花鳥風月、、2023年からの第二の日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

松に感謝を教えてもらいました。万感の思いです

2023年05月12日 | 日記
人生に、、山坂ありますね、、、
予期しない病気にかかる時も、、、ありますね

息子達が小学生、、6年の時に

  心臓外科医だった主人が、、入院したことがありました。

 回復を祈って、、クロマツを植えました。

 クロマツは、、自由自在に枝を伸ばして、、巨木となり

 我が家の大黒柱の主人を守ってくれました。

病後は、国家公務員だった主人は
   療養を兼ねて、、、単身赴任して

     家族の負荷を2年ほど、、はずして、、

       勤務病院の独身寮で、、、
           一人暮らしをしました。

  国家公務員の給料は
   心臓外科の激務で、超時間の手術をしても
     時間手当などは無くて、、、

        〇号,、△等号 報酬とか言って、、、

     今をピークの40代の外科医でも、、30万円とか、、、

  
             無窮医のダンナさんとともに
               3ヶ月ごとに、留萌の海の断崖の上の病院寮に一か月

           年4か月の、、16万円×4  
           これが、同じ医師免許を持った者の
                     生活だった。
    。

   弐世帯に別れた我が家は、、、子供二人抱えて
      私は、、働きに出て、、、
     すったもんだの2年間でした。

   でも、、クロマツが、、
      だんだん大きくなるにつけて
   札幌に根付いた私と息子達は
        家から動きませんでした。

    一度も、ダンナさんを
         訪問することもしませんでした。

     共済組合の保険も、、、
        晩年はもらえるだけの期間、、
          かけ続けることはできませんでしたが

      去年は年間で900円 出ていました。

     昭和40年代は、、、新卒の医師は「無給医」でした。

     奨学金が月に40000円ほどあり、

      結婚した当時は、大学時代からの奨学金の返済が
            100万ほど溜まっていました。

      大学院に進学したので、
           40000円はそのまま、国が貸してくれました。

      大學時代の奨学金の返済分は、
           私は、次の学生さんに
                順送りすべきだと思いましたので、

      自分の働いた貯金を持っていたので、、、
         一括返済して

      車の免許を取得してもらい、、残ったお金で

          車、、を買いました。
      私は助手席に乗って留萌や、余市に長期出張する時には

        結構安全運転で、、、40キロを守って、、
        路肩を走っていた思い出があります。

                   
  
        その時、私の勤務先の会社から、、
        手稲に、大きな空き地が駅の傍に有るから

         見に行きましょう、、、と 

         部長さんから言われて、
         手稲に空き地を見に行きました。

         手稲駅の周りは、工場があり、、、

        高架橋の上からは、、大きな草原が
            アチコチに見えました。

        一緒に居た運転手さんに5枚ほど、、
           写真を撮ってもらいました。

        その後、、銀行から、
      分厚い書類が送られてきた。

                          

   「10億円融資しますから、、、
           開業しませんか?」という
      
    、高額な借金の話でした。

      電車で4時間はかかる単身赴任の先から、

        札幌に帰ってきた旦那さんに、、、
          空き地の写真を見せました。

      ちかくに、茶色のビルが一個あるだけで、、、
      これから開けるような駅の北側でした。

        こんな原野には、、、

        ビルが一つしか見当たらないでしょう、、、

        開業したら、「心臓外科は出来ないし、、」
       「、ホームドクターするには、、周りに家が無いでしょう、、、。」

        それに、、、
       「僕の選んだ心臓外科は、
             
              開業が出来ないんだよ。」
               
          
         そんな話が持ち上がった矢先
         大學で講師をしていた関係上、、、

        大学の指示は、

         急遽、国立病院の医長を退職して

         札幌の手稲の
          「私的な病院」に行くようにと、 
            医局からの指示がありました。

          50歳近くまで医局に居て
             医局長や、講師や、、
            札幌の看護学校や、、臨床工学士の学校の

             教官をしていたり、、、

           某大学の教授を委任されていたㇼ、、、

          指導料は一円も振り込まれていないので、、、

           きっと、仕事の一環なのでしょう。
         講議に使う点滴のセットや、、
       ドレーンや
     注射針のセットなど、、、
        医療道具がセットで入っていました。
         
