親子が離れて住み、様々な形で情報が手に入る現代に於いて、新しい民話というものは今後生まれそうもない。
そういう状況の中、これからする話は独りよがりかもしれないが、現代の民話として、紹介したい。
渡し舟に乗った経験のない人にとって、具体的に思い描くことは、難しいかもしれないが、掲載された記事のまま記述する
1.4.3 最後の渡し守の半生
昭和56年(1981年)10月29日の読売新聞(夕刊)に「江川最後の渡し守り」として、月森芳太さんの記事が掲載された。
ばかにならにゃ漕げんですけ
月森のじいさんは、 舟べりに腰を下ろすと なつかしそうに話し始めた。目の前を江川(ごうがわ)が青い水をたたえて流れている。
「渡しをやっとる時はの、五時より遅うに起きたことはなかったの。駅は向こう岸やからそれに間に合うように渡してやらんならんけ。六時の江津行きおりますけな、高校へ行く子やら勤めに出る人やらな。 次は小学校の生徒だの。舟の時間も何も決まっとらんけな、だれか来たら、いつもかつも渡さにゃならんのだけ。
夕方の六時まで舟の上やら番小屋で待っとるの。買い物も向こうだけ、渡しで行って、竹ヤブ越えてな。 酒とたばこは、こっちから有線やら電話で注文するだよ。店の奥さんが、それ持って渡しまで来ての、わしが運ぶんやね。品物が届いたいうてやるより、持っていった方が早いでな。いまは買い物すんにも半里ばか下の川越大橋回って、また戻らんならん。 不便なことじゃ」
休んどりんしゃい
月森芳太さんは今年八十三歳。島根県邑智(おおち)郡桜江町坂本の渡船場で二十三年間、江川の”渡し守り”をやってきた。
江川は、 広島県三次の中国山地から石見の山々を縫って、江津市で日本海へ流れ込む。 途中の川沿いには平地らしい平地もなく、ひとたび洪水が起きると、川幅はいっぺんに三倍にも四倍にもなり、うなりをあげて荒れる。
江津から二十㌔上流の坂本も例外ではなかった。川の左岸の谷に近い崖(がけ)っ淵(ぷち)を走る国鉄三江(さんこう)線のディーゼルカーで四十分。戸数十五戸の小さな集落が一列横隊のようにちまちまと集まり、すぐ背後に屏風のような山が迫っている。
月森さんが腰かけた舟は、国道のガード下に置かれていた。 長さ十㍍、木造の古びた舟。陸に引き上げられてから半年たつ。
その日、四月二十五日は三百年続いたといわれる坂本の渡しが、ついに江川から消えた日、というより多い時は二十数か所にあったという江川水系の渡しに終止符が打たれた日であった。じいさんは江川最後の船だったのだ。
月森さんの表情が崩れた。
「わしは子供は好きだなあ。 舟の中にぎやかになるでなあ。 『帰ったかい』 『うん』 『学校で何してきたんじゃ』 『今日はの、運動会の練習じゃ』『ほうか、楽しみやの』そういうてな渡るの。 『おっさん、休んどりんしゃい』って、自分で艫(ろ)を漕ぐ子もおるでな」
子供が漕ぐんですか。
「江川ばたの子は、みんな漕いだの。わしも、この川下の渡田の生まれじゃけ、小学校の二年ぐれえのうちに舟漕ぐようになったの。
わしだけやない、みんな自然と覚えたの。夏時分はの、こっちの子も向こうの子も一緒になっての、川で泳いでの。春やら秋にはの、アユやらコイ、フナ、ギギやらな釣れよる。わしも客待ちの間に釣るの。
そしたら子供らも釣りザオ持って来ての、いっしょに釣るの。針がとれたけ、糸がきれたけ、いうて来ての。針やら糸やら買うて持っといてな、つけてあげての。渡船やめてな、わしもさびしいが、あの子らもさびしかろうの」
〽村の渡しの船頭さんは、今年六十のおじいさん・・・・・。
小学校唱歌を思い出させるような触れ合いだ。じいさんは目を細めて話し続ける。若いころの江川がまぶたに浮かんでいるのだろう。
カンコ舟
「わしも子供ころは、この川はの、そりゃにぎやかだったでな。カンコ船いうての、川舟が上り下りしたのいな。舟子が二人おりんさって、一人はサオでつっぱる、一人は綱つけて引っ張っての。下る時には三十貫を一駄(いちだ)いうのを三十駄ぐれえ積んでの。木炭、木材が主だったな。
上りの舟もな、魚やら肥料やら瓦(かわら)、瀬戸物積んでの。大正の初めごろだなあ、スクリューのついた舟が上がるようになってそのうち飛行機の機械をすえてプロペラ回す船に変わっての」
大正の初めと言えば、三江線が江津から桜江町の川戸までしか開通していなかったころだ。川本まで伸びたのは大正九年。三年後に浜原まで延びた。
(注:三江線の江津ー川戸間が開通したのは昭和5年4月20日、川本まで開通したのは昭和九年であるので、この記者は大正と昭和を取り違えている)
スクリューのついた舟は、列車と競争するためにカンコ船に代わって登場したのだろう。次に現れたプロペラ船は、ハンドルのチェーンが切れて岩にぶつかる事故があり、間もなく消えた。
ちょっこし
そのころ、月森さんは宇部の炭鉱にいた。ふんどし一つ、奥さんの清香さんも前垂れ一つ。
「ツルハシ振って、箱にスミ(石炭)入れて」
