花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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花はどこに 。。。その3  玉ねぎが,、高い!

2022年06月08日 | 日記
昭和40年代に札幌に来た時は

北の方は、、、玉ねぎ畑だった

売れない形の玉ねぎなど

畑に残されたまま、、、

もったいないね~~~!!

思ったことを思い出しながら

昨日は,、、一個だけ、、、玉ねぎを買ってきた。

スライスして,、、おいておいても

いつもの玉ねぎのように。。。甘くならない。

   みじん切りにして

炒めて、卵の中に入れて、ほかの野菜のみじん切りも入れて

卵焼きにした。

8月には北海道も、、、玉ねぎが地元産であふれるはずである。
待とう、、、8月に成ったら

たっぷり、、玉ねぎの料理が出来そうだから、、、

日本は、、、もう、、、

戦争に巻き込まれさえしなければ

食べるのに困る人生だけは、、、来てほしくない。

孫子の時代に、、、
  どうか、、、
     住みやすい日本であるように

外務大臣だった首相に 多くの知恵が集まり

   野党も、知恵を絞って

    首相の所に知恵を結集して

アメリカと、ロシヤと、、、ヨーロッパと

   アジアと、、、発展途上国のアフリカと

    一帯一路を目指していそうな中国と

限りなく、、、伏兵の居そうな、、、北半球と

    グローバルな時代に

   国会劇場で、、、足の引張り、質問で

    個人的なアピールをしている時期ではなさそうです。

お金のある人が居なくなる日本で

選挙の仕方も変わるはずですよね。

   戦争に巻き込まれないで

      オランダでは、、、平和にたどり着いた道を

       NHKが放送していましたが

平和な日本を、、、孫子の時代に
                   祈っています。


ふり返れば
第二次世界大戦のさなか、、、防空壕で誕生して
玉ねぎどころか、、、
母は、、母乳が出なかった。
疎開地に着くと
まだ小学高学年だった兄が

山羊を10頭飼いならして

私の飲む山羊の乳を搾っていた。

桶の上にがーぜを重ねて固定して

山羊の乳を搾る兄の姿が、、、
記憶の残っている様な、、、不思議な赤ん坊だった。



このアルバムの、、真ん中に

メスの山羊と兄が映っている。

戦後の疎開先の、、、貴重な生活風景の写真だと思っている。

髙かろうが、、安かろうが、、、米さえ手に入らなくって

「シナ米」の配給は、、、おかゆにして

サツマイモや、キャベツが入っていたのを記憶している。

父も母も小さな戦争が続く明治の終りに生まれている。
大正時代のモダンガールだったに違いない、、、母!

短い髪、あみあげブーツ 自転車 音楽大学、、

東京の山手線の真ん中に相当する市谷で
お坊ちゃまだったはずの父、、、

よくぞ、、自分を磨き
    学門を修め
   医師免許を取得していたものだと
  環境に胡坐をかかずに、、、身に付けたスキルが
戦場でも「軍医殿は、後方に居てください!!」

野戦病院では、、食べる物が無くなり
幻の中で、、、イエスキリストに遇った!!
父は幾度となく、、その不思議な出来事を話していた。

玉ねぎが、、、少々高くなったって、、、
店頭には、食品や野菜が並べられている。

戦争に巻き込まれないようにしないと
店頭からも食品が無くなる経験を
父母たちは話してくれた。

疎開地に熊野の山中を選んだのは
母の実家が、代々、、学校の教師として
祖父も祖母も、先生だったという。

実家は旧家であり、長男が代々継承して
次男の祖父は、何かと便宜をはかってもらうのに

誰はばかることも無く
ごくごく自然に
旧家の一人として
頼まれて、村長を引き受けていた。
その後、
村は合併されて、祖父は「町長」となり

衆議院の、早川さんとか,、
名乗っていた記憶があるのですが

子供だった私は、
間違って覚えてしまっている
可能性もありますので、、、ね。

その、国会議員さんが 
祖父の実家の経営していた旅館に

しばしば、、、来られるようになり
やがて、、、電気のなかった地区にまで
電気が灯り、、、ラジオが入り、、、

疎開の人々は終戦を期に
爆発的に増えて

ポツリポツリの家が点在する山村は

3000人も住むような

疎開銀座が出来ました。

コノあたりの七か村、、、無医村だった所に

もとは外科医でああるが
戦場で、全ての科の患者さんを担当してきた父は

山村で、総合病院並みの、、
各科のジャンルの患者さんを

誰一人断る立場ではなく、、、引き受けていた。

ダムの工事が始まると
怪我人やトラブルの喧嘩での重症怪我人
突然の出産での異常状態の赤ちゃんの蘇生術、、、

日ごとに「神様の様な名医が来た!:」と
村の皆さんは、
診療報酬を払えないので
大根、にんじん、トマト。玉ねぎ、、、
川魚、、アユや、鯉、 鰻にヤマメ、、、

待合室にはうず高く食べ物が積まれていた。

食品に困った人は、
かってに持って
いいことにも、、成っていたらしい。

栗を置いて行って、代わりに鮎を持って行く人。
無花果や、ヤマモモやマツタケを置いて行き
代わりに  鯉を持って行く人、、、
イチゴを置いてゆく人、、、、

洗濯機も、診療所の皆の用途のほかに

村の人が,勝手に仕える洗濯機が4機余分に並んでいた。

「御茶粥が、、美味しかったで、、のし」

「ほんまじゃのら!、」

「、さつまいも、人参、玉ねぎ、
どっさり食えたで、、のら」


思い出すのは・疎開地の診療所は
   診療報酬が、
あちこちで穫れた、野菜に果物

ふり返れば、、、
村の住人は、お金は無くても、、、
しっかりと生きてゆけるだけの
農産物や、山の幸、川の幸、海の幸で

日本は、、
山村が
戦争からの飢餓を
救ってくれた記憶がいつまでも残っている。

自然は、、宝物であると、、今でも思っている。



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