    ,看護婦サンになる人の為の講義や、
      今は、大学になっていますが
         医療技術者の専門学校に、
          心臓血管外科の医師が
            講議に行っていたじだいなんですね。
          
           臨床工学士の為の講議などに通いながら

           私的病院に勤務して、
           50歳近くになっていましたが

           40歳代の時は40万なにがし以上の給料は
                   戴ける時代では無かったので

             初めて、、、月給を戴いたときには

           これで今まで借金経済で、、
               自転車家系の運転をとって
                      ローン地獄だったのが
           返済をはじめられると思うと、、、
           万感の思いでした
       

          専業主婦になれて、
          息子の勉強も、相談に乗ってやれる暇も出てきました

          公立高校生になった息子の学校で、、、
         初めて、、、PTAの役員を引き受けました。

           生徒や先生のインタビューして
              学校生活の感想を聞いたり
                 広報を担当して

              教職課程の免許を取得した学生時代を思い出しながら
             学校では「不良」という評価の有った生徒たちとも
              高校生の脱線したことをしたくなる動機や理由を
                  話し合いながら、、、

                    あと半年で卒業なのに、、、
                 何か、意地になることがあるらしく
                     登校しないで、、、

                   後半年なのに、、、
               卒業を逃がしてしまった生徒さんを
           PTAの役員を引き受け乍ら、、、救う事も出来ず

           若者たちの心の中の砂漠を、、、とぼとぼと、、、

                ラクダに乗って月を見ている様な、、、
                寂しさを味わいました。
                  
         coronaの異常事態の3年間で、、、
           大人でも、はかり知れない、、、、心の砂漠の中を

         さまよっている高校生が居るかもしれません。
                      
          道知事さんが配る「米」は、
           一瞬の正常な心に戻れる様な

              満腹感を感じてもらえるのなら、、、

              その一瞬が、、、後の半年を頑張れる、、、
                    米になるかもしれませんね。

                                
                  旦那さんが、、、50歳を境に、、、
                人並みの勤務医として、、
               臨床医の給料をとりはじめてくれたことが

             、息子達を、、、
            「これだけは僕の出番だ!」という

           大学を出せて、、、、
           世間様に
           良い使い方が出来たと、、、思えるように名なりました。
                
                
             これからは、、
          
               老老介護の為の筋トレですね。


         おかげさまで、、今は元気に働いています
         看護婦さん(現代は看護師さんで大学卒業です)は

          旦那さんをよく知っていてくれて、、、
           深夜の手術にも
           チームワークは抜群でした。
               30年以上前のことを、、ふと、、思い出します。
           4人の外科医のうち、、、
          実力は、トップの先生が居り、
           その先生が居るおかげで、、、

            研修団塊の先生方も、、、
          「 困ったときのK先生、、」と、、
           合言葉になっていたのを
           ご本人は知らないと思いますよね。

           自己研鑽の為にも、、、
           医局からは、、
           どんどん先生方が来るようになったと

          その先生は、
           実力主義で生きてきた先生らしく、、、

           実力のある先生のもとで修業しながら
                  凄腕になっていったタイプらしく

          大學には、、ダンナさんのように、
            、医局長とか、、同門会長とか

          なんや,、かんや、、雑用で、走り回っているタイプとは違い

          「仕事は厳しく、、職場は楽しく」をモットーに

           後輩の医師の尊敬を集めて、、、実際の外科の仕事は

           「どのような,、難題を抱えた難しい手術でも、、、
                 k先生が、、若手を指導して、
                    若手の医師に付き添って
           
                  外科の手技を指導しながら
                        良い結果を守った。」

         どんどん実績を示していって、日本中の医科大学から
           20人以上の研修生が集まる病院に
             成長していきましたそうです。

      日本中から医師がやってくる時代になって

         病院はアメリカの大學と
             交流するようになっていた。

         札幌の地元病院として、住民への貢献度を認められて
            旦那さんが院長職になったときは

                        

