プラユキ・ナラテボー師もよく登場される「サンガジャパン」誌を出版するサンガのウェブサイトのリンクページに、本「気づきの瞑想」ブログリンクを設置していただきました
サンガのリンクページでは、サンガ書籍ゆかりのみなさまのリンクが一覧できます。
リンクを記念し、これまで「気づきの瞑想」ブログにてご紹介した「サンガジャパン」誌関連記事をまとめてご案内いたします
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サンガジャパン Vol.6(2011Summer) |
プラユキ・ナラテボー(寄稿) (著),玄侑宗久(寄稿)(著),島田裕己(寄稿)(著),鎌仲ひとみ(寄稿)(著),大澤真幸(寄稿)(著),名越康文(寄稿)(著),中嶌哲演(寄稿)(著),アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿)(著) | |
サンガ |
東日本大震災を契機に組まれた特集「震災と祈り」。
プラユキ・ナラテボー師寄稿文(インタビュー)より、抜粋してご紹介します。
<寄稿>「相手の気持に寄り添い、『つながり(因縁)』に気づく手助けをする」
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(編集部)
「この震災は我欲にまみれた日本への天罰である」といったことを言った政治家がいました。仏教ではカルマ(業)論を説きます。どのように思われますか?
(プラユキ)
我欲が強いがゆえに自然災害が引き起こされるという考えは、その人の描いた物語と言えましょう。 … その物語を信じることによって、その人ご自身、心が楽になっているのか、それとも苦悩に陥っているのかということに注目します。 … それを解消したいということであれば、ブッダの教えに基づいてアドバイスをするといった感じです。
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サンガジャパン Vol.8(2012Winter) |
アルボムッレ スマナサーラ(寄稿),大野更紗(寄稿),プラユキ・ナラテボー(寄稿),浦崎雅代(寄稿),宮崎哲弥(寄稿),藤本晃(寄稿) | |
サンガ |
プラユキ・ナラテボー師寄稿より、抜粋してご紹介します。
<寄稿>生きる力に目覚める仏教
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生命は苦しみを孕(はら)んでいる。しかしそれに気づけば、智慧へと生かし、衆生の苦に共感し、救いをもたらす慈悲へと育てていくことができる。生きる力に目覚める智慧、それがブッダの説いた教えであり、その智慧を説きながら、慈悲を生きた人、それがブッダであった。
苦しみを滅する「智慧」については、ブッダによってすでに二千五百年前に発見され、説き尽くされた。いわば完結をみたと言えよう。一方、「慈悲」については、いまだ完結に至ってはいない。一切衆生の苦しみからの解放に至るまで、「物語」は営々と続いていく。
「生きる」とは、この壮大な物語を生きる主人公のひとり、そして、紡(つむ)ぎ手のひとりとして、日々一瞬一瞬、世界との共創の物語を紡(つむ)いでいくことではないだろうか?
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サンガジャパン Vol.9(2012Spring) |
アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿),大澤真幸(寄稿),ネルケ無方(寄稿),山田太一(寄稿),プラユキ・ナラテボー(寄稿),ケネス・タナカ(寄稿),正木晃(寄稿) | |
サンガ |
ナラテボー師寄稿より、抜粋してご紹介します。
<寄稿>ブッダの大地を築く、タイ仏教の開発僧
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「比丘たちよ。すべての人々に役立ち、人々を幸せにするため、世の人々を支援するため、皆の者よ、大いに遊行せよ」ブッダは、こう弟子たちに促した。そこには大乗、上座部といった区別はもちろんない。
また、タイの開発僧たちの理論的支柱ともなったパユットー師は、著書の中でこう述べる。
「ブッダの説いた真実の原理は、実際の生き方の実践に役立たせるためのものである。議論して様々な理論を構築してそれに固執したり、哲学的な推論によって固守したりといった努力は奨励しない」
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サンガジャパン Vol.10(2012Summer) |
アルボムッレ・スマナサーラ(寄稿),大澤真幸×橋爪大三郎(対談),石井光太×プラユキ・ナラテボー(対談),大田俊寛×山形浩生(対談),島田裕巳,鏡リュウジ | |
サンガ |
プラユキ・ナラテボー師と石井光太氏の対談より、抜粋してご紹介します。
<対談>百通りの神様 ― そして共振
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(プラユキ)
ブッダは基本的に、嘘はつかないほうがいいよ、人を喧嘩させる言葉よりも仲直りさせる言葉がいいよ、無駄口よりは意味のある言葉のほうがいいよ、悪口よりは優しい言葉がいいよ、と言っているだけであって、それほど物事の善悪にはこだわっていない。そこにあるのは抜苦与楽という発想であり、今ここにある人が苦しんでいるのか楽であるのか、そういう視点で教えを説かれている。
ブッダのエピソードに、毒矢のたとえがあります。もし人が毒矢に刺されたならば、この矢はどれくらい遠くから、誰がどうやって射て来たんだろう、この矢は何でできているんだろう、などということにこだわるよりも、それを早く抜きなさいとおっしゃっている。それと同じような感じで、自分の苦しみを抜く、あるいは、今ここにいる人の苦しみを抜く、そういう視点で対応したらいい。
いい悪いにこだわっていると、周りの人はそのせいで苦しんでいるのに強く主張したりとか、今ここにある苦しみにちゃんと目を向けないことになる。すると、良かれと思ってやればやるほど、混乱が深まってしまったり苦しみが増えたりする。
過去や未来よりも今ここを大事にする。現実に困難に陥っていたり苦しんでいたりする、あるがままを見て一番適した対応、自分のできることをしていくというアプローチがよいと思います。
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サンガジャパン Vol.11(2012Autumn) |
アルボムッレ・スマナサーラ,田口ランディ 吉福伸逸,内田樹,為末大,名越康文,プラユキ・ナラテボー 篠浦伸禎,ネルケ無方,加藤俊朗,鈴木秀子 | |
サンガ |
プラユキ・ナラテボー師と脳外科医篠浦伸禎氏の対談より、抜粋してご紹介します。
<対談>「悩み苦しみなく生きるための、仏教と脳外科の出会い」
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(プラユキ)
悩み苦しみとは、よるべを失い、恣(ほしいまま)にさまよう心のつくりだす空想物語の数々です。こうした理解を経て、思考やイメージの主(あるじ)になりえたとき、…思いやりと希望を持って、相手のよき縁とならせてもらうために、今ここで自分が何をさせてもらったらいいかなど、冷静に対応を吟味していくことができるようになるのです。
もっとも、瞑想を始めてすぐに今述べたような理解は起こってこないかもしれませんが、それはそれでオッケー。
何はともあれ、手に戻る、足に戻るといった作業を繰り返しているうちに、心にリラックス感や安心感が生まれてきます。それはおそらく、「大丈夫。いつでもやり直せるんだ」という感覚がそういった気づきの繰り返し作業から生まれてくるからだと思います。
それから、チャルーンサティ法は、集中力やラベル選択力などの何らかの技術を高めるとかではなくて、手や足に戻ってこれたら何はともあれ「オッケー。◯(マル)!」って感じですから、「集中が続かない、ダメだ」「上手にラベルが貼れない、ダメだ……」と「ダメ出し」する必要もなく、マルを増やしていく感じですので、誰でもが気楽にやっていける方法だと思います。