34.4. 足利尊氏都落ち
尊氏は丹波の篠村まで撤退し、さらに篠村から曾地(兵庫県丹波篠山市)に移り、京の奪還を図る。
34.4.1.尊氏を院宣乞う
「太平記」によると、ここで日野中納言の縁者である薬師丸(後の別当四郎法橋道有)を密かに呼んで、密命を授けた。
今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。
倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。
されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。
御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。
つまり、自分が戦に負けたのは朝敵であるからだと、思ったのである。
そこで、朝廷対足利の戦いを、朝廷対朝廷の戦いにしてしまおうと考えた。
大覚寺統の後醍醐天皇と対立している持明院統の光厳上皇の味方をして、朝廷内の争いを武士が代理で行っていることにしようとしたのである。
即ち崇徳上皇と後白河天皇が争った「保元の乱」のようにしようとしたもである。
そうすれば、朝廷に弓を引くことに戸惑っていた武士たちも足利方につきやすくなるのである、と思った。
そう思った尊氏は、薬師丸を遣わして日野中納言を通して、光厳上皇の院宣を得ようとした。
梅松論
「梅松論」では、赤松円心が尊氏に、一旦西国撤退し再起を図るべきである、ことと朝廷の院宣を得る、ことを進言したとしている。
「梅松論」ー尊氏の九州落ちーで
縦へこの陳を打破りて都に責め入るといふとも、御味方疲れて大功をなし難し。
しばらく御陣を西国へ移されて軍勢の気をもつがせ、馬をも休め、弓箭干戈の用意をも致して重て上洛あるべき歟。
凡そ合戦には旗を以て本とす。
官軍は錦の御旗を先立つ。御方は是に対向の旗無きゆえに朝敵に相似たり。
所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後定めて叡慮心よくもあるべからず。
急に院宣を申し下されて錦の御旗を先立てらるべきなり。
そして、再起するまでの間は円心が防御すると言った。
<赤松円心>
赤松円心は出家後の名前で、それまでは赤松則村といった。
歴史の表舞台に登場するのは元弘3年(1333年)57歳の時、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王の令旨を受けて幕府打倒の兵を挙げた。
則村は山陽道を東上して京へ進攻、六波羅を攻め落とすなど建武政権の樹立に多大な功績を挙げている。
しかし、新政権の論功行賞は、則村の期待を全く裏切るものだった。
不満を持った則村は新政権に見切りをつけ、国元に帰ったという。
これ以後、則村は足利方となった。
34.4.2.尊氏西下
尊氏は戦況が好転しないので仕方なく、一旦九州に落ち延びることにした。
この時、尊氏は上杉憲顕(後の関東管領)を石見国に派遣し兵を集める指令をした。
丹波国では丹波国では仁木頼章を大将としてが高山寺(兵庫県丹波市)の城に立て籠もり、
播磨国では、赤松円心が白旗ヶ峰(兵庫県赤穂郡上郡町)に城郭を構え(白旗城)た。
その他、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、更には四国の全土が足利方となって、官軍を迎え撃つことになった。
各地での蜂起が京都に伝えられる。
これに対して東国を鎮圧するため、北畠顕家を鎮守府将軍として奥州に下した。
新田義貞を16カ国の管領に任じ、尊氏追討の宣旨を下した。
2月29日、後醍醐天皇は建武の元号を延元と改める。
<続く>