             札幌の医療を、、担当してゆきましょうというスタンスで

           ダンナさんは、、、ひたすら聴く、、、
             そして、開業医さんンお紹介で、、、難治療のクランケは
                病院で担当すると、、、
            医師会からは表彰されましたね、、、

           ダンナさんは、、、医局長とか、、、同門会長とか

          個人病院から、、、
        巨大病院に育って

          公的な機関病院になった、、
      
        他の人が、、、引き受けたがらない激動期の時に
         どういう訳か、、、お鉢が回ってくる、、タイプなんでしょうかね、、、

        同期に「教授が7~8人居るとか?」
     

                   個人的にも、、、

       医局生活を50歳ぐらいまでしていた、、、

       当時の後輩が、、世界を相手に学会を開いたという、、傑物という先生が居たり、、、

        ダンナさんは、、単なる「良医」で、患者さんには慕われるだけですが

           世界に力を持った先生方が、、、
         「北海道でイベントをするときには、、」

         「北海道の土着に準ずる、、
              昭和30年代に北大に来ている、、ダンナを

          メンバーに入れたがってくださった
      
        80歳過ぎても、、東京から、、東大勤務の現役の
        ご夫婦が、、連絡くださって
          
                  とにかく、、
            家の外が良いのですね,、、ホント、、に
       
         

        北海道の巨大病院は、、個人病院から、、
          世界の10番に入る評価を得

              復興を援助して、、
                地球丸ごと幸せにならないと

           地球のどこでされている、、、戦争も、、辞めてほしいです。

               風が吹いて、、、桶屋がつぶれるような

              とばっちりを受けて、、、全ての人が困っています。

           いつも、、胸が,、苦しくなる想いです

         
                   クリニカルpath学会で、、、
           全日本に病院の名前を知ってもらった。
             医療スタッフが、、若さの勢いのピークの時
               病院の現場の医師の勢いが、、函館、、長野、、岐阜、、九州、、、

            医療スタッフの交流も、学会活動も
            臨床肌の外科医チームも、、、
             黎明期の時期だった事なのでしょうかね??
  

           大通に面した巨大ホテルには
           クリニカルpath学会への
           全国からの参加者で
           満杯になり、、、
           札幌市の経済効果にも貢献できたはずであるよね、、、
           ス、、すごい、、、人人、、人、、、

           全国から「研修医は集まるし、、、」
          こまめに、、学会に出席していた時の
           学会の主催者の先生方は、皆さん、、
           先方の病院の皆さんも
            3000人も札幌に集まってくれて

             大会は大成功でした。
         特別公演は、旭川動物園の、、かの、、有名な
                      坂東 元 副園長の
                    「命を通して伝えること」

         Nipponは動物を見世物にしていた時代に
          旭川動物園は、、動物の自然のままの生態系の研究をして

           動物が主役の動物園をはじめたことで
            日本中から、見学に来るほど

             目から鱗の、、、動物園でした。

             ビョキヲ見ないで、、病人を診る、、という
            医学をするものと、、相通じる視点を
            感じる医師が多かったのだと思います。

            多くの視聴者で、会場は一杯でした。
        これだけの人が集まっていただくことは
        大会の準備スタッフの努力も、、並々ならないものが有ったと
          ダンナさんは、、、皆のおかげで、、、、成り立ったんだよと

          この大会を堺に、、、日本中の大学レベルの病院が
           札幌のダンナの勤務病院の名前を憶えてくれました。
               現代になって、、世代交代した
             病院の若手の職員は
             巨大基幹病院、、、名前が知られる名門病院になってから

           勤務したので、、、

          立ち上げからの病院の発展は
         ご存じない人ばかりだと思いますが、、

         激動期の、、世の中が不安定な時の
          個人病院から公的要素の大きい 地域の基幹病院
           ドクターヘリの飛ぶ、
               北海道全域に救急の医療が出来るようにと願いながら
         大學医師会 地域政治家  
           道内医科大学、、、基幹病院、、開業病院、地域大病院 中小病院

