隣りの民間の庭に落ちたときなどは大変でした。
真昼間二間四方くらいの小さな茅ぶき家に子どもらが十何名遊んでいるとき、二五〇キロ爆弾が半間くらいはなれたところに落ちたのです。
反対側のディゴの大木が根こそぎ倒れ、そこら一帯めちゃめちゃにされたのに、もっとも 近くにある茅ぶきはどうもなく十名余りの子どもたちはみんなたすかりました 。
おそらく爆発するときの方向が茅ぶき屋に平行していただろうということでした。
あれこそ奇跡だと思います。
しかしあまり学校周辺にばかり爆弾が落ちるものだから、あとは軍も警戒してあちこちの防空壕に分散して行きました。
しばらく学校はそのままになっていたが、このまにしておいたら危ないといって村会議員の玄仁たちが校舎をこわしはじめました。
ぼくは校舎をこわすのは反対で役場まで抗議に行ったけど聞いてもらえなかったです。
玄仁たちは自分たちの防空壕に使うつもりでこわしたらしい。このころはもう近く終戦だそうだという噂もきかれていたのでずいぶん反対したけど駄目でした。
それから一〜二か月したら終戦になりま した。
終戦のはなしは沖縄戦が終らないころから聞こえていました。
将校のなかには日本は完企に負けるというのもいました。
福里良夫君なんかは、日本は必らず負けると言っていたが、ぼくはそんなことはない絶対勝つと言ったものです。
ところが福里君の言う通り負けてしまって、ぼくは徹底した軍国主義だったのかなと自分ながら思ったりしたものです。
日本人のなかにスパイがいる
照明弾があがるたびに軍はどこかにスパイがいると言って大騒ぎをしました。
夜中、照明弾があがったぞと叫ぶのでみんなでそこら中を包囲する。時限爆弾と言ったりしていたけど、何でも時間をきって照明弾があがると翌日は必らず大空襲になる。
しかしみんなが(照明弾が)あがったという森を包囲するともう誰もいない。
軍隊はスパイがうちあげているのだと言っていました。
沖縄戦ではハワイの二世がスパイになって夜こっそり潜水艦からきてスパイ活動をしているそうだとの噂が宮古でもきかれていました。
だからぼくは照明弾があがるの沖の軍艦からみておって翌日空襲するのだろうと思っていました。
軍はべつに地元の人がスパイをしているとは言わなかったが、日本人が敵の深水艦から夜こっそり上陸してきて民間や兵隊のなかにまぎれこんでスパイ活動をしていると言っていたのは確かです。
とにかく正体不明の時限照明弾で、犯人は全然あがりませんでした 。
「御真影」を安置してある野原越の防空の近くからあがっりするんだから、とにかく不思議でたまらなかったです。
兵隊たちも不思議がっていました。
僕も夜中に大声で叫んでみんなで包囲したが誰もいない。
スパイがつかまったという話は一回も聞いたととはありません。
(注釈)
野原の御真影奉護壕
昭和19年(1944年)10月10日の「十・十空襲」をきっかけに、戦火から御真影を守るために、宮古島の各学校に置かれていた御真影(天皇・皇后の肖像写真)をこの奉護壕に避難させた。
壕は各学校の男性教員の手で掘られ、12時間交代で守られた。
内部には白木で組まれた神宮造りの棚が作られ、守衛にあたる先生は、拝礼をしてから勤務したとされている。
(内部)
食糧不足とマラリアに苦 しむ
食糖不足で兵隊も開墾したり民家の畑を借りてサツマ芋を植えたりしていました。
それでも足りなかったから蛇も食べ、蛙も食べていました。
あとは民家をも荒す。
しかしもしも民間のものが軍のものをとろうものなら大変です。
一度などは十五歳くらいの男の子が芋ツルを盗んだといって、真夏の炎天下に電信柱にうしろ手にしばりつけられたことがあります。
城辺校の西南の角の電柱にしばられてもう息もたえだえになっていたので、僕が嘆願して許してもらいま した。
またあるときは作業に出ないといって青年学校の女生徒三人を指揮台に立たせて罰していたこともあります。
これも炎熱下に両手を高くあげさせて可哀そうだったので、このときもお願いして許してもらいました。
作業といっても軍の畑を耕したり防空壕を掘ったりすることですから、暑くてたまらなかったのだろうと思います。
福里はもともとマラリアのないことで知られていたのに、戦争中は実にマラリアが多かったです。
僕の家族も五人かかりました。
栄養が悪いからかかりやすかったのだろうけど、アメリカが、マラリア菌をまいたんだろうと思っていました。
東という親切な軍医がいていつも注射をしてくれました。
この人は終戦後もめんどうをみてくれました。
ところがこの東軍医は城辺校の職員で嘉手刈千代という美人の女教員をぜひ自分の嫁に相談してくれと言うのです。
一応はなしてみたけど 、「もし向うにも奥さんがいて、現地妻のようにされたら困る」とことわられました。
ぼくはいつも家族に注射してもらっているし、困ったなと思ったが仕方がなかったです。
マ令部への翻訳にあたる
終戦近くなってぼくも栄養失調とマラリアでたおれました。東軍医のお世話になったが、少し元気が出てきたら宮古支庁によばれ、翻訳をさせられま した。
学校のことはやらんでいいから宮古郡のためにはたらいてくれということで、東京の総司令部のマッカーサー元師あての文章を翻訳しました 。
松本という通訳もいたが、この人には直接宮古に関する翻訳はさせず、もっぱら僕がやりました。
多くは食糧配給に関するものだったように思います。支庁は空襲で焼け、農業試験場にうつっていました。
支庁長は納戸粂吉と言いました。
三か月ぐらい学校には行かず平良から試験場に通いました。
ときには通訳もさせられたが、よく筆談でしました。翻訳は無報酬でやったように思います。
終戦の月の八月三十一日に野原越で「御真影」を焼いたときはマラリアで寝ていたため城辺校からは教頭の奥平平茂がぼくの代理で出席しました。
下地馨氏の日記の一部も戦争証言の中に掲載されていたので、次はその話をする。
<続く>