●第22回「個人の個人主義と社会の個人主義社会
~日本的個人主義社会へ~」
国や文化について、個人主義社会と集団主義社会に2分することが一般的に行われている。
英米は個人主義社会で、日韓は集団主義社会だと言うように。
学界では、ホフステードの「個人主義と集団主義」、トランペナーズの「個人主義と共同体主義」などがそうである。
つまり、個人を優先に考えるのか、個人を取り巻く社会を優先に考えるのかの2分法である。
もう少し、じっくり考えてみると、どうも、社会は、西欧人が見るように、そんなに単純ではないようだ。
つまり、個人が個人主義に向かうのは自然なことで、それをどうやって、西欧的な個人主義ではなく、日本の集団主義のよいところを残しながら、日本的個人主義社会をつくっていくかが、ポイントになるのではないか。
今回は、このことを考えてみたい。
日本では、米国の文化に影響されて、表面上は、個人を尊重する風潮は確かにある。しかし、社会のシステム(制度)は、いまだ、集団優先の制度になっている。
小学校を見よう。集団的朝礼はまだまだ存在するし、教育の枠そのものは、集合的教育法そのものだ。これは、大学まで続いている。会社へ入ったらどうだろう。これも、周りを気にする、特に、日本的な集団的研修、仕事の進め方になっている。集団的教育法とは、個人のキャリアを主体に考えると言うことではなく、学校や会社などの組織がはじめにありき、個人、その家族は、会社などの組織に従属するという考えが基本にあり、それが日本の組織優先社会の実態である。
さて、2分法的な個人主義社会と集団主義社会の枠に戻って、双方のプラス面とマイナス面とを考えてみよう。
個人主義の良い点は、自己実現優先のため、所属する会社など組織は、自分や家族よりも優先度が低くなる。一方、会社など組織の効率と言った観点から見ると、個人主義の弱点であるセクショナリズムや利己的なことが強調され、例えば会社のパワーが、一部の経営者あるいは有能社員に集中し、組織力全体としてのパワーがどうか、という問題が生じる。しかし、会社組織で言えば、80年代からの日本企業による世界の席巻に伴い、西欧企業は、いかに、個人主義の中にチームプレイを入れて、日本企業のような効率性を高めていくかを、熟慮し、その実行を果たしてきた。そして、その成果がでている。
個人主義社会での生活面の善し悪しではどうだろう。メルボルン(のような個人主義的社会)に限っていうと、他者のことは関係ない、自分の生きたいように行動することが普通である。何々に気兼ねする、誰々に考慮しながら、行動を制限すると言うことは、あまり見られない。一方、個人としては活動が難しい人たち、例えば、デイケアの人たちのためには、近くの公園で、その人たちのためのパーティなどが頻繁に催され、個人主義の弱点が補強されている。個人だけではできない、グループとしての楽しみを、社会がシステムとしてもっているようだ。
振り返って、集団主義的社会、とくに日本社会はどうだろう。
集団主義の良い点は、一々言葉に表現しなくても、相手の行動、行為、好意が自然と分かり、気持ちの良いほど、効率的にものごとが処理される。一方、集団生活で大切なのは、「和」であり、「個」の主張は極めて制限される。集団生活でのルールが口やかましく教え込まれる。例えば、公共交通機関では、うるさいほどの案内があり、公共の場所でも異常なほど、個人を守る安全対策(柵の設置など)が常態化している。会社組織を見ると、仕事上は和の流れに身を任せれば、いごこちよく仕事ができるが、逆に、革新的な仕事をしたい人間にとっては、伝統的なルールに
縛られ、なかなか新しいスタイルをとる事ができない。アイデアの創出など他との違いを強調することは、会社組織ではまだまだ価値が置かれない方が多く、ともあれ、従順な性格の方が無難に仕事を進められる。
集団主義での生活レベルではどうなっているか。日本社会は、ある意味で監視社会的な習慣があり、常に、他者は見られる存在であり、とくに目立つ行為は疎まれ、やっかまれ、好まれない。一方、利己的行為が少しずつ増えはじめ、自分の殻に閉じこもりがちな者も増えており。彼らは、伝統的な「和」の社会スタイルになじめない。ただ、生活レベルでの長所をあげると、長年しみついた日本的環境や生活スタイルが、特に海外生活(個人主義の世界)から戻ってきた日本人を、よりリラックスさせることは言うまでもない。
個人主義社会での伝統マナー
メルボルンで経験して、これはいいなと思うことがある。
トラム(電車)で、重い荷物をもっている婦人には、自然と誰か(男性)が手を差し伸べる。
重い荷物だけでなく、ベビーカーなど困っているひとには、手を差し伸べる余裕がある。座席も、当たり前のように老人にゆずる。
個人主義だからこそ、殻に閉じこもらないように、この種の社会的習慣やルールが存在するのかもしれない。
大人が自然とやるから、子供もそれを見て、育ち、自分も手を貸すようになる。