           合理的な入院生活、、、
           合理化された、
              看護と医療チームと医師と患者さん

          クリニカルバスの導入で、全ての合理的な指導と連絡などが

            時間割の様に、、、、手術患者さんに配られることも含めて

         公的な公益的な医療への貢献が出来るようにと
            開業医だった病院が公的な組織に引き渡された時の
                 初代院長が、、、ダンナさんでした。

         大學医局の応援が不可欠な段階に入って、、
          北大ン講師だったダンナさんが
            個人としての前院長が引退される時
            大勢の居る前で、前院長がダンナさんを指名していったという事と、

           一旦は断ったが、、、経営サイドの北海道の福祉の関係の理事や
           経営者サイドの北海道事務のトップらに

         「改めて、、、激動期の病院の経営者が替えある時に
           北大の医局で、医局長や、同門会長や、講師という
              皆がやりたがらない雑事の多い役を生き受けていたことも

           病院の公的要素の多くなる激動期には ダンナさんのような
            全体の為なら、雑事を引き受けるという

              野球のスコア―を付けてるタイプが、、頼まれて

            院長を引き受けるのも、、、運命だったかもしれません。

            

               患者さんの診察という仕事が
                 病院の発展の為の、外交業務や、、会議ばかり、、、

                    いよいよ、、家には帰らない、、、ダンなさんでしたね 
            

         医局時代、、アメリカのニュヨーク
                    ボストン、、ワシントン
                     ハーバ-ド大学
                     メイヨークリニック

                医局の教授と有志で心臓外科病院の
                      学術講演、、ゼミ、、手術の見学、、

                       スライドの発表の交流や
                      人工弁の工場の見学とか、、、
                  実際の手術に見学に入ることなど。

                 帰国後の写真の整理は、、
                 目が点になる様な
                 面白い場面が一杯でした。

           アメリカの
            立ち寄った心臓外科の 各病院は
           歴代の院長の胸から上の写真が、
              額に入れて
            掲示されており、、、
            一部屋が、
            「病院の歴代の院長の歴史の部屋」になっているのが
            アメリカの医師の社会的地位の表現になっており

            写真を整理しながら、、、
            医局のスタッフと
            医局の関連病院の院長らと

            このような貴重な学術交流と
               見学と研修の機会に恵まれたことは

            外科の医局の結束の強さを感じたものでした。

          
                     
           こんな素敵な、、同志? 仲間?、、学術友達?
            尊敬する先輩、後輩、、師匠と、、、

             ダンさんの人生は、、ここに有るのは当たり前ですね。
            家庭には帰ってこないわけですよね、、、

           医師は、、医師をしていることに人生が有る様に見えた。



          

           お金持ちが、、人生の終わりに、寄付してゆくように

            医師を育てるには、、、
            医師になりたい大志の有る若者に
             親が全財産その子に寄付する気持ちと、、
             現金が無ければ、、、

             子供を医学部に進学させても、、、
             医師の勉強は一生涯続けても、
          、、終わらないということが判るのでした。

          多くの仲間の医療スタッフ、、もちろん事務能力、、と
             ワークの人事で、、ダンナの院長時代は
           日本中に病院の名前が知れ渡った時代でした。

             K病院の外野の婆ちゃんは
            今度生まれ変わったら、、、
               間違っても、、、医師とか結婚しないし
                 子供も産まないし、、、

             自分の人生をしっかりとつかみ、、
      
               誰それの奥サン、、、
                 誰ちゃんのママ、、、
             自分の名前が無いような、、、雪掻き人生は、、、返上して

            ダンナさんの一千分の一でもいいから、、、

             自分自身を生きて行くでしょうね

               日本の男尊女卑の、、、少子化の一大原因ですよね。

             ダンナの育児休暇のような「痛み止め」政治では、、、
             少子化はくい止められないでしょうね。

                  
              自分を生きよう,、、自分は自分で有れ、、!と
               自分を生きようとするには、、、
                  気付くのが遅すぎる、、、、

                   赤ちゃんは、、、可愛い、、、

                    笑顔にマケテしまいましたが、、、
                           
                   子供も、、ダンナも、、日本緒男尊女卑の政治の前には
                   、蛮族であるよね。
                  
             

     

           
         
          
             