頑張ったが、戦争で妻と子供は清香さんの故郷、石見町日和へ疎開。戦後、そこからさらに山の上の今原で開墾生活。
「炭鉱やら開拓やらで、十人生まれた子供のうち五人死なしてな。栄養失調やら医者の見たて違いでな。 体に力がないけ。かわいそうじゃたの」
いっしょに入植した家族も、一軒減り二軒減り、月森さん一家も山の上の生活を十年で閉じた。坂本の集落に下りてから、炭を焼いた。当時、渡し船は各戸持ち回りで船頭を出していた。
長男が一年間漕いで大阪へ出て行ったあと、月森さんが息子の代わりに引き受けた。三十三年のことだった。
「石見は昔から、よう飢饉に襲われたとこやでの。 今でもあちこちに”芋殿さん”の碑が建ってるでの。
芋殿さんは、井戸平左衛門いうてな、江戸時代の大森銀山の代官だね。石見の飢饉が激しいけな、間に合う食料はないか探しんさっての。
薩摩の国では、なんばやせた土地でもイモができると聞いて、イモを石見で広めたのいな。子供のころ、親からよう聞かされたもんですけ。イモ掘ったら供えて、お坊さん呼んでお経あげたの。わしも、ちょっこし坂本のお役に立ちたい思うて、渡し船漕いだの」
しわいけ
ーーでも、人を乗せるとなると大変な仕事 でしょう。
「風がな、いたしい(難しい)んじゃ。こっち岸はテトラポッドがあったり、崖っ淵になっとるで、舟着けるとこは決まっとるでな。うっかりしとったらポッドに乗り上げて舟傷めたり、引っくり返すからの。道中、吹き飛ばされてもな、サオでつっ張りして、この下へ着けならんでな」
ーー冬は辛いでしょうね。
「冬の間はな、いっぺえ雪が積もりましょ。 一番よけい積もった時は八尺、平静二尺 ぐれえだね。長靴にかんじきつけてな、雪どりに行くのいな。半時間ばか早よう起きての。スコップ使うて渡し場まで道つけての。
軍手をはめて船の雪、出してやるですよ。 指先が痛うてな、冷てえやら何やらわかりゃせんのじゃけ。学校を出る子供がな、冷たかろうて、ゴムの手袋買うてくれよりんさってな。このへんの子は、やさしいけ、こっちも頑張らんと申し訳のうなっての。
水が出た時は、舟をの、水位が変わるたんびに綱ほどいてな、上げんならん。
艫を漕いで綱引いてあっちの椿、こっちの松とつなぎかえての、うっかりしとったらの、裸になって腰まで水につかっての。綱ほどかんならんのいな。つなぎかえながら、舟にたまった水を外へ出すだよ。腰がだるうなるけな。お客さん渡すよりずっとしわい(疲れる)け」
ーー水が引く時もいそがしいですね。
「引き始めたらドンドンと音がするほど引くんやから、乗って出んならん。いつもかつも乗れるようにの、家へ戻りゃせんのお 。夜は暗いけ勘ばかだの。弱りくたびれるわいな」
何でもなさそうに見える仕事でも、目に見えないところで大変な努力を続けていたのだ。 前の日、坂本区長をやっている舟木昇さん(六二)は話していた。
「私らが交代で渡しをやったころですがね、昼間弁当開いて食べようかと思うと“オーイ”と呼ばれたですよ。弁当食べる間に二回も三回も立たなきゃならん。渡し守はつらいもんだと身にしみて感じたですよ。 月森さんは本当にこまめに熱心にやっていただいてね。夕方、汽車で帰って来る高校生なんかは、一刻も早く渡してあげようと向こう岸で待ってね。心遣いは二十三年間かわりんさらんかったですよ」 この話をすると、月森さんは手で打ち消すしぐさをした。
えれえ年を拾うた
「わしは自分が喜ぶいう気持ちでずーっとやってきたのう。人にはわからんでもええ、 今日も人様のお役に立っとると、ばかの一つ覚えじゃけ」
ーー引退の動機は体力ですか。
「早え話がな、わしもえれえ年を拾うた(長生きした)。人にもけがさせん、自分もせん、無事故でやって来られたもんでな、不調法せんうちにやめた方がええと。人様のいのち預かっとるんじゃからの、迷惑ば、かけるようなことがあってははならんけ。
やめることが決まってからはの、みんながもう渡すな、渡すな、せっかくここまで無事故で来たんやから渡すな、言いんさってな、そんだけかわいがってもろうたですよ」
月森のじいさんの家はガード下から二百㍍ ほど山側へ入った道端にあった。息子さんたちが都会へ出て行って、清香さんとの二人暮 らし。もうコタツが入っていた。小柄なおばあさんは八十一歳。
「近ごろ目が悪うなってしまってのう」
とこぼしていたが、まだまだ 元気。
「じいさんと一緒になって六十年と二月になろうな。のん気な方だけ気苦労はせんかったでな。
そいでも、水が出たり、風の吹いたりしたら不調法なりしたんじゃねかしら、晩げに遅い時にゃ、川へほろける(転がる)でもしたんじゃねえか、と見に生きよったですよ。八十にもなって、夫婦そろっとる人は少ないけなあ、わしら一番果報だけえ」
そばの月森さんが言った。
「ばかにならにゃ二十三年も漕げんですけ・・・」
共に白髪まで人生の艫を漕ぎきった夫婦の愛が、しみじみと胸に伝わって来た。
<続く>