大学構内でも、勤め人のひとにもよるが、ドアを手で押さえて、レディファーストの習慣を見ることも、一度や二度ではなかった。
でも、考えてみると、これは、個人主義や集団主義の習慣・ルールというよりも、成熟した社会の基本的なマナーじゃないんだろうか、と思い直した。
他者への気配りは、大切な社会生活のマナーであって、数10年前までは、日本人も普通にやっていたような気がする。今では、そういった気配りの習慣は、地方都市、それも伝統的な田舎のなかだけでしか経験できなくなってしまった。
いつから、日本では、このマナーが忘れられた、捨てられたのだろうか。
核家族化して、家族、一族のつながりが薄くうすくなっている日本。同じ、集団主義や家族主義の伝統をもつ、他のアジア諸国、たとえば、中国や台湾、韓国などでは、大都会をのぞいて、まだまだ、お年寄りを大切にする伝統は残っているようだ。
高度経済成長、バブルを経て行き着いたところが、他者への気配りも喪失したマナー棄却の国、となると、ますますもって、将来の日本のゆくえに不安がよぎってしまう。ここのところの出生率の減少もこういうところから来ているのでしょうか。
さて、嘆きを入るのはこのくらいにして、どうやって日本的な個人主義社会を見出していくかを考えてみたい。
個人が自己実現を求めるのは自然な人間の感情だと思う。一方、国は、(日本では)、まだまだ統治しやすい個人を求める。つまり、これまでのような大きな政府で、行政側のパワーは以前と同じく持たされたままで、未来の時代を生き抜こうとしているかのようである。
地方自治体では、参加型のセミナーが以前より増えていることは確かだ。また、情報の扱い方、情報の入手面でも、インターネットの普及とともに、情報の非対称性(例えば、行政とそのサービスを受ける市民の持っている情報の量と質の差があるということ)が少しずつではあるが、情報公開法の施行などによって、そのギャップが解消されてはいる。
けれども、冷静に考えてみれば、参加型、情報の非対称性の解消なども、上から下へ(お上の行政からしもじもの市民へ)の流れが基本的に変化していることでは、ない。つまり、企画のアイデアは、市民からもらいましょう、でも、実施や評価は、そもそも、行政側のパワーに属するもので、あくまでも、市民、住民は、参加の一部であって、主体ではないのです。
バブル崩壊以降、政府も自信をなくしたように思われる。なにせ、知的レベルの最も優れた人たちに、国の舵取りをまかせ、結果として、経済面で失敗してしまった。でも、誰もその責任は問うていない。あたかも、地震のように、天から降ってきた天災の部類で、誰もこれが人災だとは思いもしない。経済面での失敗も、お上=天から与えられたもので、責任はひとにはない、かのようである。
さて、日本的な個人主義社会を見出すためには、
まず、身近な個人レベルでは、他者に対する気配りを、例えば、お年寄りに対する優しさを、大人自ら実行していく風潮をつくることである。
次に、社会レベルでは、お上に頼ろうとする、その依存心を捨てなければならない。これは、個人も、企業も、そしてマスコミもである。自己責任、自律/自立心を持とうでないか、ということである。
ここから、少しずつ、日本的な社会の個人主義が芽生えてくる可能性もありそうだ。
今の日本は、なんだか得たいの知れない「閉塞感」に覆われているようだ。この「閉塞感」のみなもとの一部は、どうも、このお上への依存心や他者に対する気配りの喪失から来ているのかも知れない。
知的レベルの最も優れた人たちに国を動かす権力を与え、知らず知らずのうちに、日本という国が過去の一定期間成功し、その美酒に酔っているあとで、失敗が繰り返され、最終的に、自信をすっかり喪失し、閉塞感に囚われた。
これはどうしてなんだろう。
エコノミック・アニマルだと揶揄されながらも、日本企業は西欧世界にチャレンジを繰り返し、その結果、闘いとった経済的繁栄は、確かに素晴らしかった。それに、市民レベルでも、海外へ行ったときほど、円のチカラを実感することはない。
これは、政府、企業のなせる業であった。
経済的に失われたこの15年の責任を、もちろん、政府と企業だけに押し付けるわけにはいかない。
しかし、
失われたこの15年間に、
何か、
大事ななにかが、
あらゆる日本人のこころから忘れ去られたように思われる。
それは、なんだろう。
もしかしたら、
未来を恐れず、
未知なるものへ挑戦する
『気概』や『勇気』
なのかも知れない。
【参考】
右上の詩は、Piet HeinのCollected Grooks より。
「勇気がある」ということは、心が挫けた時にそれをものともせず立ち向かうこと。
だから、実際にあなたが勇敢でないときだけ、ほんとうの勇気ある人になれるんだよ。
彼は、オランダ人の詩人/科学者/建築家(1905-1996)。
Grookとは、オランダ語のgrukのことで、警句的詩を意味する。
http://chat.carleton.ca/~tcstewar/grooks/grooks.html