       
      いろいろ大変でしたが、、、
        北海道の急病人が救えるヘリが飛んだことは
       
        責任の重さに、、ピリピリしていました。

      医師会にこまめの出て、、話を聞くことで
       開業医の先生と競合する病院ではないということが
         だんだん理解していただけるようになり、、、
           医師会長からも表彰状を戴いたときには
              医師会で喧嘩する先生は一人も居なくなっていたそうです。

      本当に、、家庭はほったらかしの、、、
      院長時代でしたね。

     無事に院長業務がこなせて、、
        名誉院長の名のもとに、、
          一医師に戻り
     患者さんを診察するダンナさんは、、、
           生き返ったようでした。
     

               
         
     
          
          運営会議に臨む関係上、、
           帝王学の様に、、、頑張って順番を付けているかのような
         院長の地位の高さを再確認してもらうような
          今振り返ると、、、仲間んんだから、、あのような緊張感が
          必要だったのかどうか、、、のんきに後始末だけの院長の自分には
         帝王学が必用でなかったから、、、
          創生期の院長の威厳には 敬服していたようでしたね。
          若き外科の先生の中には
          私大の医学部卒業の先生も勤務していたそうです。

         奈良の生まれの先生でしたが、、、

         臨床力とは何か?

         僕は、、M先生から、、
         医師はどうあるべきか、、、
          国立系の医師や公立系の医師には
          まねのできない
          臨床力に、、
          学ぶことが多かったと言っていました。

         しかし、、北海道の医師の体質は、、、
         私大での医師の先生の教養の豊かさからくる
         深い人間性の温かさに、、
         気が付かない人が結構いると思いました。

         名誉院長として、、80過ぎまで現役で診療できたのは
         ダンナさんを必要として
         通ってくれている患者さんのおかげでしょうね。

         今頃は、、
         政府の医療報酬の計算方法が変更になり  
         
          クリニックは取り払われるそうですね。

          ダンナさんが副院長の時代、、、
          医師会に根気よく通い、、、
          開業医の先生とは競合しないから、、
          院内の問題で、、クリニックが必要な時代になった事を
          解っていただき、、、苦労して建てたクリニックも
          政府のつrの一声で、、クリニック経由の必要が無くなり
          取り壊されて、、、時代は流れてゆきますね。
         
         


           忠ならんとすれば,、、校〔孝)ならず、、、
                 考(校)ならんとすれば、、忠ならず、、、

            ウクライナが どの団体のバックを得るかで
            国際交流を志願する国も変わるというのと、、、、
            重なる様な気がしたのは、、

           婆ちゃんが、、、政治音痴で有るせいかもしれませんね。

          一度、、、撤回された国際交流が戻るのは、、、

            トップが国立でも、、すぐ戻るとは限りませんが

            かって交流の厚かった、、アメリカの病院に
              旦那が院長の時代の若手医師が
                日本から、、勉強の為に留学している何人が居るから

            次に、、国際交流が戻るのは
             留学生が帰って来たら、、、日本国の国立の北大をバックに

             交流が戻るチャンスはあるから、、、

            、、北海道の自治体の利益を確保するためにも
            女房役に徹して、、北大を前面に出して、、北大のトップを旗印に
            こんなご時世だけに、、、ミサイルが撃ち込まれても、、、

            外国の交流病院からの講師の医師の皆を
            国の旗印のもとに、、、全日本のどんな場所にも

            避難させられることが、、、担保されないと、、、

           自治体の権力内の札医大のトップや、自治体のトップは

           実権はともかく、、、日本の国立大学の旗のもとに

           日の丸が安全を保障しないと、、、交流は成り立たない、、、

           見えない戦場なのではなかろうか???

