「信仰」とは、神仏を信じ敬い、その教えに従おうとすることと辞典にあります。
「信」を仰ぎ奉ることを「信仰」と定義します。
「信」とは、「人の象と言霊」ですから、法図のことです。
ですから、法図を仰ぎ奉ることを「信」の字義に合致した正しい信仰といいます。
信仰とは、法図を仰ぎ、法図を拝することです。
法図は天皇の神祇(しんぎ)ですから、神祇拝が法図信仰となります。
神仏の教えの法図ですから、神仏を拝するとは、法図拝です。
法図拝が正しい信仰と言えます。
この世の存在そのものが、「教え」です。自分自身の存在そのものが、「教え」です。
その「教え」そのものが大神の御心のアラワレです。
それが人間に分からないから、世に聖人がご出現し、法図を現され、導かれるのです。
法図なき人生は、味の無い松坂牛を食べているみたいものです。
何か腹一杯になりますが、何で腹一杯なのかよく分からない状態の不毛の尽生です。
さて、アタマが良いと言い方に尋ねますが、
漢和辞典の中の抽象語の字源の一語でも知っていますか?
例えば、「智」の意味は?
「漢字知れども意味知らず」では、漢字知りの漢字バカになります。
新聞、書物、広告、その他、意味の分からない漢字で溢れています。
言語明瞭・意味不明の漢字を使用する漢字社会に未来はあるのか?
そこで、「存在(ア・ル)」とは何だろう?これが分からないと神が分からないことになる。
愚か者は、オロ軟膏(なんこう)のように、あっちに付いたり、こっちに付いたり忙しい、
心が何個あっても足らない!