            外野の婆ちゃんの、、、
          
            アンテナが捉えた

           情報のフェイクで、有ってくれればいいのですが、、、

            ともかく、、今回は、、北大から、、院長が出られ

          理事になられたことはた事は
            イザというときは、、国立大学のパイプは
             自治体のパイプよりは、、
             日の丸本部に
              太くつながっているのでは
                   ないのでしょうか?・
          厚生省が動いてくれるのではないでしょうかね、、、・

           我が子を思うと、、
            、女房は角をためているわけにはゆきません
           女房役の自治体は、、
             、戦争が、、揺れてる間は、、、

           親方日の丸と繋がっていないと、、、

            世界大戦の時の、、沖縄の様に、、、
            日の丸の力が及ばないと、、、

           最後の救済処置が、、後手になるという事も、、
           場合の数の入りますよね、、、

           道知事さんが、、、
          前首相との力を借りられそうな
                本州の出であることは

          幼い国も、、
            ミサイルを北海道に打ち込むなんてことは、、
                  しないとは思いますが、、、

            TV漬の、、政治音痴な婆ちゃんは、、、

             頓珍漢な、、恐怖が、、、
            こんなことまで考えてしまったのですよ、、、

           自分はもう、、お迎えが来る年だから、、、
           何でもありですが、、、

            北海道も、、札幌も、、、
            ダンナさんが勤務した病院も、、、

            55nennmokitaguninisunnde ,,,空き地の時から見乍ら

           個人病院から、、、巨大な国際間で
             10位以内に番付された院長時代の思い出が

          名誉院長で、、影響力をも。。持たなくなった今

          女房の外野の婆ちゃんが、、、 いろいろな事を整理しながら

            捨て乍ら、、、過去を反芻していると、、、

           自治体の本当の役割は、、本州の日本の本家本元と、、、
            今は、、しっかり繋がっておく人事に、本州の力を
              動員できる組織にしておくことが、、、

             ロシアからも、、ウクライナの様に、、
           攻め込まれることはないのでは??

            下手な考えかもしれないが、、、
              危険な時期は、、、
             日本は一つになることで

             まず、、日本を守っておいてから、、、
                  自治体のお出ましであると、、

              今は、、耐えるときではなかろうか???
         
         
               

     婆ちゃんは、、、やっこさんレベル、、、

            マッカーサーは
               相手にしてくれません。
                   一歳未満だと、、言われるかも。

               ぎゃぎゃー、、泣いてる
                  あかちゃんの声に、
                    聴こえるでしょう?。

                 良い仕事で、病院の名前を
               日本中に知ってもらえた院長時代!

         名誉院長は、、、
          何人居ても良いのですよね、、、

            外側にとって、、会ってくれた人が、、、

             かっての名誉院長だというよりも、、、

              名誉は永遠ですよね、、、
             称号が名誉なのではなくて
               夢中で生きていたら
                名誉院長の名前で
                 院内では通用していたという事なんでしょう??
          
            
            
      もともと、、病院を日本中に知ってもらえたイベントを
                札幌で開催できたときは
                  道知事さんからも
                    感謝状を戴けたし

             サミットの緊急引き受け病院で活躍で来た時も
                    20日間も病院で待機して、
                    家庭には帰りませんでしたね。
             福田首相が直々に病院長のダンナさんに
                  花束を追ってくださって、先代の首相のお父様が
                   ダンナさんのオジサンが開業していた地区で
                   後援会で自民党を支持していたことを
                   ご存じだったかもしれませんね。
                   
                     創生期の医師のみんなが、、名誉医師と思っています。
         
                  
                   
                名誉院長は、
              単なる称号で、、病院内でしか通用しませんが
                次の世代が必要になれば、消えて行っても良いのですよ、、、

               人間そのものが、、、100パーセント、、、
           死んでしまうのですから、、、    全員が、

                この世は、、、全部、、断捨離して身軽にした方が
                清清して、、、深呼吸して、、、

                家庭に帰って来て、、、ゆっくり休んでから

                天の命じるときに、、、旅だちましょうね。

               
        ダンナさんが守られてきた、、庭の松の大木は
          一足先に、、、休ませてあげました。
           限りない感謝と、、、別れがたい哀惜と、、、
            この世の英雄の、引き際と考えて
             私の一存で、、一足先に、、、休んでいただくことに
            たっぷりの酒とお茶を、、一週間話しながら、、、別れを継げて
              松が、、、母さん、、、先に休むよ、、、と言ってくれました。

               ありがとう、、、一緒に生きてくれて、、、
                永遠の、、家族だよ、、、サヨナラは言わないよ、、
                 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